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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-11-29 江戸天下祭(6)
2003-11-29 江戸天下祭(5)
2003-11-28 江戸天下祭(4)
2003-11-28 江戸天下祭(3)
2003-11-28 江戸天下祭(2)
2003-11-27 江戸天下祭(1)
2003-11-24 バイオレンス兄妹
2003-11-21 そして何も生まれなかった?(3)
2003-11-21 そして何も生まれなかった?(2)
2003-11-21 そして何も生まれなかった?(1)


2003-11-29 江戸天下祭(6)



東京郊外、青梅市森下町の山車に飾られていた武内宿禰の人形。

森下町の山車は、明治時代以降、東京から近隣の各地に売られていった山車の一つです。
かつては、神田祭31番(神田三河町4丁目=現・神田司町2丁目)として曳かれていました。

青梅に売り払われた後、しばらくはそのままの姿を留めていましたが、郊外でも電線が架設されて通行が困難になり、やむなく人形を降ろして屋根部分を改造、屋台にしました。
現在では、人形は祭礼時に飾られるのみとなっています。

屋台部分の高さは5メートルですが、オリジナルだと高さ10メートルもあったそうです。

付記:実際には、人形を乗せた鉾台部分は上下に可動するので、通行に支障はないのですが、常に人形を収納したまま曳行したのでは、祭りの花がないのと同じことになってしまいます。
そのことも、東京で山車が廃れていった原因の一つのようです。

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いま、何気なく祭礼番付を見ていたら、文久元年の三河町4丁目の武内宿禰の山車人形は、応神天皇を抱いているスタイルのもので、したがって、この人形を乗せた山車はそれ以前に製作されたもののようです。 / せんきち ( 2003-11-30 21:40 )
ぷるぷる様:青梅の山車は屋台部分のみを曳き、人形は飾るだけですが、静岡、熊谷、鴨川、川越、いずれもばりばりの現役です。お祭、迫力ありますよ。 / せんきち ( 2003-11-30 21:15 )
ひえー、10メートルて…。すごい迫力でしょうね。江戸天下祭とは初めて聞きました。現在は展示のみ、ということですか?曳かないの?もったいないですね。 / ぷるぷる ( 2003-11-30 21:00 )

2003-11-29 江戸天下祭(5)





さて、こちらは同じ埼玉でも熊谷市本三四町(第弐本町区)の「戸隠」の山車。
人形は、天岩戸を押し開いた強力の持ち主・手力男之命(たぢからをのみこと)です。
ちなみに、「戸隠」とは、手力男之命の別名。

由来によると天保年間(1830〜1844)の作で、天下祭で曳かれていたものを熊谷市の有志が購入した、とのことですが、山車の形式(屋根付鉾台型)から見ると、もう少し時代が下る(安政〜文久初期〔1854〜1863ごろ〕)のではないかと考えられます。
熊谷市の有形文化財に指定されています。

高さ9メートル。

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文久元年(1861)の「神田祭礼番付」の25番(神田新石町1丁目)に「戸隠神」の山車が見えます。おそらくは、これを購入したのではないでしょうか。 / せんきち ( 2003-12-01 20:34 )

2003-11-28 江戸天下祭(4)





現在、江戸型山車が曳き回される関東各地の祭礼の中で、おそらく最も有名なのが、埼玉県川越市の「川越祭」(毎年10月)ではないかと思います。
こちらは、その川越市志多町の弁慶の山車。

いやあ、弁慶、人気者です。

江戸末期、安政年間(1854〜1860)の製作。昭和20年代に一部改造。埼玉県の指定文化財です。

弁慶が童子に道を尋ねているという、ちょうど長唄「安宅の松」に取材したような一場面です(大元は幸若舞の「富樫」らしいんですが)。
人形は、鼠屋五兵衛の作。

高さ8.2メートル。

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2003-11-28 江戸天下祭(3)





こちらも、大須賀町(横須賀東田町)の山車。
京都・五條大橋での牛若丸と弁慶を描いたものです。
牛若丸も弁慶も、山車人形としてはおなじみのキャラクターです。
山車の製作年代はごく最近で、平成14年(2002)に完成。
ただし、人形は明治15年(1882)製です。
高さ6.2メートル。

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↓ひょえ〜!ぷるぷるさん、すんません。そちらにレスできなくなってしまったので、こちらで。おやじ、分け目というよりは、裂け目ですね。 / せんきち ( 2003-11-30 21:13 )

2003-11-28 江戸天下祭(2)





静岡県大須賀町(横須賀川原町)の川中島の山車。
むかって左(馬に乗っている人)が上杉謙信、右が武田信玄です。
大須賀町の山車は、江戸で曳き回されていたいわゆる「江戸型山車」の中でも、「万燈型」と呼ばれる山車に分類されます。
高さは6.1メートル。江戸後期、嘉永年間(1848〜54年)に製作されたものです。

オヤジの頭が、ちょっと目障りですが。。。。

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おやじ…不思議な分け目…。 / ぷる2 ( 2003-11-30 20:56 )

2003-11-27 江戸天下祭(1)


今でこそ、東京の祭礼では神輿が主役ですが、江戸時代には華やかな山車行列が中心でした。
中でも、日枝神社(赤坂)の山王祭と神田明神の神田祭は「天下祭」と呼ばれ、江戸城に入り将軍の上覧を受けることができるという、別格の扱いを受けていました。

しかし、明治維新後、東京の近代化が進み、電線が張り巡らされるようになると、山車は通行困難となって曳き回されることもなくなり、近隣の市町村へ売り払われていきました。
そして、それに代わるものとして街神輿が登場したのです。

去る11月24日(月)、江戸開府400年記念行事としてその天下祭が復活、関東(及び静岡県)各地から集結した山車が、東京の目抜き通りを行列しました。
また、東京駅前の丸ビル1階ロビーには、かつて江戸で曳かれていた山車や山車人形が久方ぶりに里帰りし、展示されました。

そこで、今回から数回に分けて、それらの山車及び山車人形の数々をご紹介して行きたいと思います。

付記:写真は、弁慶と牛若丸の山車(千代田区九段4丁目町会)。昭和27年製作。江戸期に曳かれていた物とは異なり、高さ5メートルほどの子供用山車です。

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2003-11-24 バイオレンス兄妹


今日、CSで原節子の特集をやっていた(正確には「る」)ので、なんとなく観ていたら、「ノンちゃん雲にのる」で、ノンちゃん(鰐淵晴子)のお兄さんが、ノンちゃんをいきなり平手打ちするシーンが出てきて、びっくりいたしました。

そもそもの発端はというと、ノンちゃんのお母さん(原節子)が台所にいた飼い犬を外に出すようノンちゃんに言い、ノンちゃんが外へ出して引き戸を閉めたところ、うっかり犬の尻尾を挟んでしまった、それがお兄さんの逆鱗に触れたらしく、ノンちゃんはお兄さんからホッペを思いっきりバチン!と叩かれてしまったのです。

当時は、「愛のムチ」なんていう便利な言葉がまかり通っていた時代だったでしょうから、これもその一種だったのかも知れません。

でも、なんでそこまでされなきゃならないのかしらん?

お話がメルヘンなだけに、この突然の平手打ちには、謎と疑問だけが残りました。

殴る前に、まず言葉で説明してよ。

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おにぎり様:むむ、痛そうですねえ。わたしもよく母親の鉄拳制裁を受けていました。 / せんきち ( 2003-11-27 22:26 )
私の母の「ゲンコツ」は、中指の第二関節が飛び出てる。いったぁーいの。 / おにぎり ( 2003-11-27 21:38 )
ぷるぷる様:そうですね。そういうシチェーションが最多記録でしょう。現実の生活でも、いまだにそういうおのこがいそうです。ビデオ、なおりましたか? / せんきち ( 2003-11-26 22:45 )
ぱちん★と平手打ちされたオンナが「私のことを本気で叱ってくれている…」と叩いたオトコに惚れてしまうアホらしいシチュエーションも多かったような。 ところで昨日せんきちさんにイジワル言ったバチが当ってビデオが壊れました(T.T) / ぷるぷる@反射的に叩き返す ( 2003-11-24 23:11 )

2003-11-21 そして何も生まれなかった?(3)


映画祭での上映は一般にも開放され、京阪神地区ではプレイガイドと主要映画館の切符売り場、東京では銀座の万博催物入場券センターと大手町の映画祭事務局でチケットが販売されましたが、『受難』のような難解な作品には観客が集まらず、大胆なセックス描写が売り物(容赦なくカットされたようですが)の『私は好奇心の強い女』には観客が殺到という、予想通り(?)の結果に終ったようです。

映画祭にはつきものの海外からのゲストに目を向けてみると、1日の開会式に顔を見せたのは、クラウディア・カルディナーレただ一人。
その後、フランソワ・トリュフォーやジャンヌ・モローもやって来たそうですが、前宣伝にあったようなダニー・ケイやヴァネッサ・レッドグレープ、ジュリエッタ・マシーナ、フェデリコ・フェリーニらの来日は、実現しませんでした。

ともあれ、10日間の開催期間をどうにか無事に終えた日本国際映画祭でしたが、翌71年、第2回の映画祭が開催されることはなく、これ1回きりの開催になったようです。

同じ71年、アジア映画祭の中心人物だった永田社長率いる大映が倒産、映画祭の規約も、「会長は毎年各国持ち回りにし、会費は無しにする。映画祭開催費は、主催国が全額負担」ということに改められ、日本映画界はアジア映画祭の運営から実質手を引くことになりました。

日本国際映画祭の開催にあたって、実行委員長だった金指英一氏(教育映画配給社社長・当時)は、

「今度の国際映画祭は日本映画70年の歴史の中でも、一つの大きなイヴェントになるでしょう。映画界の今の時点で、世界映画界の代表者が集まるということは、大きな刺戟にもなることだ。きっと何かが生れてくると思いますよ」

と、コメントしていますが、結果的には何も生まれることはなく、映画祭が開催されたこと自体、歴史の片隅に埋もれることになったのでした。(おしまい)

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ぷるぷる様:町おこしの一環として映画祭を開くというのが流行った時期があったようです。しかし、何事も回数を重ねるのは難しいですね。 / せんきち ( 2003-11-24 21:07 )
そういえば「泉佐野映画祭」なんてのがありました。香港映画オールナイトとか行きました。いつのまに無くなったんだろう。開催するまでは大変な時間と労力の積み重ねでしょうに、ポシャるのはあっという間ですね。。。 / ぷるぷる ( 2003-11-23 23:26 )

2003-11-21 そして何も生まれなかった?(2)


当初、大川会長はアジア映画祭を発展的解消(と言うと聞こえがいいですが、要は「ぶっつぶし」でしょう)した上で、新たに日本国際映画祭を開催しようと考えていたようですが、結局それは失敗、アジア映画祭はとりあえずそのままにして、日本国際映画祭を行う、ということに方針転換しました。

が、映画界だけで(映画祭を)行おうにも、先立つものが足りません。そこで、万博の関連行事として国の援助を得て開催することとし、1970年4月1日から10日まで、万博第2会場の大阪フェスティバル・ホールで行われることが決定したのでした。

コンペ部門なし、上映のみの映画祭でしたが、世界35カ国51本の作品が参加申請を行い、審査の結果、20本の作品が上映されることになりました。
その顔ぶれ及びスケジュールを、下記に挙げておきます(邦題と製作国のみ)。

4月1日  開会式 『Z』(ギリシャ)
4月2日 『愛すれど永遠に他人』(韓国) 『素晴らしき戦争』(イギリス)
4月3日 『大恋愛』(フランス) 『アデルハイト』(チェコ=スロバキア)
4月4日 『マテウシュの青春』(ポーランド) 『シャイヨの伯爵夫人』(アメリカ)
4月5日 『抵抗の詩』(ユーゴスラビア) 『野性の少年』(フランス) 『みどりの壁』(ペルー)
4月6日 『カルディラック』(西ドイツ) 『マルティン・フィエロ』(アルゼンチン)
4月7日 『モア』(ルクセンブルグ) 『ルシア』(キューバ)
4月8日 『受難』(ハンガリー) 『サテリコン』(イタリア)
4月9日 『ダービーとバーガーの冒険』(インド) 『私は好奇心の強い女』(スウェーデン)
4月10日 『無頼漢』(日本) 『愛の告発』(ソ連)

なかなかバラエティに富んだ内容ですが、アジア映画祭参加国の内、韓国の作品しか出品されていないのが、いささか気になるところです。選考段階で漏れたのか、あるいは最初から参加申請しなかったのか。今となっては、その実態は謎です。(つづく)

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2003-11-21 そして何も生まれなかった?(1)


先日、『キネマ旬報』のバックナンバーをぱらぱらめくっていたら、1970年の大阪万国博覧会のさい、関連行事として「第1回日本国際映画祭」という、国際映画製作者連盟公認の国際映画祭が開催された旨の記事が掲載されていました。

実は当時、日本が音頭を取って開催していた映画祭には、1954年、大映の永田雅一社長が中心になって始めた「アジア映画祭」(現・アジア太平洋映画祭。初名・東南アジア映画祭)がありましたが、60年代後半に入ると、この映画祭に対して日本映画界からは不満の声が上がるようになっていました。

曰く、

1、日本は会長国(アジア映画祭は、永田社長が会長を努めるアジア映画製作者連盟の行事)として会費の半分以上を納めているのに、第1回から一銭も払っていない参加国がある。
2、日本以外の国で開催する場合、政府の助成を得ることが多く、ために政府の意向が反映されやすくなり、連盟の憲章にある「政治的な問題には触れない」という点に抵触してきてしまう。
3、華人の国の審査員は同盟を結んで審査に当たるため、中華圏の作品が受賞しやすくなり、審査の公正を期すことができない。
(森岩雄『私の藝界遍歴』〔1975年、青蛙房〕による)

ようするに、「高い金払ってやってるのに、なんで他所の国にばかり賞を持って行かれなくちゃならないんだ?」ということですね。
それもこれも、日本映画界が羽振りのよかった頃ならば、まだ許せる問題だったのかも知れませんが、この頃にはもう斜陽産業の仲間入りを果たそうかという時期でしたから、ちょっとの損も見過ごせなかったのでしょう。

そんなわけで、アジア映画祭に代わる日本主導の新たな映画祭を作るべく、東映の大川博社長が中心になって企画したのが、日本国際映画祭だったのでした。(つづく)

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