himajin top
Love sick

私はそれ(ばらの花束)を、じかに、正確に写生しようとして、細部に熱中し、ばらの花をありのままに描くことに没頭した。その結果、私はもたもたとつまずき、どこへも到達できず、最初にもっていた観念(イデー)、私を魅了したヴィジョン、つまり出発点を見失い、二度と取り戻すことができなくなってしまった。私はもう一度それを取り戻したいと思う。―うまく最初の魅惑を取り返すことができれば。
ピエール・ボナール
アンジェール・ラモットとの対話より 1943年

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-05-10 Carnation
2003-05-01 約束
2003-04-07 雪掻きと引越し祝いと夏へ
2003-03-31 3月
2003-03-04 「パフィオペディルム」
2003-02-19 「ランゲルハンス島の午後」
2003-02-08 泣きたい気分
2003-01-23 アン フェイク
2003-01-20 シモン
2003-01-15 「答え」


2003-05-10 Carnation

             ドヌーブ
             テラ
             オペラ
             チェリオ
             テンボ
             ファリダ
             プラミニア ヴァイオレット
             スキッパー
             テラノバ
             プラドミント
             プリメロダーク
             プリメロアルファ

 


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2003-05-01 約束

私の誕生日のプレゼントに、松木は4月の休日を避暑地で過ごす約束をした。
忙しい日が続いて、私たちは夫婦らしい週末を過ごすことが殆どなかったから、
松木がそうしようと言ってくれた時は、とても嬉しかった。

桜が開いた週に、美容室で髪を染め、スタンドで車を洗い、帽子を箱から出して風を通した。
嵐のような風がふき、長い雷が鳴り、雨が降る日が続いた。
新しいTシャツが届き、それを3回ほど着たなあと数える頃には、
並木の桜は散りはじめ、そして私たちの約束は延期になった。


次に行けるとしたら、梅雨に入っているかもよ
空いていてちょうどいい
ガスがロータリー付近にまで届くって言ってた
コースもそうだった もやもや
もやもや?
「靄靄」









雨のゴルフ場に立つと、散歩中の三人に出会えるんじゃないかと、いつもそう思う。


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2003-04-07 雪掻きと引越し祝いと夏へ

朝から降りはじめた霙は、すぐにぼたん雪に変わり、
私は、うんざりしながら店舗の前の雪掻きをした。重く湿った灰色の雪。
冗談でしょう? もう4月なのに
今夜は浅野と会う約束をしている。雪が早く止んで欲しかった。



午後8時、遅れて店に入ると、浅野はサロンの女性を一人、連れていた。
名刺をもらうと、
「最近、苗字が変わったんです」と、彼女は言った。

二人は、食事は済ませたからとカクテルを選び、
私は、ゴルゴンゾーラのパスタと鶏肉のロースト、オイルのたっぷりかかったサラダ、白ワインを一本頼んだ。
食後には、甘いショコラと濃いコーヒーを一杯ずつ。

「3月は忙しかった。もう異常なほど。朝から夜から、店と家の往復だけで」
「一度も遊びに行かなかった?」
「一度も」
「自分の店じゃないのに、どうしてそこまで働くの?」
「そうね」
「松木さん、穏やかじゃなかったでしょう」
「お互いさまだから」
「デートもしていない?」
「この間、4月1日にした」
「あら」
「嘘ついて、午後からずる休みよ」
「あらあら」


23時を過ぎると、照明が落されて、店内が暗くなる。
前回この店で、写真を撮って欲しいと若者たちのテーブルに頼まれたことがあった。何枚か撮った後で、真っ暗で何も写っていないことに気がついた。
午前3時近くのことで、その後、おやすみと言って帰ったことを覚えている。

友人の引越し祝いの為のワインを店長に相談し、
その中の赤ワインを一本、譲ってもらうことにした。
桜見に間に合うといいけれど。
来週には花が散りはじめるというのに、こちらはまだ雪掻きよ。ねえ、冗談でしょう


壁にかかったボードを見ながら、海へ行きたいと思った。
春はもう終わりでいい。
早く夏が来るように


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2003-03-31 3月

誕生日に届けてもらった花束を。

とても嬉しかったです。どうもありがとう。
メッセージを送ってくれた皆さん、ほんとにどうもありがとう。





オノ・ヨーコが昨年の暮れ、インタビューでこんな風に語っていた。

   自分の心が踊るようなことを、一日一つしてください
   空を見上げることだけでも、心は踊るでしょう
   もし自分の心が踊れなかったら、人の心が踊ることをひとつしてあげて
   その人に電話をかけて「どうしてる」というだけでもいいの
   一日ひとつ、それを毎日3ヶ月続ければ、人生はがらりと変わるでしょう
   そうすれば、世界を変えることもできるのです

彼女のことはあまり理解できなかったけれど、この時は、いいこと言うなと思った。
私も、誰かの心が少し踊るような、何かができればいいと思う。


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2003-03-04 「パフィオペディルム」

少し前にエルデコで見たそのページは、とても魅力的だった。
店の見学をと、ショップに連絡を取ると、ページの写真の左側に写っていたデザイナーが電話口に出た。
私はその時の話しをしながら、同じページをテーブルの上に広げて、浅野に見せた。
「どう思う?」 
「いいんじゃない。そういうの見ると、あなた、わくわくするでしょう」
「する」

雑誌を閉じて、浅野が言った。
「ニナ、あなた、男だったらよかったのにと思うことがあるでしょう。女でなくて、妻でも母親でもないの」
「え?」
「そんな顔してたわ」




店を出るとすぐに、浅野は、私に向かって言った。
「ねえ、本当に一緒にやらない?」
「やらない」
あるサロンの代表が、浅野の仕事を手伝うことになったと聞いていたし、
私がもし約束をしても、簡単にそれを破ることを、多分浅野は知っているだろう。
私が本当にやりたいことを、浅野は知っている。

「ニナ、やっぱりあなたは、好きな格好をして好きな人に会って好きな時に笑っていればいいの」
「何よそれ」
「そうしなさい」

浅野の口調からは軽い軽蔑を感じたけれど、それでよかった。
スカートもブーツも脚も素敵だと、そう誉めてくれるだけで十分だった。




浅野は、一番手前に停めてあった、サロンの代表の彼女が所有する車に乗り、すぐに発進して、駐車場から先に出ていった。
私は、ドアを開いてゆっくりとシートに座り、両脚を揃えて中へ入れた。
スカートの裾から両膝が見えて、そして隠れた。

「ジルに会いたい」  そう思った。






パフィオペディルム   明るい間接光の入る場所で


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2003-02-19 「ランゲルハンス島の午後」

そこの店主は気難しいと評判だったが、
静かでシンプルな店内に入ると、私たちは何も気負いすることはなかった。

中庭に注ぐ、あたたかい陽射しがガラスを通して席にも届き、
キラキラとした光の反射の中で、私たちは、視界が慣れるまで少し黙っていた。
目を軽く瞑ると、まるで魚の浮き袋に入ったような気分になった。
浮かんだり、沈んだり。
ふと、「ランゲルハンス島の午後」を思い出した。海外にいる友人が、どんな本かと尋ねていたっけ。
     
     カエルの視神経や、あの神秘的なランゲルハンス島からも春の匂いがした。
     目を閉じると、柔らかな砂地を撫でるようにながれていく川の水音が聞こえた。
     まるで春の渦の中心にのみこまれたような四月の昼下がりに、もう一度
     走って生物の教室に戻ることなんてできやしない。


ランゲルハンス島の午後は、きっとこんな春の日だったにちがいない。

「カエル」
「カエル?」
「カエルにすい臓があるなんて、それまで考えたことなかった」
「カエルにもすい臓はあるでしょう」浅野は、メニューから目をそらさないまま、そう答えた。

      1961年の春の温かい闇の中で、僕はそっと手をのばして
      ランゲルハンス島の岸辺に触れた。


私もそっと手をのばして、その岸辺に触れてみた。
また浮き袋が少し、動いたような気がした。




        /ランゲルハンス島の午後  村上春樹・安西水丸  光文社








     ラナンキュラス   ラテン語でカエルの意味。


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2003-02-08 泣きたい気分

1月のジルの部屋に飾られるはずの花が、私の部屋に溜まったままでいた。
クリスマスギフトという名のアマリリスは、蕾が全て開き、そして茎が折れた。
特注の秋色あじさいは、そのままドライに変わり、
アネモネは、花びらが反りかえって落ちた。
ヒヤシンスの青は色が抜けていき、甘温い香りだけが水に残った。
苛立った私の傍らで、そうやって花は古くなっていった。


金曜日の夜。突然電話が鳴り、それを取ると、ジルの声が聞えた。
「もしもし」
「はい」
「昼間、電話した」
「仕事中は取らないことにしているの」
「どうした」
「どうしたではないでしょう」

  帰国したはずの別れた恋人が戻ってきたと聞いたのは、2月に入った今週の火曜日のことだった。
    先週から部屋にいる
    一緒に暮しているの?
    うん
    別れたと言ったのは?
    突然、戻ってきた
    よくわからないわ
    そうなんだ


「どうした」
「どうしたではないでしょう」
「声を聞きたくて」
「そう ありがとう」
「そんな風に言うな」
「私、嫉妬しているの」
「わかってる」

喋る声がだんだん小さくなっていく。
ジルの部屋の、古くなった花を思った。
正月の花が、多分そのまま残っている筈だった。
「傷んだら、すぐに捨てて」と言った私に、
「次の花まで、このままにしておくよ」と、ジルは言っていた。
もっと早く、新しい花に替えてあげればよかった。

混乱しすぎて、もう泣きたい気分だった。





Amaryllis


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2003-01-23 アン フェイク

11月のあの日、ジルは電話で、恋人と別れたと私に告げた。
「どうして」と尋ねる私にジルは、
成田まで送り、彼女は帰国した。と答えた。
「どうして」
責める私に、ジルは黙ったままで、
私はさよならと言い、電話を切った。

彼女はそれを知ったのだろうか。
先日の、私の勘が見当違いに働いていなかったとすると、
答えはひとつで、
恋人が知り得たその事実は、悲しく、受けとめようの無いものだったに違いない。



新しい年まであと2日となった年の瀬の夜。
私は、ジルの新しい部屋を訪れた。
正月用に揃えた花を運び入れる。
大王松、根引き松、千両、ピンポンマム、シャムロック、リューカ、グラダス、太く結った水引。
ジルは白洲正子のような花が好みだったが、私は好きではなかった。
竹の器に花を挿す。
古美術の黒い壷には、赤いグロリオッサのみをたっぷりと入れた。
「こっちの方が似合うと思って」
「うん、いい」

不用な花を片付け、ナイフをしまうと、私はジルに言った。
「ねえ、どうして恋人と別れたの」
困ったジルの顔は見たくなかった。でも、
もしかしたら
私は、その続きを尋ねるつもりでいた。

ジルの顔は疲れていた。この間もそうだった。
「大丈夫?」
ジルは答えず、私の側から離れた。

リビングには既に、先日の李朝の家具が揃えられていた。
取手の金具の上部には、大理石があしらわれている。
向かいには、ハラコの敷物が一枚。
鹿のような、浅い茶色のフォーン。鹿の胎児はこんな模様なんだろうか。
きっとフェイクだろう。大きすぎるもの。
中央のテーブルが邪魔だった。

ローランサンの絵が飾られていた。
ジルが大切にしているという一枚。踊り子のような少女が一人。
ローランサンの絵には、若くて美しい娘しか登場しないと、ジルが言っていた。

ジルは寝室にいた。
「帰ります」
「階下までおくるから」
「いい よいお年を」

エレベーターで下に降りる。
エントランスにある造花のアレンジメントが、嫌でも目に入る。
全くセンスの悪い花。通る度にそう思う。
友人の店に寄り、食事をして帰ろうと思った。






Ranunculus


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2003-01-20 シモン

私は車に戻り、そのまま家へ帰った。
浅野には会わず、電話さえ入れず、りんごも花束も車に残したままだった。

ジルが話す「友人」とは、仕事のパートナーの彼のことだった。
私はもう少し早く、それに気がつくべきだった。
いつか、ジルの運転する車の助手席から、不躾な視線で私を見た人物。
幾つもの伏線は、敷かれていたのか。

ジルと初めて出会った時、「彼」はジルの隣りにいた。
私の意識の中で、そこから引っかかっていた何か。
誕生日の夜、花束を受け取った時にも、
新しい部屋の鍵を持って、そこに画を運び入れた時にも、
ジルと彼は一緒だった。
今夜も一緒だった。

シンクの脇に置かれたアルコールも煙草の吸殻も、ジルのものじゃない。
寝室の明かりに光った腕時計は、ジルのものではなかった。


たしか、似たような小説を読んだことがある。
彼は何という名だっけ、
シモン
そう、シモン。
でも、まさかこんなことって。

レダのように、嘔吐や眩暈は私にはやってこなかったが、その夜は眠れなかった。
雪の空の裏側で、錆びた月が動かずにいた。
車の後ろの座席ではりんごが崩れ、
花は凍って、翌朝だめになった。





December


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2003-01-15 「答え」

寝室を入り、すぐ右の壁には、一枚の画があった。
「ボナールだよ」と、ジルが言った。
明かりの中でよく見ると、カラーリトグラフだった。
「これは、向こうの部屋に持っていくの?」
「持っていく」

ジルが所有する画の数枚は、女性を描いたものが多い。
新しい部屋に、それらが飾られる。
美術家たちとは別に、ジルはきっと絵柄の外には、意味づけを求めないんだろう。
そう思いたかった。

ジルは、友人の話しを喋っていた。
「もう休むといいわ おやすみなさい」
ジルにそう言って、私は寝室を出た。

何かが引っかかっていた。
もしかしたら
もしかしたら

ずっと前から、微かに私の意識の中で引っかかっていたものが、くるりとこちらを向きそうな感じだった。
この部屋にはいたくなかった。

もしかしたら

私は、その先を追うのを止めて、急いで違う他の何かを考えようとした。
それでも、それは緩く解れていき、止まることがなかった。
ああ、そうだったのか
そして、私にはその答えがわかってしまった。


浅野の顔を思い出す。
車の中で冷え切った花束を思う。
このまま、早く家に帰りたかった。





Anemone


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