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If -another world-

There are not the people who do not think about a "if".



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※この文章は全てフィクションです

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2008-06-17 If Cambrian explosion happens again(43)
2008-06-11 If Cambrian explosion happens again(42)
2008-06-04 If Cambrian explosion happens again(41)
2008-06-03 If Cambrian explosion happens again(40)
2008-05-19 If Cambrian explosion happens again(39)
2008-04-30 If Cambrian explosion happens again(38)
2008-04-21 If Cambrian explosion happens again(37)
2008-04-18 If Cambrian explosion happens again(36)
2008-04-14 If Cambrian explosion happens again(35)
2008-03-31 If Cambrian explosion happens again(34)


2008-06-17 If Cambrian explosion happens again(43)

そしてちょうど、志穂から赤ちゃんを取り出せる時期にもなっていた。

新しい病院で、あの事故の日からずっと変わらない顔で眠り続けている志穂の耳元で灯は何度も声をかけていた。
きっと志穂は体を動かせないだけで、自分たちの言っていることはすべてわかっている。そう錯覚するぐらい、志穂は時折体を反らしたり手を触ってやれば握ろうとしたり、時には涙さえ流すのだ。「ラザロ徴候」と呼ばれ古くから知られる脳死患者の行動の一種だと医者は説明するが、そんなのが信じられるだろうか。今だって「これから赤ちゃんを移すからね。がんばれ」と灯が数分前に告げたら、いつの間にか胸の前で手を組んでまるで祈るような仕草をしているというのに。

志穂がオペ室に入って1時間もしないうちに、この間見た人工子宮が慎重に運び出され、そのすぐ後に志穂も出てきた。胸の前に組まれていた手はいつの間にか元に戻っており、気のせいかもしれないが彼女の顔は一仕事終えたように憔悴して見えた。
「帝切と人工子宮への胎盤定着は成功です。あとは順調に彼女が育ってくれるように祈るだけです」と医師が述べ、そこで灯は生まれてくるのは娘なんだとようやく知る。今までそんなことを考えなかったわけではないが、志穂が用意していた服やおもちゃが全部男の子のものだったので息子だと疑いもせずにいたのだ。

「女の子なんだって。なんだよ、絶対俺似の息子だって言ってたのに。服とかさ、また新しいの買わなくちゃ」

再び病室に戻り二人きり(人工子宮は別室で24時間管理されている)になると、志穂の手を触り話しかける。

「女の子だから志穂に似るかな。その方がいいよな。俺に似たら絶対モテないだろうし。名前は、何がいいかな。”志穂”と”灯”じゃどうにも組み合わせらんない、って、えっ」

志穂が、笑っている。
確かに目を開けて、しっかりと灯を見ながら。
つばを飲み込んで、確認する。触っていただけの手がしっかり握られていて、それが現実だと理解するとすぐにナースコールをし、それでも逸る気持ちを抑えられず医師を呼ぶ為「ちょっと待ってて」と志穂に言うと病室を飛び出した。握っていた手を離すとき志穂は少し不安そうな顔を見せたが、解ったというふうにうなずくとまた笑顔を見せる。


結局その笑顔が、灯が見る志穂の最後の笑顔になった。

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2008-06-11 If Cambrian explosion happens again(42)

しかし、これほどの規模のジオフロントが各大陸にいくつあったとしても、本当に地球に全人口の85%、おおよそ40億人すべてを収容するなんてことができるのだろうか。収容可能人数を超えた場合はどうなってしまうのか。それに残りの15%の人間も。
それらの疑問は、新しい研究所のプロセシングルーム、つまり地球シミュレータの移送される予定の部屋で氷解する。

館内表示を頼りに辿り着いた先で「高科さん!」と声をかけたのは研究所の所長だった。彼とはあの日、志穂が事故に遭ったことをニュースで知ったあの夜以来会ってない。一応連絡はしたものの、灯自身あの日のテンパった頭で何を言ったのか覚えてないので、ずっと心配させたままだっただろう。いつもは飄々と冗談ばかり言っている彼が本気で心配そうな顔を見せているので、灯はまず頭を下げた。

「ホント、所長にはご迷惑おかけしました」

とりあえずあのときよりはまだマシになった頭で、詳しく説明する。志穂の容態の話をすると「あんないい子がどうしてそんな、かわいそうに」と泣きそうな顔で呟いた。そしてジオフロントの病院に転院したら必ずお見舞いに行くとも。
「それはそうと、」と普通の顔に戻った所長が(灯も緒方も驚くほど切り替えが早かった)ジオフロント内の説明を始める。彼はあの夜、灯りが志穂のもとへと出て行った12時間後にはもうこちらに入っていたので、だいぶ詳しくなってしまっていると自慢げに話した。
この大陸最初のジオフロントであるここは実は3層構造で(現在は最上階で、下の2階は居住階層)、おおよそ800万人が生活する予定になっている。昼夜は地上と同じ長さで、もちろん季節によって変動する。
今後5年以内にジオフロントに移住を希望する人間は各大陸にランダムに振り分けられ、ほぼ100%移住を完了する予定だが、移住を希望しない人間を無理に連れてくるようなことはしないと国連は明確に宣言している。その割合は地球人口のおよそ3割弱いるらしいので今後50年はここが定員をオーバーすることはない見込みになっているそうだ。

「あと2カ月もすればここも正式に運用が開始されますよ。早いもんだ」



所長の言葉通り、その2カ月はあっという間だった。つくばの研究所にあった必要な資料や機材はすべて運び込まれ、職員たちもほぼ全員がこのエリアに移住し、志穂の転院も滞りなく済んだ。
そして灯は緒方達公安が斡旋してくれた、ほんの数か月だけ志穂と暮らしたあの部屋を片づけていた。あんな短い間で、しかも灯はほとんど帰ってこられなかったというのに部屋のあちこちにいろいろな思い出が残っていた。形のあるものも、ないものも。
その思い出に浸っては、ふと我に返り部屋の静けさにぞっとする。そんなのを何度繰り返しただろう。
自分が遅くなった時、彼女はいつもここでこんな気分を味わっていたのだろうか。
こんな空間で、いつ帰ってくるともしれない自分を待ち続けていたのか。
ベッドのそばにある、彼女のチェストの上には赤ちゃんのために買っておいた洋服や靴下、ミルクがきれいに並べられている。「自分でも気が早いとは思うんですけど」と笑いながら、それでも嬉しそうに少しずつ買い揃えては並べていく姿を思い出すと、灯は自分の目からあふれ出るものを止めることはできなかった。
ずっと天涯孤独で生きてきたはずだったのに、彼女と一緒に暮らした部屋は初めて灯に”独り”であることを突き付けるものになっていた。

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2008-06-04 If Cambrian explosion happens again(41)

駅を出てからまず二人がしたことは空を見上げることだった。もちろん空と言ってもここは地下であり天井があるのだが。

「空、だよな……」

灯がそう呟く通り、そこは空にしか見えなかった。
土や壁の色ではなく、本当に青い空が広がり太陽がある。しかもそれは投影されたビジョンなどではなく、本当にそこにあるように見えるのだ。さすがに雲まではなくここまでの快晴は地上でも滅多にないことからしてようやく作り物だと認識できるぐらいのものだ。夢物語と思っていたモノが自分たちの足元にあったのだから、世界には知らないことやものがまだまだあることを灯は実感する。

「行きましょう」と緒方に促されてようやく今の自分の目的を思い出した灯は、その背中についていく。
ジオフロント内での移動は徒歩・自転車・電気自動車の3つが主な移動手段になるが、このジオフロント(仮称としてGP1と呼ばれているそうだ)では試験的に24時間稼働しているオートラインが敷設されている。いわゆる動く歩道でそれに乗れば1ブロックあたり1分ちょっとで移動できる。緒方の歩いていく方向からして今回はそれを使うのだろう。

「病院は4ブロック先です。ハコだけはもうほぼ完成して、設備を搬入してる最中だって聞きました」

オートラインに乗り、通常の速さよりも3倍の速度の高速線の方へと乗り換える。ここに来た時には感じなかった風が、妙に心地いい。緒方はというと、風で髪が乱れるのが気になるのか話しながらずっと右手で撫でつけていた。
病院のあるブロックの1ブロック手前で普通のラインに乗り換え、オートラインを降りた目の前が大規模な病院だった。各ブロックにそれぞれ小さな病院はあるのだが、この病院は20ブロックに一つ置くことが定められた総合病院だそうだ。特に産科を重点的に診るよう作られていて、フィットネスやプールなどの施設もすぐ隣に建てられている。
病院の中ではすでに医療スタッフがいたが、間近に迫る立ち上げの為に忙しなく動き回っていて、ちらっと灯たちを見るものの相手にもせず機材を運んでいる。
「すいません、通ります」と灯の後ろから小さい自動車一台分はあろうかという大きさの機械を看護師たちが台車で転がしてくる。それには<人工子宮 セットアップ最優先>と書かれた札が貼ってあった。

あれが、志穂と自分の子どもの命を繋ぐものなのか。

この病院のすべての人間でないのはわかっているのだが、自分と志穂とそして子どもの為に動いてくれている人たちがいることに灯は感謝した。

志穂が入る予定の病室やベッドなどを一通り見ると、今度は新しい研究所にも立ち寄ることにした。ブロックとしては隣になるが、病院からは目と鼻の先で病室からも見える建物だと解ったのでそこまではオートラインを使わなくても5分で行けるからだ。

研究所はまだ半分ほどしか完成していなかったが、中に入って見学した二人は驚いた。つくばの研究所の3倍はあろうかという広さで、NCExpにも専用の研究室と情報処理室ができる予定になっている。地上に比べ全てにおいてスケールが大きくなっていて、「地上よりも優雅な暮らしかも」との国連事務総長の言葉は冗談ではなかったと思い知る。

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2008-06-03 If Cambrian explosion happens again(40)

6時間後。戒厳令のせいで誰もいない駅のホーム灯はいた。
改札と出国手続のゲートには海外に避難しようとする人がそれなりにいたはずなのだが、指定された時間の「特別運行」の到着に合わせて灯がゲートをくぐると一般人は立ち入り禁止とされ、ゲートにも改札にもすべてシャッターが張られた。
そんな事をするとむしろ目立つんじゃないかと灯は思ったし、案の定シャッターの隙間から「どんなVIPが乗るんだ?」と興味津々に覗いてくる人もいたが、灯を見て「誰だあいつ」「知らねー」「なんだ芸能人じゃないじゃん」とがっかりする声とともにその興味は一瞬にして失せたようだ。

列車が来た。
特別運行という表示と、通常の編成より車両が少ないだけでそれ以外はいたって普通なので拍子抜けした灯だったが乗り込んですぐに驚かされることになる。
「お久しぶりです」といきなり声をかけてきたのは緒方だった。
久しぶり(といっても前に会ってから1ヶ月も経ってないが)に見た彼は少し痩せたようで、また身嗜みにもすごく気をつけていたのに不精髭もわずかに生えていた。挨拶もそこそこに、二人とも並んで座ると緒方は灯が聞かなくても説明を始める。

「5時間ほど前に今回の仕事が終わったばかりなんです。本当は明後日帰国する予定だったんですが、高科さんがジオフロントに行くためのリニアが近くから出るって聞いたんで便乗させてもらいました」

そして珍しく神妙な面持ちになり、志穂さんのことも聞きましたと言った。別に緒方が悪いわけではないが、彼女と灯を合わせるきっかけを作ったのは自分であるということに言葉ではうまく言えない責任みたいなものを感じているようにも見えた。

「でも高科さん、いいんですか? そばにいてあげなくて」

「そうしたいのはやまやまだけど、そばにいても自分は何もしてあげられないし、むしろ彼女がちゃんと次の病院に移れるようにするのは今の自分しかできないことだから。それに、何かしてないと、ね」

灯の言葉を聞いて緒方はほっとしたようだった。
それもそのはずで、志穂をジオフロント内への病院の搬送するように働きかけたのは緒方なのだ。その病院に真っ先に人工子宮を導入するようにもあらゆる手を使って(半分脅しも入れて)決めさせた。だが彼はそのことを灯に言うことはなかったし、灯もこれから先に知ることはなかった。
そして緒方はジオフロントについての説明を始める。
大規模地下構想、通称ジオフロントは5大陸全てに計画され、地球人口の85%を収容できる計算になっている。またジオフロントの直上には当然どこかの国の領土だが、ジオフロントはどこの国にも属さず、国連の直轄地となっている。これは軍事目的にジオフロントを利用されないようにするための措置だそうだ。なので目的地もどこの国の地下なのか、明確には教えられないようになっているらしい。

出発してから1時間半。ひたすら走るリニアの小さい窓(音速以上で走行するため空気抵抗による摩擦で熱くなるので大きな窓が取り付けられない)から、突然外に出たのかと思うほど明るい光が差し込んできた。

外を見ると、都市計画の真っただ中のような整備・建設中の街並みが広がる。ただ地上と違うのは天井があることと、終わりが見えないほど敷地面積が広いことだ。
工事中のトンネルみたいなものを想像していた灯は思わず「すげぇ」と声を漏らさずにはいられなかった。それは緒方も同じようで「僕も実際に来るのは初めてなんです」と素直に驚いていた。
さっきの長広舌で緒方は何度も来ているのだと思いこんでいた灯は「頭でっかちじゃんかよ」と笑った。

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2008-05-19 If Cambrian explosion happens again(39)

博多港と横浜港を中心とした港に空母・戦艦・潜水艦など各国の船が集結し、UNと書かれた装甲車、戦車、自走臼砲、哨戒機などが一斉に配置される様をテレビで見るのと実際に見るのとでは戦争を実感する度合いが大いに違う。
灯は警察病院の志穂の病室ではなく新晴海埠頭にいる。ちなみに旧晴海は寒冷化による海面低下のため現在は使われておらず、灯が今いる場所はかつては浮島と呼ばれていた場所らしい。ここから既に一般車両を完全封鎖した国道16号線上に東京を取り囲むように防衛線を張るらしいが、これは実はかなり昔から考えられていたシナリオだそうだ。
国連事務総長が自衛隊のイージス艦から降りてくると、すぐに灯を見つけたようで早足で近づいてくる。
てっきり日本を軍事防衛線に利用したことを謝罪に来るかと灯は思っていた。

「突然で申し訳ないが、NCExpにジオフロントプロジェクトに加わってほしい」

一瞬どころか数秒経っても理解できない表情を浮かべる灯に彼は最初から説明を始める。
日本を防衛線にしたのは日本を見捨てたわけではなく、同盟軍が日本を攻撃すると公安やFBIがそろって確証を得たことによるものだった。(しばらく緒方の姿を見ていないし連絡もないと思ったらそっちの仕事をしていたようだ)
そして日本の防衛線で同盟軍を食い止めている間に、かねてから計画されていた大規模地下都市計画、通称ジオフロントプロジェクトを整備しまずは日本を優先的に移住させる予定になっている。

「でもそんな、どうやって。日本人約1億5000万人も収容するだけの地下都市なんてそんな急にできるはずが、」

驚く灯に国連事務総長は訊ねる。

「君はなぜ、国際リニア網が地下に張り巡らされているか考えたことがあるかね?」

気象やテロなど様々な外部要因に左右されることなく定期的な運行を確実に行うため。
灯が知っているままのことを答えると、国連事務総長は軽く笑みを浮かべて質問を続ける。

「ではなぜ誰も降りないような場所に駅があったり、使われていない分岐点があったりすると思う?」

灯にもようやく見えてきた。
東京の地下鉄にもかつては秘密にされていた要人が緊急時に避難などをするための隠し線路があったように、国際リニアにも秘密があったのだ。
とはいえ交通インフラだけでは人は生活できないし、ジオフロントプロジェクトは数百年も前から考えられてはいたものの採光や排熱などその問題点の多さに月移住と同じくらいのレベルでSFの域を出ていないはずだ。

「それは数百年も前の時代の話だ。もちろん地下でこれだけの規模の人数が何世代にもわたって生活したという実証データはないが、もう100年以上も前から小規模なコロニーを形成し4世代続けて仮想地下空間で暮らしている実例はある。多少の制限はあるとしても生活はできるはずだ。もしかすると今の寒冷化が起こっている地上よりも優雅な暮らしかも知れない」

そして灯にはスノーボールアースに伴うジオフロントへの影響を調べつつ、凍結後人為的にスノーボールアースを終息させる方法を見つけることを仕事にしてほしい。そのために現在の研究所の設備と、志穂が入院及び出産するための病院の設備をすべて完全に地下に搬送する。

「君の子どもはもしかしたら地上を知らないまま一生を終えるのかもしれない。それでも新しい命は必ず希望になる」

彼はそれだけ言うと、用意されていた自衛隊の車で永田町へと向かった。

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2008-04-30 If Cambrian explosion happens again(38)

現在の医療技術では16週未満の胎児を出産させることは難しいらしく(500年ほど前までは22週前までは流産になっていたそうだが)、安全面を考慮して20週が経過するのを待ってから帝王切開で胎盤ごと胎児を取り出し人工子宮に移した後、修正週数で35週を経過するか体重が3000gになった時点で取り出すことになる。
つまりあと1ヶ月ちょっとの間に志穂に万が一のことがあれば、志穂が命懸けで守ったこの子さえもあきらめなくてはならない。
医者の説明する現実が希望なのか絶望なのか、灯りには計りかねた。
奇跡的に右足骨折だけで済んだ志穂の母親、つまり義理の母親も言葉を失くして涙を流すことしかできない。

ICUの志穂は相変わらずいつものような顔で眠っていて、今すぐにでも頭に巻かれた包帯を取ってやりたくなる。そういえば彼女は寝るときはいつも枕もとに好きな銘柄のミネラルウォーターを置いてないと落ち着かないって言ってたよな、と灯は自販機のあるロビーまで向かう。
ロビー中央のリラックススペースでは誰もいないのにテレビがついていて、今回の戒厳令とそれに伴う各地の混乱について首相が会見している模様が映っていた。

「もちろんこの国に対するいかなる武力行為も断じて許すことはできず、また未然に防止できるよう自衛隊がすでに出動もしている。だが万が一のことを考えたこの避難命令に間違いはない」

自信を持って話す首相に、リポーターの一人が「避難の際負傷したり自衛隊機の墜落により死傷者も出ていますがその件については」と質問を飛ばす。

「避難による混乱を招き、また自衛隊機の事故の件についても被害者の方々や関係者には謝罪してもしきれない。だが今はこの避難が手遅れになる前に早急に完了しなければならない」

真摯な面持ちで頭を下げ会見場を後にする首相がモニタから消える。
避難命令が間違っていたとは灯も思わない。なにしろ事態はおそらく報道されている以上に切羽詰まっているのだ。
けどNCExpとして、国連の一機関として自分が何かをしていればもっと別の状況があったんじゃないだろうか。
その何かをもし過去の自分が知ってさえいれば。
灯の中にありもしないifが渦を巻く。


そして72時間が経過し、国連から正式に日本の西部・九州沖縄地区を最前線として国連平和維持活動、通称PKOがほぼ200年ぶりに開始された。

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2008-04-21 If Cambrian explosion happens again(37)

警察病院でようやく会えた志穂は、眠っているように見えた。
いや、実際寝ているんじゃないだろうか。
規則正しく呼吸もして胸も上下している。
時折瞼や唇も意識が何かを伝えるかのようにかすかに動いているように見える。
灯よりも寝起きが良いからあまりベッドでは見たことはないが、よくソファで転寝をしていた時と同じ顔じゃないか。
それなのに。


「意識が戻る可能性は低いか、戻ったとしても障害は残ります」


医者は残念そうに言ったあと、火傷や創傷のひどい部分の幹細胞再生治療の準備をするよう看護師に指示して出て行った。
幹細胞再生治療―正式名称は間葉系幹細胞由来機能不全部復元術。この医療技術のおかげで人間は事故で失ったり病気で切除した肉体の一部をもう一度手に入れられるようになった。
脳を除いては。
どんなに再生医療技術が進んでも、脳だけは復元できないというのがもう200年以上前から言われている常識だ。都市伝説だかなんだか知らないが、以前大脳の80%を損傷した人間の脳を再生しようとしたらその人はまるで幼児みたいに退行してしまい、ホルモンによる成長促進をしたところ数年であっという間に老人のような脳委縮があらわれ、結局その人は元に戻ることのないまま死んでしまったなんて話は誰でも知っている。

志穂の検査データでは素人目でもわかるほど大きな傷が脳の後ろの方、正確には後頭葉から頭頂葉にかけて入っていた。運ばれた時は出血もひどく髄液も漏れていたが処置が早かったためそれ自体は大したことはなかったが、損傷に関してはどうしようもなかった。

だが信じられないことに、赤ちゃんは全く心配がない、と医者は言った。おそらく何としてもおなかを守ろうと近くにあった毛布や衣類を抱えてうずくまり、そのために自分の頭を守ることができなかったんじゃないか、と。

灯は包帯の巻かれた志穂の頭を撫でようとして手を止め、自分のお腹の上に置いている手を握ろうとする。意識のないはずの彼女の手は、おなかの赤ちゃんを守るためなのか灯が触れても頑として動こうとしなかった。母親の本能、という言葉が灯の頭をよぎる。自分の母親も、志穂のように自分を守ってくれてたから、生まれてくることができたのだろうか。それとも彼女が特別本能が強いだけなのだろうか。それなら少しだけでよかったから、自分を守る本能も発揮してくれれば……。いや、それ以前に自分が実家に帰ってもいいと言わなければ。
志穂の手に自分の手を重ねると、一緒にお腹の中のまだ数センチにしかなっていないはずのわが子を撫でるかのようにわずかに動く。
それが灯の気のせいだったのか、本当に彼女がしたことなのかはわからない。

それでも灯は、彼女が命に代えても自分たちの子を無事に産むことを確信した。

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2008-04-18 If Cambrian explosion happens again(36)

歴史に「if」はなく、あるのはただ一つの真実のみだということは昔からわかっていることなのに、人はいつもその「if」を考え、求め、願う。
その根本にあるのはきっと誰もが持つ『後悔』という思いからではないだろうか。

もしもこの時、NCExpの責任者としてUNEFの行動を止めていれば。
もしもあの時、彼女を実家に帰さなければ。
もしも……その時、こうなることがわかっていれば。


国連が日本政府に連絡を入れてすぐ、北海道を除く国内全域に戒厳令が発令され通信・交通インフラなどが内閣および防衛省の管理下に置かれ、九州を中心に西日本各地に避難命令が出された。灯の予想通り、志穂の実家のある地域も対同盟軍の防衛要地となり、すぐに彼女となったばかりの義理の母親を呼び戻そうとしたが通信制限がかけられ連絡を取ろうにも取れない状態になった。向こうで彼女の護衛にあたっているはずの公安のメンバーに緒方から連絡を取ってもらったが「とりあえず無事は確認しています」としか返事はなく、しかもそれが頼んでから8時間も経ってからの返事だった。待っている間は「何をやってるんだ」と文句を言いたくなったが考えてみれば公安だって人間であり家族もいるはずで、それだけでもわかった自分はまだマシな方なんだろう。
研究所やNCExpの職員たちももはや仕事どころではなく、最終的には灯と所長だけは残ることにして近しい親族が避難地域にいる者を優先して順次帰宅させることにした。

「こんなに静かになったのは初めてですよ」

地球シミュレータと数台のクライアント以外ほとんどの機器と灯りの電源を落とした所長の声が部屋に響く。ここってこんなに人の声が反響するところだったのかと、灯は驚きながら見回した。中央の地球シミュレータを取り囲むように円卓のように作られているこのメインルームは、人の気配が消えるだけでなんだか不気味に思える。

「なんだか誰もいない学校みたいですね」

灯も同感だと笑う。
そんな中、緊急通報が灯と所長二人の携帯に入った。


スンダ海溝沖の同盟軍から数発の弾道ミサイルが発射。
ABLによる全弾撃墜を確認。


あまりにも静かで、現実感のない始まりだった。
何も言わず所長はTVを一番大きい3Dモニタに出す。
どこの局でも衛星画像での発射から撃墜までのプロセスを流しては、どこかのコメンテーターが意見を言うか首相官邸前からリポーターが「今のところ動きはありません」と言うのを繰り返している。
何度その衛星画像を見ただろうか。
10回目を超えて数えるのをやめてから1時間以上経ったくらいのころ、リポーターが叫ぶように原稿を読み上げる。


「えー、避難命令を出された地域住民を乗せた自衛隊機のうち一機が墜落した模様。繰り返します、避難民を乗せた自衛隊機のうち一機が墜落。行方不明者のリストはただ今受信中です。副画面にてリストを順次公開しています」

慌てて別の小さいモニタに副画面を出した灯は、数秒もかからずに高科になったばかりの志穂の名前を見つける。

今までで一番大きく志穂の名を呼ぶ声が、静かになっていたメインルームを満たした。

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2008-04-14 If Cambrian explosion happens again(35)

志穂が実家に戻ったのは仕事を辞めてその翌日。
灯が妊娠を知ってから一カ月もしないうちのことで、正直なところ父親になる実感も喜びもいま一つだった。彼女と一緒にいておなかが日に日に大きくなるところを見ればそれも生まれてくるかと思ったのだが、彼女の母親に「初孫だし心配だからなるべく早く帰ってきてほしい」なんて言われてしまうと引き留めるわけにもいかないし、灯だっていつ家にゆっくり帰ってこられるかもわからないのだから実家に預けておくほうがいろいろと安心だ。緒方にはすべて経緯を話すとすぐさま彼女の地元にいる公安の職員にも連絡をとってもらい安全も確保できた。
今まで延び延びになっていた婚姻届の提出を済ませ、そのまま公安の車に乗って実家へと帰っていく彼女を見送ると、灯もそのまま研究所へ向かった。


その夜。
志穂と、彼女の荷物がなくなって文字通り広くなった部屋の片隅で、灯は久しぶりにカメラ一式を出して現像を始めていた。いままでちょくちょく撮影はしていたのだが、一度引っ越してくる前にやろうとしたら薬液の匂いでぶっ倒れそうになった彼女が「お願いですから現像は私がいない時にしてください」と言うので今までできず、フィルムが結構溜まっていたのだ。
写したものは前の家の近くで見つけたり越してきてから買い物がてらの散歩の時に見つけた野良猫などが多かった。志穂はアレルギー持ちのくせに不思議なことに猫だけは平気で、見つけるたびに近寄っては撫でたり抱っこしたりするので不意打ちで撮ってみたのだ。前に寝顔を撮って以来ファインダーを向けると全力で逃げていた彼女がそれ以来普通に写るようになったのだから、昔の人はよく「女を落とすには猫が一番」と言ったものだ。
ちなみにあの時の寝顔の写真も現像すると顔だけ撮ったつもりだったがばっちりヤバい部分も見えてしまっていた。彼女に見つかると処分された挙句また撮らせてくれなくなりそうなのでネガごと見つからないところに大事にしまっておいた。


同盟軍が次に攻撃目標とすると思われる国に日本が入っているとの連絡が外務省を通じて灯に入ってきたのは、その2日後の日本時間正午のことだ。
同盟軍の狙いが引き続き旧産油国であるとするならば埋蔵量の多いロシア・中国・アメリカももちろん考えられるが、日本近海には21世紀に『MH21』と呼ばれる採掘・開発計画のあったメタンハイドレートが今も多く眠っているのだ。実際にはメタンハードレートが地上に出た時点で相当の温暖化の原因となるため計画は中断されたのだが、スノーボールアースを起こしたい同盟軍にとっては邪魔な存在になる。そしてスンダ海溝に展開中の同盟軍からもっとも攻撃しやすい位置に日本は存在している。
この発表が報道されるのは翌未明。
それまでに国連はUNEFを首都圏を中心とする国道16号、及び九州沖縄方面に配備し、報道と同時に住民の緊急避難の閣議決定することを申し入れた。
そして最後に事務総長はこうも伝えた。

「配備して72時間以内に同盟軍からの日本への攻撃がなかった場合、当該地区をUNEFの最前線として接収しスンダ海溝沖に展開する同盟軍へ攻撃を開始する」

つまり国連は、日本を盾にして被害を最小限に食い止めるつもりだ。

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2008-03-31 If Cambrian explosion happens again(34)

夢だと解る夢を見るのはこれが初めてではないが、ここまで現実感のあるものは初めてだ。
それなのにこの世界が遥か過去なのか遠い未来なのかは解らない。ただ明らかに現在から近い世界ではないことだけはよく解る。
灯が知らない地球。
なのにここが地球だと知っている。
自分は今は人間の形をしていなくて、でもいずれ人間と言う形に進化する事を知っている。
長い長い年月をかけて。
それとも一瞬にも似た短い時間で。
自分は……自分たちは何億という時間を経験する。


「……さん、風邪ひいちゃいますよ。起きてください」

目の前の女性が志穂であり、自分が高科灯であると解るまでにまばたき5回分くらいの時間がかかる。「あ、あれ? いつの間に? 俺迎えに行こうと思ってて」と驚いて時計を見ると、一時間以上も座ったまま寝ていたらしい。
志穂が「よだれ、垂れそうです」と笑いながら灯の口元をティッシュで拭おうとし、灯が照れながら後ろに逃げようとすると座椅子が背もたれごとごろんと倒れる。反対に浮き上がった灯の足に引き寄せられ、志穂が灯を押し倒す形になった。
少し驚いた顔を見せた志穂は、目を潤ませて悪戯っぽく微笑むとゆっくり目を閉じて灯の唇を奪う。
「いつもより積極的じゃないですか?」と志穂を支えている手を膨らみの方へ伸ばそうとすると彼女は「残念でした」と逃げる。久しぶりに会えたことだしスイッチが入りかけた灯は「どうして? もしかして来ちゃったの?」と聞くと彼女は笑いながら首を振り、誰かが聞いているはずはないのにこっそりと灯に耳打ちする。

「逆です。できちゃいました」


「ほら、かすかにですがちゃんと動いているでしょう? ここが心臓で、ここが目、まだよく解りづらいですが」と医者が立体画像を指して説明し、それを見た灯は新しい命のあまりの小ささに驚くしかなかった。こんな頼りないものが、本当に人の形になり生まれてきてくれるのだろうか。
灯の疑問を聞いて医者は笑いながら答える。

「赤ちゃんはお母さんのお腹の中で今まで人間が37億年かけて行ってきた進化を数週間で経験するといわれていますからね。手に水かきがついている時期もあるんですよ」

ふと、灯はこの前―志穂が妊娠したと灯に告げた―に見た夢を思い出した。
あの夢はこの子が今経験しているという進化を父親の灯に見せたのだろうか。
それとも灯の中にあるDNAの記憶なんだろうか。
診察台で寝ながら一緒に画像を見ている志穂は、そっと灯の袖を掴んで何も言わず微笑み、もう片方の手で画像の自分の子を優しく撫でる。
母親のことは少しも覚えていない灯だが、その顔はまさしく母親のものだと感じた。

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