himajin top
Love sick

私はそれ(ばらの花束)を、じかに、正確に写生しようとして、細部に熱中し、ばらの花をありのままに描くことに没頭した。その結果、私はもたもたとつまずき、どこへも到達できず、最初にもっていた観念(イデー)、私を魅了したヴィジョン、つまり出発点を見失い、二度と取り戻すことができなくなってしまった。私はもう一度それを取り戻したいと思う。―うまく最初の魅惑を取り返すことができれば。
ピエール・ボナール
アンジェール・ラモットとの対話より 1943年

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2003-02-19 「ランゲルハンス島の午後」
2003-02-08 泣きたい気分
2003-01-23 アン フェイク
2003-01-20 シモン
2003-01-15 「答え」
2003-01-08 12月の赤いりんご
2002-12-25 ハッピー・クリスマス
2002-12-22 「東京サーカス」
2002-12-16 「楽園ベイベー」
2002-12-10 spiral


2003-02-19 「ランゲルハンス島の午後」

そこの店主は気難しいと評判だったが、
静かでシンプルな店内に入ると、私たちは何も気負いすることはなかった。

中庭に注ぐ、あたたかい陽射しがガラスを通して席にも届き、
キラキラとした光の反射の中で、私たちは、視界が慣れるまで少し黙っていた。
目を軽く瞑ると、まるで魚の浮き袋に入ったような気分になった。
浮かんだり、沈んだり。
ふと、「ランゲルハンス島の午後」を思い出した。海外にいる友人が、どんな本かと尋ねていたっけ。
     
     カエルの視神経や、あの神秘的なランゲルハンス島からも春の匂いがした。
     目を閉じると、柔らかな砂地を撫でるようにながれていく川の水音が聞こえた。
     まるで春の渦の中心にのみこまれたような四月の昼下がりに、もう一度
     走って生物の教室に戻ることなんてできやしない。


ランゲルハンス島の午後は、きっとこんな春の日だったにちがいない。

「カエル」
「カエル?」
「カエルにすい臓があるなんて、それまで考えたことなかった」
「カエルにもすい臓はあるでしょう」浅野は、メニューから目をそらさないまま、そう答えた。

      1961年の春の温かい闇の中で、僕はそっと手をのばして
      ランゲルハンス島の岸辺に触れた。


私もそっと手をのばして、その岸辺に触れてみた。
また浮き袋が少し、動いたような気がした。




        /ランゲルハンス島の午後  村上春樹・安西水丸  光文社








     ラナンキュラス   ラテン語でカエルの意味。


先頭 表紙

2003-02-08 泣きたい気分

1月のジルの部屋に飾られるはずの花が、私の部屋に溜まったままでいた。
クリスマスギフトという名のアマリリスは、蕾が全て開き、そして茎が折れた。
特注の秋色あじさいは、そのままドライに変わり、
アネモネは、花びらが反りかえって落ちた。
ヒヤシンスの青は色が抜けていき、甘温い香りだけが水に残った。
苛立った私の傍らで、そうやって花は古くなっていった。


金曜日の夜。突然電話が鳴り、それを取ると、ジルの声が聞えた。
「もしもし」
「はい」
「昼間、電話した」
「仕事中は取らないことにしているの」
「どうした」
「どうしたではないでしょう」

  帰国したはずの別れた恋人が戻ってきたと聞いたのは、2月に入った今週の火曜日のことだった。
    先週から部屋にいる
    一緒に暮しているの?
    うん
    別れたと言ったのは?
    突然、戻ってきた
    よくわからないわ
    そうなんだ


「どうした」
「どうしたではないでしょう」
「声を聞きたくて」
「そう ありがとう」
「そんな風に言うな」
「私、嫉妬しているの」
「わかってる」

喋る声がだんだん小さくなっていく。
ジルの部屋の、古くなった花を思った。
正月の花が、多分そのまま残っている筈だった。
「傷んだら、すぐに捨てて」と言った私に、
「次の花まで、このままにしておくよ」と、ジルは言っていた。
もっと早く、新しい花に替えてあげればよかった。

混乱しすぎて、もう泣きたい気分だった。





Amaryllis


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2003-01-23 アン フェイク

11月のあの日、ジルは電話で、恋人と別れたと私に告げた。
「どうして」と尋ねる私にジルは、
成田まで送り、彼女は帰国した。と答えた。
「どうして」
責める私に、ジルは黙ったままで、
私はさよならと言い、電話を切った。

彼女はそれを知ったのだろうか。
先日の、私の勘が見当違いに働いていなかったとすると、
答えはひとつで、
恋人が知り得たその事実は、悲しく、受けとめようの無いものだったに違いない。



新しい年まであと2日となった年の瀬の夜。
私は、ジルの新しい部屋を訪れた。
正月用に揃えた花を運び入れる。
大王松、根引き松、千両、ピンポンマム、シャムロック、リューカ、グラダス、太く結った水引。
ジルは白洲正子のような花が好みだったが、私は好きではなかった。
竹の器に花を挿す。
古美術の黒い壷には、赤いグロリオッサのみをたっぷりと入れた。
「こっちの方が似合うと思って」
「うん、いい」

不用な花を片付け、ナイフをしまうと、私はジルに言った。
「ねえ、どうして恋人と別れたの」
困ったジルの顔は見たくなかった。でも、
もしかしたら
私は、その続きを尋ねるつもりでいた。

ジルの顔は疲れていた。この間もそうだった。
「大丈夫?」
ジルは答えず、私の側から離れた。

リビングには既に、先日の李朝の家具が揃えられていた。
取手の金具の上部には、大理石があしらわれている。
向かいには、ハラコの敷物が一枚。
鹿のような、浅い茶色のフォーン。鹿の胎児はこんな模様なんだろうか。
きっとフェイクだろう。大きすぎるもの。
中央のテーブルが邪魔だった。

ローランサンの絵が飾られていた。
ジルが大切にしているという一枚。踊り子のような少女が一人。
ローランサンの絵には、若くて美しい娘しか登場しないと、ジルが言っていた。

ジルは寝室にいた。
「帰ります」
「階下までおくるから」
「いい よいお年を」

エレベーターで下に降りる。
エントランスにある造花のアレンジメントが、嫌でも目に入る。
全くセンスの悪い花。通る度にそう思う。
友人の店に寄り、食事をして帰ろうと思った。






Ranunculus


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2003-01-20 シモン

私は車に戻り、そのまま家へ帰った。
浅野には会わず、電話さえ入れず、りんごも花束も車に残したままだった。

ジルが話す「友人」とは、仕事のパートナーの彼のことだった。
私はもう少し早く、それに気がつくべきだった。
いつか、ジルの運転する車の助手席から、不躾な視線で私を見た人物。
幾つもの伏線は、敷かれていたのか。

ジルと初めて出会った時、「彼」はジルの隣りにいた。
私の意識の中で、そこから引っかかっていた何か。
誕生日の夜、花束を受け取った時にも、
新しい部屋の鍵を持って、そこに画を運び入れた時にも、
ジルと彼は一緒だった。
今夜も一緒だった。

シンクの脇に置かれたアルコールも煙草の吸殻も、ジルのものじゃない。
寝室の明かりに光った腕時計は、ジルのものではなかった。


たしか、似たような小説を読んだことがある。
彼は何という名だっけ、
シモン
そう、シモン。
でも、まさかこんなことって。

レダのように、嘔吐や眩暈は私にはやってこなかったが、その夜は眠れなかった。
雪の空の裏側で、錆びた月が動かずにいた。
車の後ろの座席ではりんごが崩れ、
花は凍って、翌朝だめになった。





December


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2003-01-15 「答え」

寝室を入り、すぐ右の壁には、一枚の画があった。
「ボナールだよ」と、ジルが言った。
明かりの中でよく見ると、カラーリトグラフだった。
「これは、向こうの部屋に持っていくの?」
「持っていく」

ジルが所有する画の数枚は、女性を描いたものが多い。
新しい部屋に、それらが飾られる。
美術家たちとは別に、ジルはきっと絵柄の外には、意味づけを求めないんだろう。
そう思いたかった。

ジルは、友人の話しを喋っていた。
「もう休むといいわ おやすみなさい」
ジルにそう言って、私は寝室を出た。

何かが引っかかっていた。
もしかしたら
もしかしたら

ずっと前から、微かに私の意識の中で引っかかっていたものが、くるりとこちらを向きそうな感じだった。
この部屋にはいたくなかった。

もしかしたら

私は、その先を追うのを止めて、急いで違う他の何かを考えようとした。
それでも、それは緩く解れていき、止まることがなかった。
ああ、そうだったのか
そして、私にはその答えがわかってしまった。


浅野の顔を思い出す。
車の中で冷え切った花束を思う。
このまま、早く家に帰りたかった。





Anemone


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2003-01-08 12月の赤いりんご

浅野と浅野の知人らの食事の席に同席するという約束で、
私は、店から戻って急いで仕度を整えた。
浅野の店に飾る、クリスマスのディスプレイ用のりんごを持って出るつもりだった。

玄関でブーツを履こうとしたその時、電話が鳴った。
ジルだった。
「はい」
「部屋に来て欲しい」
「これから?」
「迎えにいく」
「いい、車だから」
「着いたら、入って来て」
「わかった」

ジルの電話を切った後、浅野へ電話を入れようと思い、少し迷ってやめた。
ジルの部屋から今夜の店までは歩いて行ける距離で、
何より今夜のメンバーを思うと、1時間ほど遅れて行くのがちょうどいいと思った。



ジルは棚から備前の器をふたつ出し、「これに、お茶を淹れて欲しい」と私に頼んだ。
そして、「疲れている」と私に言った。
ジルの顔を見た時に、そう思っていた。

器と茶筅を温めた後、少し多く抹茶を入れた。
正面を向けて差し出すと、ジルはそれを受け取り、そのままお茶を飲んだ。
「おいしいけれど、濃い」
「濃くいれたの」
もうひとつの器を持ってジルの側へいき、私もお茶を飲んだ。
「よい茶碗ね」
「もちろん」ジルが少し笑って答えた。

道具を片付け終わると、
ジルは、李朝の家具が載った雑誌を開いて私に見せ、
新しい部屋に置きたい物があると言った。
コレクションをまだ増やすつもりなんだろうか。

「その薬箪笥の向かいに、ハラコを敷いたらいいのに。裸でごろごろしたら、きっと気持ちいいわよ」
以前雑誌で見た、島田順子のブローの家の、ゼブラのハラコを思い出した。
「そうだね」ジルが軽く答えた。


今頃、浅野と中年の女たちは、金融の話しを喋り続けているはずだった。
外は、12月に降る何度目かの雪のせいで、ひどく寒いはずだった。
雪に濡れて、クラフトで包んだ手土産の花は、台無しになるはずだった。
私は、黒いブーツを履いて、揃えた両脚を、見せるはずだった。


ジルは寝室に入って行った。
開けたままのドアから、照明が洩れて見える。
ジルは、「おいで」と私を呼んだ。


先頭 表紙

2002-12-25 ハッピー・クリスマス

さあ今日はクリスマス
あなたは今年どんなことをしてきた?
また1年が終わって
新しい年が始まる
今日はクリスマス
楽しんでちょうだい
近くにいる人 愛しい人
老いた人 若い人

心からメリー・クリスマス
そしてハッピー・クリスマス・イヤー
誰も恐怖を感じることのない
いい年になることを願いましょう    
    
John Lennon & Yoko Ono    Happy Xmas(War Is Over)
対訳 野村伸昭






よいクリスマスをお過ごし下さい。
よい新年をお迎え下さい。


Best wishes to you 

ニナ


先頭 表紙

2002-12-22 「東京サーカス」

そこが閉じられる少し前、「日刊ジョニー」の彼の更新だけが、不定期にアップされ、私はそれを読むたびに、彼の苛立ちのようなものを少しだけ感じていた。

最後の文章は、よく覚えている。
ある晴れた日の朝、彼は熱病から突然、冷めたという。
がらんとした空虚。見えるのは何もないないしんとした世界で、それをまた迎えたのだと。
情熱の後の、熱中の後の、光景。そしてそこからまた始めるという。繰り返し。


私が「東京サーカス」を手に入れたのは、それを読んだ少し後のこと。
運命としての「私」を抱えたままでの写真行為。その行為の痕跡としての写真とは、どんなものか、手にして見たかった。
もちろん、ジョニーという架空の人物に、ずっと惹かれていたのも事実。

写真家と刹那の関係性の中にある彼等表現者の存在には、軽い嫉妬さえ感じた。
それが小説家であったり、スターであったり、老人(私にとっては)であったりしても。

「東京サーカス」大野純一 ポートレイト写真集http://www.ne.jp/asahi/tokyo/circus/diary/2002/2002/tokyocircus.html
*この本の収益は全て、世界の働く子供たちへ寄付することを目的とする。

大野純一 オフィシャルサイト
http://www.ne.jp/asahi/tokyo/circus/


昨日、もう1冊、「東京サーカス」を手に入れた。
そして私は、シンプルにただページをめくり、写真を見つめる。
彼の情熱の発露は、ここに確かにあると思う。


先頭 表紙

2002-12-16 「楽園ベイベー」

12月に入り、新しく購入した部屋の鍵が、ジルに渡された。
土曜日の夜、まだ独特の匂いの残るエレベーターを使って、その部屋に入った。
内装が全て整った後、部屋に花を飾るよう、ジルから依頼されている。
温かい床と白い壁。既に、画が何点か運ばれていた。
以前の部屋には飾られなかった画。
時計や車や絵画や部屋や恋人を、同じように変えていくんだろう。そう思った。
私はしばらくそこにいて、そのあと暖房のスイッチを切り、ひとつだけ取り付けられた簡単な照明を消して、部屋を出た。




溶けた雪が凍り、朝から道路は最悪だった。
出来ることなら、クリスマスも正月も一切気にせず
南半球のビーチにでも行き、浜辺に寝転がりたかった。
ビキニをつけ、ずうっと日光浴をしていたい。そんな気分だった。
友人も、半日くらいなら付き合ってくれるだろう。

店や街に流れるクリスマスソングにはあきあきしていた。
私が、夏に流れた曲をかけると、ジルは、「理解できない」といった、それでも時々見せるその表情をした。
   
   Wonderful time It’s precious time
   Wonderful time It’s our styie



「楽園」をテーマに写真を撮る写真家は、テレビで語っていた。
僕が撮るのは、ドキュメンタリーじゃないからね。演出は、ありだよ。
きれいなものを撮りたい。
タヒチでは、楽園の花をテーマに撮り続けていた。そこで、ゴーギャンと自分の繋がりを語る。
オーシャン・グリーンの海の色と、セルリアン・ブルーの空の色。それを写す、絵画的な写真。
ペントハウスのオフィスからは、都会のビルと河が下に見えた。
数名の社員と仕事をし、共に昼食をとる。築地で仕入れた新鮮な食材を切り、鰹節を削り、料理を作る。器に盛り、テーブルに並べ、それを食べる。
「味覚と感性は繋がっているんだよ。」
    
十年前に、こうなりたいと願った姿は、現在の僕だよ。
願い続けることが大事。願わないとそうならない。運もあるけれどね。
運をつけるコツはあるよ。
42歳の写真家は、そう言ってにやりと笑った。

十年後のビジョン? 十年後じゃ遅すぎる。



靴屋の棚には、ピンク色カバーの「HOTEL楽園」が置いてあった。
手に取るか迷い、新しく入った女店員に遠慮して、やめた。
黒の表革のロングブーツは、VERO CUOIOのもの。革の底には、蝶の印がひとつ。
これを履いて後ろを振り返ると、自分の足首を確かめるへんな癖も、気にならなかった。
印象的な花柄のスカートを合わせようと思った。
寒い街の中、踵を鳴らして歩くと、スカートが揺れる。そして、足の裏には白い蝶が一匹。
なかなかいい。






                                     .


先頭 表紙

2002-12-10 spiral

思わぬ話しをジルから聞かされ、私は彼を責めていた。
最後はどう答えていいのか分らず、
「さよなら」と言って電話を切り、そのまま電源を落とした。
いつも電話の最後に、私が「さよなら」と言うのを、ジルは好きではないと言っていた。
「本当のさよならに聞こえるから、さよならと言うのはやめて欲しい」
そうジルが言うのを思い出して、悲しくなった。
今夜、ジルの新しい年齢と同じバラの花束を渡す約束は、とても出来そうになかった。
ジルが話した事実を薄くなぞろうと試みたが、ひとつで十分だった。それは、ずるずると繋がっていたから。

結局、午後8時を過ぎてから、私は用意した花の茎を台に並べ、螺旋の束を丁寧に作っていった。
午後9時、ジルが最後に寄ると言っていた店へ花束を持って行く。
客の好奇の視線をいくつか感じたが、それを一切無視し、オーナーを待った。
「お誕生日の花束です。後ほどこちらで受け取られるとのことです」ジルの名を告げる。
「わかりました。お預かりします。」オーナーがにこやかに答えてくれる。
「女性のお方がお誕生日でしょうか?」恋人のことを言っている。
「いいえ、ご本人です」
「はい。それではたしかに。」オーナーは花を抱えてそう言った。
彼女は多分、もうこの店には来ない





私がずっと眠っている間、ジルは恋人と別れた。
いつだって現実は、小説より唐突で複雑でドラマチックで生々しい。

名残りの短い秋が過ぎ、11月はまるで真冬のような雪が舞った。
そして12月がはじまる。


先頭 表紙


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