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If -another world-

There are not the people who do not think about a "if".



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※この文章は全てフィクションです

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2008-04-21 If Cambrian explosion happens again(37)
2008-04-18 If Cambrian explosion happens again(36)
2008-04-14 If Cambrian explosion happens again(35)
2008-03-31 If Cambrian explosion happens again(34)
2008-03-09 If Cambrian explosion happens again(33)
2008-03-03 If Cambrian explosion happens again(32)
2008-02-27 If Cambrian explosion happens again(31)
2008-02-20 If Cambrian explosion happens again(30)
2008-02-20 If Cambrian explosion happens again(29)
2008-02-15 If Cambrian explosion happens again(28)


2008-04-21 If Cambrian explosion happens again(37)

警察病院でようやく会えた志穂は、眠っているように見えた。
いや、実際寝ているんじゃないだろうか。
規則正しく呼吸もして胸も上下している。
時折瞼や唇も意識が何かを伝えるかのようにかすかに動いているように見える。
灯よりも寝起きが良いからあまりベッドでは見たことはないが、よくソファで転寝をしていた時と同じ顔じゃないか。
それなのに。


「意識が戻る可能性は低いか、戻ったとしても障害は残ります」


医者は残念そうに言ったあと、火傷や創傷のひどい部分の幹細胞再生治療の準備をするよう看護師に指示して出て行った。
幹細胞再生治療―正式名称は間葉系幹細胞由来機能不全部復元術。この医療技術のおかげで人間は事故で失ったり病気で切除した肉体の一部をもう一度手に入れられるようになった。
脳を除いては。
どんなに再生医療技術が進んでも、脳だけは復元できないというのがもう200年以上前から言われている常識だ。都市伝説だかなんだか知らないが、以前大脳の80%を損傷した人間の脳を再生しようとしたらその人はまるで幼児みたいに退行してしまい、ホルモンによる成長促進をしたところ数年であっという間に老人のような脳委縮があらわれ、結局その人は元に戻ることのないまま死んでしまったなんて話は誰でも知っている。

志穂の検査データでは素人目でもわかるほど大きな傷が脳の後ろの方、正確には後頭葉から頭頂葉にかけて入っていた。運ばれた時は出血もひどく髄液も漏れていたが処置が早かったためそれ自体は大したことはなかったが、損傷に関してはどうしようもなかった。

だが信じられないことに、赤ちゃんは全く心配がない、と医者は言った。おそらく何としてもおなかを守ろうと近くにあった毛布や衣類を抱えてうずくまり、そのために自分の頭を守ることができなかったんじゃないか、と。

灯は包帯の巻かれた志穂の頭を撫でようとして手を止め、自分のお腹の上に置いている手を握ろうとする。意識のないはずの彼女の手は、おなかの赤ちゃんを守るためなのか灯が触れても頑として動こうとしなかった。母親の本能、という言葉が灯の頭をよぎる。自分の母親も、志穂のように自分を守ってくれてたから、生まれてくることができたのだろうか。それとも彼女が特別本能が強いだけなのだろうか。それなら少しだけでよかったから、自分を守る本能も発揮してくれれば……。いや、それ以前に自分が実家に帰ってもいいと言わなければ。
志穂の手に自分の手を重ねると、一緒にお腹の中のまだ数センチにしかなっていないはずのわが子を撫でるかのようにわずかに動く。
それが灯の気のせいだったのか、本当に彼女がしたことなのかはわからない。

それでも灯は、彼女が命に代えても自分たちの子を無事に産むことを確信した。

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2008-04-18 If Cambrian explosion happens again(36)

歴史に「if」はなく、あるのはただ一つの真実のみだということは昔からわかっていることなのに、人はいつもその「if」を考え、求め、願う。
その根本にあるのはきっと誰もが持つ『後悔』という思いからではないだろうか。

もしもこの時、NCExpの責任者としてUNEFの行動を止めていれば。
もしもあの時、彼女を実家に帰さなければ。
もしも……その時、こうなることがわかっていれば。


国連が日本政府に連絡を入れてすぐ、北海道を除く国内全域に戒厳令が発令され通信・交通インフラなどが内閣および防衛省の管理下に置かれ、九州を中心に西日本各地に避難命令が出された。灯の予想通り、志穂の実家のある地域も対同盟軍の防衛要地となり、すぐに彼女となったばかりの義理の母親を呼び戻そうとしたが通信制限がかけられ連絡を取ろうにも取れない状態になった。向こうで彼女の護衛にあたっているはずの公安のメンバーに緒方から連絡を取ってもらったが「とりあえず無事は確認しています」としか返事はなく、しかもそれが頼んでから8時間も経ってからの返事だった。待っている間は「何をやってるんだ」と文句を言いたくなったが考えてみれば公安だって人間であり家族もいるはずで、それだけでもわかった自分はまだマシな方なんだろう。
研究所やNCExpの職員たちももはや仕事どころではなく、最終的には灯と所長だけは残ることにして近しい親族が避難地域にいる者を優先して順次帰宅させることにした。

「こんなに静かになったのは初めてですよ」

地球シミュレータと数台のクライアント以外ほとんどの機器と灯りの電源を落とした所長の声が部屋に響く。ここってこんなに人の声が反響するところだったのかと、灯は驚きながら見回した。中央の地球シミュレータを取り囲むように円卓のように作られているこのメインルームは、人の気配が消えるだけでなんだか不気味に思える。

「なんだか誰もいない学校みたいですね」

灯も同感だと笑う。
そんな中、緊急通報が灯と所長二人の携帯に入った。


スンダ海溝沖の同盟軍から数発の弾道ミサイルが発射。
ABLによる全弾撃墜を確認。


あまりにも静かで、現実感のない始まりだった。
何も言わず所長はTVを一番大きい3Dモニタに出す。
どこの局でも衛星画像での発射から撃墜までのプロセスを流しては、どこかのコメンテーターが意見を言うか首相官邸前からリポーターが「今のところ動きはありません」と言うのを繰り返している。
何度その衛星画像を見ただろうか。
10回目を超えて数えるのをやめてから1時間以上経ったくらいのころ、リポーターが叫ぶように原稿を読み上げる。


「えー、避難命令を出された地域住民を乗せた自衛隊機のうち一機が墜落した模様。繰り返します、避難民を乗せた自衛隊機のうち一機が墜落。行方不明者のリストはただ今受信中です。副画面にてリストを順次公開しています」

慌てて別の小さいモニタに副画面を出した灯は、数秒もかからずに高科になったばかりの志穂の名前を見つける。

今までで一番大きく志穂の名を呼ぶ声が、静かになっていたメインルームを満たした。

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2008-04-14 If Cambrian explosion happens again(35)

志穂が実家に戻ったのは仕事を辞めてその翌日。
灯が妊娠を知ってから一カ月もしないうちのことで、正直なところ父親になる実感も喜びもいま一つだった。彼女と一緒にいておなかが日に日に大きくなるところを見ればそれも生まれてくるかと思ったのだが、彼女の母親に「初孫だし心配だからなるべく早く帰ってきてほしい」なんて言われてしまうと引き留めるわけにもいかないし、灯だっていつ家にゆっくり帰ってこられるかもわからないのだから実家に預けておくほうがいろいろと安心だ。緒方にはすべて経緯を話すとすぐさま彼女の地元にいる公安の職員にも連絡をとってもらい安全も確保できた。
今まで延び延びになっていた婚姻届の提出を済ませ、そのまま公安の車に乗って実家へと帰っていく彼女を見送ると、灯もそのまま研究所へ向かった。


その夜。
志穂と、彼女の荷物がなくなって文字通り広くなった部屋の片隅で、灯は久しぶりにカメラ一式を出して現像を始めていた。いままでちょくちょく撮影はしていたのだが、一度引っ越してくる前にやろうとしたら薬液の匂いでぶっ倒れそうになった彼女が「お願いですから現像は私がいない時にしてください」と言うので今までできず、フィルムが結構溜まっていたのだ。
写したものは前の家の近くで見つけたり越してきてから買い物がてらの散歩の時に見つけた野良猫などが多かった。志穂はアレルギー持ちのくせに不思議なことに猫だけは平気で、見つけるたびに近寄っては撫でたり抱っこしたりするので不意打ちで撮ってみたのだ。前に寝顔を撮って以来ファインダーを向けると全力で逃げていた彼女がそれ以来普通に写るようになったのだから、昔の人はよく「女を落とすには猫が一番」と言ったものだ。
ちなみにあの時の寝顔の写真も現像すると顔だけ撮ったつもりだったがばっちりヤバい部分も見えてしまっていた。彼女に見つかると処分された挙句また撮らせてくれなくなりそうなのでネガごと見つからないところに大事にしまっておいた。


同盟軍が次に攻撃目標とすると思われる国に日本が入っているとの連絡が外務省を通じて灯に入ってきたのは、その2日後の日本時間正午のことだ。
同盟軍の狙いが引き続き旧産油国であるとするならば埋蔵量の多いロシア・中国・アメリカももちろん考えられるが、日本近海には21世紀に『MH21』と呼ばれる採掘・開発計画のあったメタンハイドレートが今も多く眠っているのだ。実際にはメタンハードレートが地上に出た時点で相当の温暖化の原因となるため計画は中断されたのだが、スノーボールアースを起こしたい同盟軍にとっては邪魔な存在になる。そしてスンダ海溝に展開中の同盟軍からもっとも攻撃しやすい位置に日本は存在している。
この発表が報道されるのは翌未明。
それまでに国連はUNEFを首都圏を中心とする国道16号、及び九州沖縄方面に配備し、報道と同時に住民の緊急避難の閣議決定することを申し入れた。
そして最後に事務総長はこうも伝えた。

「配備して72時間以内に同盟軍からの日本への攻撃がなかった場合、当該地区をUNEFの最前線として接収しスンダ海溝沖に展開する同盟軍へ攻撃を開始する」

つまり国連は、日本を盾にして被害を最小限に食い止めるつもりだ。

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2008-03-31 If Cambrian explosion happens again(34)

夢だと解る夢を見るのはこれが初めてではないが、ここまで現実感のあるものは初めてだ。
それなのにこの世界が遥か過去なのか遠い未来なのかは解らない。ただ明らかに現在から近い世界ではないことだけはよく解る。
灯が知らない地球。
なのにここが地球だと知っている。
自分は今は人間の形をしていなくて、でもいずれ人間と言う形に進化する事を知っている。
長い長い年月をかけて。
それとも一瞬にも似た短い時間で。
自分は……自分たちは何億という時間を経験する。


「……さん、風邪ひいちゃいますよ。起きてください」

目の前の女性が志穂であり、自分が高科灯であると解るまでにまばたき5回分くらいの時間がかかる。「あ、あれ? いつの間に? 俺迎えに行こうと思ってて」と驚いて時計を見ると、一時間以上も座ったまま寝ていたらしい。
志穂が「よだれ、垂れそうです」と笑いながら灯の口元をティッシュで拭おうとし、灯が照れながら後ろに逃げようとすると座椅子が背もたれごとごろんと倒れる。反対に浮き上がった灯の足に引き寄せられ、志穂が灯を押し倒す形になった。
少し驚いた顔を見せた志穂は、目を潤ませて悪戯っぽく微笑むとゆっくり目を閉じて灯の唇を奪う。
「いつもより積極的じゃないですか?」と志穂を支えている手を膨らみの方へ伸ばそうとすると彼女は「残念でした」と逃げる。久しぶりに会えたことだしスイッチが入りかけた灯は「どうして? もしかして来ちゃったの?」と聞くと彼女は笑いながら首を振り、誰かが聞いているはずはないのにこっそりと灯に耳打ちする。

「逆です。できちゃいました」


「ほら、かすかにですがちゃんと動いているでしょう? ここが心臓で、ここが目、まだよく解りづらいですが」と医者が立体画像を指して説明し、それを見た灯は新しい命のあまりの小ささに驚くしかなかった。こんな頼りないものが、本当に人の形になり生まれてきてくれるのだろうか。
灯の疑問を聞いて医者は笑いながら答える。

「赤ちゃんはお母さんのお腹の中で今まで人間が37億年かけて行ってきた進化を数週間で経験するといわれていますからね。手に水かきがついている時期もあるんですよ」

ふと、灯はこの前―志穂が妊娠したと灯に告げた―に見た夢を思い出した。
あの夢はこの子が今経験しているという進化を父親の灯に見せたのだろうか。
それとも灯の中にあるDNAの記憶なんだろうか。
診察台で寝ながら一緒に画像を見ている志穂は、そっと灯の袖を掴んで何も言わず微笑み、もう片方の手で画像の自分の子を優しく撫でる。
母親のことは少しも覚えていない灯だが、その顔はまさしく母親のものだと感じた。

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2008-03-09 If Cambrian explosion happens again(33)

もし灯が同盟軍にいるとして、国連加盟国の中で制圧したい対象のプライオリティをつけるとするならこの日本はかなり高い順位、おそらく米国の次あたりに位置づけるだろう。むしろ米国ほどの強大な軍を持たないということで容易に制圧できると考え、真っ先に攻撃してくる可能性もある。
安保条約という言葉が消えて200年近く経った現在、在日米軍は「相互保守契約」という名で継続して駐屯しているが、日本が攻撃された場合に米国が手を貸してくれる保証は既にない。

灯が国連に総意での拒否を提案するまでもなくジュネーブにおける国連の諸機関は相次いで同盟軍に対し警告及び要求に対する非難決議を採択し、UNEF(国連緊急軍)の派遣を決定。同盟軍の本部と目されるオーストラリアの首都キャンベラへ向け爆撃の準備もあると通告したのは、同盟軍が提示した降伏の期限と同時だった。


最初の矛先は、意外にも中東・アラブ諸国に向けられた。
世界的な化石燃料の使用中止によりもはや産油国ではなく観光と金融経済の地域となり、攻撃対象にはならないだろうと国連も手薄になっていたところを突かれた格好だ。
寒冷化を阻害する可能性の高い化石燃料を持つ国を先に掌握することで、同盟軍はさらにスノーボールアースという兵器を強力にしようとしたのだ。
しかしながら、急ごしらえの同盟軍とアラブ諸国連合の戦闘は膠着状態に突入する。それが同盟軍には大きな誤算だった。
戦闘が長引けば長引くほどUNEFは包囲網を固め、スンダ海溝とアラブ諸国に分散していた戦力が完全に分断され、形勢は一気にUNEFに有利な展開となった。あとは自棄になったスンダ海溝の同盟軍が海底を爆撃する前に壊滅させるか降伏させるかのどちらかだ。そしてアラブ諸国を手に入れられなかった同盟軍がたとえ海底を爆撃してもスノーボールアースが起こる可能性は低い。国連もNCExpも他の専門家達もそう予想し、同盟軍はこのまま打つ手もなく降伏するだろうと思われていた。


着替えを取りに来る程度なら国連本部への出張期間中以外はほぼ毎日帰ってきていたのだが、こんなふうにのんびりと家にいるのはおよそ二週間ぶりだ。灯はまだ引っ越してきてから荷解きもしていない荷物の中から座椅子と座卓を出し寛いでいる。志穂はこの時間ならそろそろ仕事が終わるだろうから、帰る頃になったら迎えにでも行こうかと思っていると、ほんの数秒の間に意識がどんどんと下に沈んでいくような感覚に襲われる。
あぁ、これは睡魔だなと認識すると同時に意識は途切れた。

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2008-03-03 If Cambrian explosion happens again(32)

共同宣言を出した国々が国連に対し72時間以内に加盟国全ての武装解除及び国政の放棄と譲渡、つまり事実上の宣戦布告と無条件降伏を要求してきたのは、志穂と一緒に暮らしてから三日目の(日本時間での)昼過ぎだった。
これを受けてNCExpをはじめ研究所も24時間随時対応できる体制を整えるよう国連及び総理大臣、文部科学大臣からのお達しが5分と経たずにダイレクトライン経由で下った。
飲み会に出席した連中には当然灯と志穂が同棲を始めた事は知れ渡っており(詳しい住所は安全の為所長以外には教えていないが)、皆灯の顔を見るなり「かわいそうに」「ご愁傷様です」と言いたげな顔で通り過ぎ、志穂に連絡しなければでもなんて言おうかと思案していた灯を萎えさせた。
「しばらく帰れないか、帰ってもすぐに戻らなきゃいけなくなりそう」とやっとの思いで志穂に連絡すると、彼女は「それなら仕方ないですよね」と想像以上に聞き分けがよく、それが逆に灯の恐怖を煽る。
一緒に暮らしてみて解ったのだが、彼女は他の女の子にありがちな金銭欲や物欲などはほとんどないが、唯一「一緒にいる」事に対しての執着が激しい。「仕事と私」なんて21世紀の人間でも言わないような選択を本当に迫りかねないのだ。多分それは小さい頃に亡くした(どうやら仕事中の事故らしい)父親を灯に重ねているからだろう。出て行ってしまうとか浮気されるとかそういう事はおそらくないはずだが、この埋め合わせはいつか必ずしなければと灯は心に誓う。


みたび首相官邸に呼び出された灯は、緒方ではなくSPの護衛のもと赴いた。この間の内調の杉山といい今回の彼といい悪い人間ではなさそうだが(そもそも内調やSPが悪人だったら一大事だ)、お馴染みの緒方でないとなんだか居心地が悪いと思ってしまうのは、自分で思う以上に緒方に心を許しているのかもしれない。
官邸で待っていた首相は前回よりもさすがに疲れているように見えた。国防を担当する大臣を更迭した直後に追い討ちをかけるようなこの事態は、総理だけでなくまいっている人間が永田町をはじめこの周辺地域には多そうだ。
建前上わが国が所持しているのは「軍」ではなく「自衛隊」であるから武装解除要求に従う義務はないという意見もあるらしいが、国政に関してはさすがに全ての大臣や与野党ともに突っぱねることで合意が取れている、と首相は説明してくれた。

「とりあえず今は他国の意見が出揃うまで様子を見るだけだ」と当たり障りのない事しかできない自分を情けなく思っているように首相は笑った。
「スノーボールアースが核兵器を凌ぐ戦争の切り札にされるとは想像もしてなかった。これは我々のミスだ。その尻拭いを結婚を控えた君に頼むのは申し訳ないが……」と言葉を止め、その視線で灯は言わんとしている事を全て悟る。

「わかりました。国連の総意で要求を拒否するようにNCExpから要請します。ですが……」

「国連の総意になったところで事態は変わらない。そんな事は解っている」と首相もまた灯の言葉の先を読む。

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2008-02-27 If Cambrian explosion happens again(31)

「それじゃ、今度こそ本当に」と緒方が出て行ってからしばらく、灯は玄関の前で息を殺していた。不思議そうな顔で見ている志穂にも口元に指を当て、そのまま座っているようにジェスチャーする。
3分ぐらいしてモニタと実際に外に出て本当に帰った事を確認し、ようやく灯は安心して「ちゃんと帰ったみたい」とさっきから心臓まで止めそうな勢いで正座したまま固まっていた志穂に言うと、彼女は苦しそうに胸を押さえ息をついた。別に呼吸まで止めなくても良かったのに、と灯が爆笑すると志穂は真っ赤な顔をさらに赤くさせてそっぽを向いた。
ひとしきり笑い終えると、志穂の身体を背中から抱きしめる。

「……良かった」

志穂が同盟軍のスパイでもなく、また同盟軍のスパイに捕まったり利用されることもなく、そして何より自分とこうなったのは灯を利用する為でもなくちゃんとした気持ちがあってのことだったのは灯にとって理想的な結末だ。
志穂は何も言わずに振り向くと、灯の頭を胸に抱きまるで子どもをあやすように頭を撫でる。僅かとはいえほんの少し前まで自分を疑っていたことを責めることなく、何もかもを赦すように。


それから2週間。
一度でも盗聴器を仕掛けられた、つまり不法侵入があった家に住み続けるのは危ないと緒方が忠告し、灯もいやだったので公安が斡旋してくれたマンション(そんな事まで公安の仕事にあるのかと驚いたが、官舎以外でも警護しやすい物件を政府が常にいくつか押さえているそうだ)に引っ越すことになった。もちろんその物件は二人で一緒に暮らしやすいように志穂と決めたもので、引越しだけではなく志穂の母親に挨拶に行ったり指輪を買いに行ったりとプライベートで忙しい日々を送っていた。

そんな灯の状況を世界情勢が鑑みてくれるはずもなく、NCExpの仕事も日を追うごとに増えていく。
海洋調査船や衛星での熱塩循環や地磁気の測定がさらに詳しく行われるようになり、連日地球シミュレータの演算結果の検証や報告、有事の際の対策会議等に加えて、安藤を更迭した内閣の中で灯を特命大臣に迎え入れようという動きもあり身体が3つ4つあっても足りないくらいだ。
「私が困ります。高科さんが3人もいたら」と志穂は笑い、緒方も「我々も高科さんを三人分警護するのは勘弁して欲しいです」と真剣な顔で遠慮した。
海外だけでなく国内のテロ組織も活発化してきて、灯も何度か本物のテロリストを目の当たりにしたり危ない目に遭わされかけたりもしたのだ。もちろんそれを身体を張って防いでいるのは緒方やSP(本来は総理大臣を担当するはずの第一係だと緒方は言っていた)で、志穂も不用意に外には出ないよう注意され、仕事に行くにも公安の送り迎えがつくほどだ。もっとも彼女は再来月いっぱいで退社すると既に上司に言ってあるのでそれほど支障はないみたいだ。

後から灯は思う。
この時が自分の人生の中で一番幸せな時期だったんじゃないだろうか、と。

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2008-02-20 If Cambrian explosion happens again(30)

「でも、実はもしかするとって思っていたんです」と志穂は続ける。

「初めて話しかけるまでは。でもずっと話してて、そうじゃなかったらいいなって思うようになって。馬鹿ですね私。はじめから聞いておけばよかったのに。昨夜ああなっちゃったら怖くなってよけいに聞けなくなりました」

そして今朝。
そして灯が彼女を見送った直後にとある国のスパイを名乗る女に、灯が探している人物である事を教えられ、確信に至る。灯に関しての情報を集めるよう協力の要請もされた。もちろんその『要請』が額面どおり受け取れるような穏便なものであるはずもない。
灯は車の中での緒方の話を思い出す。



「申し訳ありません、僕のミスです。たった今彼女を監視させている同僚から連絡がありました。同盟軍の諜報員と思われる不審な女が彼女に接触したそうです」

緒方がSVシステム(総理府が直轄する非公式の全地域監視システム)からの画像を開くと、後姿からでも解る彼女の横を金髪の女性が並んで歩いている。別のウィンドウに映る男たちはどうやらその女の仲間らしく、志穂達に合わせて移動している。
背筋が凍るとか、寒気がするというのを通り越したこんな感覚を味わったのは、灯の今までの記憶にはない。
不意に志穂が立ち止まり、外人の女に何かを叫んで走り出す。仲間の男たちが志穂を取り押さえようと動くが間一髪、男たち全員が逆に待機していた警察官に御用となった。

「正直今の今まで完全に彼女を疑っていました。まさかこれから連中が彼女に接触する可能性までは考えませんでした」

車を走らせながら再び頭を下げる。

「ただ彼女がこれから彼らに協力しないとも限りませんしもしかしたら既に別のところから指示を受けているかもしれません。その可能性も考慮して我々が動く事は了承願います」

慇懃になる緒方からは国を守る仕事をしている人間の気迫みたいなものが感じられ、灯は「わかった」としか言えなかった。



「私、どうすればいいんでしょうか?」と訊ねてくる志穂は、笑いながら泣いていた。
たとえ最悪の答えでも受け入れる覚悟をしなければならない。そんな表情だ。

「あのさ、さっきどうして迷わずうちのキッチンの場所を解ったの? 昨夜は一度も行かなかったのに。うちはキッチンは全部壁で隠せるし外から見ても簡単には解らないんだけど」

不意の質問に、志穂は「だって今朝コーヒー淹れてくれたじゃないですか」と首を傾げると、灯は「あっ!」と思い出したように叫んだあと、大笑いして言った。

「そうだ、ごめん緒方さん。忘れてた」

その声を合図に、ずっと玄関先で待機していた緒方が「ちょっ、高科さん。勘弁してくださいよ」と呆れながら入ってきた。その耳にはかなり旧式の赤外線通信(ブルーなんとかと言うらしい)の盗聴器がはめられている。
事態を飲み込めない志穂に、灯は説明を始めた。
志穂が外人の女と接触する直前のこと。
緒方が唯一見つけた盗聴器は台所に仕掛けられていたのだ。灯が寝てる間にこっそり起きて仕掛けたのではないかと緒方は疑ったのだが、これで志穂への疑いは完全に晴れた。仕掛けることができると解っている場所に仕掛けて己に疑いをむけさせるマヌケなスパイなんているわけがない。
「それにしても高科さん、昨日の今日で随分と愛されちゃってますね」とからかう緒方のわき腹を軽く小突くと「痛ッ。じゃあもう僕は邪魔しないんで」と帰ろうとするので灯はその肩を力強く捕まえる。

「緒方さん。帰るなら盗聴器も一緒に持って帰って」

にこやかな声の灯の目は冷ややかだった。

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2008-02-20 If Cambrian explosion happens again(29)

彼女の手料理、というか外食以外で他人、しかも女の子が作ってくれた料理なんて10年以上も口にしていない。
「私だって男の人に作るのはお父さんと弟と、あと大学時代にホームステイさせてもらってたお家の人以外ないですよ」と鍋の具を几帳面に盛り付けるように小皿にとりわけながら志穂は恥ずかしそうに言った。
「どうぞ。自信はあまりないんですけど、お鍋なら多分失敗はないと思います」と灯に小皿を差し出すと、灯が口をつけるのを待っているかのように座ったまま動かない。湯気でよく見えないけど、きっとその顔は飲み会で灯を待っていた時のようなあの不安そうな顔なんだろう。これはどんな味でも「美味しい」と言うのは男の義務なんだろう、と女心に疎い灯でも解る。
結果、味は合格点を通り越してほぼ満点に近かった。鶏がらスープで煮込んだ具材に大根おろしをかけた鍋で、灯は生まれて初めて見たが彼女の地元では普通によく知られているものらしい。
「大根おろしじゃなくってとろろをかけたりするのもあるんですよ」と彼女が教えてくれたので「じゃあ今度はそれがいいな」と灯がおねだりすると志穂は「はいっ!」と嬉しそうに頷く。

食べ終わると正座を崩した志穂は、野菜くずだけが浮かぶ鍋の中を見つめながらポツリと話し始めた。

「高科さん。さっき私、大学時代にホームステイしてたって言いましたよね」

来た。
灯は確信した。
避けて通れないのは解っていたけれど、できることなら知らないフリをしてこのままずっといられる事を願っていたのに。

「そこのホストファミリーから連絡がありました。お父さん……向こうのですけど、逮捕されたって」

再び向けられた志穂の目には溢れる寸前まで溜まっていた。

「私、向こうのお父さんにはすごくよくしてもらったんです。実の父親は小さい頃に死んじゃったので、私にとっては本当のお父さんみたいな。だから、逮捕されたって聞いたときはすごく驚きました」

再びうつむくと、机の上に雫が落ちる。

「その逮捕には、ある日本人が関係してるって……」

泣いているせいで志穂が言葉を止めたわけではない。灯の言葉を待っているのだ。

「俺だよ、それは」

ヒクッ、と一度だけ志穂がしゃくりあげると、本格的にボロボロと泣き出した。
それからの涙ながらの志穂の話をまとめるとこうなる。
ホストファミリーからの連絡を受けた志穂が知っていたのはその日本人がある国連組織の一員であることと、その国連組織の運営を妨害したせいでハンスが逮捕されたということだけだった。事実はかなり歪曲されていたが、その事に関して灯は弁解も説明もするつもりはない。彼の逮捕に関わった事実は変わらないのだから。
そんな時、偶然飲み会に誘われた彼女ははじめは断るつもりでいたが友人の「なんか研究員とか国連の職員とか、固そうな人ばっからしいけどね。本当に盛り上がるのかなぁ」と誰かに電話しているのを盗み聞きして出席をすることにした。
何がしたかったわけじゃない。
ただ知りたかっただけだ。
そして灯が国連の職員、つまりNCExpの唯一の出席者だった。

「どうして……、どうして高科さんなんですか」

誰に向けてでもない、強いて言うなら残酷な偶然に問いかける志穂の言葉だけが冷たい部屋に響く。

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2008-02-15 If Cambrian explosion happens again(28)

その日の夜、約束の時間。
灯は昨日別れた時と同じ場所で、彼女―志穂を待っていた。
冷え込みは昨日よりも一段と激しく、もしかしたら今夜は雪が降るかもしれない、と誰かが言っていたのを家を出る間際に思い出し、二人が入っても充分なほど大きい傘を持ってきて。
約束の時間よりほんの少し早く来るところも自分の知っている彼女らしい、と慣れない場所に戸惑うように辺りを見回して自分を探す志穂の姿を先に見つけ灯は思った。
昨日とは少し違うものの、やはり大人しめの服と髪型に薄めの化粧の彼女は灯の姿を見つけると飲み会の時を思い出させる子どものような笑顔で灯のもとへ小走りに寄ってくる。
帰りがけ、二人分にしては少し多めの鍋の材料と飲み物を買い込むと、志穂は重いから持とうとする灯の手をするりとかわし、嬉しそうに袋を胸に抱えた。
「盗って逃げたりしないから」と言うと志穂はそうじゃないです、と首を横に振る。

「男の人の家で料理作るの、女だったら誰でも一度は憧れるんですよ」

そう、と灯は手を引っ込めるとあとは二人とも何も言わずに家へと向かった。
古いタイプの生体認証式の玄関を開け、まだ遠慮がちな彼女の背中を促して先に中に入れる。さすがに荷物を抱えながらブーツは脱げないので「すみません、ちょっと持っててください」と袋を灯に渡し、靴を脱いで先に入ると再び袋を受け取ってまっすぐ向かった。

昨夜は一度も使ってなかったはずのキッチンに、迷うことなく。


9時間前。
「あの、今夜高科さんの家にお邪魔してもいいですか?」と言う緒方に今夜は彼女が来るから、とやんわり断ろうとしても彼は引かなかった。
「じゃあ、今すぐにでも、お願いします」とお願いにしてはかなり強い口調で灯もようやく緒方の真意に気づく。
彼女は怪しまれているのだと。
そして40分後、灯の部屋の前にはいくつかの機材を抱えた緒方が既に待っていた。
灯が玄関を開けると「すいませんが調べ終わるまでここにいてください。声も出さないで」と一人で中に入っていった。
再び出てくるまでに要した時間は15分、緒方は一度小さく頷くと外の駐車場に置いてある自分の車を指差した。
車に乗るとようやく緒方は口を開く。

「申し訳ありません、僕のミスです」

昨夜緒方がお持ち帰りをした子は女の子の方の幹事で、酔いつぶれた彼女を介抱しながら植松志穂について聞いてみるとこう言っていたのだ。

「植松さん? て誰? あぁ、あの地味な子? あたしも実は彼女に会ったの初めてなんだよね。だって緒方がいきなり女の子増やせっていうからがんばって手当たり次第声掛けたんだよ。それで、友達の友達の友達とかまで来ちゃって、実は知らない人のほうが多かったり……えへへぇ」

一気に酔いが醒めた緒方は彼女を家まで送ると、すぐに職場に戻り植松志穂を調べた。データ上の経歴は疑う余地がないほど普通だが唯一引っかかったのが志穂の高校時代の留学先だった。彼女がホームステイをしていたのはオーストラリア。
ペンタゴンにいたあのハンスの家だったからだ。

「そこで何があったのかは、本人に直接聞いてみないと解ら……」

緒方の声が急に絞られる。

灯はその時の自分が怒っていたのか泣いていたのか、今でも思い出すことは出来なかった。

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