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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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2003-12-02 江戸天下祭(大結局)
2003-12-02 江戸天下祭(13)
2003-12-02 江戸天下祭(12)
2003-12-02 江戸天下祭(11)
2003-12-01 江戸天下祭(10)
2003-12-01 江戸天下祭(9)
2003-11-30 江戸天下祭(8)
2003-11-30 江戸天下祭(7)
2003-11-29 江戸天下祭(6)
2003-11-29 江戸天下祭(5)


2003-12-02 江戸天下祭(大結局)





フィナーレは、山車丸ごと一基の展示です。

埼玉県加須市本町の龍神の山車。
文久2年(1862。一部資料では文久元年)、仲秀英の作。この秀英は、古川長延の師であった二代目秀英ではなく、神田白壁町に住んでいた三代目秀英のようです。
山王祭21番(新大坂町、田所町、通油町)の山車として曳かれていたものを、明治16年(1883)に購入したのだそうです。
江戸から地方へ散逸し現存する山車のうち、もっとも原型を留めているものです。

山車人形は、当時載せられていた龍神ではなく、織田信長に代わっています。
これに陵王の面を被せて、「織田信長が陵王を舞っているところを描いている」と、展示会場にいらした地元の方が説明してくれました。

信長だと、雅楽の舞よりは仕舞って感じなんですがね、本当は。

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ぷるぷる様:築地の魚河岸の人たちが復刻製作した龍神の山車があるらしいのですが、めったに曳かれることはないようです。この山車の人形も、龍神のほうがいいですね。陵王の山車人形というと、川越が有名です。とても優美な人形ですよ。 / せんきち ( 2003-12-04 23:10 )
龍神バージョンも見たいところですね。なんだか迫力がありそうです。 / ぷるぷる ( 2003-12-04 11:05 )
シャルさん:どうも。よくわかりませんが、ボチボチサンてどなたですか?個人的なご用件は、またメールでも下さい。 / せんきち ( 2003-12-03 22:29 )
それにしてもおひさしぶりでごんす。オゲンコ?昨日は本当にありがとうね。でね。そろそろ鍋の季節だと思うんだけど例の台湾風鍋ってコリアンダー以外ののスパイスあるのかしらん。ボチボチサンの方がよくしてえるかな。でも今日は眠いからまた聞いて見ますわ、、。 / シャルウィダンス? ( 2003-12-03 00:20 )

2003-12-02 江戸天下祭(13)





青梅市仲町の静御前の山車人形。
町に伝わる由来によれば、嘉永元年(1848)に松雲斎徳山が製作し、山王祭9番(瀬戸物町、伊勢町、本小田原町)として曳かれた山車を、明治5年(1872)に購入したとのことですが、実はそれと同一の由来を持つ山車が、栃木市倭町3丁目にも現存(明治7年購入)しています。
現時点では、倭町3丁目の方が嘉永元年作の山車である可能性が強く(というか、ほぼ100%そうらしいです)、となると、こちらの山車はいったいどこの山車?ということになってきてしまいます。
そこで嘉永7年(安政元年。1854)の「山王祭礼番付」を仔細に眺めて見ると、33番(本湊町)にも静御前の山車がありました。
もしかしたら、青梅市の静御前は、こちらの山車なのかも知れません。

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2003-12-02 江戸天下祭(12)





東京都八王子市八幡町1・2丁目の諫鼓鶏の山車人形。
文政2年(1819)、二代目原舟月の作。
これも、天下祭で曳かれていたものではないようです。
が、天下祭でも1番山車は諫鼓鶏の山車でしたから、八王子の祭礼においてもこの慣例が継承されていたことがよくわかります。
江戸期の祭礼文化の伝播をうかがわせる、興味深い資料といえましょう。

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ぷるぷる様:↓ひょえ〜!!!またしても、レスできなくなってしまいましたので、こちらで。玄関の魔よけによいですね。留守の時にはリビングにおいてもよいかと。。。。 / せんきち ( 2003-12-06 21:14 )

2003-12-02 江戸天下祭(11)





埼玉県本庄市仲町の神武天皇の山車人形。
こちらは、天下祭で曳かれていたものではなく、明治24年(1891)に町が三代目法橋原舟月に依頼して製作してもらったものです。

三代目原舟月は、明治時代に古川長延と並び賞された山車作りの名人。日本橋岩付町に住み、本庄市の他にも栃木県栃木市、埼玉県川越市に三代目舟月作の山車が現存しています。

神武天皇も、山車人形として非常に人気のあるキャラクターです。

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これは可愛いのでは…。一家に一台欲しいですね。 / ぷる2@玄関に置いとくねん ( 2003-12-04 11:04 )

2003-12-01 江戸天下祭(10)





茨城県石岡市金丸町の弁財天の山車人形。
製作年代は不明ですが、製作者が幕末から明治にかけて名人として知られた泰精斎古川長延(文政9年〔1826〕生まれ)ですから、嘉永2年(1849)以降(付記参照)の製作ではないかと考えられます。
また、もとは山王祭7番(日本橋本町、岩付町、本革屋町、金吹町)の山車として曳かれていたものを、大正13年に購入したのだそうです。
そこで番付を調べてみたところ、嘉永7年(安政元年。1854)の「山王祭礼番付」にこれと類似した弁財天の山車人形がありますので、おそらくはこのころの製作でしょう。


付記:古川長延は二代目都梁斎仲秀英の弟子となり、嘉永2年(1849)に独立して仲英真となりますが、師との間に軋轢が生じたため、名前を返上して本名の古川長延に戻り、製作を続けました。

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tomohiko様:そうですね。たぶん、100年先の人も見られるでしょう。大事に保存してありますので。 / せんきち ( 2003-12-02 21:43 )
歴史あるものが(多少姿を変えつつも)後世に残っているっていいですね。100年先の人達も同じものが見られるといいな。 / tomohiko ( 2003-12-02 02:25 )

2003-12-01 江戸天下祭(9)





こちらも鴨川市諏訪講の神功皇后の山車人形。
神功皇后と武内宿禰も、山車人形界のアイドルです。

製作年代、製作者ともに不明ですが、神田鍋町の山車を明治43年に購入したのだそうです。
その点に関して、たしかに天保二年(1831)の「神田祭礼番付」には神田鍋町(5番)の山車として神功皇后の山車が見えますが、この山車はその後焼失したらしく、天保八年(1837)の祭礼では松の山車が曳かれています。
また、それ以降も、安政4年(1857)、文久元年(1861)の番付によると神田鍋町の山車は宝来に亀の山車となっており、神功皇后の山車ではありません。
しかし、神田鍋町は山王祭の際にも山車を曳いていますから、文久二年(1862)の山王祭のさいに、神功皇后の山車が新造されて曳かれた可能性もあります。
このあたり、まだまだ解明の余地がありそうです。

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2003-11-30 江戸天下祭(8)





ここからは、丸ビルロビーでの展示編。

鴨川市諏訪講の源頼義の山車人形。

大正年間に神田祭36番の神田松田町から購入したものだそうです。

製作年代、作者ともに不明ですが、文久元年(1861)の祭礼番付には頼義人形の鉾台型山車が見えますので、おそらくはこの頃の作と考えられます。

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おにぎり様:あ、すんません。テレ朝ドラマへのぼやきが先に来てしまいました。アイーンか、あるいはそこからシェーに移行する可能性も考えられます。 / せんきち ( 2003-11-30 22:19 )
↓満影で働いている中国人への差別待遇をなくしたのも彼だし、「満州に住む人々(つまり、中国人)のための映画を作りなさい」と言ったのも彼。そういう面も描いてほしかったわん。無理な話とは思うが。 / せんきち ( 2003-11-30 22:18 )
「アイーン」する直前 / おにぎり ( 2003-11-30 22:04 )
甘粕は徹底して悪者としてしか、描かれていないわね。満映ではけっこういいこともしたのに。 / せんきち ( 2003-11-30 22:00 )

2003-11-30 江戸天下祭(7)





房総半島にも、江戸型山車が数多く残されています。
今回の「江戸天下祭」には、鴨川市の山車が参加していました。
鴨川市山王講の「恵比寿」の山車です。

由来によれば、江戸・嘉永年間(1848〜1854)の作で、神田祭のさいに曳かれていたものを、明治42年(1909)に購入したのだそうです。
現存する文久元年(1861)の「神田祭礼番付」には、34番として恵比寿神の山車(神田白壁町)が登場しますので、おそらくはこの山車ではないかと考えられます。

昭和38年(1963)に改修。
高さ7メートル。

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はあ、天海祐希の李香蘭か。。。。 / せんきち ( 2003-11-30 21:18 )

2003-11-29 江戸天下祭(6)



東京郊外、青梅市森下町の山車に飾られていた武内宿禰の人形。

森下町の山車は、明治時代以降、東京から近隣の各地に売られていった山車の一つです。
かつては、神田祭31番(神田三河町4丁目=現・神田司町2丁目)として曳かれていました。

青梅に売り払われた後、しばらくはそのままの姿を留めていましたが、郊外でも電線が架設されて通行が困難になり、やむなく人形を降ろして屋根部分を改造、屋台にしました。
現在では、人形は祭礼時に飾られるのみとなっています。

屋台部分の高さは5メートルですが、オリジナルだと高さ10メートルもあったそうです。

付記:実際には、人形を乗せた鉾台部分は上下に可動するので、通行に支障はないのですが、常に人形を収納したまま曳行したのでは、祭りの花がないのと同じことになってしまいます。
そのことも、東京で山車が廃れていった原因の一つのようです。

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いま、何気なく祭礼番付を見ていたら、文久元年の三河町4丁目の武内宿禰の山車人形は、応神天皇を抱いているスタイルのもので、したがって、この人形を乗せた山車はそれ以前に製作されたもののようです。 / せんきち ( 2003-11-30 21:40 )
ぷるぷる様:青梅の山車は屋台部分のみを曳き、人形は飾るだけですが、静岡、熊谷、鴨川、川越、いずれもばりばりの現役です。お祭、迫力ありますよ。 / せんきち ( 2003-11-30 21:15 )
ひえー、10メートルて…。すごい迫力でしょうね。江戸天下祭とは初めて聞きました。現在は展示のみ、ということですか?曳かないの?もったいないですね。 / ぷるぷる ( 2003-11-30 21:00 )

2003-11-29 江戸天下祭(5)





さて、こちらは同じ埼玉でも熊谷市本三四町(第弐本町区)の「戸隠」の山車。
人形は、天岩戸を押し開いた強力の持ち主・手力男之命(たぢからをのみこと)です。
ちなみに、「戸隠」とは、手力男之命の別名。

由来によると天保年間(1830〜1844)の作で、天下祭で曳かれていたものを熊谷市の有志が購入した、とのことですが、山車の形式(屋根付鉾台型)から見ると、もう少し時代が下る(安政〜文久初期〔1854〜1863ごろ〕)のではないかと考えられます。
熊谷市の有形文化財に指定されています。

高さ9メートル。

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文久元年(1861)の「神田祭礼番付」の25番(神田新石町1丁目)に「戸隠神」の山車が見えます。おそらくは、これを購入したのではないでしょうか。 / せんきち ( 2003-12-01 20:34 )

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