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つばきさんの「笑顔でいこう〜」

男爵の色々な出来事をフィクションをまじえながらつづる気まぐれ日記でしゅら。主に「新選組」とか「山南敬助」とか「井上源三郎・松五郎」とか「木村継次(芹沢鴨)」
アニヲタなので「アニメ」とか「漫画」とか
「海外ドラマ」とか
「京都」とか「木曽義仲」とか「巴」とか
にゃんこ好きなので「ねこ」とか・・・嘘ばっかり・・・

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2004-03-17 「会津藩お預かり」A粕谷新五郎(かすやしんごろう)
2004-03-17 新選組! 九話「すべてはこの手紙」
2004-03-16 「会津藩お預かり」@ 殿内義雄(とのうちよしお)
2004-03-15 幕末の風俗人@都都逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)
2004-03-08 日記張るのに前の十倍かかる・・・
2004-03-08  新選組人物紹介A加納道之助(かのうみちのすけ)正道・伊豆太郎・・雄・通広などなど・・・変名多すぎ。)
2004-03-08 新選組! 八話「どうなる日本」
2004-03-01 アニメ
2004-03-01 外国から見た幕末日本A
2004-03-01 外国から見た幕末日本@


2004-03-17 「会津藩お預かり」A粕谷新五郎(かすやしんごろう)

粕谷(糟谷)新五郎(新五良)(かすやしんごろう)・・・文政3年(1830)〜文久4年(1864)常陸国水戸生まれ。水戸藩士粕谷忠兵衛の子供。水戸浪人。安政6年(1859)幕府の大老、井伊直弼が尊王攘夷の志士を弾圧した「安政の大獄」が行われ朝廷は水戸藩へ勅書を送るが、それを渡せと幕府が水戸藩へ言って来た。誰が返すかバカ野郎!と水戸では下級武士・郷士・神官ら300名程度の人が長岡に屯集し、返還阻止行動をした。その中に粕谷新五郎も居た。(継次もいたらしい。)
そして、次の年、万延元年(1860)更に攘夷をなそうと粕谷は薩摩藩邸に行き大津彦五郎・野口正安の「玉造勢」(後の玉造党で天狗党に繋がる組。天狗党の前組織と言うことではない。水戸の玉造町近辺の集まりなのでそういう名前。平間とかもいた。)とともに攘夷挙兵資金を集めようとした。

(その中にも継次の名がある。継次の金策と言えば豪商に頼むというもの。攘夷の意思のない豪商には腹を立てて鉄扇を使った記録もある。粕谷と芹沢は知り合いだった可能性は大いにある。この後も継次は幹部になり玉造組が出来て、清河の知るところとなる。)

しかし、その過激さから幽閉される。

文久2年(1862)にその罪(罪って・・・)が許される。で、翌年文久3年に浪士組に入り道中取締手附(取締役並出役)として京都へ向かう。浪士組が江戸に帰ることが決まると殿内や家里に留まるよう言われてか自分でそう決めたのか・・・清河に言われたのか壬生に残る。
3月10日に近藤ら・芹沢らと一緒に嘆願書を松平容保に出し、3月12日に「会津藩お預かり」となる。
3月15日の会津藩邸訪問時、粕谷ら4人(神代・鈴木・阿比留)は病欠している。(阿比留は病弱でその後4月6日に22歳でなくなってしまう。)
3月25日まで粕谷が壬生に居たことは確認できているのだがその後はいつの間にか江戸に戻っている。(殿内が殺されたりしたから自分の身に危険を感じていたのか?それとも水戸から攘夷をしようとしていたのか・・・今になってはわからないが)

で。次年、文久4年(元治元年)3月の筑波山「天狗党」挙兵にちゃっかり参加している。元の鞘の方が居心地がよかったのかな?しかし、追討され下野国小山(茨城)の持宝寺で自刃したと言われている。享年34歳。

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http://www.puchi-puchi.com/sinsengumi/が、ちょっといい具合 / ほよよん ( 2004-03-26 21:49 )

2004-03-17 新選組! 九話「すべてはこの手紙」

あらすじ。

勇とつねの間に女の子が生まれる。タマちゃん。
講武所に勤めに行くが門前払いを食らう。ションボリと時間をつぶしている勇を見つけた坂本竜馬が勝海舟の所へ勇を連れて行く。「時代は開国ぜよーー」

その頃山南のもとに山岡がやってくる。浪士組のことを聞いた山南は勇宛に手紙を書き山岡と試衛館を出る。
佐久間象山と勝が話している内容が分らない勇は勝に「なぜ講武所の話を無しにされたのか?」と聞く。勝は「それはおまえさんが農民の出だからだ。」と言う。
それを聞いた勇は再び講武所へ向かう。が、佐々木只三郎に「お前は武士じゃない」ときっぱりと言われてしまう。意気消沈した勇は試衛館の皆にそれを話す。
目標を失った勇が又元の日常に戻ろうとした瞬間・・・山南の書いた手紙を勇は見つけ絶望から光を見出す。つねは勇を手放したくなかったが勇の喜こんだ顔を見ると行かないでとは言えなく・・・「行ってらっしゃい」と勇送り出す。

よろこぶ勇は山南の待つ店へと急ぐのだった。



これぞあらすじ。荒い筋。 ( ̄▼ ̄)ノ_彡☆ばんばん!

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2004-03-16 「会津藩お預かり」@ 殿内義雄(とのうちよしお)

殿内(戸野内)義雄(とのうちよしお)・・・天保元年(1830)〜文久3年(1863)上総国武射郡森村生まれ。と、伝わっていたが実は森村殿内に広大な屋敷をもつ名主土屋忠右衛門の末っ子。家の屋号が「殿内」なので、苗字はそこから拝借したらしい。(土屋家は大名貸しを営んでいた。大金持ちやんか)元は第二郎・大二郎(だいじろう)と名乗っていた。結城藩に仕える。結城藩に多額の貸しがあったために義雄は江戸藩邸に勤める。昌平黌(しょうへいこう)で学び(昌平黌は幕府立大学学問所。ペーパーテストとかもやってたらしい。)幕府の学問所へ行っていたので学はあっただろう。安政3年と文久2年の二回学んでいる。)文久三年浪士組の募集に参加し道中目付役になるが、道中罷免されて一根岸友山(ねぎしゆうざん)の一番組に入れられ壬生まで行く。宿として更雀寺に泊まるが新徳寺から遠いために一日で中村小藤太(なかむらことうた)方へ移る。
浪士隊が江戸に帰ることとなると浪人奉行鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)が驚き、「不逞浪士は直ぐ追い帰すが、折角伴ってきた者を皆戻すのは惜しい」と、水戸上屋敷へ芹沢鴨を呼んで山口徳之進が立ち会いを命じた。
そこで芹沢らの宿舎であった八木源之丞(やぎげんのじょう)宅へ、新見ら(中村方に泊まってた)が移される。
さらに、鵜殿鳩翁は3月3日〜7日のどこかで「京都にまかりありたき旨申し候者は、京守護職会津家へ引渡し、同家差配に随うよう取り計らう」と表面を糊塗した手紙で通達し残留組を取りまとめるよう殿内義雄と家里次郎に命じた。で、結局二十二名と京都合流者二名の二十四名が残った。(推測だが新見は芹沢の子分ではないと思われる。)浪士組は13日に江戸へ。(帰るまでの間に清河暗殺計画が近藤・芹沢の間であったらしい。会津からの命令という説も。

10日に会津公への嘆願書を出し12日正式に「会津藩お預かり」(後の新選組)となる。

22日に建白書を芹沢ら18名(阿比留・粕谷が抜けて代わりに根岸・遠藤・清水が加わっている)が老中板倉に出しているがそこにも殿内らの名前はなく無視されている。

関係ないが25日に壬生狂言を見たりしている。

で、その夜・・・殿内は四条橋で殺される。殿内は柄袋を刀にしており、どこかへ旅に出ようとしていたと考えられている。この日は晴れており雨の日などにする柄袋をする必要がなかった。と、すれば旅に出ようとする時くらいしか柄袋はしないらしい。

推測→もしかしたら無視されていて嫌になり江戸方面に行こうとしていたのか?隊士を募集しようとしていたのか?今となってはわからない。誰が殺したのか?只、殺害されたのは事実。享年33歳。
 
おまけ・・・近藤派は浪士組に12名いた。が、沖田林太郎(総司の義理の兄)は妻子が居るということで江戸へ帰り、今の日野市長の先祖馬場平助(ばばへいすけ)ら佐藤道場の人たち(中村太吉郎・佐藤房次郎)4人は井上源三郎だけ壬生に残し、江戸へ日野へ帰った。

おまけ2・・・推測おいらは斉藤スパイ説は結構好きで、斉藤は近藤に近づき。佐伯は芹沢に近づいたとしたら面白いなぁ。佐伯をスパイとしたのが久坂と言われたりもするが・・・想像するだけでも色々と考えられる。

おまけ3・・・芹沢鴨の鴨って名前は鴨打ち名人だったからとかあるらしいけどおいらは一言主説で。だってその方が面白いし。

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2004-03-15 幕末の風俗人@都都逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)

都都逸坊 扇歌(どどいつぼうせんか)・・・文化元年(1804)〜嘉永元年(1852)医師岡玄策(おかげんさく)の次男。(三男説も在り)
常陸国太田に生まれる。(水戸)子供の時、目が不自由に。三味線を持ち諸国を廻り江戸へ。江戸に出て落語家船遊亭扇橋(せんぷうてい おうきょう)に入門。都都逸の曲調を確立してから都都逸坊扇歌を名乗った。客から題を求めて歌で謎ときをしたのが流行。人気を得たが、当時の政権を風刺した狂歌がもとで江戸追放の身となった。その発端となったのは「上は金下は杭なし(食えない)吾妻橋」という川柳。追放後は地元に戻り、嘉永元年(1852)四十八歳で没した。

土方為次郎(歳三の兄で目が不自由で川柳や三味線を趣味としていた粋な人。)も少なからず影響を受けていたらいいなぁ。三味線を弾きながらどどいつを唄う為次郎。「ざんぎり頭を叩いてみれば 文明開化の音がする♪」←妄想。あ。為さんが三味線買ってた戸塚村の店にお琴がいたんだねぇ。ちなみに為さんの号は閑山亭石翠(かんざんていせきすい)三味線の腕はかなりの物だったらしい。

都都逸とは七七七五の四句二十六字で出来ており(川柳・俳句は五七五の三句十七字。狂歌・短歌は五七五七七。俳句・短歌は季語が入る。川柳・狂歌は粋。)主として男女相愛の情を歌う庶民の歌と言われるがそれは明治になってからのこと。元々名古屋・熱田神宮(信長塀が在る所。桶狭間の戦いに勝った信長が作らせた。日本三大塀の一つ。後の二つは神戸のどっかとと京都の三十三間堂。)付近の飯盛で遊ぶ客をひやかした歌で、はやし言葉「そいつはどいつじゃ」が「どどいつどいどい・浮世はさくさく」と変化し、これを「どどいつ節」って言う。このどどいつ節を扇歌が、「よしこの節」や「潮来節(いたこぶし)」を採り入れ作詞改曲し唄い始めると、たちまち庶民の間に広まった。まぁ。流行歌ですな。よく芸者さんとかが唄ったりした座敷唄。ってか、今でもしてる。政治を風刺するのはいつの時代でも一緒だねぇ。
 

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2004-03-08 日記張るのに前の十倍かかる・・・

おいらのいらいらは今限界を超えてます。一ヶ月ほどこの状態を続けましたが

やばいです。爆発寸前。ネットになかなか繋がらない。

いらいらをつづけるならパソコン買い換えた方がましって結論になりました。

くそっ!呪ってやる。いや・・・呪ったら呪い返しが来るから呪わない。(笑)

三十分で書いたものをなんで五時間かけてないと張れないんだ・・・

と、いうことで書いてあるけど張れなかったりして・・・いらいら。

しかも・・・また舌がびりびりしてて体調が変だ。がぁーーーーーー。

あ。そうそう。おかげさまで10000ヒットいきましたー。ありがとうございます。今年になってからえらく人が来てるのでうれしいです。もしかして新選組関係を書いてるからかなぁ??兎にも角にも今後ともよろしくおねがいしますね。
ヾ(●≧∇≦●)

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2004-03-08  新選組人物紹介A加納道之助(かのうみちのすけ)正道・伊豆太郎・・雄・通広などなど・・・変名多すぎ。)

加納道之助(かのうみちのすけ)変名・鷲雄(わしお) 新選組隊士(離隊)→御陵衛士(新選組により壊滅)→赤報隊(偽官軍として解隊)→薩摩藩兵(近藤発見!)
天保10年(1839)11月9日〜明治35年(1902)10月27日享年64歳。加納伴平の長男。伊豆国賀茂郡加納村に生れる。大島流槍術を習う。出府して江戸深川に住居。
文久3年(1863)服部武雄・篠原泰之進・佐野七五三之助ら等12名で尊王攘夷同盟を誓う。
元治元年(1864)藤堂の誘いで、伊東と供に上洛。新選組に入隊、八番隊伍長を務める。慶応3年(1867)3月20日伊東らとともに孝明天皇御陵衛士として新選組を分離脱隊。薩摩・長州に近づく。屯所は五条橋東の善立寺(ぜんりつじ)6月下旬高台寺塔頭(こうだいじとうとう)月眞院(げっしんいん)に移転。
同年11月18日、新選組の不意打ちを受け死亡した伊藤甲子太郎(夜10時頃)を預かりに七条油小路に御陵衛士7人が向かう。(土方が甲子太郎を泥酔させてから殺した。関係ないが角屋から一緒に帰ってきた鴨を更に土方が酔わせて泥酔した所一旦外へ出てから暗殺したのではないか?という事実が見つかったらしい。)
待ち伏せしているのは分っていたらしいが・・・案の定新選組35名の襲撃に遭う。(午前0時頃)篠原泰之進・富山弥兵衛・鈴木三樹三郎・加納鷲雄の4人は逃亡。
薩摩藩邸に逃亡保護される。翌月 伏見街道 藤森神社付近において篠原泰之進らと勇を襲撃。近藤を狙撃、銃創を負わせた。鳥羽・伏見の戦いが始まると相楽総三等と赤報隊を結成するが偽官軍の濡れ衣で帰京。投獄されるが放免。後に薩摩軍の藩兵として戊辰戦争で闘う。
慶応4年(1868)4月4日下総千葉流山で西軍に出頭し、板橋宿で捕縛された近藤勇の面通し役を務め勇と断定したのが加納と言われている。その後維新後は明治四年に開拓使役人となり蝦夷地へ。明治15年農水省・19年民間会社に勤め、明治35年東京麻布の自宅で亡くなる。
(こっからは推測)
名前が多いってのはやっぱりかなり警戒していたんじゃないかなぁ。後、絶対に近藤を殺すという執念があるよね。しかも、果たしちゃうからすげぇ。
伊藤と仲間を殺された恨みは恐ろしい。

一説では御陵衛士の近藤暗殺計画なんてなかったとも言われているし。永倉のでっち上げ説やら斉藤の新選組に戻る言い訳説。(50両の土産付)
新選組幕臣取立てがあったが、武士としては「二君に従えたくない」と言って反対した佐野七五三之助(さのしめのすけ)が一旦御陵衛士に来るが拒否されて近藤との話し合いをするが結局切腹した。それを伊藤は怒って暗殺計画を立てたという人もいるがおいらは疑問。4月14日に田中寅三(たなかとらぞう)
が御陵衛士に合流しようとした時は新選組との取り決めで「隊士の移籍は認めない」とあったので拒否した。寅三は新選組に捕まり切腹している。その時だって動かなかったのに佐野のときは動くかな?それだけ新選組との摩擦は極力さけようとしていたのに、果たしてそんな計画立てるかな?暗殺するなら近藤よりも明らかに土方をした方がいいだろうし・・・。計画立てているとすれば伊藤じゃなく(心の中では思ってたかもしれないが。おいらが知らないだけで伊藤が怒ってたっていう資料とか残ってるのかなぁ。)加納だろう。その昔に佐野七五三之助と尊王攘夷同盟を結んだ仲だったし。

先頭 表紙

訂正・・・(たかしましゅうほ)じゃなくて(たかしましゅうはん)です。 / 男爵30歳 ( 2004-03-08 20:36 )
ワニ(=^・^=)おいらも去年月眞院へ行って来ました。というか覗いただけ。中に入ったらでっかい黒い犬が吠えまくるので怖くて逃げちゃいました。ご飯じゃなくてパンとは・・・でも幕末、高島秋帆(たかしましゅうほ)もパン作ってたし。パイナップルは・・・うーーむ。おいしいからいいかぁ。ヾ(●≧∇≦●) / 男爵30歳 ( 2004-03-08 20:30 )
去年に「月真院」に宿坊した人に聞いたら、新撰組の居た時と部屋は変わらないものの、朝御飯は食パンとパイナップルだったそうだ。。。。本文に全然関係無い話だ〜。。。(^^; / ワニ ( 2004-03-08 15:18 )

2004-03-08 新選組! 八話「どうなる日本」

あらすじ

試衛館一同朝飯中・・・。納豆の食べ方で盛り上がる。関西はこんな腐ってる物食べない。と原田。山南は砂糖をかけて食べると。勇はきなこをかけて食べると言い出す。大ブーイング。そこへ藤堂登場。
一緒にご飯を食べる。
ふではそんな勇に陰口。
そういえば・・・と、勇は山南に京都の情勢を聞く。(山南さんどうやら京都に行ってたもよう)そこで寺田屋事件について聞かされる。
話している中、山南は勇に清河八郎に会って話しを聞いてみないか?と言うが講武所勤めが決まっている勇は断り、土産(金)を周斎に持っていけと言われ講武所へ。

その頃藤堂が試衛館に入りたいと言い、永倉に伊藤道場へ着いて来て欲しいと頼む。原田は俺も行こうか?と言うが信用がなく沖田と藤堂に無視される。
伊藤道場へ来た三人は伊藤大蔵(おおくら)に会い藤堂を貰いたいと言うが断られる。
そこで永倉が沖田と加納と塾頭同士が戦って沖田が勝ったら藤堂をくれと言い伊藤は承諾をする。

近藤は講武所で松平主税助(ちからのすけ)に会う。金を渡そうとするが断られる。が、そこにいた佐々木只三郎(たださぶろう)が「そのままにしておくように。我らが居たから受け取らなかったのだ」と言い、勇を講武所の道場に連れて行く。
そこで見た稽古風景に愕然とする勇。佐々木は「今の講武所は型だけで気合はまるでない。多くを望まないように」と言う。

沖田と加納の試合は起きたが勝つ。約束どおり藤堂を貰い受けると永倉。しかし、伊藤がだだっこ。沖田を代わりにくれー。と。加納もあきれて・・・「先生大人気ないです、約束は守りましょう」と。伊藤は藤堂を、試衛館にレンタルすることで承知する。(レンタルして御陵衛士(ごりょうえじ)の時に返せっていうのかも)
(講武所のやる気のない稽古と沖田・加納の気合の入った試合を対比させるのはよかった。)
歳三は戸塚村のお琴と青カン。(この時代は当然のことですので)
試衛館に戻った勇は英国公使館の警固を担当している松本藩の伊藤軍兵衛(いとうぐんべえ)から石田散薬を売って欲しいと言われる。軍兵衛は水戸藩からの刺客からイギリス人を警護する様にと幕府に言われ、怪我をした時のために石田散薬を求めていた。しかし、イギリス人のことが嫌いで日本人同士が斬りあうことが嘆かわしいと勇にもらす。

高輪・東禅寺に着いた軍兵衛と勇。
石田散薬を買ってくれると思いきや・・・松本藩士に軍兵衛は激務によってちょっとおかしくなっていて今は任を離れている。だから我が藩はクスリを買う気はない!と言われてしまう。
しかたないので帰ろうとした勇達。そこへイギリス人水夫がやって来て宴会になる。源さんとかおみつ・原田は「以外とイイ奴だ」と思っていた。シャンパンの蓋を見たときに勇みは黒船が来た時に見つけた物の正体を知って歳三に教えてやろうと思う。原田が「シュラシュシュシュー」と歌っているとそこへ、ふらっと軍兵衛が現れイギリス人を刺してしまう。逃げるもう一人のイギリス人を追っていく軍兵衛と勇。勇の「やめろーーー!」との声もむなしくもう一人も刺される。軍兵衛は半狂乱になり去っていく。なにも出来なかった勇はこの先どうなっていくのかと嘆くのであった。

ちなみに伊藤軍兵衛は実在の人。水夫殺したのも実在の事件。
加納鷲雄(かのうわしお)元新選組隊士(御陵衛士残党 現・薩摩藩兵)は近藤が大久保大和(おおくぼやまと)と変名を名乗って投降して板橋に連れてこられた時「こいつ近藤勇だぁ」と見破った人。伊藤大蔵(甲子太郎)の仇!と思っていたんだろうな。薩摩と長州の会議の結果、慶応4年1868年4月25日に近藤は斬首される。

先頭 表紙

2004-03-01 アニメ

アトム・・・やっと今週ロボタニアのくだりになった。
ロボットと人間の間で悩むアトム。そして青騎士。
面白くなってきたぞぉ。これから見逃せない!

火の鳥・・・もうすぐ始まる!13回シリーズだけどどうなるのか楽しみ。NHKで宣伝しすぎ。(笑)監督が高橋良輔さんなのですごい楽しみ。

勇吾・・・うーん。原作どおりだが・・・絵が・・・つらい。早くシベリア編にならないかな。

ガッシュ・・・そのままつづけてー。文句なし。泣くし。

ハガレン・・・原作よりも面白い。話しが分りやすいし。いやー。色々な話が分りやすく絡んでていい。

鐵・・・見るの忘れちゃう・・・。もうすぐ池田屋ですか?

先頭 表紙

2004-03-01 外国から見た幕末日本A

そしてイギリスだ! やつらこそ難癖つけて武力で植民地を世界中に創った奴らだ。←言いすぎ。
今各国の国旗の中にイギリスの国旗が入っている国は元々イギリスの影響下にあった国。(オーストラリアとか今も影響があるかもね)国旗に入ってなくて植民地だった国もあるが(インドとか)。

文政7年(1824)イギリス捕鯨船員が薩摩で略奪行為をする。幕府は異国船に対し発見しだい打ち払えという「異国船打払令」を発令した。

インド植民地を巡る争いに負けたフランスは東インド会社を撤退。イギリスが勝利を収め、清国へと触手をのばす。巨大な貿易市場は清国しか残っていなかったのだ。
イギリスといえば紅茶のイメージがあるが元々は烏龍茶や緑茶などを飲んでいた。が、産業革命で都市部に人口が集中。水質の悪い地域まで労働者が住むようになり煮沸する安全さと砂糖・ミルクなど加えて栄養補給出来る飲料として重宝されるようになった。清国からの紅茶輸入量が増えすぎてイギリスからの銀の流出が止まらなくなる。(紅茶を飲むには陶磁器も必要。陶磁器の輸入とかも増える。貿易赤字を解消するためにイギリスは植民地のインドからアヘンを清国へ売ることになる。(ただし公式には売らず、私船だけ。一応麻薬だし。公式には売れないのだ)これでイギリスは黒字に清国は赤字になるのであった。

それをきっかけに・・・アヘン戦争・・・アロー号事件・・・太平サブローシローへと・・・(T∇T) ウウウ違うし。太平天国の乱へとつづくわけだ。

☆アヘン戦争前・・・上と重複しちゃうけど一応。イギリスが清国と貿易して儲けようとしたら逆にミイラ取りがミイラに。清国が儲かっちゃう。イギリスから銀の大量流出。それはやばいと、イギリスの植民地にあるものでも送っちゃえ!しかも常習性のある麻薬アヘンなんかどう?ってことになり、公式だとやばいので私船の商人によって運ばせる。
すると清国からの銀が大量に流出。立場が逆になる。清国の国民は銀で税金を納めていたのでさ〜大変。じゃあアヘンでも取り締まるか。ってことになる。

アヘン戦争・・・自由貿易をしたいのに相変わらず制限付きの貿易しかしてくれない清国。そんな中アヘンを取り締まってるのにイギリスはまだアヘンを持ってきやがるのでお前らとはもう貿易中止!見せしめにアヘン燃やしたれ。ってことに。

イギリスはいい戦争のきっかけを得た。と、大喜び。いつものパターンで植民地にしたれ!と二年間にわたるアヘン戦争に突入するのであった。

清国は見事に負けて半植民地になるが・・・清国は相変わらずな態度。なのでイギリスはまたもや難癖つける。

アロー号事件・・・広州でイギリス船籍を持つアロー号を清の官憲が臨検し、イギリス国旗を引きおろさせてイギリス人12を逮捕や広西省で清の官憲がフランス人宣教師を殺害。
このことがありイギリスはフランス(インドでイギリスに負けてるのに・・・なんだかナァ)を誘ってアロー号戦争になる。英仏連合軍が広州を占領し、天津に迫ったため清は降伏。天津条約(1858)をするも清国は無視。
結局北京も占領される。そして北京条約(1860)を結び、またアヘン貿易は再開される。

多分そんな感じ。 太平天国の乱は長くなるからパス。

オランダや清国・朝鮮なんかは相変わらず日本と貿易してますー。当時、日本で外国語といえばオランダ語だったんだね。

先頭 表紙

2004-03-01 外国から見た幕末日本@

なんか最近ペリーやヒュースケンやハリスなどの航海日誌を読んでいるんだけど、これが面白くて。

まぁ。外国船が来た時みんなビックリしなかったってのは前にも書いたけど、そのつづき。ぺりーは蒸気船を怖がると思っていたのに庶民は「今度の船は煙が吹いている!面白いな。見に行こう!」と小船を出して舟に乗り込んで見学したり、黒船の周りで黒船を肴にわいわいしてたらしい。(竜馬が黒船見て「欲しいなぁ。とかすげぇ。」とか思ったのって、どちらかというと庶民的考えだったのでは。武士にしては珍しい考えだけど、庶民にしてみたら竜馬的考えって結構在ったのでは?)
役人が「さがれー」とか言いながら黒船に近づくと「役人が来たぞ!逃げろー」と慣れたものだったらしい。日本人って・・・昔から野次馬根性が・・・いや・・・好奇心旺盛だったのだ。
幕府の上の人は「ついに来たか・・・」って感じだったけど、最下位の現場の役人には黒船が来ることを伝えてなかったのでそこの役人(浦賀)だけはびっくりしてただろうけど。
まぁ、戦うことを許されていない庶民は傍観を決め込まなけりゃいけないしね。

ヒュースケン日記によるとこの頃地震が頻繁に起きていて下田の町は三分の一が破壊された。住民たちも泣きながら何もやる気をなくしているか?といをえば、そうじゃない。
泣き声ひとつなく絶望なんてとんでもない!彼らの顔には悲しみなんて無く建物の修復を忙しそうにわいわいとしていたそうだ。そりゃヒュースケンも日本の女に惚れるわ。( ● ´ ー ` ● )

ロシアとの国際的繋がりは・・・1778年の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)くらいから始まっている。1803年6月20日ロシアのレザーノフはロシア初の世界周航の指揮をとりクロンシュタット湾を出航。大西洋を廻って南太平洋に出て9月26日に長崎へ着く。通商交渉はなんの成果もないまま終わる。(日本滞在日記 レザーノフ著 岩波文庫)だが、その一年半後、ロシアは松前藩などで略奪したりしている。交渉を失敗したレザーノフが怒ってやったと噂されたが、どうも違うらしい。北太平洋のロシア領土は食糧難がつづいていた。レザーノフは通商しているサンフランシスコ(スペイン領)で食料を貰ったりしたが、やはり足りない。レザーノフはやはり日本と通商しなければ・・・。と思っただろうが、そんな悠長なこと言ってられないのでとりあえず松前藩を襲撃して食料を奪った。レザーノフ曰くこれは日本との通商をする為のショック療法らしい・・・。
しかしそんな中・・・レザーノフは1807年3月1日シベリアで43歳の生涯を終える。

松前藩襲撃の報復として日本はディアナ号艦長ゴローニン監禁事件を起こす。(1811年)ロシアも蝦夷地にその頃来ていた(支配していた)大商人・田屋嘉兵衛(たかだやかへい)を捕らえ(1812年)たりして日露関係は怪しくなっていく。

先頭 表紙


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