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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-04-06 サクラチルにしても
2009-04-05 とんぢる
2009-04-04 夜桜ト月
2009-04-03 冷しぼペンギン
2009-04-02 皿の中の桜
2009-04-01 あの時見た水平線
2009-03-29 本番を終えた今は。
2009-03-27 もう一度〜明日から本番の気持ち〜
2009-03-26 ふと文化って何か、と思う。
2009-03-24 WBCを見終えて


2009-04-06 サクラチルにしても

一般に「桜が散る」というのは、
物事に失敗したことを暗喩するものだが、
およそ生きていく中で、取り返しの付かない失敗などあるものか。
この一節は、失敗を桜に喩えることによって、
繰り返し訪れる来春の来訪を予感させている。

人は失敗によってうなだれるものの、
そのまなざしをもう一度振り仰がせ、
次の春に照準を合わせるまでは、
ほんの少しだけ時間が必要だ。

そしてその時間は、
失敗した自分を受け容れることに費やされるべきなのである。

そもそも「桜咲く」ことと「桜散る」ことは、
どちらも自然の時間軸の中での必然だったのだ。
そこには最初から桜の様子は関係なく、
個人が何かの挑戦に成功したか失敗したかの結果があり、
その個人が「桜咲く」ことを見たか「桜散る」ことを見たか、
ということだけのことだったのかもしれない。

桜は最初から咲いて、そしてやがて散る。
それをただ繰り返している。
その前で一人の人間もまた失敗や成功を繰り返すが、
それは最初から桜とは無関係だったのだ。

その時の自分を桜に同調させる主体はもちろん人間側の都合。
確かに物事の多くはその時その時、眺める主体で見方も変わるモノだ。

それなら。

今の僕なら咲く桜も散る桜も眺めてみよう。
一時の失敗や成功に心を揺らすことなく、
咲く桜も散る桜もこの目に収めよう。

そして一方でいつしか咲く桜に焦燥し、
散る桜に限りない惜別の情を注ごう。
そこに淡泊でいたらつまらないから。

人は嫌が応にも流され老いていく。
それは嘆いても仕方のないことだ。
一方でそれを嘆かずとも、
見ておくべきことはあるということだ。

悲しいことはいつもある。
心震わすような喜びも。

ただ咲いてやがて散っていく桜を眺めるかのように、
見るべきものは見ていられたら。


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みっきさんへ。まあ桜は散ってもまた来年咲くってことです。 / あるまじろ ( 2009-04-14 23:41 )
綺麗な桜ですね☆今年は目では見たのですが写真に撮るのを忘れました。また来年の桜を楽しみにしてます。 / みっき ( 2009-04-10 12:56 )

2009-04-05 とんぢる

なんだろうね、豚汁を売りさばくというのは。
朝からずいぶんネギを刻んだり、油揚げを刻んだり。
豆腐を切ったり、味噌を溶いたり。

屋台の豚汁を買うっていうのは何が好いんだろうね。
普通、縁日とかには無いよね、豚汁。
きっと何かが違うんだろうね。
だってプロが手を出さないジャンルだよ。

いやけして50円の煮込みこんにゃくと、
価格のバランスが悪いとか言ってるんじゃないんだよ。
でも一杯200円の豚汁、売ってるのが何か軽い罪悪感も漂ってたって、
そういうのも否定できなくっってね。
はい、ごめんなさい。

美味しい豚汁は売り子さん達のまかないにもなっていました。
西原さんの言う「お薬お薬」もたくさん入ってた。
はい、もちろん僕も食べました。
責任感で。

ずんどうたっぷりの豚汁。
朝はこんなにあったのに午後3時には空になりました。


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2009-04-04 夜桜ト月

上弦の月だったけ、久し振りだね
月観るなんて


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2009-04-03 冷しぼペンギン

冷たいおしぼりで作ったペンギンは、
なんか首根っこを掴まれて苦しそう。。。


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2009-04-02 皿の中の桜

桜色の餅米のおこわの中に鶏肉のつみれが入っていて、
それが塩漬けされた桜の葉に包まれている。
付け合わせは飾り麩でそれも桜の形。
薄緑の蕗は早春の風情。

もっちりと食感にこくのある鶏肉、桜の葉の塩味がアクセント。


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2009-04-01 あの時見た水平線

軽い失望感、でもそれはしょうがないことだとも思った。
まだ自分が十代だった時、どれだけ怠惰だったろう。
色々なことを夢にだけ見て、一歩も踏み出そうとしなかった。
ただ流されていたような毎日はとても眠く、
こんな風に毎日はずっとずっと続いていくのだと思った。
自分自身をどう表現していくか、考えようともせず、
なんとなく髪型とかきにしてた。
感受性だけは強くて、頭でっかちの理屈ばかりをこねていた。
若い仲間の中で、少し自分の居場所を見つけただけで満足していた。

本当の恋愛だと思ったことは二十代に待っていて、
本当の失恋は三十代に待っていた。
それさえも四十代、五十代と年を重ねるごとに、
書きかえられるかも知れない記憶。

人に優しくできず自分自身に溺れていた。
学ぶことの大切さは、たった独りで死ぬほどの思いで掴んだはずなのに、
結局学ぶことの本質は、日々の生活の中で一つ一つ経験を通して、
この身にまつわってきたものだけだった。

生きていくことで必要なことは生きていかないと分からない。

大切な誰かを見失わないように。
人の命には限りがあるから、
それが燃えてるうちは瞬きもしないように。
それができないからせめて前を向いて。


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みーさんへ。それほどでもないので、いろいろ迷いながら進んでるんですね。そう言って貰って嬉しいですが。 / あるまじろ ( 2009-04-04 00:35 )
だいじょうぶ。あなたはちゃんと自分を持ってて、前を向いてしっかり歩いていってるから。(なんて知ったかぶりすな!って言われちゃいそう ^^; ?!) / みー@お疲れ様でした。ありがと。 ( 2009-04-02 01:04 )

2009-03-29 本番を終えた今は。

3月初旬の東大宮演劇祭の舞台から、
さらに息の詰まるようなもう一段上がるための稽古を経て、
今日、『丘の上のロビンソン』が千秋楽を迎えました。
たくさんの後かたづけを終えて、
助けに駆けつけてくれた仲間達とささやかに食事をして、
深夜零時を過ぎようか、という時間に帰宅しました。

今更ながら、ご来場頂いた全てのお客様、支えられたスタッフの皆さんに感謝し、
今はなんとか終演を迎えられたことにホッと胸をなで下ろしています。
僕と一緒に芝居をやることって結構大変だと思っています。
それに食らいついてきてくれた仲間にも感謝しています。

前回の『スノウクロニクル』からわずか三ヶ月でこの『丘の上のロビンソン』を仕上げ、
ここまでの作品に出来たことにも満足しています。
全て努力を怠らない役者たちと支えたスタッフの努力の結果です。

それほどに僕は役者たちに多くの緊張と精進を強いてきたし、
彼らはそれに応えてくれた。
僕自身もそれに多くの刺激を受けた。

それほど大規模でもないこの劇団の公演ですが、
僕等はそれほどまでに、とことん自分自身と向き合って、
さらに上の芝居を目指した。

まだまだ下手ですが、
その努力を続けることは今後も約束できると思います。
いや、まあ誰に誓うこともその必要もないでしょう。
僕らはやっぱり芝居が好き、ってだけなのですから。

11月の十周年、またよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。


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ゆーこさんへ。はい、こちらこそよろしく。 / あるまじろ ( 2009-04-08 23:57 )
そう言って頂けると有り難いです。次回もよろしくお願いします! / ゆーこ ( 2009-04-04 21:58 )
ゆーこさんへ。いつもそう言った向上心を持って頂いているので、きみはどんどん上手くなっていくのですねえ。頼りにしています。 / あるまじろ ( 2009-04-04 00:37 )
丘ロビお疲れさまでした。演出の意図していた猪原になったかどうかは今度じっくり聞くとして(おい!)長ゼリの話し方や細かい感情の変化など猪原先生からたくさん教わりました。素敵な役をありがとうございました。もちろんまだまだ未熟ですが、次回からの10周年公演、頑張ります!! / ゆーこ ( 2009-04-02 15:40 )

2009-03-27 もう一度〜明日から本番の気持ち〜

ちょっとびっくりなのは僕が仲代達也さんを観ても、
「もうちょっとこうじゃねーかな」と思っちゃったこと。
でも自分の演技と比べたら天と地だ。
そりゃそーだ。

今日はその道の大先輩に一ついいアドバイスを頂いた。
本番前にこの一言、とってもいいことを聞いたと思う。
よし、それを胸に止めてやってみよう。
相手役の人は安心してね、演技が変わる訳じゃないから。
でもこの舞台で自分なりにその課題に挑戦しようと思う。

いよいよ明日から本番だ。
そこで挑戦するものがある、ということは幸せだ。
僕がまだそこへ向かって手を伸ばせるってことだから。

衣装とか機材とか必要な荷物を車一杯に詰め込んで、
さて、準備完了。
きっちり寝るぜっ!!!

この前、西伊豆で吹きすさぶ海からの強い風の中で見た夕日。
この写真を見てふと思い出した。

あの時、僕は今回の芝居の中のセリフの一つをつぶやいてたんだ。

もう一度仲間に入れてくれないかな。
もう一度一緒にやりたいんだ。

もう一度もう一度、僕が舞台に向かう気持ちは、
もう十年やってもちっとも枯れなかったってことは、
まあ好いことなのかな。

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劇団ぴゅあ#18『丘の上のロビンソン』
3/28 18:00〜
3/29 13:00〜 と 18:00〜
於)彩の国さいたま芸術劇場映像ホール
入場無料・チケット不要・全席自由


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2009-03-26 ふと文化って何か、と思う。

プロカメラマンの方としゃべる機会があって、

「誰でも写真をある程度撮影できる現状の中で、
 あなたがプロであることは、何をもってプロであると言えるのか。」
という質問をした。
失礼で不躾なことだとは思ったが僕にはそれを聞きたかった理由があった。
そしてその人は少しも腹を立てるところもなく穏やかに答えてくれた。

「誰でも写真が撮れるからこそ、プロの地位が上がるんですよ。
 写真を撮ることは誰でも出来る。
 誰でも出来るから裾野が広がる。
 その裾野の頂点に居るのがプロで、それだけの技術がプロの証。」

誰でも出来るのは芝居も一緒。
じゃあ芝居のプロは頂点に君臨するだけの技術を持っているのか。
口だけじゃなくそれを見せつけるほどのモノを見せられるのか。

昨日、僕の師匠のヤナギタさんとタキザワさんにそのことを話したら、
また違うことを話してくれた。

「プロカメラマンとアマチュアカメラマンはお金さえ出せば同じ道具を使える。
 プロ野球選手と高校球児(アマチュア)は同じルールでプレイできる。
 だからプロとしての技術を見せるのは比較的容易。
 でも芝居の場合はルールも勝敗も規定がもっと曖昧で、
 カメラみたいに作品も形として残らない。
 だからプロとしての力量はよほどのモノを持ってないと、
 見せつけるところまでいかない。」

なるほど。
でもアマチュアを淘汰することは違うよね?
芝居の世界で裾野を広げるってことは、一体どうすることを意味するのか。
ロンドンだと高価なチケットを買って、
プロの本格的なシェークスピアを見ることも出来るし、
1000円くらいでやってる市民劇団のシェークスピアだってなかなかだそうだ。
これが文化じゃないのかな。

プロアマ論よりかは文化の育成って問題が根本かもね。


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2009-03-24 WBCを見終えて

ここのところずっとWBCの日本チームの戦いをずっと観続けた。
今日は業務時間ながら職場の上司に大目に見て貰って、
少しだけ最後の当たりだけテレビで観せて貰った。

内川はすごい、さすが日本最高の右バッター。
青木が期待を裏切ることはない、やはり天才だ。
稲葉は必ず結果を残す、やっぱり頼りになる。
そしてどこまでもクールな岩隅。

ダルビッシュが九回に捕まった時に、
昔、甲子園で彼が打ち込まれた時のことを思い出した。
でも今日の彼はそれ以上は崩れないで後続を断った。
そしてイチロー。
ここで打つって信じてた。
信じたように打ってくれた。
これが「持ってる」理由。

そして韓国チーム。
五度にわたる戦いとその最後に待っていた今日の歴史的な名試合は、
彼らがいないと無かった。
最強のライバルは本当に強かった。

最後のバッターを討ち取った時、
そこにいる全員とガッツポーズし、ハイタッチし、握手した。
やっぱし野球っておもろいな。


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