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あるまじろの「まるまり日記U」

イツデモコンナフウニスギテイクナラ、
ソレハソレデヘイワナマイニチ。。。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-01-22 函館を訪れて〜函館塩ラーメン〜
2009-01-21 函館を訪れて〜ハリストス正教会の風見鶏〜
2009-01-20 函館を訪れて〜雪に倒れて その二〜
2009-01-19 函館を訪れて〜雪に倒れて その一〜
2009-01-18 函館を訪れて〜トラピスチヌ修道院のマリア〜
2009-01-17 函館を訪れて〜粉雪の十字街〜
2009-01-16 函館を訪れて〜雪の市街〜
2009-01-15 ずっと覚えてる
2009-01-14 黄昏に。
2009-01-13 正義について


2009-01-22 函館を訪れて〜函館塩ラーメン〜

寒い中だとなんでも美味しいねえ。
店のすぐ外は海で雪も積もってる。

味も覚えてないなあ。
すぐ食べちゃったから。


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2009-01-21 函館を訪れて〜ハリストス正教会の風見鶏〜

函館ドックの方から坂を吹き上げる風は、
潮の香りがした。

風見鶏が海の方を向いてる。
そんな午後。


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2009-01-20 函館を訪れて〜雪に倒れて その二〜

そしてその跡はそんな感じ。
これで積雪50センチくらいか。


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2009-01-19 函館を訪れて〜雪に倒れて その一〜

一面の雪を見て思わず飛び込んだ。
はい。
こんな感じで。


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2009-01-18 函館を訪れて〜トラピスチヌ修道院のマリア〜

僕を許してマリア。
いや、特にこれってことはないけれど。
もともと罪深い人生か。

雪が舞ってきて彼女を視界から消す。
マリア、もういなくなった。
さよならでさえも告げる前に。


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2009-01-17 函館を訪れて〜粉雪の十字街〜

函館に着いたその日の夜に、
路面電車に乗って十字街と言う駅で降りた。
十字街。

ここで路面電車は二方面に分岐する。
函館の湯の川温泉から五稜郭、函館駅前を通過して、
十字街から函館どっくか、谷地頭へ。

十字街に到着したときは粉雪がさらさらと降りしきっていた。
もうすでに夕闇は北の街を包み込み、
外灯に光が反射していてきらきらしていた。

さらさらと積もった雪に気持ちが、
張りつめるように冷たい空気も跳ね返す。

金森倉庫へは徒歩で五分。
海も近い。


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みーさんへ。とてもとても寒かったけれどそれより静かだった事の方を記憶しています。 / あるまじろ ( 2009-02-14 01:29 )
すごく素敵な写真ですね。旅の雰囲気が伝わってきそう。。。 / みー ( 2009-02-09 21:40 )

2009-01-16 函館を訪れて〜雪の市街〜

実は少し前に函館に行ってました。
雪が降って北の街に来た感じがしました。
真冬に本当に寒い場所に行くのもどうかと思いましたが、
行ってみて良かった。

人はどうしてこんなところに住んでいるのだろう。
少し失礼ながら、そんなことを到着したすぐは思いましたが、
帰る頃にはちょっぴり、この街に住んでいる自分を想像出来るようになりました。

昔かつて函館を訪れたのは二度。
一度は仕事でクリスマスに。
一度は国文科のオオタ先輩を訪ねて、やはり真冬に。
函館のイメージは蒼い海と風、その中に灯る街の灯。
それぞれの時にそれぞれの、ね。

今回は雪景色、まず吹雪がお出迎え。
寒い冬が嫌いじゃないからそれだけで気持ちが高ぶる。
旅ってそういうことなのかもね。

宿に入ったのが早かったのですぐにまた吹雪の中出掛けることにする。
その宿に着いた時、窓からの風景。

振り返る 荷物まとめてどこへでも 一息つくと旅人になる


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みーさんへ。自分の住んでいるところからかけ離れた場所に行くのがいいですね、僕にとって旅は非日常との出会いなのです。 / あるまじろ ( 2009-02-09 00:55 )
冬の北海道には何度も行きました。函館も何度か行ったなぁ。遠い思い出ですが(苦笑)。日本って寒いときに寒い地方に行くと必ずおいしいものがココロ暖めてくれますよね。 / みー ( 2009-02-08 21:51 )

2009-01-15 ずっと覚えてる

気が進まない仕事だった。
天気の良い日に遠い遠い深谷まで。
そして詰まらない話の続く会合が続く。
終わった時にはもう西日が傾いていた。

深谷からまっすぐ帰ることも出来たがそれは止めて、
そのまま秩父の山々の稜線がシルエットになり始めた南西に向かった。
そこは今から二十年前に住んでいた場所。
そこに住んで今の仕事を始めた。
何も知らず何も出来ず、
それでも鼻っ柱だけは強く生意気だった。
三十歳も離れた先輩に噛みついて職場でホサれたこともあった。
それでもその二年後にはその場所を自分の居場所にした。
がむしゃらに働き続けることで周囲をねじ伏せた気になってた。
力を誇示することが必要だと一人で焦っていた時に、
静かに見守っていてくれてたのも周囲の先輩たちだった。

あんなに世話になったのにもう連絡も取っていない。
生意気で生意気で実力もないくせに謙虚さもなかった。
それでも、別れの時には頑張れって言ってくれた。
「言われなくてもやりますよ。」
僕の言葉に裏付けなど無かった。

先輩は連れてってくれた店で、
よく僕におごってくれた。
唐華という名の店、
料理は「ネギと豚の辛子炒め」。

十数年ぶりに訪ねた。
幸いしてまだ店はあった。
僕の他に客は居ない。
「・・・ネギと豚の辛子炒め。」
僕はマスターの顔もおばちゃんの顔も覚えている。
でも向こうは覚えていないだろう。
注文だけしてスポーツ新聞を読むふりをして店の中を見た。
変わってない。
やがて料理ができて昔の通り出てきた。
食べた。美味しい。今も美味しい変わらない味だ。
その時だった。

マスターが恐る恐るといった口調で話し掛けてきた。
「昔、来てた人だよね?先輩と一緒に。」
「ええ、覚えてたんですか。」
「ええ、最近のことは覚えられないけれど昔のことはよっく覚えてる。」
「久し振りに食べたくなって、美味しかったです。」
「最近じゃお客さんに応援されてるんだ、店を閉めないでって。」
「閉めないで下さい、また食べに来ますから。」
「嬉しいですよ、お客さんにそう言われるのが一番嬉しいんです。」

店を出てずっと考えてた。
ずっと覚えてるってこと、僕も向こうも。
そういうことを考えているうちに車線を変更したりしているうちに、
いつの間にか自分の家に着いてたんだ。

これが「ネギと豚の辛子炒め」。
具はネギと豚肉だけ。
ピリカラで御飯がすすむ。


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みーさんへ。そうですね、僕はそういう人とぶつかったことを後悔してるんじゃないんです。ぶつかった僕を受け止めてくれたことに感謝してるんです。分かってくれてありがとうございます。 / あるまじろ ( 2009-02-04 23:01 )
そういう再会ってうれしいですね。やっぱり人間って一人じゃ生きていけない生き物なんだなー、なんて思っちゃった。いったい自分の人生で何人の人と関わりあっていけるのか。ほんの、ほんの一握りの人としか会えないんだもの。一期一会。 / みー ( 2009-02-04 00:05 )

2009-01-14 黄昏に。

だんだん暗くなっていく中で思い出すのは、
日があった時には日差しが暖かだったということだ。

失われることは大切だ。
実に多くの不在がこれまで僕にさまざまな大切さを思い知らせてきた。
この前のフッツェジェラレルドの原作の映画を観て感じたのは、
優しさというものの本質は、
普通なら失われたという瞬間が訪れた後でもう一度機会を与えられることだ。
優しくないことの多くは一度で全てを奪うことによって行使される。
その逆。

なんだかんだ、その優しさが人生にもう一度色を与えてくれる。
その機会を与えてくれたことに深い感謝を表したい。

闇に包まれたからこそ、ぬくもりを感じる燈火もある。


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2009-01-13 正義について

「正義」という言葉について考える。

「正義」が行われる、ということ自体に懐疑的になることは大切だ。
世の中には実に「正義」を振りかざす輩が多いからだ。
一方で「正義」という行為を自ら執行することは大切である。
「正義」という言葉にはたとえ口にするだけでも「信念」が必要だからだ。
問題の核心はどうやらその「信念」の本質にあるようだ。
信念は狂信にもなるしそもそも妄想程度のものだったりすることもしばしばだからね。

ここは僕の考えを述べる場所だから書いておくが、
「正義を口にする他者に対して常に懐疑的でありながら、
 自己が正義を口にする勇気を失うべきではない」と言いたい。
この世に溢れかえる「正義」は胡散臭いが、
自分まで正義を口にしないのは、ただの日和見だ。

昔、学舎で寝ぼけ眼のままながら国文学原論の冒頭で習ったことは、
「何につけ良き作品には『真・善・美』のいずれかが含まれる」というものである。
積み重ねられた叡智がそう結論づけたのだと思う。
そして間違いなく正義はそれらのファクターを少しずつ持ち合わせている。
大ざっぱな言い方をすれば、曲がりなりにも「表現」に関わるなら、
「正義を口にすること」に日和ったりはしていられないのである。
ましてや僕は商売としてでもなくイデオロギーとしてもなく宗教でもない形で、
表現に携わっているので、ことにそれは重要なテーマとなる。

もし仮にも表現に関わる時「正義を口にしない人物」が何を口にするのか。
それはそれで耳を傾けたいし、それはそれで大いに胡散臭いと思う。

「正義」には「信念」がある。
「覚悟」と言ってもいいかもしれない。
覚悟しないところで何かを表現できる、
なんて都合のいいことは今のところ僕は考えていない。


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