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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2011-08-12 will permit you
2011-08-11 夏草茂る
2011-08-10 とある夏の日の被災地レポB
2011-08-09 とある夏の日の被災地レポA
2011-08-08 とある夏の日の被災地レポ
2011-08-07 ジャッジメント
2011-08-06 今日の稽古
2011-08-05 虹を越えて
2011-08-04 夏雲が過ぎていく
2011-08-03 夏の土手にて


2011-08-12 will permit you

ずっと許せなかったような事でも時が来たら許そう。
他人のことも自分のことも。
よく分からないで口にしてしまったことも。
まあ分かることも分からないこともある。
分からない人には、まあ、そのままでもいいか。
その一つ一つをもう一度0にリセットしても好いことにしよう。
アッサラームアライクム[あなたの心に平安を]。
もちろん僕自身にも。

かつてはこういう気持ちも次へのステップとしてきたけれど、
そんなことはもう必要ないくらいの歳になったしね。
もういいさ、それ以上の先へ歩こう。

週末なので外食へ。
一週間のご褒美さ。

その後に劇団員が二人来てセリフの練習2時間。
まあ、こつこつ行きましょう。
明日も稽古はあるしね。

芝居には嘘を付かない、そういうことで。


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2011-08-11 夏草茂る

被災地の復興はまだまだだ。

瓦礫の山には次々とダンプカーが満載の瓦礫を積んでやってくる。
ダンプカーのような業者だけではない。
軽トラを運転した老夫婦とか自分の家の瓦礫だろうか。
同じように瓦礫を満載して瓦礫置き場に向かっていく。
ひっきりなしにそんな車が行き交っている。

僕は今回は何もしなかった。
ただ見てきただけだ。
失われたものを残骸の上に見てきただけだ。
それを取り戻す努力は、けして個人に帰するものではない。
一人だけでは立ち直れない。
だからこれから僕は手を差し延べたい。
心の中で手を差し延べ続けよう。

ビニールハウスがズタズタに引き裂かれた場所で、
すでに夏草が生い茂っている。
自然はもう次の段階に進んでいるのだ。
自然が壊した場所をまた自然が育む。
人はその中で少し遠慮して自分の場所を確保しているに過ぎない。
流されても壊されてもそこに生活の営みを営々と続けてきた、
僕らの先祖のしてきたことを、
僕らもやるだけだ。


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2011-08-10 とある夏の日の被災地レポB

「かつては」コンビニだったらしき建物。
建物の一階部分はどこも酷かった。


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2011-08-09 とある夏の日の被災地レポA

電信柱が曲がってる。
近くの信号は消えていた。


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2011-08-08 とある夏の日の被災地レポ

もしかしたら「野次馬根性」と言われるかも知れない。

しかしこの百年に一度の災害の現地の様子を知らず、
テレビの画面だけで観て他人事のように、
記憶の片隅に追いやって、
時間と共に風化させていくことはできないと感じていた。

あの日、僕は必死に家族の安否だけを気にし、
あちこち連絡取ることにあたふたし、
しばらく現実を受け止める事が出来ないまま、
画面の向こうの現地を見つめていた。

今日は高校時代の友人のヒデちゃんとその娘のマイコとで、
仙台の閖上地区を訪れて現地の状況を自分の目で確認した。
ずっとこの地を訪れなくては、
口先だけで「頑張ろう」とか言いづらくて仕方がなかった。

仙台を過ぎて海岸が近づくと瓦礫の山が幾つか見えた。
もう後は言葉にならない。

一階が今も滅茶苦茶のまま放置されている家。
なぎ倒されたまま建物に突き刺さっている松の大木。
ボコボコにされてひっくり返ったまま朽ちていた車。
斜めになったままの電信柱。
今も電気の灯が入らない信号。
骨組みからズタズタに引き裂かれたビニールハウス。
そして道路の端に当たり前のように転がっている漁船。

こんな災厄をもたらした自然を憎いと感じた。
そう感じても意味はないのに、
単純に「人間の力はちっぽけだ」なんて肯定できない。

きらきら光る夏の太陽の下で、
被災地には瓦礫を積んだトラックが行き交う。
僕は改めて呆然とした、それだけである。


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2011-08-07 ジャッジメント

芝居の審査って難しい。

でも少なくとも僕は昔からの人間関係などでジャッジしたりしていないし、
何か一つの個人的なこだわりで、
(時には衣装だったり殺陣だったり大道具だったり)
一面的な判断で審査をしてる訳ではないし、
その時々の客の入りによって変化する客席の反応で芝居の善し悪しも決めない。

ちゃんと今まで芝居をしてきた中で培ってきた自分自身の、
耳で会話の成立を聴き分け、音響の効果を聴き、
目で立ち位置や照明の演出的効果の高さをはかり、
頭で総合的な演劇的完成度を分析する。

それができないなら審査員など引き受けるべきでない。
感性の違いで審査が分かれるようなことも時にはあるだろうが、
僕は大抵の場合は迷わない。
いや、大抵の審査員は本当は迷わないのだ。

それでも、それは審査を強いられる場合であって、
素晴らしい作品には幾つもの評価すべきファクターがあって当然だ。
だから審査では落としたものの素晴らしい作品というのは確実にある。

そもそも僕が作る作品、好きな作品は変に審査員ウケするような作品ではない。
作品は審査員のウケを狙うのではなく、
観客のウケを狙うモノだからである。


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大丈夫です。きちんとプライドをかけてそう言い切ります。 / あるまじろ ( 2011-08-08 22:04 )

2011-08-06 今日の稽古

午前中から稽古、一通り最後までつける。
一つ一つの演技はまだまだ。
スタッフはさらにまだまだ。
もう少し自分達で出来ないとなー。
でも努力の痕跡は見えるから期待は出来る。
芝居は総合芸術だから色々できないといけないんだね。
若いうちに自分の出来ることに色々挑戦するといいよ。
まだ何も出来ないってことは、
これからすぐ出来ることも多いんだから。

午後は自分の芝居。
決定稿が出たので一通り読み合わせ。
頭から読んで見て、魂がぶつかる場面が幾つかあるから、
そういう部分が作品の見所になるといいと思う。
役者が感情的にノって読んでいるとこは、
端から見てても楽しかった。
自分なりに努力もしよう。
セリフは久しぶりに、「なかなか」な量だから。

夏の間だけ紅い花を咲かせる百日紅。
台風が次々と来て、
いよいよ夏も本番か。


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2011-08-05 虹を越えて

車で過ごす一時間と自転車で過ごす一時間は全く違う。

車での一時間は個室でのくつろぎだ。
ヒーリングタイムという感じ。
ラジオや音楽を聴きながらたった一人の時間を過ごす。
こういう時間が一日に必要な時もある。

自転車の一時間は旅だ。
自転車で改めて感じることがある。
夕立を浴びてその後の雨上がりの風の爽快さとか、
雲の動きとか揺れる夏の花とか。
そういうものの出会いがあるからやっぱり旅だ。

いまさら自転車が楽しいのには訳がある。

今、ジェッターというスポーツタイプのアシスト自転車に乗っているが、
異論反論あると思われるが、僕は気に入っている。
ジェッターに乗るとママチャリがものすごく膝に負担を掛けるのが分かる。
アシスト自転車の良いところは坂も平坦なところも全く同じなところだ。
僕が走るさいたま市のはずれから和光までの24qは、
まさに山あり谷ありのアップダウンで、
アシストがあればなんのストレスもなく走ることが出来る。
もちろん向かい風でもアシストする。
この自転車だから今、自転車が楽しめていると言える。

橋の上って虹が出るポイントですね。
この夏になってもう三回見ました。
こういうことに気づくのも自転車乗ってるからだ。
車でも気づくかもしれないけど。

自転車で虹に向かっていく時の壮大な感じはなかなか面白いよ。


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2011-08-04 夏雲が過ぎていく

黙っていられないタチで、
うちの業種の集団研修でも自然と司会、
いつのまに全体の前での発表者になって喋ってる。
人前で喋ることには全く緊張しないで、
尺とか気にしてる。

素人じゃないぜ、ふふふ。
研修は来週半ばまで。

毎日炎天下チャリで約44q走ってるぜ、
2s痩せた。よし。

帰りに夕立にあう。
かまわずぬれてペダル漕ぎ続ける。
雲の切れ間まで来ると風。
15分くらい走ってると風で身体が乾く。
雨上がりがあんなに気分良かったなんて、
しばらく忘れてたな。

虹も見たし。

夕立の後にひぐらし鳴いてた。
夏雲が過ぎていく。


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2011-08-03 夏の土手にて

自分の仕事と帰宅の間に自分だけの時間を持つといい。
ふと手にした雑誌にそんなことが書いてあった。

車でも自転車でも会社がひけてから帰宅するまでの時間は、
そんな時間だ。

ことに自転車で帰る時、
誰も居ない荒川の土手のサイクリングコースを走ってると、
ほんとに気持ちがいい。

空が広くて静かだ。
遠くまで流れていく川の広がりも好い。
暮れていく空の色が水面に反映されていくのは、
すごい素敵だ。

昔、バンクーバー郊外の川の河口付近まで走った時と、
同じ気持ちになる。
たった一人で淋しいような、
どこまでも行けるような。


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