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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

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2006-12-20 劇団の忘年会
2006-12-19 厄年?前厄?
2006-11-23 日舞の公演に行く
2006-10-07 再びの沖縄
2006-09-08 五色沼に浮かぶ光
2006-09-07 那珂湊花火大会にて
2006-09-05 放課後ガあル
2006-09-04 さよならバンクーバー
2006-09-03 日系人の野球チームが居た
2006-09-02 さよならの儀式。


2006-12-20 劇団の忘年会

今年の最後の稽古が終わった後、
劇団員のみんなと南浦和で飲みました。
楽しかったです。
お湯くんがあわてて見つけてくれて飛び込んだお好み焼き屋さんでした。
目の前の鉄板でなんとなくカボチャとかシメジのバター焼きとか焼いたりして。
ワインとかカクテルを飲みました。
もんじゃ焼きとかお好み焼きや焼きそばも焼きました。
他のお客さんには少し騒がしいお客でした。(すみませんでした。)

いったいいつまでこうしていられるのだろう。
いつまでこうしているつもりなのか、と問われてむしろ答えられなかった。
芝居を続ける中で面倒なことだって増えてきてる。
芝居自体の奥深さは年々深まりをみせてどこまで手を伸ばしても届く予感がしてこない。
深い深いところに手を伸ばしていくような芝居もあれば、
もっと浅いところだけれど、もがきあがいているような芝居もある。
そのどちらも自分だと思いたい。

酔いが回らない日だった。
二軒目の日本酒がまだ美味しく喉を通りすぎる。

やがていつか僕がいるこの場所が消えていく日が来ても。
僕はまた別の場所を求める人でいたい。


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2006-12-19 厄年?前厄?

今年は意外といろいろ怪我しました。

夏前に股関節を痛めた時にはびっくりしました。
少し前から違和感があったもののある朝起きたら急に右足が動かなかったのです。
しかし整形外科に行ったらすぐ処置して頂いてすぐに快方に向かいました。
お医者様って素晴らしい、そう思った物です。

少し経った梅雨の気配が色濃くなった頃、
ガラスで右の小指をざっくり切りました。
死ぬほど痛かったのですが一晩我慢してお医者に行きました。
すると「すぐに処置しなきゃだめだよ・・・あ、でもなんとか間に合うかな?」
とお医者様は言ってくれました。
そうしてその外科医さんが処置して頂きすぐに痛みだけは治まりました。
でもその総合病院は人を待たせることにかけて天下一品で、
たかが消毒するだけで仕事多忙な僕を半日拘束するようなとこでした。
やはり、怪我などしてはいけないのだな・・・と痛感いたしました。

二〜三日前から左目に違和感を覚えました。
ずっと「大したこと無いだろう」とたかをくくっていたのですが、
年も押し詰まってきたのでなんとなく焦って、
また別の総合病院の眼科に行きました。
そこのお医者さんは若いイケメンでしたが高性能な機器を使って、
あっという間に僕の目に合った目薬二種類と塗り薬二種類を決めてくださいました。
そしてその薬を使った結果、あっという間に目の腫れは引いていったのです。
僕は一日に四回も目薬を差す生活など今までしたことがなかったのに、
実にこまめに几帳面に日に4度、目薬を差し続けているのです。

要は年なのでしょうけれど、
今年は様々なアクシデントとともに医学の進歩を実感し、
また様々な現代医学の問題点にも直面いたしたのでした。

健康第一。
ええそりゃあその通りです。


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2006-11-23 日舞の公演に行く

僕らの芸能の大先輩であり、心の盟友であり、同じ劇団の役者である
日舞のお師匠さんである花柳舞鶴先生の国立劇場での公演にご招待して頂く。
うちの劇団のほとんども一緒だ。
日舞というものが単に着物を着た踊りだと思ったら大間違いだ。
その動き、その物語るものは我が国の芸というものの
間違いなく誇れる一つとして存在している。
僕ら門外漢には肌でそう感じることしかできなかった。

動きそのものに優美さを表すもの。
踊りの中にストーリーを織り込んでいるもの。
そこはかない男女の情炎を二人で通わすもの。

ディズニーランドもハリウッドも真似できないものがそこにある。
心から勉強になりました。

その後、浅草の西風の店に劇団員と舞鶴先生と旦那さんのミキジさんとともに行き、
珍しくみんなで飲む。
西風くんも久しぶりに会ったら元気そうだし、
みんなたらふく食べて、
幸せな一日。

写真はカナダのUBCの中にある新渡戸稲造記念館の日本庭園。


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2006-10-07 再びの沖縄

今年の3月に一度下準備で出掛けた沖縄・那覇に再び飛ぶ。
今回は3泊4日で以前打ち合わせした全ての人と再会し仕事をさせてもらった。
自分が中心になって企画したプロジェクトだったので
自分のスタッフにも気持ち良く仕事をしてもらいたかった。
旅行会者のS氏とことあるごとに入念に相談した。
毎日ほとんど熟睡できなかったが仕事が終わった後の達成感は良かった。

今回は仕事だったのだけど良く夜は飲んだ。
瑞泉、残波などさまざまな銘柄の泡盛を頂いた。
その場所でその地の酒を飲むのはやはりいいですね。

南の海がまた夏を連れてきてくれた。
帰りの機内で見えた沖縄の海に一礼すると仕事の終わりが近づいた気になれた。


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2006-09-08 五色沼に浮かぶ光

夏の終わり、
kaと福島県の五色沼に行った。

風はもう秋色、
沼にボートでこぎ出すと水草が紅葉していた。
日本のここにいることが静かな実感として感じられた。

僕たち二人でここに居る。
季節が過ぎて行く中で変わらず。
さっきまで少し曇りがちだった空が山の風に雲が切れて
いっせいに水面を輝かせ始める。

鳥の声が一瞬やみ、やや肌寒い風の音しか聞こえない。
二人とも光に包まれたその同じ方向に首を傾けていた。


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2006-09-07 那珂湊花火大会にて

今年の夏の終わり、日本に帰ってからkaと那珂湊の花火大会を見に行った。
今年の夏、カナダ出張と帰国後すぐの公演とkaと同じ時間を過ごせなかったので、
せめてもの思い出にと二人で出掛けた。
ところがその直前に激しいスコール。
市場でお寿司は食べたけれど「これじゃダメだね」と帰ることになった。
すると途中で後方から「どーん」という音。
どうやら雨が止んで花火大会が始まったらしい。

良かった良かった。
花火を見ながらかき氷とか食べてkaもご満悦。


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2006-09-05 放課後ガあル

カナダから帰って二週間ほどで劇団の公演があったので、
それはそれは忙しかった。
カナダでは台本を読む余裕が無かったので
残り二週間は追い込みのつもりで芝居に集中した。

新潟を舞台にした女の子の十年間の友情物語。
両親の離婚で翻弄される主人公は新潟にやって来て活発なもう一人の「自分」に出会う。
そして卒業の日が近づき彼女との別れの日が訪れる。

新潟は思い出の地だ。
大学時代に合気道部で新潟大学とうちの大学の同期同士は仲が良かったのだ。
新潟大学のあいつらが連れてってくれた裏町の食堂みたいなとこで
おごってくれたおばちゃんの料理で飲んだのは忘れられない。
あいつらが松本に来た時には温泉に連れて行った。
今ではみんな何をしているのだろう。

公演の方はお陰様で大成功。
お客さんの入りも良くて嬉しかった。
僕も高校生役で我ながら無理があったのですが
観た方に「カッコイイ」と言われましたので。


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2006-09-04 さよならバンクーバー

2007年の夏、僕はカナダで数週間を過ごした。

仕事はけして全てが順調ではなく、
帰国してからの多忙さは信じられないほどだった。
それでも僕はこのカナダ、バンクーバーでの時間を一生忘れないだろう。
メルビン、クリスティン、エリーン、スー、ブランドン。
ホストファミリーの人たちは皆、僕を家族のように接してくれた。
人と人は出会う。
それが僕の人生だ。

日本を遠く離れたあの土地で見ていた風景が、今はもう霞んでいる。

ブラックベリーの群生する野原に飛び跳ねる野ウサギ。
遠く雨雲を運んでくるフレイザーリバーの川風。
夏の夕風の中で男たちが飲むカナダのビール。
やがて暮れていく景色を眺めて終わる一日。
そういう日常が当たり前のように過ぎていた。

カナダでの最後の夜にあったディナークルーズ。
青い夕闇の中、灯りが点り始めるカナダプレイス。
近く遠く潮騒の音。
ライオンズゲートブリッジの真下を船が通り過ぎるとき、
願いを込めてコインを海に投げる。

人々が思い思いに投げるコインがライトに一瞬煌めいて海中に消える。
僕はその瞬間、願うことはやめて感謝した。
I will give thanks to this fertile CANADA , gave me many things.

中空を二分する橋の輪郭が取り戻せない時間の刹那を切り取っていた。


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2006-09-03 日系人の野球チームが居た

日本に帰る前日の土曜日、
ご近所、向かいの家に住む日系三世のエイミおばさんが
「ランチを一緒に行きましょ」と言ってくれた。

エイミはバンクーバーにやってきた最初の頃、
家族にケーキを差し入れに来てくれたのだ。
うちの家族とは以前からつきあいの深いご近所さんらしい。
その後、愛犬のケンジと散歩してるところに挨拶したり、
エイミが僕のお弁当におにぎりとシャケ(サーモンじゃなくあくまでシャケ)を
パックにして持ってきてくれたり、
僕がエイミのうちのヒマラヤ杉を伐採してあげたり。
これでも短い滞在の間にいろいろあったのだ。

その日はエイミの友人のキャンディも連れてのドライブとなった。
そしてエイミがオンボロの車をビュンビュン飛ばして辿り着いたのは、
日系会館という場所だった。
カナダにおける日系人の足跡や生活の援助、移住のサポートなどをしている。
そこに日本の野球チームがカナダで活躍したことが記念展示されていた。

スティブストンの鮭の製缶工場を見た時も、
そこで働いた日本人の移住者たちの多くが親指を機械で落としちゃってたり、
冷たい海の近くで凍えながら作業したりした歴史の資料を拝観した。

故郷の日本を離れて後戻りできない気持ちで遠く離れた異国の土となった人々。
望むと望まぬとに関わらず。

日系会館でもスティブストンの歴史資料館でも、
そのことを思うと日本人として胸が苦しくなる。
そう僕はこのカナダで、
だからこそ日本人としての自分と向き合わざるを得なかった。

かつて1914年、バンクーバーを本拠地として野球を始めた
日本人だけの野球チーム「朝日」。
カナディアンリーグで二度の優勝を飾る黄金時代を作り、
1941年、戦争中の日系人排斥の中でチームの歴史を閉じる。

エイミとキャンディとで食べたカナディアンサーモンのランチは、
日系会館のレストランらしく日本語で注文できる。
山盛りのランチは本当に美味しかった。

その後、少しドライブして到着した山の上の公園。
「あんた、少しそこら辺歩いてきたらええやん」
エイミの優しい言葉と日系会館での感慨、間もなくカナダを発つ気持ちも手伝って
僕は誰もいない山の上の公園の中を一人散策した。
そのうち僕は突然、ひらけた草原の斜面のような場所に出る。

小さな黄色い花が無数に咲き乱れる日だまりの斜面。
吸い込まれるような青空と光り輝く夏の日差し。
泣きたくなるような午後だった。


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2006-09-02 さよならの儀式。

カナダに滞在していたのは実際には3週間。
三日後にバンクーバーを発つ日、
いつものようにメルとデイビッドとかとでベランダでビールを飲んでいた。

僕が明後日、日本に帰ることを知ると
デイビッドは、「さみしいよ、また来年夏来いよ」と泣きそうな顔で握手を求めてきた。
メルは、「またカレーを作ってくれ。」と言った。
そしてビールを買いに連れてってくれて僕にハーレーのキャップを買ってくれた。
「つまんないもんだけど。」
メルは本当に格好いい父親だった。そう僕にとっても。

ブランドンは、「帰んないほうがいいよ。」と泣いた。
でも僕が See You Next Summer とささやくとにっこり笑って、
「来年また会おうね。」と繰り返した。

スーとエリーンも僕に握手して「また来てね」と言った。
一人一人とさよならの儀式をして行くのは
つらいけど大切なこと。

近所に住む日系三世のおばあちゃんエイミに明後日帰国することを告げると、
「じゃあ明日、ランチをご馳走させて。
 あなたを素敵なところに連れて行ってあげるわ。」
と言ってくれた。

その日の夕方はメル、クリスティン、スー、エリーン、ブランドン、僕、
家族全員でドライブに出掛けた。

信じられないほど美しい夕焼けが僕のカナダのアルバムに残っている。
それはこの夕方、家族全員で過ごしたその時に見たものである。


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