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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2010-06-23 多忙近々
2010-06-08 気になることは一つずつ
2010-06-07 「セリフの吐き方」理論〜その1〜
2010-06-06 タイトル発表!!
2010-06-04 ニリンソウ
2010-06-03 信州そば
2010-06-02 嘉門次小屋の岩魚の塩焼き定食
2010-06-01 水無月の五月晴れ
2010-05-25 彷徨うクマノミ
2010-05-22 ジキタリス


2010-06-23 多忙近々

いつの間にか季節が移ろっている。
蒸し暑い梅雨ではあるが夕暮れの空は夏の香りがした。
しばらくぶりなので近況報告。

まず、高校生との芝居。
じっくりと時間を掛けてしっかり作りたい。
これは大人と子供という世界の対立の話だ。
思えばこの仕事を始めて、最初からこれがテーマだった気がする。
そして僕のポリシーとして一緒に芝居を作ることが理想だった。
大人も子供も手を抜かず。
全身全霊で力を結集した作品を舞台に乗せよう。

次に僕自身の劇団の芝居。
今までのシステムに限界が来てるのかもしれない。
それでも出来るところまで歩き続けると約束しよう。
しょせん真ん中に居る人任せなのは仕方ないが、
それでもまだ期待に応える用意はある。
楽しい時間を用意しよう。
でもこれはサービスでもボランティアでもない。
サービスする義理はない。
ちゃんと一人一人に責任も果たしてもらおう。

次に他人の劇団の芝居。
もう一つ詰め切れていないが、このままではいかない。
ここからもう一つ攻めて芝居を上げよう。
「なり」でやっている役者にはならない。
稽古場に顔を出すだけでなく、
一回一回の成果を自分自身に課したい。
ここでは自分は真ん中には居ない。
ここには真ん中にいる責任感やそれに伴う雑事や気配りは無い。
それならしっかり与えられた仕事をこなし持ち場を守りたい。

大切な家族との時間は申し訳ないことに削られている。
時は流れている。
それを忘れてはいけない。


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2010-06-08 気になることは一つずつ

どんなことでも、放置して先は進めない。
言いにくいことや自分で割り切れないことでも、
きちんとすぐに片を付けていけば、
自分自身も楽なはずだ。

人と人が何かをやるときには、
本当に充分な信頼関係がなければ芝居は作れない。
いったんでも壊れたとしたら、
一生懸命それを修復しなければならないはずだ。

そしてその努力は一人一人が全員、
お互いのためにすべきであると思う。


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2010-06-07 「セリフの吐き方」理論〜その1〜

役者にとって、セリフの出し方は永遠の課題である。
実際に役者を経験して初めて分かったことだが、
まず必要なのはボリュームである。
ある意味では「ふっきる」感じで言われる「自己の解放」は、
ただ、単に恥を捨てれば達成出来るものではない。
僕の経験で言えば、場慣れして、
周りがある程度「見る」ことが出来てから、
初めて少し「解放」された気になったのは事実である。
それはおそらく三回くらい大きな舞台を踏んで以降のことである。

自分自身がおおよそのことについて、
器用な方である自信があったのだが、
この周囲を少し見ることが出来るまで、
演技は楽しいものではなかった。
その段階での楽しみはアドリブでウケをとることぐらいだった。

アドリブでウケを取ること。
これは清水さんにある舞台での本番後に言われたこと。
「アドリブをしてただ笑いに走るのは、
 経験のない未熟な役者がやることだ。」と。

僕はもう自分の劇団でアドリブで笑いを取ることは目指していない。
演技する役者にも今はそれは禁じている。
しっかりセリフを台本通りに言うこと。
その中で作品としての完成度を目指していくこと。
これを目指すことで明らかに僕の芝居は一段階上がったと思う。
それまで勝てなかったところをいつでも勝てるようになったのは、
作品に対しての完成度をストイックに高めていく姿勢が、
それまでの経験とあいまって僕の芝居を向上させてくれたのだと思う。

一方でアドリブではなくフリーハンドな、
自然な会話を舞台上に再現することについては、
なかなか正解が出なかった。
「感情で(魂で)言葉を吐き出す」ことは絶対に必要。
それは演技の身体も作ってくれる。

でも「感情入れ」をすると、最初必ず二つのマイナス要素が出る。
どうしても「間」が出来るのと、怒鳴ることだ。
感情の立ち上がりをコントロール出来ないので、
「間」をどれだけとっていいのか、
自分の演技を役者はなかなか客観視できない。
怒鳴ることで昇華される気持ちよさから、
役者はなかなか解放されない。

やたら怒鳴ることと「間」を取りすぎること。
それをコントロール出来ないのは役者がまだ未熟で、
周囲を見ることが出来ていない証拠である。
それができなくて「自分がうまい」というのは、
とんでもない思い上がりだ。

「間詰め」と「感情入れ」を繰り返す反復稽古が、
その一つ目の問題を解決する方法だ。
一方で、どうしても舞台で必要なボリュームを確保するのは、
発声方法のなかでただ「大声でがなる」のではなく、
「響き」の意識を持たなくてはならない。
その意識がチームとしての役者陣全体にない場合、
やはり怒鳴らなくてはならない部分が出てくるのだ。

どうすれば怒鳴らなくても届くだろうか。
それが大きな課題だった。
そうしているうちに「高低の意識」に出会った。
しかし、それは芝居を選ぶ方法だ。
もちろん「高低」を意識することはとても大切なことだが、
芝居の作りは、セリフの感情面でも、
「間詰め」と「感情入れ」を繰り返すように、
セリフを発声することによって相手に落としていく場合でも、
「高低」を意識することによって生じるマイナス面を補う意識が必要で、
それを同時に意識しないとテクニカルな側面ばかりが肥大したセリフとなる。

「高低」のマイナス面を補う意識、それがその次のキーワード。
それは最近見つけたことだが、これはまだ言えない。
つかんではいるが、これはもう少しの研究が必要だろう。
今年の夏が終われば、それを語れるかもしれない、と思っているのである。


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2010-06-06 タイトル発表!!

人は夢を見てる時には夢だと気づかない。
台本を書いている時が実は夢の始まりなんだろうな。

いよいよ、豪華版な劇団ぴゅあの次回作の構想が煮詰まってきている。
顔合わせが7月4日なのでそれまでには台本をあげたいですね。
とりあえず、今はそう思ってます。

今、構想の中に入っているのはとりあえずこんな感じ。

@ダンスをちゃんと講師に来ていただき振り付け。
Aぴゅあといえば、殺陣・・・なのでアクションもあり。
B作曲家と知り合えたので挿入歌をオリジナルで用意。
C二時間超なので途中、休憩10分を予定。
DWプロジェクターで映像を使った特殊効果。
E20回記念公演なので大道具を作っちゃおうかな。

全部出来たらいいな、でもどうだろう。。。

とりあえずタイトルは・・・

『花翳ゆれる』

です。


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わわっ!タイトル決定したんですね。どんな話か楽しみです!確かに全部出来たらすごいですね。でも10周年公演を乗り超えたからか何だか出来そうな気がしているのが不思議です。次回公演は個人的にも深い思い入れが残る作品になると思うのでいつも以上に気合いを入れて頑張りたいと思っています。台本楽しみにしています!でも体だけは無理しないで下さいね〜。 / ゆーこ ( 2010-06-17 15:51 )
くすのき燕さんへ。とりあえず、十二月初めに公演があるのでそれまで内緒です。 / あるまじろ ( 2010-06-12 21:12 )
タイトルには儚さも感じますが、どんな内容なんだろう。 / くすのき燕 ( 2010-06-11 08:31 )

2010-06-04 ニリンソウ

イチリンソウもありますね。

バイト先のペンションで、
ニリンソウの一夜漬けを初めて食べた時、
ご飯がすすんだなあ。

そういう地元のものを食べると、
その土地の人間になれた気になる。

群生してる場所は、
河童橋からかなり明神池にかなり近い場所。
あ、でもそこは国立公園内だから採取禁止ですね。
阿房峠が開通すると取りにいけるそうです。


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2010-06-03 信州そば

信州といえば蕎麦でしょ。
うどんって言わないの。

ざるで「うわっ」っていうくらいの蕎麦出てくるのに安い。
安曇野だったらこの「くるまや」さんが一番です。


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こちらにいらしてたんですね。爽やかな季節です。 / くすのき燕 ( 2010-06-08 08:43 )

2010-06-02 嘉門次小屋の岩魚の塩焼き定食

午前八時半。
上高地明神池の嘉門次小屋が開店。
上高地バスターミナルからゆっくり徒歩で一時間半。
たどり着いて食べるこれって、
旨いに決まってます。

岩魚は遠火で焼くから焼きあがるまで30分かかる。
人は合計二時間かけてこの定食にありつくのだ。
岩魚は頭からかぶりつける。
カリカリです。

なんというスローフード。
食べるときもゆっくり食べないともったいないというものだ。

見よ、このシンプルで完璧な取り合わせよ。
あ、あと味噌汁(味、濃い目)がつきます。
上高地の朝の風が最高の調味料。


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2010-06-01 水無月の五月晴れ

さて。

色々とあって全てはうまくいかない。
そういうことは良くあることだ。

でも僕はすぐに二択にはしない。
両方取れないからと言って、
すぐには片方をあきらめない。
どうしても二つのうち一つ、
という時まであきらめない。

意外と誠実にやっていれば物事は最後にうまくいく、
そうやってそういう大団円を、
幾つも手に入れてきたしね。

何事もあきらめたら終わり。
現実世界で人生の謎はパズルのように組み合わされている。
しかしあきらめてはいけない。
簡単にあきらめることは癖になるのだ。
そして二度、チャンスはない。
チャンスを逸するのは常に自分自身のジャッジミスだったはずだ。

日中に爽やかだった風が、
午後四時の日差しの中で風向きを変える。
そういう風にはっとする。
振り向くと遠くの景色は、
もう残りわずかな温かさの中に佇んでいる。

いつの間にか過ぎていくものに、
気づかないことほどさみしいものはないから、
この瞬間をしっかり見つめていよう。


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2010-05-25 彷徨うクマノミ

一区切りした仕事の先には、また平凡な日常が続いている。

そしてゆったりとした日常の波の中にも、
少しの揺れが一瞬大きな波動に盛り上がる時もある。

劇団欅の稽古は日々進んでいる。
なんにせよ芝居の稽古場に身を置いている幸せよ。
セリフが生きて相手に届く感覚を持っていると芝居は楽しい。
一つ一つ、毎日違う。
セリフをやりとりしている感覚は、芝居の一つの快楽に違いない。

秋の台本をアーサー氏と検討するために、大成のココスへ。
やはり芝居に対して熱のある人と、
遠慮なしに芝居の話をするのはとても楽しい。
打ち合わせでもどんどん話は脱線しつつ、
あっと言う間に時間が過ぎていく。
「お互いに遠慮なく話し合う」と言って置いても、
意外といざ遠慮なく話すと、
いつの間にか怒り始めて、
最後はまともに聞いてくれない場合もあるのだけれど、
アーサー氏は大人で子供の情熱演劇人。
大人の理性と子供の柔軟性で、芝居の話は盛り上がる一方。
さすが。

この対談のキーワードは、
「躍動感を大切」と「何も持たないで立つな」。

感情を重視していると、どうしても出来る間。
それを詰める意識は当然だけれど、
それをテンポとして狙ってリズムを出すのではなく、
全て用意するものは用意した上でやり取りすると、
自然と躍動感につながるだろう。
これはなかなか面白い。

まだまだ未熟な僕の子供たちよ。
今は自分のミスに謝っちゃったり、
演技の途中で相手の面白さに笑っちゃったり、
セリフがちっちゃかったり。
それでも一所懸命やってる。
きっと夢を見せてくれるだろう。

おとなしく自分を守ってくれるイソギンチャクから離れなければ、
いつまでも安全なところで静かに時を過ごせるだろう。
でも、それじゃあツマラナイ。

新しい潮の流れに乗って見知らぬ海へ。
自分が見た世界だけが本当の世界。

どんなに知識で知っていても、
君はその世界の美しさを知らない。
そう言われるのが悔しくて、
彷徨うクマノミは次の海へ。

荒々しいそこに心が震えるような美しさがあるから。
それが自分の生きていることを証してくれるなら。


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2010-05-22 ジキタリス

車で母を乗せて福島へ。
母が通院していた時にできた友人宅を訪ねる。
いわきの山の中で老後、二人きりで過ごす人生。
確かに良い場所だが、実際は大変そうだ。
お二人の相性もあるだろう。
お二人同士のものも、土地とのものも。

一人一人がきちんと仕事をしていないとできないものだ。
ああいう自然の中での生活は素晴らしさの中に厳しさがある。
ストイックな時間の中に豊かさがあり、
静けさの中に退屈もある。

旦那さんに、薪を割るのは大変でしょう、と問いかけたら、
「大変だけれどすぐに終わったら暇でね」
と帰ってきた。

自分がもう若くなく、余生が想像できる頃に、
暇だ、と口にできる時間があることに、
自分は耐えられるだろうか。

ジキタリス、カモミール、馬鈴薯、イチゴ・・・、
花が咲き乱れていた庭園に、なつかない犬。

郡山を過ぎたあたりでは雲がかかっていたが、
いわき郊外、山間の集落のはずれの、
午後四時過ぎのその暖炉のある家には、西日が差していた。

手を振って別れたが、見送ってくれた人の笑顔はなかなか良かった。
母もあの人にあやかって良くなれば良い。
今日の空気はそうなる魔法のようなものを含んでいた気がする。


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本当に楽しいひとときでした。彼女の笑顔と空気の美味しさに自分の病を忘れました。温泉も良かったし楽しい2日間を私の為に時間を作ってくれてありがとう。 / 母より ( 2010-05-30 09:31 )

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