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夢樂堂月彦の『元祖 図鑑・即熱、玩具匣』

やっぱり、ひとりよりふたりだよね。

次の満月は9月8日、新月は9月22日です。
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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-09-20 うにうに第3種接近遭遇(塩辛始末記A)
2000-09-20 ハンディキャップで思うこと
2000-09-19 溜息攻撃にうんざり(シロクマ紀行異聞B)
2000-09-18 一本の電話(塩辛始末記@)
2000-09-05 焼酎が危ない(シロクマ紀行異聞@)
2000-09-05 もどきが本物に化ける(シロクマ紀行異聞A)
2000-08-28 農家をダメにする補助金(北海道ゴム長ツアーB
2000-08-28 農地を若者に渡せ
2000-08-27 後継者がいない(北海道ゴム長ツアー@)
2000-08-17 頑張れホームレス


2000-09-20 うにうに第3種接近遭遇(塩辛始末記A)

Sのわがままな呼び出しに応じた理由は、もう一つあった。
 それは大好きなウニをたらふく食わせてくれるとSが約束したからだ。
 今でこそウニは大好物だが、実は28歳まで食べることができなかった。ウニのグジュグジュした感じと、あの独特の匂いが嫌だったのである。一生食うまいと思っていた。しかし、運命の日はきた。社会人になって、某社の社長に寿司をご馳走になって、その時に「ここのウニは最高だから…」と、勝手にウニを注文されてしまったのだ。
 相手は最高のウニといっている。しかも相手は得意先の社長だ。いまさら、ウニは食えません。一生食わないことにしている。そんなセリフが吐けるわけがない。ここは正念を据えて玉砕だ。一気にウニがたっぷり乗った軍艦を口のなかに放り込んだ。最高にうまかった。甘かった。ボクが20数年間抱きつづけてきたウニのイメージが吹っ飛んだ。某社長はボクのウニの食いっぷりを見て、何度も何度も注文してくれた。
 そんなことを思い出しながら、Sに催促をした。
 「烏賊も美味かったけどウニはどうした。早く食わせろ」
 そういうとSもすかさず悪態をつき始めた。
 「おめえ、昔はあんなウンコみてたいぇなものが食えるかと言ってたじゃねぇか。変われば変わるもんだよな」
 「うるせぇな、ごちゃごちゃ言わないで、20世紀最高のウンコとやらを食わせろ。ちょっと下痢気味な姿がいかしてるな」
 そのような汚い会話にあきれながら、Sの女房が提案をしてきた。
 「ねぇねぇ、どのウニがどこの産地か当てっこしない? これが北海道で、あれが三陸物、そして、これが三浦のやつね」
 色を見ればどこのウニか一目瞭然だった。北海道物は少し赤みがかかっていたし、三陸物は黄色が強く、三浦物は少し黒味がかっていた。これではつまらない。ボクは産地あてゲームに新たな提案をした。
 「目隠しをしないと、どこの産地が見え見えだな。どうだろう。目隠しをしたボクとSにA子さんがア〜ンしてくれるというのは」
 ボクの提案にSは更に付け加えた。
 「バ〜カ、勝負するからには何か賭けないとな。どうだ、好きなCD1枚ということで?」
 無論、ボクは依存なかった。
 9月13日、午後10時30分、20世紀最後の大勝負が始ろうとしていた。
 窓から月はもう見えなくなっていた。
 (続く)

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2000-09-20 ハンディキャップで思うこと

ボクの仲間に手話通訳士がいる。もう25年来の付合いで、かなり気心も知れている。
 彼女は、自分が住んでいる街で一般市民の人たちに手話講習のボランティアをしているが、一昨年からスチュワーデスやホテルマンを育成する専門学校、更に大学でも一般教養としての手話を教えるようになった。時には、保険の契約、婚姻書類の提出、離婚裁判、スキースクールなどに、付き添いで出向いたりもする。聾唖者と彼女のホットラインはファックスかメールだが、これに目を通して、返事を書いていると眠りに就くのは明け方になってしまう。多分、彼女のようなハンディキャッパーを支援する人たちはたくさんいるんだろう。でも、悲しいことに、数少ない善意の人たちに随分と負担がかかっていることをボクたちはほとんど知らない。
 誰でも歳をとると、視力や聴力が弱くなる。中には目が見えなくなったり、耳が聴こえなくなってしまったりする人もいる。また、ある日突然、朝までピンピンしていた人が事故や病気で、その日のうちに手足を失ったり、視力や聴力を失うこともある。ハンディキャッパーになる確率は、ボクたちが思っているより、ずっとずっと高いのだ。そのようにみると、ハンディキャッパーに対する援護体制だけでなく、ハンディキャッパーを支える善意の人たちを勇気づける強力なシステムが必要なのだと思う。
 「バリアフリー」、「ハンディキャッパー支援」、サービス業や公共団体で最近よく聞かれる「単語」だ。段差をなくす、車椅子を用意する、エレベーター内の低い場所にも昇降ボタンをつける、エレベーター内の側壁に鏡をつける、手話のできる人を雇用する、トイレを洋式にする、点字ブロックをつける…、いろいろなことが試みられている。なかにはハンディキャッパーにも優しい設備であることを強調するホテルなども出てきた。良いことだと思う。でも、多くの場合は形だけなのだ。
 たとえば、エレベーター内の低い場所に昇降ボタンをつけても点字ボタンがついていないとか、鏡をつけても後だけ、段差がないのは建物の出入り口だけで中は段差だらけ…という具合で、どこか間の抜けたものになっている。なぜ、そうなるか。これは、設計、建築の段階で、実際にその設備を利用するハンディキャッパーを参画させていないからだ。この件に関しては、まだまだ言いたいことがある。続きは後日ということで…。

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2000-09-19 溜息攻撃にうんざり(シロクマ紀行異聞B)

◇一人旅の場合、ゴールデン・ウィーク、お盆休み、年末年始など明らかに混雑する時期を除いては、断然、自由席を選択すべし…という思いを強くした。また、九州なら、飛行機を上手に利用という手があることも知った。鹿児島から博多まで特急つばめで約4時間、飛行機は鹿児島空港まで40分ほどかかるがリムジンで空港まで1時間、飛行機だと福岡まで2時間しかかからない。肝心の運賃は割引チケットを求めれば飛行機の方が安いくらいだ。九州を旅する時は、博多を基点にすれば、宮崎、鹿児島くらいなら日帰り旅行が楽しめる。
◇列車は車窓からの風景を楽しめるし、気軽に飲食できる良さがある。ご当地のつまみを片手に缶ビールなんて芸当もできるだろう。しかし、長時間座っているのはしんどいし、まして、隣に座って欲しくない輩が座ったりした場合は最悪だ。
◇自由席が空いていると知りながら、指定席を取ったのが不幸の始まりだった。座席番号は忘れもしない17−C、通路側までは良かったが、ドアのまん前、次の車両がビュッフェということもあって、ひっきりなしにドアが開いたり閉まったり、時には女性がかついだバッグが顔をかすめていく。これも、「まあ、ついてねぇや」で済ますことができた。
◇しかし、問題は隣の座席の若者だった。この若者はつばめが発車するぎりぎりの時間に飛び込んできた。荷物をたくさん抱え、汗だくだく、傘を片手に持ちながら、荷物を棚に押し込む。傘がボクの目の前を往復する。危ないから傘を取り上げて、若者の座席に無理やり置いた。不幸はボクだけでなく若者にも降りかかった。推定体重150キロの若者は席に座るのが大仕事だったのだ。座るというより席にはまっている姿は、外野から見れば滑稽かも知れないが、本人はどんなにしんどかったことか。汗を噴き出しながら溜息が始まった。誰のせいでもない、自由席を選択すれば一人で二人分の座席を確保できただろうに、これほど狭い席に押し込められようとは…。そんな思いが溜息になって表れたのだと思う。
◇確かに可哀相だし、同情もする。しかし、実は余所様の溜息が塩辛並に大嫌いなのである。子供の頃から溜息をつくと、他人の気持ちまで暗くさせるとの理由で親父から殴られた。このせいではなかろうが溜息は大嫌いなのだ。実は、この溜息は博多まで延々4時間も続いた。あと1時間、溜息攻撃にあっていたら、まじ切れしていたかもしれない。

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2000-09-18 一本の電話(塩辛始末記@)

 一生の不覚だった。多分、2000年9月14日は夢楽堂の短い歴史の中で忌み嫌われる日として記憶されるのではないか。ボクにとって、9月13日はそれほど酷い日だったのだ。
 それは一本の電話から始まった。高校時代の悪友Sからだった。
 「いま、福生にきてるんだけどさ、割烹料理のMにこないか。女房も一緒なんだよ。あいつ、お前にも会いたがっているしさ。そうそう、お前、鹿児島で焼酎買ってきたはずだよな。忘れずに持ってこいよ」
 Sはボクに何もいわせずに電話を切った。最近、いうだけいって電話を切る若者が増えているとテレビで特集していたが、差し詰め、Sは“ぶち切り”の元祖だ。
 Sの勝手きままな誘いなら無視したと思うが、あいつの女房が一緒なら断れない。紺の作務衣に着替えて、割烹料理屋のMまで、雪駄を引き摺りながら歩いていった。ただ、焼酎はノンベ達に胃のなかにすっかり消えてなかったが…。
 Mの暖簾をくぐろうとすると、Sとその女房、そして板前の笑い声が聞こえてきた。Sの人を嘲笑するような笑い声は飽きるほど聞かされたが、あいつの女房の笑い声は初めてだった。何だか、口の中で鈴が転がるような声でとてもくすぐったかったが、Sたちが笑っていた理由は分からなかった。
 板前がボクの顔を認めると喜色満面に笑みをたたえて話し始めた。
 「Mさん、新鮮で美味い烏賊をSさんが持ってきたんですよ。どうです、今日は烏賊づくしで…」
 その言葉に続いてSがとぼけた表情で大声で板前に言った。
 「板さん、こいつ塩辛が大好きなんで、腰を抜かすほど作ってやってよ」その言葉を彼女がさえぎった。
 「嘘よ、嘘よ。塩辛なんて食べさせてごらんなさい。そんなことしたら…」
 「そう、そんなことしてみろ。おまえも板さんも簀巻にして、うんこが流れている多摩川に放り込むぞ」
 塩辛、大の苦手だ。兄貴が自分のご飯茶碗に塩辛を入れた入れないで、子供の頃に卓袱台をひっくり返したこともあった。喧嘩両成敗とやらで門押し物置に閉じ込められたこともある。理由はない。とにかく嫌なのだ。大嫌いなのだ。
 それはともかく、高校時代の行状やビートルズ談義、同級生だった仲間のリストラ話など厳しい話を交えながら、しばらく談笑していた。
 外を眺めると真ん丸い月が空に浮かんでいた。
 その時は我が人生最大級の悲劇が起こるとは思いもしなかった。 (続く) 

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2000-09-05 焼酎が危ない(シロクマ紀行異聞@)

★まだ北海道ゴム長ツアーが完了していないのに申し訳ない。まだ、記憶が新しいうちに九州シロクマツアー異聞とやらを始めよう。ここではシロクマには触れない。その代わり、シロクマ以外の随想を語ることにしよう。
★夢楽堂が鹿児島に出掛けると聞きつけて、「これぞ芋焼酎!!」という焼酎を買ってきて欲しい、と前の会社で同僚だった後輩に頼まれた。酒屋では入りにくく、プレミアムをいつけて売られている森伊蔵も飲んだが、スマートすぎて後輩の舌には合わなかったらしい。ラベルやネーミング、ボトルで見るように、焼酎がだんだんと“Syoutyuhu”に近くなってきた。芋の匂いが抑えてある。「これでは何が薩摩焼酎だ、伝統の味を飲ませろ」というのが後輩の言い分だ。
★でも頼む相手が悪すぎる。夢楽堂は天然記念物並の下戸なのだ。日本酒の味くらいは何となく分かっているつもりだが、焼酎の味は皆目分からない。だから、酒飲みの集まっていそうな誠総研の掲示板にお願いを出したりもした。結局、返答にあった焼酎は見当たらず、空港の焼酎コーナーでいろいろ聞いて、後輩に送ったが、まだその味がどうか聞いていない。
★空港で焼酎を送っても心残りだった。だから、知覧から鹿児島へタクシーで向かう途中、ドライバーにお勧めの焼酎をご伝授願おうと話し掛けた。ドライバーはお勧めの焼酎の名をいう前に「・飲・み・た・く・ない」焼酎メーカーの名を挙げ始めた。焼酎メーカーはもともと中小メーカーが多く、余分なものは作らなかったらしい。ところが、大手は折からの焼酎ブームに乗って、売るべきものが不足しがちというのが実態だ。そこで、大手メーカーは中小メーカーから甕ごと買い付けるのだが、大きな問題が起こってくる。それは大手が製造した製品に、中小が作った焼酎を混ぜるから、どうしても●摩●波とかの東京人でも知っている焼酎の味が均一にならないということだ。美味いときは美味いが、その逆になったら最悪だ。飲むたびに味が違ってはたまったものではでない、というのがタクシードライバーの言い分だ。だから、飲むなら地焼酎を飲むのが一番で、彼は知覧の隣町・加世田で作っている焼酎しか飲まないと言う。もう一つ、気に入らないことは年々いも焼酎の味が変えられていることだ(続く)。

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2000-09-05 もどきが本物に化ける(シロクマ紀行異聞A)

★焼酎の味が変わった。この理由の一つは、折からの焼酎ブームの影響を受けてで、大手メーカーはビジネスチャンスとばかりに、より売れる戦略を立ててきたからだ。大手メーカーの能書きには、「都会人の味に合うように芋の味を抑えて飲みやすくした薩摩焼酎」なんて書いてある。そういえば、非常に聞こえが良いが、より多くの利益を確保するために焼酎の味を変えたのだ。いやはや、なんともため息が出てしまう。薩摩焼酎の薩摩焼酎たる所以は、あの芋の匂いなのに…。都会人の嗜好に合わせた焼酎は、薩摩焼酎ではなく、芋が原料の薩摩焼酎風味の焼酎に過ぎないのだ。都会人は味が変えられたとも知らずに、薩摩焼酎もどきを薩摩焼酎と信じてしまう。これはある種の詐欺罪というものだ。薩摩っぽという言葉がまだ残り、薩摩焼酎という名をつけている以上は意地でも後輩が望んだ「本格芋摩焼酎」を追求して欲しい。本物で勝負する、これが薩摩っぽのど根性というものだ。子供の頃から焼酎を楽しんでいるタクシー・ドライバーは、年々、焼酎が焼酎らしくなくなっていると嘆いている。でも、ボクには単なる嘆きとは思えない。大げさにいえば、食文化に対する一種の抗議にも聞こえる。
★東京にいると「…もどき」を多く食わせられる。「…もどき」を挙げていたら、それだけで、この日記の1000字以内という制約に引っかかってしまうので、典型的な例を挙げる。これは博多ラーメンだ。東京に約20年前に博多ラーメンのチェーン「●ちゃん」が築地と渋谷に旗揚げをした。築地で最初に食べた博多ラーメンは福岡で食べたものと味はほとんど変わらず、思わず笑みが浮かんできた。何でもオープニングは食材、スタッフともども博多からやってきたそうで、本物に近い味が楽しめた。ところがどうだろう。渋谷の店に行ったらスープの味が明らかに変わっている。明太子、高菜、紅生姜入れ放題、その文句につられて、若者がたくさん集まってきたが、博多ラーメン風の単なる塩ラーメンに過ぎなかった。何年か経って、築地の「●ちゃん」を含めて、今は博多ラーメンが博多風東京ラーメンに成り下がった。福岡で博多ラーメンを食うと、東京の博多もどきラーメンが食えないという。それを知っていたら、東京でもまともな博多ラーメンを作ると思うのだが…。

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2000-08-28 農家をダメにする補助金(北海道ゴム長ツアーB

■2000/08/28 (月◇北海道の畑を20数年見ているが、稲作が少ない十勝地方はともかく、最近、農作物の質が落ちているような気がする。特に、十勝地方から上川にバスで移動したりすると、あきれるほど上川の農作物が貧弱に見える。この一番の原因は何か、それは稲作転換畑に対する補助金政策が農政の中心になっているからだ。たとえば、北海道の稲作地帯である上川支庁の稲作減反目標は水田の35%になっている。ここに小麦ないしは大豆を作付すると10アール当り最高7万3000円の補助金が給付される。豆類やビート(甜菜)でも最高4万3000円が給付される。とりあえず、種さえ撒けば、相応の補助金を手にすることができるシステムだ。
◇農協の職員が嘆いていたのは「何もしなくても転作しさえすれば、補助金がもらえるので、農家が良い農作物を作ろうとする意識に欠けている。これでは農業がダメになる」ということだった。今年、政府は小麦と大豆の自給率アップを促すために補助金をアップしているが、農家の中には補助金目当てに大豆と小麦を作付する輩が少なくない。補助金だけが目当てだから、多少畑が荒れていても放り離し、それでも補助金という保険が効いている。だから、一部の不心得な農家はろくすっぽ畑地の面倒も見ずに、雑草を抜くことすらしない。これで質の良い農作物が作れるのか。『悪貨は良貨を駆逐する』という格言があるが、質の悪い農産物が市場に出回れば価格が下落して、まじめに農業に従事している農家のやる気を削ぐことになりかねない。
◇確かに、農家の生産意欲を刺激するのに、補助金政策は必要な手段ではあるが、良い農作物を育てる意欲のない者にまで一律の補助金を与えるのは感心しない。そもそも、行き過ぎた補助金政策は農家に乞食根性を植え付け、農家自身の競争力を弱めるものだ。端的にいえば、異常気象が起こった年以外は不要だと思っている。日本の農業が危機に!!、そう叫んでも農家の質を悪くするだけの農政、今は質を高めるための何か、思想が必要なのだと思う。

先頭 表紙

2000-08-28 農地を若者に渡せ

◇「後継者がいない」、「離農が進んでいる」、27日の日記で、そう嘆いたが、逆に北海道の農業が大発展するチャンスだ、と内心思っている。というのも、農家の老齢化が進む一方で、大型農業を夢見る若者たちが少なくないからだ。農業を捨てるのは簡単なことではない。農地を宅地にした場合はこれまでとは比べ物にならないほど税金がかかってくる。また、宅地にしても市街地から離れていてはおいそれと買ってはもらえない。一番効率の良い方法は農地を売るか貸すかなのだ。農地が増えれば、将来に希望を持ち、農家経営を安定させようと思っている農家はより効率の良い生産が出来るはずで、北海道が目指している欧米型農業を推進することができる良いチャンスなのではないか。農業に意欲を持っている若者たちに希望を与えるのではないか。
◇問題はやる気のある農家を誰がどのようにバックアップするかだ。つまり、誰がカネを出すかだ。いまや、他の金融機関同様、首の回らない農協は積極的な融資を控えている。だから、農協はあまり頼りにならない。複数の農家が組合を作って頑張るのもひとつのアイデアだが、これでは個々の農家のレベルアップにはつながらない。ここは農家融資をひとつの公共投資と考えて、やる気のある農家に大型農機具の貸与とか、農地購入資金の超低利融資などの制度を作ってはどうだろう。
◇農業が大型化し、生産効率が上がれば、農産物の価格は下がる。逆にいうと、農家は生産効率重視の農業をしていかないと農家は安定経営が出来ない。この仕組みを構築するには、それなりのカネがかかるが、農家・消費者ともにメリットを享受できるなら、農家への融資は一考の余地はあるはずだし、その資金は十分にあるはずだ。
◇十勝に数年前に有料道路ができた。原生林を開いて完成させたものだが、20キロほどのこの道路をバスで走っていて、いまだかつて対向車に出会ったことがない。この有料道路が札幌まで通じる幹線道路ならいざ知らず、地元民も利用しないゴーストロードで、無用の長物化している。多分、この道路を建設するには100億を超える資金が必要だったはずだ。このカネを十勝の中心産業になっている農業に振り分けたらどうか。やる気のある農家をもっとやる気にさせる政策を執らないと新しい農業の息吹を消すことになりかねない。

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2000-08-27 後継者がいない(北海道ゴム長ツアー@)

◇今回の北海道ツアーの目的は観光ではなく畑周り、夢楽堂の主な仕事は農家、農協、業者への取材とコメント作りだった。その中で一番楽しいのは農家への取材だが、実は今年48歳になる夢楽堂にとって一番きつい仕事でもある。畑に入るには農家の許可を得る必要がある。しかし、北海道の畑は内地のそれと比べるととてつもなく広い。すぐそばにあるように見えても、畑から農家への距離はかなり遠い。舗装道路を走る分には問題はなくても、でこぼこした「あぜ道」や「うね」を走ったり、用水路を駆け抜けたりする。大げさな言い方をすればクロスカントリー、しかも農家の取材をする時に息が切れていては話にならないから、息が切れないように走るといった高等技術を駆使しなければならない。一日に視察する畑が多ければ多いほど、体への負担はかかる。それでもスマイルスマイル、そうでないと初対面の農家からまともな話は聞けない。
◇農家から聞くのは「今年の農作物の出来不出来の具合はどうか」、「例年と比べて今年はどう違うのか」などだが、実をいうとこれらは東京で事前に関係者から取材してあるし、2、3件の農家や農業試験場の担当者の話を聞けば、その年の傾向は把握できる。だから、少し、余裕が出てくると、他のメンバーが実測調査をしている間に夢楽堂は農家の人と世間話を繰り広げることになる。今年、目立った話題が離農の話だ。最初に視察した十勝地方は北海道でも優秀な専業農家の多いところで、兼業農家の多い他の地区と比べると「十勝が大学生なら上川は小学生」(旭川を中心とした地区)といったたとえ話を聞いたことがあった。その大学生の十勝で異変が起きている。高齢化が進み、後継者がいない農家の間で離濃が進んでいるのだ。北海道の農業はカネがかかる。広い畑を耕作するのに農機具に依存しているため、コストがかかってしまう。「十勝地方は外車登録台数が多い」と同行した帯広畜産大の助手が話していたが、トラクターなどの農機具の多くが米国製で、乗用車と違って安売りなど存在しない。気前良くカネを農家に貸していた農協も他の金融機関同様貸し渋っている。もちろん、後継者のいない農家にカネなど貸すわけがない。肥えた土地が十分にあっても農業が続けられる環境が破壊されつつあるのは少し悲しい。

先頭 表紙

2000-08-17 頑張れホームレス

◇ホームページを持ちたいけど、どうすればいいんだろう?
ボクがホームページを持っているのを知ってか、そんな質問を受けることが、最近多くなった。答は明瞭、技術的なことは教えられないが、ホームページを持つ意思と少しの勇気があれば、誰だってホームページを作ることができる。それはボク自身が一番よく知っているつもりだ。要は自分で自分自身の背中を押せるかどうかだ。ぐだぐだ考えることはない。
◇ボクのホームページは画像がいっぱいある。画像が動いたりもする。それを見て、ボクがHTMLに明るく、JAVAやMIDIの知識も十分に持っている。そう思っている人がいるが、実はそうではない。ボクはややこしいHTMLの知識もタグの知識もない。いまさら、数学の公式を覚えるように、HTMLなどの知識を頭に叩き込む気もさらさらない。それでもホームページはできる。だから、理数アレルギーの人には最初からHTMLやタグは捨てろといってある。ホームページはIBM・ホームページビルダー頼り、素材も市販のを使っているだけだ。オルゴールのMIDIは会員になって提供してもらった。お気に入りの素材を集め、試行錯誤しながら遊んでいるだけだ。遊ぶという気分になれば失敗も楽しい。
◇予断だが、ボクがホームページ作る準備をしたのが1998年9月。まず何を目玉にするかを決めて、ある程度、体裁が整うまではレンタルの掲示板にコンテンツを載せて蓄積し、公開する時を待った。題して「夢楽堂ストリート建築事務所」、出来上がる過程をネタにしてしまった。個人のホームページは何でも試せる。常識なんて、どこかにやって、いろいろなことにトライしたものが勝ちなんだと思う。
◇中身がお粗末で公開するのが恥ずかしい。皆にお見せできる技術がない。そういって、あきらめる人もいる。でも、あきらめないで欲しい。最初は誰でも初心者だ。少しぐらい体裁が悪くても誰も怒ったりはしない。その分、気持ちで頑張ればいい。その気持ちは訪問者に十分通じる。ボクはそう信じている。もう一度いう。心配は要らない。そのうちに、知らぬ間にいろいろなスキルをを覚えてきて、その人らしいホームページが出来あがる。自分で進化していく、その気持ちがあれば、きっと良いホームページを作ることが出来る。さあ〜、ホームレスから脱却だ。
*ちなみにホームレスはホームページを持たない人たちのことである。

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