ガンだと知ったのは私が35歳の時。
あの日もいつものように大酒を飲んでギャンブルで大負けし、情けない話だけど主人には言えずバベッジにまたお金を借りてしまった。もう何回目になるだろう。
それでも彼はいつもと変わらない―あの解析機関について話をしてくれた時と同じ―笑顔で私を迎えてくれた。自分だって暮らしが楽ではなかったはずなのに。
彼が私に怒った顔を見せたのは二回だけ。
一度目は同じようにお金を借りてしまったあとで「私なんて何の価値もないけど、もし良かったら好きにしていいわよ」と彼の前で服を脱ごうとした時だった。このときほど自分が酔って記憶を失くすタイプではないのを恨んだ事はない。
翌朝目が覚めてからずっと私は泣いていた。それが自己嫌悪からなのか、彼が少しでも私に手を出そうとしてくれなかったからなのか、今となってはもう自分でも解らない。
いいかげん泣きつかれて起きようとしたその瞬間、文字通り天地が逆転した感覚に襲われた。自分でも危ないと思う倒れ方をし、頭とか首とかいろいろとぶつけたような気がしたけど痛いと思ったのはお腹だけだった。
それから慌てた主人が来て、大声で使用人を呼んだところから私の記憶は無くなって、次に目が覚めた時は病院のベッドの上で治療を受けていた。
縛られているわけでもないのに体が動かない。
全力で目だけ動かすと、お腹や腕にいっぱい傷をつけられ恐ろしいほどの血を抜かれていた。瀉血、という治療法だと医者は説明した。
それからしばらく私は入院することになる。
爵位を持っている主人のおかげで病院での生活もそれほど不自由ではなかったけど、お腹を中心に体全体が蝕まれるような疼痛に、いっそ狂うか死んでしまったら楽になれるのに、と思うほど心が削られていった。
本当のところ、このまま病院を出る事はないと覚悟をしていた。
それでも一目でも、あと一回でいいから彼に会って話したい。その思いだけで何とか生きていられたんだろう。もちろん入院している限りそんな願いは叶わないのは解っている。
そのあとの私は鬱になったり暴れたりを繰り返した。
満足に食事もできなくなり痩せる、ではなくみすぼらしいほどやつれた自分の身体に鏡を見るのもイヤになり、痛くてたまらないのに医者からもらっているはずの痛み止めがいつの間にか無くなっていたりして喚き散らした。(後で知ったが主人の母が薬をこっそり盗んでいた)
入院してどれくらいが過ぎただろう。時間とか日付とか、もうそんな感覚すらなくなっていた。暗いからとりあえず夜なのは解ったが、それだけ解ってもどうと言うことはない。今は痛みが治まっているが、またすぐにでもあの耐え難い痛みが来ると思うと絶望的な気持ちになる。
窓から入る月の光が眩しくて、それだけでイライラする自分にもっとイライラする。もう何もかも終わって欲しい。
そして私は全力を振り絞って、それでも呟くほどの声しか出なかったけど叫んだ。
「死にたい」と。
「ダメだ」と声が聞こえた。
それはとても懐かしくずっと待ち望んでいたはずの声だったのに、しばらくの間誰の声だったかを思い出せなかった。
私は目を見開いて、久しぶりにその名を呼んだ。
彼がいた。
最後に見たあの同じ怒った顔で。その顔にあの時と同じ痛みを覚えた。
「死んじゃダメだ」と言うと彼はいつもの笑顔に戻った。
それだけで嬉しくて、私は泣いた。
あの日と同じように、ずっとずっと泣き続けた。 |