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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2011-06-23 空の塔
2011-06-22 星守る・・。
2011-06-21 雲間から届くように
2011-06-20 失ったと思ったものはそこにあった
2011-06-06 お休みした日
2011-06-05 ようやく
2011-06-03 ここのとこ
2011-05-26 役者の自意識について
2011-05-21 芝居を見て学んだこと
2011-05-15 また一つ芝居の終わり


2011-06-23 空の塔

しかし地味なタワーですね。

いよいよ地デジ化が間もなくな今日この頃、
皆様、いかがお過ごしでしょうか。

うちはまだまだブラウン管で頑張ろうとしていたのですが、
なんと今、地デジテレビが史上最大に安くなってるらしいですね。
昨年のエコポイント終了直前のエコポイントを差し引いた値段よりも、
今は安くなっているとか。
慌てて駆け込み需要した人とかは可哀想な感じ。
出せれば安く出せるんだ。
企業はやっぱ上手いですね。

・・・と言うわけで某ジャパ○ットで地デジテレビを購入しました。

プラズマです。
なんですか、プラズマって?
危険な匂いがします。
ビーム的な?

明日からはいよいよ小屋入りです。
劇団欅の公演『楽屋』というお芝居の音響です。
『楽屋』はとても有名なお芝居です。
楽しみです。
明日は仕込みですので現場の空気を楽しみましょう。

では。


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ほしのさんへ。地デジになってどうなるか、まだ分かりません。また分からないことがあったらお聞きいたします。 / あるまじろ ( 2011-06-24 22:46 )
地デジ、わからないことは聞いてください、本職ですから一応(笑) / ほしの ( 2011-06-24 07:48 )

2011-06-22 星守る・・。

「守る」とは「目守る」、つまりじっと見つめることだ。

星を見つめ続ける犬のことを、
手の届かぬものを求めるものだと馬鹿にしたのは、
第三者である人間だろう。
星を見つめる犬は人間は見ていない。

『星守る犬』という映画の試写会に行く機会があったが、
「一番泣ける」とか「涙なしでは」とかの冠がついた作品のご多分に漏れず、
感動とはかけ離れた作品だった。

ウィル・スミスの映画とも共通点があると思うが、
「切ないこと」「悲しいこと」と「悲惨なこと」は違う。
人は「心の琴線に何かが触れて」泣くものだと思うのだが、
「ひどいこと」「悲惨なこと」を散々見せて、
「悲しませ」「泣かせよう」とするのは下衆のすることだ。

辛いことがすでに現実に溢れているのに、
その心の傷を映画でもえぐられて、何が感動の作品か。
観客の心の痛みを踏みにじって「泣かせる」という手法を、
「一番泣ける」とか「涙なしでは」とは何ごとか。

感動とはかけ離れた淋しい作品で、
金を払って見るものではない。


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2011-06-21 雲間から届くように

一瞬の光芒が梅雨の晴れ間を切り裂いて、
遠くから足もとまで届いてくる。

人の芝居の公演を見たり、
人がやっている芝居の稽古を覗いたりしていると
みんな努力しているなあ、と思う。
自分もしっかりせねば、と思う。

夏に向けて自分として出来ることをやろう。
何かをする時にまっすぐ向かって行けることが大切。
余計なことに気を取られずにまっすぐに。

そうして同じようなまっすぐな人たちと、
同じ時間を共有して一緒に大きなものが出来たら、
最高だと思う。

一瞬の光芒が梅雨の晴れ間を切り裂いて、
遠くから足もとまで届いてくる。

僕らはもっと遠くまで届くような真っ直ぐさで。


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2011-06-20 失ったと思ったものはそこにあった

色々ご心配をお掛けした怪我は完治しました。
しかしその後で週の途中に腰を痛めて、
なんかプチ「ぎっくり腰」的な感じでした。
でもそれも今はほぼ治りました。
まあ無理は禁物ってことですね。

振り向けば望んでやってきた道。
こうして眺める景色もしかるべき結果。
だから自分自身に言い聞かせよう。
後悔はしないように。

うっすらと夕暮れの中に浮かび上がる風景に、
確かな明日への予感にこぶしを握る。
勇気づけてくれる、
その穏やかな空気。

失ったと思ったものはそこにあった。
それが見えなかったのは自分が見てなかったからだ。
それがまた背中を押してくれる、
そういうことのありがたさ。


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2011-06-06 お休みした日

今日になって病院に行き、
「もうだいぶ傷は治りました」と言われました。
でも頭が痛かったのでお休みをもらいました。

何か仕事でもしようかと思いましたが、
実際に頭も痛いし、お休みをもらったのに仕事、
というのもなんなので寝ていました。

気が付くと日が傾いて部屋に西日が差していました。
頭痛は消えていて、首も痛くありません。
遠くで子供達が遊んでいるような声も聞こえました。

さて、買い物に行ってカレーでも作ろう。
そんな気になったので多分もう大丈夫です。

明日からはまた忙しい日々。
それもまた良いことです。


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くすのき燕さんへ。おかげさまでだいぶ治りました。いやあ、おかげさまで。 / あるまじろ ( 2011-06-15 02:13 )
お大事に。 / くすのき燕 ( 2011-06-10 21:58 )

2011-06-05 ようやく

六月に入りました。
色々な事が過ぎて行きますが日々早いです。

まず一昨日自転車でコケました。
まあ自業自得でもあり他人を巻き込まないで、
一人でコケただけですからなんでもないです。
ただ久しぶりにちょっとした怪我をしたので、
色々な人に笑われたり心配されたりしました。
それも良いことです。
たまに怪我をすると自分の身体が、
一個しかない入れ物であることが良く実感できます。
自転車から放り出された時のあの「闇」な感じ。
死が身近にあることは嫌なことではありません。
もちろん何かのバチとかでもない。
そういう運命論者ではありません。
これはきっと台本を書くにはプラスに働くことだと思います。
そういう象徴的な出来事でした。

クリエイティブな現場では常に人を選びます。
僕は僕のチームがそこにちきんと存在していることを実感しています。
そんな人たちの手を借りながら「もの」は完成していくのだと思います。
そしてそれは一度手を染めたら止められない程の魅力を持っています。

先週末に、以前から思っていることをある人から、
「ぜひ実行しなさい」と言われました。
そうしたいと改めて思いました。

あの時見た雲の向こうに消えていく空の果てが、
いつまでも僕とあの人と親しい人たちの上に、
どこまでも続いていますように。
それだけが今の願いと言えば願いなのです。


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2011-06-03 ここのとこ

意外と劇場に足を運んでいます。

先週末、土曜パイプオルガンの伴奏による合唱。
演目は折り柄、ミサ曲とレクイエム。
合唱は決まった曲を上手に歌うというものであると思ったが、
この日のコンサートは魂が伝わってきて胸が揺さぶられた。
やっぱり表現は魂ですな。

そして嵐の日曜日の夜は稽古終了後、歌劇『魔笛』鑑賞。
これまた意外とデカいホール。
会話はドイツ語で字幕あり。
本格的ではあるが演出は現代アレンジの魔笛。
有名な曲はしっかり聴かせてくれて見所満載だった。
こちらは芝居に近いので演技面でも興味深かった。
声がいいとセリフも良く聞こえる。
やはり演技に声質は大切ですな。


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雅さんへ。僕の声はあまり良くありません。でも意識して良い声が出せたらなあ、といつも思います。 / あるまじろ ( 2011-06-05 23:30 )
私は、声質の良い男の人にはぞくぞくしますね。「のだめ」で千秋先輩役をやっていた玉木宏とか。見た目ももちろんかっこよかったですが、何より声がはまり役でした〜。 / 雅(みやび) ( 2011-06-04 22:27 )

2011-05-26 役者の自意識について

鈴木忠志はこういっています。

「演劇には私などというものはない。
永遠に私を求める行為それじたいが演劇行為だ」
「精神に生活史があり、無意識部分として
人間の行動を背後から決定しているように、
肉体にも長い生活習慣の中で蓄積された無意識的生活史がある。
その肉体は社会の中で畸形化され、疎外されている。
俳優というものは、肉体と精神の疎外を
最も鋭く意識化するものでなければならない」
「自分の身体の中に他者が棲んでいない役者は役者ではない」

シェークスピアの「世界は舞台、人は皆役者」という考えは、
突き詰めると「私」「自己」というものはどこにもない。
人は皆、仮面を貼り付けて役を演じて一生を終わるんだ。
といっている訳です。

現代の日本では、「自分らしさを大切に」、とか
「自分らしく生きる」ということが声高に言われている。
その結果、どういうことが起きてるかというと、
私は私、人は人。
気に入った人とは付き合うけど、気に入らない人には近づかない。
自分が傷つきたくないから。そんな生き方が尊重される。
すると、学校も仕事も自分を認めてくれない、だから、引きこもる。
仕事場が自分に合わない、というのでニートの増加。
逆に、自分が気に入らない相手を抹殺する。
一見普通の人間の凶悪な犯罪の増加。
人間関係でにっちもさっちもいかなくなって胃に穴が開く人…関係の固定化。
仮面の挿げ替えが出来ない
定年退職後落ち込む人。会社員の仮面が剥がれない。
これらは、全部作られた自分を、
本当の自分だと限定している生き方から来ているのではないか?と思うのです。


二十世紀の演劇と俳優術に多大なる影響を与えたスタニスラフスキーだが、
彼が その晩年に提唱したのは「身体的行動の方法」です。
「身体的行動の方法」における原則は 、
演じる俳優としての自意識を捨て、「行動に集中すること」であった。

スタニスラフスキーの演技論は
俳優と役割の間を完全に同一化することに中心が置かれていて、
演じている際には決して自分自身の感情を失わないように注意を求めている。
実際に自分が感じている時こそが
役割としてリアルに舞台の上で生きていることになるからだ。
しかし、大勢の観客が目の前にいるために、
俳優というものは、欲するか否かに関わらず、
感情を表すことになっていて、
不必要な努力や動作をして
見せなければならないような気がするものであると述べ、
演技中の俳優の本質的な欲求の警戒にも注意を呼びかけている。
言い換えると、俳優は、演技をしている時に、
演じている自分を客観的に観察して
不必要な努力や動作をして見せようとする
本質的な欲求を振り捨てるべきであるという。
しかし、その間中、俳優が自身を観察している間でさえも、
俳優はなんでもなく役を演じ続けることができることが
大切であるとスタニスラフスキーは強調する。

この点は世阿弥の「離見の見」と重なる主張であって、
現代の能楽師である観世寿夫も彼の論集の中で同意するところが読め、
見られることが宿命である俳優は、
いつもみられているという意識から離れられないものだが、
そのみられるという意識と必然的に出てくる「見せる」という意識、
それを如何になくすかが俳優の大きな宿願であると述べた。
手近な例として謡を謡っている時の危うい点を経験としてあげている。


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雅さんへ。母には負けます、母には。 / あるまじろ ( 2011-05-30 21:42 )
うふふ♪今日の私は「やさしいママ」の役を演じていましたわ。娘のお友達が6人来てドタバタ騒いでいても、お菓子を散らかしても、優し〜く注意したりして。女性って、いつも3つくらい顔を使い分けているような気がします。学生時代の友人とおしゃべりしている時、ハハとしての役割を果たしている時、パートナーと居る時。多分、話し方も表情も別人みたいに変わっているけど、全部本当の私の姿なんですよね。 / 雅(みやび) ( 2011-05-27 21:42 )

2011-05-21 芝居を見て学んだこと

劇団座☆名張乙女の『おばけリンゴ』を見に行く。
日暮里D倉庫は、分かりにくい場所にあるけど、
舞台はタッパもあって、なかなか良さげな小屋。
名張の森田さんとしもがいさんに誘われて劇場に足を運ぶが、
客入りもなかなかで、見応えのある舞台だった。
先日、舞台を共にしたチャーリーさんが舞台監督をなさっていて、
お顔を見てなんとなく安心できた。

さてこの舞台は役者がまず達者だった。
特に主役のワルター、そしてレインボウにも出演されていたホルヘさん。
ワルターは声と最後の決めの表情の演技。
ホルヘさんは表情と細かいつなぎの演技とテンション。
しもがいさんも独特のキャラクターを違和感なく演じきっていて、
いつもの通りけれんみのない居住まい。
もちろん森田さんもきちんと舞台をまとめていたし、
そして芝居自体に彼の演出の鮮やかさが現れていた。
あれだけの個性派の役者集団をまとめていくのは大変だったろう。
それとも一人一人が手慣れてる人ばかりだから、
気心が知れててほっといてもしっかり演る感じだったのだろうか。
かつてうちの役者がお邪魔していた時の名張さんの稽古場は、
また独特の雰囲気で、
自分たちのペースでしっかり稽古を進めていた印象があった。
上演後、レインボウ城のアーサーさん、チャーリーさんらと飲んだ。
後からイケガミさんやピピンさん、舞台を終えたホルヘさんらが合流して、
冗談も交えながら芝居の話に盛り上がった。
そこでアーサーさんと意見があったのは、
「役者は考えちゃ駄目だ」ってこと。
僕自身もそう思うが演出の言ってる通りにやることは無理だ。
演出家の言ってることを言葉で理解しても意味がないのだ。
それより今の自分の演技を捨てて別の演技にとりあえずトライすること。
それを繰り返すことで演出の言ったものに近づくことだ、
頭でいくら考えてもそれはできない。
そして考えてると相手役も待たすし稽古場全体が止まる。
それよりとにかく演じ続けることで、
稽古場全体のテンションも上がり、
稽古の楽しみを味わえた気になったのだ。
「理屈で演技」するのではなく「身体的に表現」するとはこのことだ。
「役者の自意識は必要ない」って若林さんも言ってたけど、
まあ、そこで抵抗してる役者の姿ってのは確かに見苦しいばかりだ。
高校生のワークショップでも、僕が言っていることに、
とりあえず「分かった」って言って、(まあ違う場合が多いけど、)
それでも説明も聞かず次へ次へと稽古に入ってくのは勇気があると思う。
そういう意味では、身体的に演じる覚悟のある役者に対しては、
演出の説明もまた、あまり必要ないのかもしれない。
いかに説明を受けず、演じ続けるか。
そこに役者のプライドってものがあるのかもしれない。

ちなみに僕自身は駄目だしを受けるのは大好き。
駄目だしを受けて、頭で理解しているのは半分くらいでも、
とにかくトライして「いいね」と言われるまで演じ続ける。
確かに自分でも失敗したって思えることも自覚できて、
やがてノーミスで演じきった時、
たいてい演出も「今のはいいね」と言ってくれる。
それが一時間後でも二時間後でもどっちでもいいことだ。
さて、そんな緊張感のある稽古をどんだけ出来るか、
うちの劇団のスタートもそろそろ。
楽しみなことだ。


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2011-05-15 また一つ芝居の終わり

劇団レインボウ城とは、かつて市民演劇祭を共におこなった仲間である。
僕が以前、中学校演劇の審査員に招かれたときに、
とある人にレインボウ城の主宰アーサーさんを紹介された。
それで自分の劇団の新たな活動場所を求めて、
アーサーさんと一緒に演劇祭を作ることになった。

レインボウ城は僕らよりも経験豊かな劇団だったので、
色々な刺激や影響を受けたし、演劇祭の苦労も共にしたので、
劇団同士とても仲良くもなった。

それからずいぶん経って僕らの劇団は演劇祭から去ることになったが、
仲違いしたわけではないので、今でもアーサーさんとは仲良しだ。
だから意外なことだが、僕がアーサーさんと共演するのは初めてだ。
アーサーさんから声を掛けて頂いた時は、
ご迷惑をお掛けしないように時間的な余裕があるかよく考えたが、
所詮「一緒にやってみるか」という好奇心の方が強かった。

結果、全てではないが比較的、稽古には多く出席できて良かった。
アーサーさんの演出はとても丁寧で、
相手にプレッシャーを掛けず何度も何度も繰り返しやる。
それで動作・表情・感情と一つ一つかなり深いところまで手を入れていく。
これは稽古自体とても楽しめた。
そして相手役の方もとても上手なので余計に楽しかった。

全体として出番は短く、こだわりを持って演じたとしても、
観客の印象に残るかどうかは怪しいものだったが、
役者としては良く演出と共に作り込めた気がする。
そういう稽古は楽しいものだ。
そして本番ではまた多くの出会いがあり、
僕のレインボウ城としての初舞台は幕が下りた。

いつも芝居の終わりに思うことだが、
始めた頃とは季節が変わる。

今回も始めたのは二月、
まだ肌寒くこたつが出ている稽古場で本読みをした。
それがいつの間にか桜の季節が過ぎ、初夏の若葉だ。

梅雨のあとさきには自分の劇団の芝居の稽古も始まるだろう。
まったくきりがないものだ。


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