フーコーの本キタコレ・・・。私の理解の範疇を超えてるんだけど、最後のペーパーのためにはこ
れをもう一度読む必要が・・・。トピックが、
「認識について述べよ」
ポッカーン・・・。
しかしながら、この世の中は認識、というか人々の意識をもって成り立ってるわけなんで、一度ちゃんと考えるのも必要かと思いまつた。
認識って、人の意識を自分がコントロールできる範囲なんじゃないかな。
でも、認識するって、案外難しいかもしれません。
その例をあげてみます。
「平和」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。改憲の話がこのごろやっぱり日本で盛んらしいけど(憲法記念日だしね)、九条二項の改変に関して、反対派も賛成派も一つの目標があります。それは「平和」を追求するためらしいと思うんですけどどうでしょうか。「改変しないと、国の平和が守れない」「改変すると、国の平和が守れない」そんなかんじで。
しかしそもすれば「平和」ってなんですか。言葉のレトリックで満足できる「平和」は私たちの認識の表層しか汲み取っていません。例えば、アメリカにおけるイラク戦争のように、「北朝鮮で軍は交戦状態にあるけど、自国が守られてるから平和だ」と言えるのは改憲派ですよね。でも、護憲派は、「自国が交戦状態にない、人の殺し合いがない」状態を平和と捉えるので、どうも受け入れられません。とても潔癖な考え方です。
でも、護憲派が言うような「交戦状態にない、人の殺し合いがない」状態が必ずしも「平和」なのか疑問です。冷戦期は平和でしたか。交戦状態でないけれども、平和ではありませんでした。緊張状態に支えられた脆い平和的な幻想です。だから、平和はとても相対的で、人々の認識が、人々が言葉で描写できるような域の言葉ではないのです。
自分の家族が残って、他の近所の人が全て死んでしまっても、「自分にとっては平和」であるという状況もあるでしょう。昔は死にそうに苦しかった学校生活だって、今の社会人生活に比べればとても平和だったという人だっていますよね。一人一人の中に持つ平和の尺度は違うし、その人が持つ平和の尺度でさえも可変的です。
「平和」という文字は「認識」できても、その定義は認識で捕らえることができません。「その状態にならないと評価ができない」、自分の意識がコントロールできない状況が「平和」なんじゃないでしょうか。「平和」を認識するのはとっても難しいです。
ではいつ人はコンセンサスをもって平和を「認識」することができるのでしょうか。それは、多分そのイベントが歴史的過去となった時にしかない気がします。
とだらだら書いてたらフーコー読めよって感じなんで戻ります。 |