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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2014-10-15 遠く見える観覧車
2014-10-14 今日のこと
2014-10-05 あの日の海へ
2014-10-05 次の舞台へ
2014-10-04 秋冷
2014-09-28 台本完成!!
2014-09-27 演ずると言うこと
2014-09-26 高校演劇について
2014-09-21 夏の終わり
2014-08-24 夏休み最後の日曜日


2014-10-15 遠く見える観覧車

十代の頃から、
僕はしいて言えば因果応報論者で、
人を傷つけたらやがて自分に返ってくると信じていた。

そんな僕も時には人を傷つけ、
もしかしたら背負いきれないような、
罪を背負って来たのかもしれない。

また、
(その可能性はかなり低いが)
もしかしたら負わされた十字架以上の、
罪は犯していない可能性もかろうじてあるかも。

いやいや、そんな重々しい話じゃ無くて、
ちょっと好いことがあったら、
次には悪いことがあるだろう。
悪いことがあったら、きっと好いことがあるさ、
ってな感じくらいにしか考え居なかったけどね。

遠くに見える観覧車は、
何か向こうにあるはずの憧れ。
罪だと思いながら、
向こうにあるものに歩いて行こうとすることの象徴。

そう歩き続けなきゃならないのが業ってものなのかな。


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2014-10-14 今日のこと

人生には多くの分岐がある。
大きなこともあるし、小さなこともある。

今日はもしかしたら、
ちょっと大きなことだったかもしれない。
まだ分からないけれど。

今までだって大きなことは時々あった。
大切な人との出会い、大切な人との別れ。
でも今日のはそのどれとも違う。
でもけして小さくは無いことだ。

だから伝わるか分からないが、
それをここに記しておく。
まだ成就するか保証も無いこの段階で、
この日のことをきちんと刻んでおく。

そして願う。
どうかうまくいきますように。


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2014-10-05 あの日の海へ

僕の記憶の中にあるあの海を、ふと見たくなった。

僕はもちろん昔より歳をとったし、
いろいろな勉強もしていろいろなことを知った。
でもこれから若くなることは無いのだから、
今の若さで出来ることをやりきるべきだと思う。
もちろんだが他人の若さには興味ない。
自分の人生は自分のためにある。
他人のそれは他人のものなのだ。

人は何のために技術を手に入れるのか?
それを手に入れて自分で出来る最高のパフォーマンスをするためだ。

かつてバドミントンを通じて知り合ったサカモトさんと、
夜通し飲み明かして明け方近くに語り合ったことがある。
それはサカモトさんが生涯をかけて手に入れた、
バドミントンの技術のことだ。

彼は十代から培ったバドミントンの技術を、
四十代の後半で自分自身のパフォーマンスの中で発揮出来なくなった。
もちろん、普通のレベルから言えば、
それは十分に素晴らしいものなのだが、
それは彼自身が許せる理想とは少しずつ乖離していくものだった。

その時、彼が選んだものは、
自分の技術を次の世代に効率的に引き継ぐ、ということだった。
そのために金も時間も惜しまずに生きることを決めた。

世の中には、こんな純粋な大人がたくさん居るのだ。
僕はそんな大人に一杯会ってきた。
それは僕の今にも引き継がれている。
彼は彼の道を、僕は僕の道を。

僕は僕の技術を次の人たちに惜しみなく伝えよう。
出し惜しみせず、依怙贔屓せず、偉ぶらず。

さあ、あの明け方に誓ったサカモトさんとの約束を胸に、
またゆっくり歩きだそう。

僕らの胸には海がある。
寄せては返す営みを永遠に繰り返すその風景を。
いつかはまた僕らは目のあたりにするだろう。


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雅さんへ。その歳での最高のパフォーマンスってことですね。 / あるまじろ ( 2014-10-15 02:19 )
私、2年くらい前から卓球を毎週やってます。日曜日はおじいちゃん達とも打つんですが、彼ら、平均年齢70歳超で60でも若手って言われてます。技術はもちろん、スタミナでも全然負けてます。その年齢なりのスポーツを楽しんでいる方々はかっこいいですよ。って本題からずれたツッコミですが。 / 雅(みやび) ( 2014-10-14 18:03 )

2014-10-05 次の舞台へ

さて、次へ行きましょう。

僕らは自分で芝居を創らず、演ずることもせず、
ただ、自分の親しい者だけを贔屓し、
知ったかぶりの批評家を気取った老人ではない。

・・・というわけで話し合いの結果、
次の芝居は『Snow Chronicle』。
年末まで稽古は続くな。
この芝居は演ずる者が小さくしてしまえば、
どこまでもちゃっちくなってしまうけれど、
大きくすれば、きちんと大きくなる物語。
さて、未熟なる者たちへ、期待を込めて脚本を託そう。

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2014-10-04 秋冷

急に秋めいて来ましたが、
今年もいつの間にか、夏が過ぎていきました。
誰も知らないでしょうが、僕の知るユタカくんには、
心の底から感謝です。
彼は十分に後輩に愛され、
彼自身も難しい選択に悩みながらも努力し、
そして周囲に支えられて素晴らしい演技をした。
かつてナカムラケンイチロウくんも同じように、
最後の最後まで自分の芝居に賭け、
そして負けたけれどその演技は記憶に残るものだった。
こういうことは必ず下の者たちに引き継がれるものだ。

人を排除せず、皆の融和を図り、
そして自分自身も良く努力した。

今後も彼と舞台を共にしたいものだ。

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2014-09-28 台本完成!!

やっとの思いで『青いドレスの女』の台本が完成しました。
前編51ページ、後編48ページ。
合わせて99ページの台本です。

予定上演時間は110分です。
後編の26ページくらいまでは、
二週間前に書き終えていたのですが、
歴史的事実との摺り合わせと、
エンディングに向けての伏線の回収の整理に手間取りました。

それでもやっと完成です。
我ながら時間を掛けて創っただけに、
なかなか良く出来たと思います。

宣伝的に言うのでは無く、ほんとに。
最もこの後は宣伝です。


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劇団ぴゅあ15周年特別記念公演
『青いドレスの女』作・演出 萩原康節
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12月6日(土)・7日(日)
於)彩の国さいたま芸術劇場・映像ホール

12月6日(土)@17:30開場 18:00開演
12月7日(日)A10:30開場 11:00開演
        B14:30開場 15:00開演

入場無料・全席自由

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《あらすじ》

時は昭和25年、終戦間もない東京銀座「MARRY'S BAR」。
なんの力も無い娼婦たちが「伝説の詐欺師」ヤナギの力を借りて、
マフィアの手先の殺し屋たちと対決する。
欺し欺されていくうちに、ふくれあがる金・金・金。
誰が味方で、誰が敵?
緊迫のコンゲーム《欺し合い》の末に、
巨万の富を手にするのは誰か?
昭和20年代のレトロな雰囲気と、
ハードボイルドな台詞の数々。

二転三転四転する物語に、
息つく暇もないジェットコースターストーリー!!

この冬、劇団ぴゅあが15周年を記念してお贈りする、
ノスタルジック・ハートフル・ミステリー。
今回も俺たちは本気だぜ!!ってことで、
乞うご期待!!


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2014-09-27 演ずると言うこと

芝居をやっているということは、
表現の一つの手法を選択していることに他ならない。
絵を描くことや、楽器を奏でることと、
本質的には変わらない。

その他の芸術と表現という点では、
変わらないのだから、
他の形式を選択せず、芝居を選んだのは、
偶然というしかない。

道具を使う芸術という側面もあるが、
「演ずる」という行為は高いレベルで身体性に富む。
象徴的であることも可能であるが、
同時に具体的であることも可能である。

僕は演じて具体的な「生きて感じていること」を再現している。
その行為に劇団員は共鳴する何かを持っているので、
僕と同じ「とある生きている時間」を共有する。

劇団員と作家・演出家との立場は、
こういうことだと感じている。

最初に他の表現とは形式の差こそあれ、
表現としての本質は変わらないと述べたが、
演ずることはシンプルであるが故に、
「一つの芝居を創作し稽古し上演する」
ということは複雑になる。

シンプルな表現は難しく、
一方で説明を重ねることが事態を複雑にするからだ。
音をつけ、光を当て、
衣装を着飾り、道具を用意する。
その説明の結果が芸術を複雑にし、
同時に他の芝居との異質さを際立たせるのだ。

そして上演するという行為には、
観客という存在が不可欠である。
観客は閉じられた空間を一気に解放する。
上演する行為は同時に評価と直結することが避けられない。

なぜ芝居を演じ、芝居を創作し、上演するのか。
それは自己の表現を欲するからであり、
そこにコミュニティを持つ喜びがあるからであり、
同時に評価を欲するからである。

そしてその事実も他の芸術と本質的には変わらず、
理屈的には円環する輪から外れる物ではないのである。

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2014-09-26 高校演劇について

高校時代に演劇という文化に触れることは、
演劇というメニューを選んだだけのことであり、
それはサッカーやバスケといったスポーツであったり、
音楽や美術といった芸術であったりしても同様なことで、
単なる個人の嗜好のベクトルを表すだけのものである。

良く高校演劇と社会人劇団の芝居作りを比較する人がいるが、
芝居を作るという行為に関しては本質的には変わらない。

そこに存在する意欲や情熱、
本質的に表現することへの欲求にも大差は無い。

「社会人劇団では審査員のウケを考えなくて良い。」
そうは言っても観客は意識すべきである。
審査員はもの申す観客の代表だったのだ。
観客を意識しない芝居は、自己本位なものでしかない。

「人の目を引く大きな舞台装置は必要ない。」
確かに大きな舞台装置だけが必要ではない。
そうは言っても芝居は音響・照明・道具・衣装・メイク・・その他。
多くの要素で彩られる総合芸術だ。
高校時代に大きな舞台装置を作ったとしたら、
それはその中の一つの例を実践しただけであって、
教育の一環の中でそういうものがあると体験しただけだ。
高校演劇の中には大きな舞台装置などない、
平舞台で演ずる物も多数ある。
平舞台の方がレベルが高く、大きな装置はレベルが低い、
なんてことは全くナンセンスだ。
必要な芝居もあるし、そうでない芝居もある。
言えることはそれだけだ。

芝居は表現の一つでしかなく、
本質的に高校演劇でも社会人の演劇でも、
その表現の過程と結果は同一である。

わざわざ自分たちの表現を、
「高校演劇と自分たちの芝居は違う」
と声高に述べるのは、
根拠もなく自分たちを正当化するために、
他者を非難しているだけである。

そして根拠もなく他者を非難する行為は、
卑しいとしか言いようがない。

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2014-09-21 夏の終わり

いつまでが夏だったのだろうか。
気がついたら居なくなっていた。

不在を意識した時にはもう不在。
さよならを言う機会も逸してしまった。
そんな感じ。

こんなことが最近多い気がする。
去って行くものが多すぎる。
せめて気持ちの整理だけ追いつけば。


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雅さんへ。そんな〜。あっという間のような一週間でも色々ありました〜。 / あるまじろ ( 2014-09-28 12:41 )
この頃あっという間に1週間が過ぎて行きます〜。トシなのかも。 / 雅(みやび) ( 2014-09-22 18:09 )

2014-08-24 夏休み最後の日曜日

まだ夏休みは終わっていないけれど、
もう後は芝居三昧、芝居漬けの3日間があるだけだ。
遊びは無い。

そして、執筆中の台本も後編を8月中に仕上げなければ。
大道具の製作もパンフ・チラシなどの手配、
小道具・衣装なども決定していかなければならない。

さて忙しいけれど、歩き出さなければならない。
明日も走りっぱなしの1日になるだろう。

まだまだ暑いけれど、
やっぱり今年の夏も、ゆっくりと終わっていく。

夏の終わりはいつもこんな感じだ。


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