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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2011-03-13 安否報告
2011-02-14 降りゆく
2011-02-09 しっかり
2011-02-08 群夕活気よ
2011-02-07 暗中も策
2011-02-06 場・自答・風
2011-02-05 山あり他にあり
2011-02-04 季節の中で
2011-02-03 雪雲のかかる空
2011-02-02 プラグマティズムの幻影を隠れ蓑にすべきではない


2011-03-13 安否報告

とりあえず生き延びています。
皆様の安全を祈っています。

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皆様。ご無事で何よりです。今でも余震の続く毎日、どうか息災でいてください。日々の平安が、一国も早くそれぞれの日常に取り戻されるように祈っています。 / あるまじろ ( 2011-04-12 04:19 )
ご無事でなによりです。 / くすのき燕 ( 2011-03-27 01:52 )
私も無事です。 / さりィ ( 2011-03-14 23:08 )
生きてま〜す♪ / 雅(みやび) ( 2011-03-14 15:40 )
私もかなりひどい目に遭いましたが、怪我もなく無事です / ほしの ( 2011-03-14 08:02 )

2011-02-14 降りゆく

ふいの雪にあわてて家路を急いだ。
先日の細かい降りとは違う牡丹雪。
大きな雪の固まりが舞うように絶え間なく落ちてくる。

昔、松本に住んでいた頃に経験した感じで、
あと少ししたら車も危ない積もりになる予感がした。
路面を覆うような雪は少しずつ厚みを増していた。

ああ、そうかもね。
こうやって暗い冬の夜の道を、
何度も急いでいたような気がする。
感情にまかせて自分の気持ちのままで。
それが今まで届いていたのは幸運であっただけであり、
それが届かなかったことも今となってはごく当たり前のことだった。

雪がやんだ次の日の、
嘘みたいな明るい日だまりの中で、
笑い声が響いてる。
そういう時もあるから、
僕はそれでも走り続けるのだろう。


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2011-02-09 しっかり

今の台本に足りない部分を痛感した。
役者が上がってきてるので早速書き直さなくちゃ。

今週末の幾つかのしなくちゃならないこと。
来週からの仕事の準備。
来年への布石。
春には次への準備が忙しい。
でも今、目の前のことに頑張るのも大切。
それも忘れないでね。

まだまだやらなきゃならないこともあるな。

今年の目標はとりあえず「奪還」。
いろいろ取り戻さなきゃならないものがある。


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2011-02-08 群夕活気よ

夕ぐれからR1なるものを始めて観たのだけど、
優勝した方のやったことを観れば当然の結果で、
長年磨いたものをきちんと出しての勝利だった。

それに比べて他のエントリーした人たちは、
思いつきで出してきたような、
その場でのアドリブのような出し物ばかり。
もうR1なんてやめれば良いのでは?
ピンでもコンビでもやっている人は出場しなくていいし、
ピンならではの達者な感じが出せる人がいないなら、
トーナメントにする意味もない。

それでも尺が決められているテレビのお笑いで、
ピンの芸の技量を競うのって表現の仕方として難しいと思った。
芝居なら一人芝居って個人の表現力が問われる。
長い時間を一人でやることで、
実力とか表現力の差の出しようがあると思うんだけど、
あの時間の短さで笑いを取るってのは、
どうしても一発芸とか、アドリブとか、
「キワモノ」的なものに偏りがちだった。

トーナメントでネタが幾つか複数あることが、
芸の評価として求められると言っていたけど、
本当にピンでの芸を試すなら、
時間無制限でいつまで舞台に立ち続けられるか、
笑いを取り続けられるか、
それを試すことが一番なのじゃないかな。


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でもそれじゃテレビ的じゃないよね。だからR1ってそもそもテレビに馴染まないのでは。 / あるまじろ ( 2011-02-13 01:17 )

2011-02-07 暗中も策

暗闇の中でも胸を張る。

ちゃんと自分自身どう対処するか、
考えてるよ、策はあるよ、
って強がっている姿勢は崩さない。

暗闇の中でも胸を張って行こう。
足をすくませても、
すぐ近くにいる敵から逃げられない。
戦う姿勢、次に何をすべきか思考していこう。
思考を止めるな。


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2011-02-06 場・自答・風

そこで自分自身に問い掛けても、
聴こえるのは風の音だけ。


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2011-02-05 山あり他にあり

山は今、目の前に見えてる以上に、
その先にずっと続いているという意味。

挑むと言うことは、
目の前に見えてる以上のことを覚悟してからすべきこと。
勝てる勝負、可能性の高い約束ばかりしていたのでは、
つかめるものも制限されてしまうしね。


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2011-02-04 季節の中で

あれは中学一年になったばかりの頃、
那須に研修に行った時のこと。
4月の中旬過ぎだったとは思うけれど、
小雪が舞っていた記憶がある。
その小雪舞う中で、
自分なりに新しい環境での自分のことを考えていた。

あの幼い頃は春が苦手だった。
多くのものを失い、得るものの確証の無い季節。

それでもその季節に選んだものが後の自分の道すじになる。
年を取ると春といっても劇的に環境が変化しなくなる。

春という季節。
かつて変化は劇的に僕を飲み込んで、
そのたびに僕を翻弄し、道をも時々迷わせた。
今はその変化を自ら作り出すことも必要なのかも知れない。


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2011-02-03 雪雲のかかる空

今年の冬の厳しい寒さに、少し緩む気配か。
日々に追われるように忙殺されつつも、
その日その日の最低限の仕事はこなしている。
そしてこなしつつもゆとりを持とうと考えている。
以前より慌てて、何かをやっつけるように仕事をしなくなった。
「まあこんなもんか」と途中で切り上げることも出来るようになった。
「ねばならない」と自分を縛るより、
着実に広く視野を持とうという意識を持つようにしている。

ふと、以前書きかけた原稿を読み返すこともあった。
ここのところ、手にすることもなかったが。

思い返すと大学時代は何かに飢えていて、
敵を見つけることの方が忙しく、戦うことが楽しかった。
既存の権威主義と常識を否定し、
カテゴライズされかける自分を、
その都度、必死にその枠外に置こうとしていた。
孤独感がいつも追いかけるようにやってきて、
友人と離れることが怖くて、
一人の寒い部屋に居ることに慣れているフリをしていた。
そんな僕をなぐさめてくれるのは、
美しい風景であったり、ふとした言葉だったり。
そんなものが当たり前のようにあったことも、
今思えば素晴らしいことだった。

昔のことを思い出していると、
春が近いと、
どうしても旅に出たくなる。
空を流れていく片雲が誘うのだろうか。


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2011-02-02 プラグマティズムの幻影を隠れ蓑にすべきではない

少し前にテレビの中で、「学校で習うことは生きていく中で使わないから必要ない」という理屈で勉強をしない少年の言葉を耳にした事がある。この中で「生きていく中で使う知識」というのは何か。それは一般的に「読み・書き・そろばん」であり、
あとは職業に直結する専門知識だ。しかしそもそも高校学校までで習う知識の多くは一般教養であり、学ぶ事は知識や技術の他に道徳やマナー、礼儀も含まれるのだから、「使う」「使わない」で必要性を問うのは物差し違いであろう。

そもそも実用性の無い知識・教養こそ、以前は余裕のある人生の中で人々が追い求めてきたものである。『源氏物語』などの文学、モーツァルトの音楽を楽しめたのは、
経済的・時間的に余裕のある貴族階級だけであったはずだ。

実用性だけを求めて、「読み・書き・そろばん」と職業に直結する専門知識だけしか持たないのは、芸術の創造性や象徴性には一切縁のない世界に、身を置くことに直結することになる。それは現代日本では単なる「消費者」で終わるということだ。
自分では何も生み出さない消費者。
そして「学校の知識は必要ない」と主張する若者世代の多くが、一般的にアニメ・漫画・ゲーム・アイドル・ネットなどの、オタク文化の洗礼を受け受容している。
そもそもアニメ・漫画・ゲーム・アイドル・ネットなど若者文化のほとんどが、
成り立ちから受け手の消費を激しく指向している。
日本でこれらが商品になっているからだ。
そもそもオタク文化を生み出しているのがオタクなのか、
という根本的な疑問もあるが、そこは一緒くたにしない方が良いと思う。
オタク文化を生み出しているのはオタクではなく、それぞれの道のクリエイターなのではないかと思うのだ。確かにオタクならではの言語や習性はあるけれど、
それを世に出しているのはクリエイター。
受け手でいるだけの消費者ではないはずだ。
その両方を混同している現状だが、世界に冠たるアニメ映画の監督や漫画家、ゲームクリエイターまで、オタクと呼んで単なる消費者と混同するのは違和感がある。
消費者はファンであり読者であり愛好者でしょ。
クリエイターの側から言えば受け手があっての文化とも言うが、
消費者の側が自分達が文化を牽引していると思いこむのは、
やはり少し違うと思う。

話を戻すが、
「学校で習うことは生きていく中で使わないから必要ない」
という理屈で勉強をしない少年の言葉には、大いなる矛盾がある。
少年が絶対に享受しているはずの若者文化そのものも、
そもそも実用性があるものではない。
それにどっぷり浸かりながら、学校の勉強を否定するのは、
ただ自分が努力するのを怠る怠慢が理由である。

学校で習う知識こそ以前は貴族階級でしか手に入らなかったものだ。
そこから真・善・美という普遍的な価値観の本質に手を伸ばすことを始めて、
象徴や暗喩、記号や法則、歴史や技術などの先人の遺したものを、
まずは幅広く受け入れることが、単なる自分を消費者に留まらせず、
何かを発信し、自分なりの解釈を主張する土壌を形成する。
それは本を読む人を単なる消費者ではなく読者にする。
映画や演劇を観る人を単なる消費者ではなく観客にする。
人は単なる消費者ではなくちゃんと作品を受け取り、
読み取れる、良さの分かる人で居るべきだ。
それには発信しようとするクリエイターの側の視点が必要不可欠であり、
時には実際に文章をものしたり、演じてみたり、
シャッターを切ったり、歌ったり、演奏したりすることが大切なのだと思う。


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