一年半後。
医者も首を傾げるほどの勢いで完治し、退院した私が最初にしたのは主人との別居だった。彼と彼の母親が持ちかけてきた話だったが、言われなくても私から切り出すつもりでいたので結婚する以上に簡単に事は進んだ。
ただそれを自分からバベッジに話す事はなく、彼も知ってはいたはずだけどそれを私に言う事はなかった。
生活が落ち着くのも待てずに、私は彼の研究室に通うようになる。
表立って解析機関の研究をする事はできなくなったけど「せめて理論だけでも残していつの日か誰かがあなたの考えを証明してくれれば」と言う私に彼は「私たちの考え、だな」と微笑んだ。
まず、私が治る前に完成させていた試作機を最初から考え直す事から始まった。
とはいえ工学に関する知識はまるでなかった私は、計算に関するモデルを構築するのが主な仕事で、彼はそのモデルを的確に動かすだけの設計理論を組み上げていく。
解析機関を動かす手順としては以下のようになる。
入出力用のパンチカードを読み込み、機械内部に格納する。格納された数値はミルと呼ぶ演算装置に受け渡され、バレルと呼ぶドラムに釘を刺し込んで指定した計算方式に従って計算されプリンタに出力する。
考えとしてはこれ以上ないほどシンプルだけど、そのために機械に指示を出すのは想像以上に難しかった。何しろ机の上で書いたものがあってても間違ってても、動かしてみるまで解らなかったりするからだ。
それからは文字通り毎日計算表を書き続けた。
機械には最初から難しい命令はできない。ならば簡単な計算を連ねて答えに辿り着くしかない。
四則演算と平方根、対数指数の関数表を作れるだけの演算表を書いた後、私たちはこの言語を標準化する仕事に取り掛かった。
他のどこで解析機関が作られたとしても全く同じ動作ができるように。
また彼は解析機関が暗号解読に使えると訴え、新たに資金を提供してくれる人を探し出した。
そして1862年、階差機関を格子状に繋いだ大掛かりな解析機関の製作に取り掛かろうとした矢先。
私はまた病に倒れた。
病室でも私はミルの手続きに関する言語をまとめていた。彼はまたすぐに治って一緒に仕事ができると笑っていたし、私もそうありたいと願っていたが頭のどこかでは感じていた。
もう無理だと。
日に日にやつれ、前以上に細くなった私を見て彼もその事は察していたはずなのに、彼は私以上に治る事を願ってくれた。
それだけで、もう充分だった。
今際の際、人は過去を振り返るという。
私もやはりそうなのだろうか。だとしたら最後に思い浮かべるのは……
「大丈夫、大丈夫だから」
彼の大きな手が頬を撫で、不思議なほど落ち着いた気分になる。そして私は初めて彼に私の事を話した。
両親が離婚していたこと、
私の父親は詩人のバイロンであること、
私が死んだら、父の隣りに葬って欲しいこと。
一度も会ったこともなく、顔すらも知らないけど、私は父を求めていたこと。
あなたと一緒にいられて幸せだったこと。
彼は笑顔で「解った」と言った。
その顔はなぜか、見た事も無い父の顔と重なった。
私が死んで9年後、彼も死ぬまでの間に彼は解析機関を完成させ、標準化した言語を発表した。
その言語は形やプラットフォームを変え、飛行機などの制御系のプログラミング言語として100年以上後にも使われ続けている。
彼がつけてくれた、私と同じ名のプログラミング言語で。 |