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み・ぽぽぽぽぽ

ときどきおもったことをかいています

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2006-09-22 あーアメリカ、
2006-09-21 fishermen
2006-09-21 ポップカルチャーとハイカルチャーその2
2006-09-21 ポップカルチャーとハイカルチャーその1
2006-09-20 負け犬になってたまるか
2006-09-19 偶然というには
2006-09-19 ぐちってもいいですか。
2006-09-18 ハッピーバースデー・・・
2006-09-18 アカデミア
2006-09-14 アニメクラブ


2006-09-22 あーアメリカ、

ここにきてから三人のアメリカ人から「ミホコはアメリカ人っぽいよね」と言われた。

今日は、日本政治の授業で、敗戦からの10年を追ったドキュメンタリー映画を見た。GHQの前でたむろする売春婦、アメリカ人の軍人とチークダンスを踊る日本人女性。日本人の老女が映画の中でつぶやいた。

when i saw them, I was like, we really lost the war, didn't we,,,,,

「アメリカ人」


日本ではよく友人たちから「みすこんはちょっと日本の社会でやってけないかんじがする」と言われた。

「アメリカ人ぽいね」と言ったひとりの友人は、「ミホコ、正直に言えばどの国が住みやすい?」と聞いた。

私は、日本、日本だよと言った。私は日本に帰って、日本の大学を卒業して、願わくば日本にある会社に就職して、老後を穏やかに暮らすんだ、と返した。彼の目も見ずに。

私が帰るべきところは日本なんだよ、たとえ日本にいた皆から「日本じゃやってけないんじゃない?」といわれても。

自信を持ちながら、「アメリカって、いい国だろう?ミホコもそう思わない?」と言える彼ら。「アメリカナイズ」という言葉が映画の中で何回も流れた。敗戦から、何人の日本人が「日本って、いい国だろう?君もそう思わないかい」と言えただろうか。敗戦の大きな影は国への無関心。

一体何人の人が、日本という国をすばらしいものにしようとして汗を流しただろう。一体何人の人が、すばらしい国にするために、西洋の輸入を試みたのだろう。すばらしい国、「アメリカナイズ」なのか?膨らむアメリカへの複雑な関心、置き去りにされかける日本という国。

敗戦は、アメリカへの、虫眼鏡でしか見えないような小さな劣等感を残した。それに伴う大きな無関心。「アメリカ人ぽいね」「アメリカに住みたくない?」「アメリカって、いい国だろう?」

何をもって「日本人ぽくない」と彼らは言ったのだろうか。私は、こんなにも自分の国に根を張りたいと思っているのに。

国を思うひとほど、日本人ぽくない、ってことじゃないの?と友人は言った。それを聞いて、思った。無関心が日本人を象徴させるんだよ・・・。少し悲しくなった。

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2006-09-21 fishermen

一年前、文化人類学の研究会に所属していた(そうでなけりゃ「レヴィ・ストロース」なんて読まんわ)。ハーバードの博士課程を修了していて、あのジョセフ・ナイの弟子だったという先生で、なんか凄いんだかよく分からないけどともかく雰囲気はゆるいところだった。

モトカレシと別れた多分一週間後に研究会合宿があった。三浦半島のさきっぽにある合宿所。皆とお酒を飲んでくだらない雑談を朝になるまで続ければ、カレシと別れたときの憂鬱は一時的にでも飛んでいってしまう。みんな、眠らないでずっとお酒を飲みながら笑いあっている。「おー、みすこんカレシとわかれたのか?まじかー、つらいな、まあ飲もうぜ」みたいなノリ。

先輩が、提案した。「海いかねえ?」4時半。

皆で花火を持ち寄って海に向かう。徹夜したときの体が浮くようなだるさ。薄暗い早朝。夏の早朝は一番何か期待させてしまう湿気と藍色をしている。暑さは耐えがたいけれども、早朝に起きて、外を見たときの微妙な涼しさ。「このままこの一日が涼しいといいのに、空が高いまま、何も気にせずに外に出れたらいいのに」というような。

海につく。静かに波がやってくる。足元で砂を手繰り寄せながら線香花火に火をつける。火がはじける様を見つめる。あれ、そういえば私はひとりだったっけ。「ミホ、カレシと別れたの?」アメリカ帰りの帰国の子が話しかけた。講義中に「私は日本が嫌いなんですよ」と堂々と言う子なので、苦手だなあと思っていた子だ。「私もね、アメリカに好きな男の子おいてきたの」その時、彼女はずっと帰国子女がよく持つ、アイデンティティに関わる脆さをずっと隠そうとしていたんじゃないかなあ、と思った。

「わたしたち、ちょっとにてるね」本当に彼女はそういった。波を見た。綺麗に引かれた地平線がゆれる。「あの海の向こうって、アメリカなんだよね。信じられない」
海の向こうは・・・海は全てをつなげてくれる、世界の全てを、ゆりうごきながら、運んできては、持ち去ってゆく。

波に足をゆだねてみる。砂と一緒に足を避けながら水が引いてゆく。止まることのないこの動き。

「みすこん、入水自殺なんて考えるなよ!」という先輩の声で後ろを向く。皆笑っている。「帰ろうぜ」

一時間ほど寝て、朝、先生が皆に質問をする。「何か新しく自分が研究したいテーマってない?」「石沢さん、なんかない?」

何も考えないで喋りだした。「私、一週間前、カレシと別れたんですよ。三年半つきあってて。こんな傷心の中の合宿だったわけですが」皆大爆笑していた。

私は、海の近くに住んでいる人、海と関わる人の文化人類学をしたいと言った。考えなしにそう思った。あの地球の中のゆり動く永遠と向き合う人々は、海とどのようにかかわり、何を得るのだろうか。そして、海に何を残してゆくのだろうか。

「傷心の中、海に行って、何か動き出した気がしたんですよ。前向きになったんだか、後ろ向きにもっと鬱になったのか、よくまだ分からないんですけど。でも、海は人を、動かす力を持ってますよね。波に足を浸してゆくと、砂と水が動く感触、それを毎日感じている人はどんな人生をおくるんだろう、ときになりました」

先生は、「僕も、漁師については研究したいんだよね。今研究したいものといえば、アメリカか漁師。」といった。いつものダルそうな無表情でぼそっと言った。

「漁師は、まだ知りうる余地があるよね」

海からの日の出と、海への日の入りをみて、波に身を任せる人生。

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2006-09-21 ポップカルチャーとハイカルチャーその2

メディアが、「コレハウケルヨネ」と探りを入れて、サッサと計画的戦略的に構造を作り、その中にハイカルチャーが入れば、それはたちまちにマスカルチャーとして受け入れられるようになってしまう。大衆が分かりやすいように、「(とある特定の)ハイカルチャー=(とある特定の事象の)シンボル」という方程式を用いてしまえば、クラシックも、モネも蝶々婦人もみんなマスカルチャーだ。

メディアって凄い。メディアが取り上げればカルチャーも、ニュースも全てマス向け、何億もの人に知れ渡り、浸透してゆく。

というと、ハイカルチャーがどんどんマスカルチャーに侵食されている気がしてしまう。マスに侵食されてしまうハイカルチャーはどのようにアイデンティティを保つんだろう、とキャンパスへ向かう途中の信号の前で考えてしまった。

そーしたら、学校の掲示板に今シーズンに始まるオペラのポスターが張ってあった。席は当たり前のように高い。あ、そうだ当たり前だ、ハイカルチャーが生き残る術は昔から変わらなかったんだ、そうか、当たり前だよな、お金と作法だ。

アッパークラスはお金を持って第一の敷居を作り上げ、そして作法(例えばクラシックのコンサートとかは良い服を着て、静かに鑑賞して、コンサート後はラウンジで見知らぬ人とシャンパン片手に指揮者の腕前について他の指揮者との比較を用いつつウィットを垣間見せながら議論しなければいけないとか)で絶対的な壁を作る。

そうすると、メディアが本当の「ハイカルチャー」に立ち入る隙はないのが分かる。メディアが提供するのはあくまでマス向けのカルチャーであり、本当のハイカルチャーは、電波を用いない現実世界で、リアルタイムに行われる文化的行為によってしか垣間見ることができない。ハイカルチャーがマスカルチャーに侵食されているのではない、ハイカルチャーの領域は昔から変わらず存在し続け、マスカルチャーがそれを垣間見る隙をメディアが作り上げただけだ。

確かに、ハイカルチャーはアクセサビリティが悪いよね。・・・でも、そんなハイカルチャーのクラスによる絶対性は多分アメリカだと通用するんだろうけど、日本みたいに階級わけがいまだに曖昧な国は(二極化〜とかいうけど、結局庶民はお金ためてヴィトン買うしサントリーホール行くじゃん)、というか日本みたいに「ハイカルチャー」が階級を絶対的に現る風潮がない国は、別に「お金かかるよねえ」以外の何者でもないのかもしれない。

日本はそのままでいてほしい、なあ〜。

あ、ついでにマキアージュの曲の英語版がCDで発売されたね!私あの音楽大好きなんだ!ということでいつまでもマスカルチャー大好きな石沢でした。

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2006-09-21 ポップカルチャーとハイカルチャーその1

社会学のノートから。

ポップカルチャーとハイカルチャーの違いは19世紀のアメリカにおいて顕著になったらしい。テクノロジーの進化によって出てきた、デバイスを「使いこなすものと使えぬもの」の違い。それはワーキングクラスとアッパークラスの間にミドルクラスを形成させた。

クラスの違いが曖昧になるとアイデンティティを明確にする目的でアッパークラスは自ら「ハイカルチャー」を作り上げる。絵画、クラシック、オペラなどなど・・・。それらを彼ら以外の層から隔離させ、ハイカルチャーの価値を増幅させていったらしい。

ところで、ハイカルチャーとポップカルチャーの明確な違いは何ですか、と疑問に思いきいてみたら、先生は「ポップカルチャーは、マス、社会学では『マス』志向はシンプル、単純、大衆向けという意味でつかうんだけど、彼らのために存在するアクセス容易なカルチャー。ハイカルチャーは、より複雑、よりアクセスが難しいという意味のカルチャーとして使われる」(ノートそのまま意訳)と応えてくれた。ていうかよくわかんないんだけど、ともかく社会学ではそういうカテゴリーわけらしい。

ポップカルチャーはマスカルチャー。メディアの進出により、マスカルチャーを形成するのは容易になった。大衆に向けて発信する音楽やアート。例えば、月9に意味難解なドラマを置くことがないように、いつだって「だれにでも分かりやすい」つくりだ。月9が作られる過程には(多分)綿密な20代くらいのライフスタイル調査とかファッション動向とか芸能人起用に際しての調査とかが必要なんだろう。大衆に愛されるためには、ものすごい計画性というか戦略性が問われるのが分かる。

いまやマスカルチャーがメディアなしでは成り立たない現実をみると、メディアがカルチャーを作り上げる働きをしているといっても過言ではない。

ところで余談だけど、あー、結局私たちはコマーシャル目的で作られたカルチャーに浸って自分の趣味にして楽しんでるんですよ、なんてひねくれるのは簡単だ。高校の時からどうやったらマスカルチャーの構造から抜け出そうかと考えていたんだけど、もう構造なんて抜け出せないんですよ(レヴィ・ストロースかよ)。むしろ、この構造内にいるのを楽しんで、構造の製作過程をのぞいてほくそえむのが、私たちができる唯一の自発性ですよ・・・。むしろ、構造の中にいるという自覚こそがわたしたちに必要な自発性なのではないでしょうか。か。

マスカルチャーは、計画性をもって、受けるためならなんでも取り込む。例えばセレブ志向の20代後半、起業家風味になるためには「クラシックでもどうですか」的に売り込んでしまう。複雑(らしいけどそうなの?)なクラシック音楽を、「セレブなアイコン」にかみくだいて単純なものに見せかけ大衆に与えてしまえば、なんとハイカルチャーと呼ばれているクラシックさえも、もはやマスカルチャーだ。

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2006-09-20 負け犬になってたまるか

正直に今日起こったことを書き連ねる。

11時、ビジネススクールにいるイケメンスイス人と茶を飲む約束が会ったので学校に向かった。彼はケイオービジネススクールに一学期留学したい人らしい。イケメンスイス人とお茶なのでいつもは化粧のけの字もしないで学校に行くのだが(私の通学スタイルであるノーメーク、寝癖、ユニクロはアメリカの学校では実に自然に許容される)一応髪をとかして眉毛をかいてでかけた。

ら、彼は私をケイオービジネススクールからの留学生だと思い込んでいたらしく、実はケイオー大学SFCキャンパス(学部)からきている私は実に肩身の狭い思いをした。あんなにメールや電話で親切だったのは、ケイオービ(以下略)の情報を知りたかっただけなのだ。で、気まずい雰囲気のまま別れた。最後に今度飲みに行こうとか言われたがもう二度と会うこともないだろう。

実は今日は授業が一つもない日なので、家に帰って引きこもってパソコンのディスプレイを開く。レジームについての理論、30ページを読まなければ。理論。マタカヨ!この論文のおかげで、「規範」をあらわす語彙を10以上知ることができた。

いつも二つのジーンズを一日毎交代ではいているので流石ににおいがきつくなったので他の洗濯物も束ねて一緒にランドリーに出すことに。乾燥機から、5つ20ドルで購入したGAPのパンツを取り出す。ピンクのストライプが味気ない。このとき本当に虚無感に襲われた。この年になっても親からパンツを買ってもらっている私(私があまりに下着を買わないので心配になって買ってしまうらしい)は、ランジェリーの価値も選び方も分からずに育ち、ましてや胸のサイズなんて測ってもらったこともない。

ビクトリアズシークレットの紙袋を見るたびに目を細めてしまうのはそういうわけだったのだ。

部屋に帰って半分ウツになりながら私はアキバブログを見た。久しぶりに見るから一気に読めて楽しい。楽しい。私はアキバブログを一人で引きこもりながら見て、楽しいと思ったのだ。彼氏にスカイプをしたら今日は会社泊まりで皆と一緒にいるので話できないといって切られた。犬が外でキャンキャンほえている。

うるさい。空しい。負け犬になってたまるか。何を持って負け犬なのか分からないが、絶対に、毎日ヒステリーにキャンキャン不満を漏らすような犬になんかになってたまるか。

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2006-09-19 偶然というには

ルームメイトのひとりははイタリア系アメリカ人の超明るい超イケメンです。今日彼はイタリア人の友人をつれて帰ってきました。

同じ大学にいる子もそこにいたので紹介されたのですが、なーんか、見たことがあるなあ、ああ、ルームメイトの弟なのね、どうぞよろしく・・・。と色々話をしてるうちに「ミホコ、アニメ好き?」ときかれて、ああ、そりゃー大好きだよと答えたら・・・・

あーーーーーーーー!!!

こやつ、アニメクラブのミーティングで隣に座ってドラゴンボールのベジータだかのものまねしてたやつだ!いやー、アメリカのギークは元気がいいねえ、とあのとき思っていたものですが、彼が、

ルームメイトのイケメンイタリアンの弟!!!!

よ・・・世の中せまいねえ・・・・。弟とはハロウィーンにどんなコスプレしようかという話で盛り上がりました。


しかしこのイケメンイタリアン、顔がいいだけでなく超気が利くのですよ、彼はリズなんとかボーン(名前失念)とかいうこれまたヒュージなくろーずぃんぐかんぱにーに勤めているのですが、彼の会社のジュエリーを誕生日プレゼントに渡してくれました!

うほ

超・センスいい!超・嬉しい!でも気が利く彼なりに「こういうのってアメリカじゃあとってもパーソナルなプレゼントなんだけどさ、うちら友達だからさ!君の彼氏にいわないでよ!ほら、会社からもってきただけだし」という必死のフォロー付き。わたしゃー日本からきたからそういうの気にせんよ。

ついでに、このイケメンイタリアンはパスタつくるのが超うまい。オリーブとトマトのパスタを作ってもらいましたが、ウマー。

偶然てすごいねー。

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2006-09-19 ぐちってもいいですか。

50ページ以上のリーディングでしかも全て抽象的なセオリーの話をされても苦痛なんだよおおおおおおおお

・・・。日本語でも普通に投げ出しているところです。投げ出したいです・・・。
実例を出せ実例をーー



ということで、さっきは友達と構造的人種差別について話してました。
人種が構造によって分断されていて、これが差別に映ってしまうときもあるのではないか、といったら、これは「constitutional racism」というのだと教えてもらいました。こういう話をアメリカ人で他人種の子と話すと「うおっ言い過ぎた?」とかとっさに顔色伺ってしまうときがあります。

例えば、アジア系のアメリカ人の友人に対しては、こんなことはないのですが、白人であったり、黒人であったりすると、どうもこういう話は顔色伺います。アジア人のどっちともない的位置づけってこの社会の中では案外得なのではと思うのでした。

ニュージーランドはほとんど白人だったし、日本はニッポン!的アジア人だし、こんなに人種が沢山いるところに住んだことがなかったので「人種」と名がつくイッシューはとても興味があります。


今日の社会学で「ミュージアムにみる階級」とかいう話がありました。ミュージアムというハイカルチャーを作り上げ、アッパークラスとその他との差別化を明確にさせたという話だったような。ひとりの女の子が発言しました。「私たちの学校は、必須科目でアート鑑賞がありますが、それも階級差別化の一つですか?」そしたら先生は「そうと取れるわね」とか返しました。

うぽぽぽぽ。自分がアッパークラスだと自覚させるため、んで、アッパークラス教養としての科目を学校が提供している、という意味だよね。このえくすくるーしぶねす!日本じゃ絶対ないよねえ・・・。

さ・・・さすがただのサンドイッチが(普通サイズ)6ドルする学校だよ。

という息抜きを残したところで、あと15ページです・・・。

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2006-09-18 ハッピーバースデー・・・

17日の昨日は誕生日だった。

アメリカ人のマスマティシャンな女の子、イスラエル人の博士課程な人、ドイツ人のスタティスティクスな人(初めて会った)、中国人のこれまたスタティスティクスな人(これまた初めて会った)、と、なんともまあ国際色あふれる雰囲気の中で夕食を頂いた。中東のファストフードだって。

実は、マスマティシャンしか私が今日誕生日だということを知らなかった。(ていうか言いふらさなかった)で、それを知った博士は目を丸くして言った。「なんで言わなかったの!来週は絶対にいいとこつれてってあげるから、ていうかその前にバースデーケーキを買おう」

ということで、一路小さなカップケーキやさんへ。アメリカっぽく、甘ったるそうで、人工着色が入っていそうなカップケーキは二つで2ドル。マスマティシャンが、お店のお姉さんに、「キャンドルもつけて!」と頼んでくれる。

博士が気付いた。「皆、タバコなんて吸わないよね・・・」一同首を横に振る。「ちょっと火かりてくる」博士が店を飛び出して、30秒後にライター片手に戻ってきた。「買ったの?」ちょっとたまげた。「ああ、タバコを吸いはじめてもいい年頃かなって思ってたんだよ」「だって、ちょっとクールじゃない?」みんな笑う。「ついでに、よくベンチとかで隣に座ってる女の人とかから、タバコの火を貸してくれって頼まれるんだけど、しりたいじゃないか、もしも持ってたらその先がどうなるかって」みんな笑った。

「ライターの火から始まる恋だってある!」みんな笑った。

公園に移った。チェス台の上でカップケーキにキャンドルをさそうということで、博士が近くにいた怖い目つきの男に声をかけた。「すいません、あのチェス台あいてますか?」

男は酔っていた。ものすごく侮辱的な言葉を吐いて男は博士を押し倒した。私とマスマティシャンは博士に駆け寄る。「my gosh,,,,excuse us!」周りに見られながら私たちは立ち去る。

「多分あの男はカラテができるにちがいないよ、だって押し倒し方がとても効率的だった」博士は笑いながら言った。全く気にしていないかのように。でも博士が「私の誕生日」に気を使って明るく振舞ってくれていたのが分かった。

小さなカップケーキに火のついたキャンドルをさしてくれた。公園のはじで、みんなが静かにハッピーバースデーと歌ってくれる。こんなに静かにバースデーソングをうたってもらったのは初めてだった。キャンドルの火がとても小さくて、こんな静かなバースデーソングにさえもゆらっと揺れた。

火を吹き消すと、「どんな願いごとをしたの」と博士が聞いてきた。火を消すとき、願い事をするのがこっちの慣習なのだろうか。「幸せになるように、かなあ」そんな願いが頭に浮かんだ。「いいね、こういう願いは一度してしまえばずっと死ぬまで続くから」

別れ際にマスマティシャンはハッピーバースデーと言いながらぎゅーっとハグしてくれた。いつも彼女と別れるときにするように。なんて日常に組み込まれた誕生日なんだろう。ただ、そんな一個一ドルのカップケーキと一本のキャンドル、皆が静かに歌ってくれたバースデーソングという、ちょっとどっかを歩いていれば見つかりそうな日常をこんな素敵な友人達と作り上げられたことがとても嬉しい。

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遅ればせながら誕生日おめでとー☆繊細なバースデーだったのね〜 / なしょび ( 2006-09-19 13:23 )

2006-09-18 アカデミア

昨日が履修科目登録の締切日。この二週間がショッピングウィークだったんだけれども、悩みに悩みすぎた上で決めたのは五科目。

Japanese politics(なんてったってSFCのゼミで講演してくれた先生!彼の講演を聞いてすぐに絶対この科目を取ろうと決めた。この講義のおかげで恥ずかしながら今更、しかもアメリカで戦後の日本を体系的に深く知る機会を得ることができまつた・・・),
Globalization and international politics(セキュリティ、経済、法の視点からグローバライゼーションを見る!みたいな授業。インターナショナルリレーション統括、みたいな感じ。アメリカから見るグローバライゼーション・・・うーん),
Sociology in Mass media and pop culture(これが一番面白い。超課題がエグいけれども、社会的にマスをふかんするのはいつもエキサイティング。アメリカというマス消費社会で、メディアとポップカルチャーは相互補完であり、その構図をセオリーを用いつつ明かしていく感じ。),
Statistical reasoning(統計って物事を正確に読み取るために重要だよ、と数多くの社会人な知り合いからずっと言われてきているので、ためしにとってみた。),
Mind/brain and behavor(サイコロジー系の授業で、面白半分に行って見たら超興味深かった。脳が感情、行動にどのような影響を与えるか、というような授業)

急いでウェブ登録をしたあとは、登録科目の教科書を買いに近くの本屋へ。日本の学校の生協では、キャンパス内の授業の教科書を扱うエリアがある。が。ここの教科書売り場ははーーーーーーーーーーーんぱなく広い。日本の生協の教科書売り場とは天と地との差がありそうなくらいだ。身長以上の本棚にずらーっと教科書が押し込まれてあって、多くの学生が10冊とかそれ以上の本を抱えながらウロウロしている。

このただっぴろいエリアの中この大学で提供される知がつまっている。生徒達はこの中から数個の知のラベル、本、を選りすぐり、引き出す。この行為が限りなく贅沢であるように感じるのだ。あたかも全知の中心に位置し、その中にある小さな知のピースを受け取る権利を得ているかのように。

「アカデミア」という言葉をはじめてここで意識した。巨大な知の渦がひしめくこの大学に、自分自身を巻き込ませ、これを外界に反映させるための場。知を提供し、また新たな知を創造させるべき場。その為に存在するこれらの数え切れない書籍。アカデミア、生徒の絶え間ない意見交換と書籍からの知識の吸収、その知識を操る学者達、これらによって構成される空間。この膨大な文字の羅列の中心に立ち、人々は意見を交わし続ける。

その営みは途方も無いほどの昔からつもりにつもった知の蓄積だ。それは、アカデミアにおいて止まることがない。知を伝承し、次の世代に伝えるというこの流れを止めるものは存在しないかのように思える。

戦争さえも。この本屋のカウンターには一つの写真が掲げられてある。第二次世界大戦中、瓦礫と化したポーランドの図書館。この中で、人々は残った書籍を手にとり、文字を追っていた。図書館としての機能をもはや果たしていない荒れ果てた場所でもなお彼らは知を追い、文字に情熱を傾ける。

戦争という絶対的とも思わせるような破壊を前にしても、知が破壊されることはない。このコミュニティにおける絶対は「知」である、と語りかけるような写真。そして、これらの知を操る権利を得た私たち。

がんばるっす。

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2006-09-14 アニメクラブ

というか今日はアニメクラブなんですよ。
ここのアニメクラブはとってもさわやかなナイスガイが多いので(さわやかで社交的で面白くてかっこよくてそれでもアニメTシャツきてる彼らが大好きだ!)とても楽しくなるだろうと思われます。

光栄なことに(?)次期主要メンバーにならない?と誘われました。残念ながら私は一年だけいないんだよね、と言ったらがっかりされました。そのかわりにオタ関係のイベントなら色々考えるよ、まずは年末の日本ツアーかな!みんなでコミケとかアキバにいこう!(でもアニメTシャツを着てうろうろするのはは止めといたほうがいいと思う)と言ってみました。日本行きの予算とか、どこ回ろうとか、色々楽しいものにしていきたいんですが、なかなか学部のクラブは旅行などに予算が下りないらしい。・・・ここのビジネススクールのジャパンアソシエーションなんて、毎年何十人もの人々を引き連れて日本に旅行しにいってるのに!!ちっ、さすがビジネススクールだ

ていうかどうやって予算作ってるんだろう。あっちのジャパンアソシエーションにいるひとにどうやって予算作ってるのか聞いてみたい。それとも皆お金持ちなんだろうか・・・。

うん、どうしても成功させたいっす。というのもやはりヲタたるもの日本にきて本場を味わってみるのが一番だと信じているからだ!このアニメクラブの部員の殆どが日本に行きたいのに行った事がない、ってのが驚きだ!ここのビジネススクールのジャパンアソシエーションの人々は日本の企業に色々コネクションがあるってんだから、それをたどればバン○イとかスク○ニとかにたどり着いて、企業訪問できたりしないものか。ていうか、今の時代オタ産業は海外展開が必要なのだからアメリカの優秀なオタクをリクルートする意気込みはないのか。

ここは、学部のジャパンアソシエーション(日本クラブのクセに日本人が超少ない)なんて、日本に支店がある外資系投資銀行とかコンサルと連絡とって、この学校にリクルーターを呼び込むようなイベントをしょっちゅう開いている。日本からリクルーターがわざわざ一つの学校の一つのクラブ(しかも学部)のために渡米するんだから、アニメクラブだって、日本にいって企業訪問くらいできないこたない気がする(という妄想)。

こんな妄想だけは幅広くて、行動しようといわれたら即行動する用意はできてるのに、リーディングの課題に押しつぶされそうになっている現実を垣間見ると涙出そうになってきます。いや、ぜったい要領よく課題を終わらせる術をみつけなければここの生活、勉強だけになってしまう(そ  れ  は  い  や  だ)

・・・というこんなところでしかかけないような恥ずかしいエントリでした。

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japan tour OTAKU versionみたいな!(笑) / みほ ( 2006-09-18 03:30 )
誕生日おめでとう!ここまで具体的に考えがまとまってたら、あとはホント行動あるのみって感じがする。経過を楽しみにしてるわ☆ / りぃな ( 2006-09-18 01:24 )

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