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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-11-21 そして何も生まれなかった?(1)
2003-11-16 こんなテレビ局がありました
2003-11-12 いまさら失楽園
2003-11-11 娃娃夫人
2003-11-10 小情人(3)
2003-11-10 小情人(2)
2003-11-10 小情人(1)
2003-11-08 空飛ぶロダン
2003-11-07 牧子の「寄り」
2003-11-04 ふたりの恋物語(2)


2003-11-21 そして何も生まれなかった?(1)


先日、『キネマ旬報』のバックナンバーをぱらぱらめくっていたら、1970年の大阪万国博覧会のさい、関連行事として「第1回日本国際映画祭」という、国際映画製作者連盟公認の国際映画祭が開催された旨の記事が掲載されていました。

実は当時、日本が音頭を取って開催していた映画祭には、1954年、大映の永田雅一社長が中心になって始めた「アジア映画祭」(現・アジア太平洋映画祭。初名・東南アジア映画祭)がありましたが、60年代後半に入ると、この映画祭に対して日本映画界からは不満の声が上がるようになっていました。

曰く、

1、日本は会長国(アジア映画祭は、永田社長が会長を努めるアジア映画製作者連盟の行事)として会費の半分以上を納めているのに、第1回から一銭も払っていない参加国がある。
2、日本以外の国で開催する場合、政府の助成を得ることが多く、ために政府の意向が反映されやすくなり、連盟の憲章にある「政治的な問題には触れない」という点に抵触してきてしまう。
3、華人の国の審査員は同盟を結んで審査に当たるため、中華圏の作品が受賞しやすくなり、審査の公正を期すことができない。
(森岩雄『私の藝界遍歴』〔1975年、青蛙房〕による)

ようするに、「高い金払ってやってるのに、なんで他所の国にばかり賞を持って行かれなくちゃならないんだ?」ということですね。
それもこれも、日本映画界が羽振りのよかった頃ならば、まだ許せる問題だったのかも知れませんが、この頃にはもう斜陽産業の仲間入りを果たそうかという時期でしたから、ちょっとの損も見過ごせなかったのでしょう。

そんなわけで、アジア映画祭に代わる日本主導の新たな映画祭を作るべく、東映の大川博社長が中心になって企画したのが、日本国際映画祭だったのでした。(つづく)

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2003-11-16 こんなテレビ局がありました


現在、香港には無線電視(TVB)と亜州電視(ATV)という二つの地上波テレビ局があり、それぞれ英語1チャンネルと広東語1チャンネルの2チャンネルずつで放送しています。

が、香港で最初に出来たテレビ局である「麗的影声(イギリス系のラジオ局「麗的呼声〔レディ・フュージョン〕系列)」は、ケーブルテレビ(有線電視)でした。
このテレビ局、1957年に開局したのですが、60年代に入ると映画会社・電懋の社長だった鍾啓文(1919〜93)がテレビ界に転身、麗的影声の局長に就任しました。
しかし、ケーブルテレビゆえ専用受像機(レンタル)や月々の視聴料が必要で、その金額は当時の金額で55香港ドル。メイドさんが雇えるほど高価だったそうです(『香港通信』による)。
しかも、白黒放送で放送時間は1日たったの4時間、自主制作番組はニュースぐらいで、あとは映画や外国のドラマを垂れ流しというお粗末な番組内容でした。

そんな殿様商売に殴り込みをかけたのが、電懋の宿敵だった邵氏。電波を飛ばしてそれをアンテナで受信する、つまり、電線が無いから「無線電視」という「くたばれ!有線電視」的なネーミングのテレビ局を開局、麗的影声に対抗します。
アンテナとテレビさえあれば、後はただでいくらでもカラー放送の番組が見られるわけですから、視聴者はみんな無線電視へ流れていきます。

ジリ貧状態に陥った麗的影声は、ケーブル放送をやめ、1973年に麗的電視(RTV)という一般地上波局に転換しますが、けっきょく身売りして亜州電視(ATV)となり、現在に至ります。

考えてみると、邵氏は映画界で電懋を完膚なきまでに叩きのめしたばかりか、テレビ界でも電懋OBがトップの局をノックアウトしたことになります。

1度ならず2度までも。。。。

なんだか残酷ね。


付記:こんなケーブル局がありましたが、契約者いるのかしら?

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麗的呼声、シンガポールで今なお健在です。 / せんきち ( 2003-11-19 22:06 )

2003-11-12 いまさら失楽園


昨晩、テレビをつけたら、CSで『失楽園』をやっていました。映画のほう。
なんとなく途中まで見て、うんざりして寝ました。

役所広司のお肌のハリとツヤがとてもよくて、とてもくたびれた中年男には見えず、その点から言えば、テレビ版の古谷一行の方がよかったですね。
お肌かさかさでシミもあって、水なんか絶対はじきそうにない。
その方が切実感があるし、淫靡ですわ。

女優は。。。。止めにしましょう。

ところで、『失楽園』というと、忘れられない出来事が一つ。

1999年4月、友人の結婚式に招かれて、台北に行ったときのこと。
台北駅前の新光三越裏にある「光南」という激安CDショップでCDを物色していたところ、テレビ版『失楽園』のVCD(正規版)があるのに気が付きました。
「ほう、台湾でも有名なのね」と感心していたら、そこにいた女子学生グループの1人がやおらそのVCDを取り出し、古谷一行を指差して、

「彼は私のアイドルよ!」

と、抜かしおったのでございます。

たまげたよ。。。。

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ぷるぷる様:いくらでも指突っ込んでください。うちのみーちゃんも、ある意味やつれたボディ(太りすぎ)かもしれません。。。。 / せんきち ( 2003-11-15 21:37 )
しんちゃん様:アダルトじゃないっすよね。。。。? / せんきち ( 2003-11-15 21:35 )
おにぎり様:本当に、好みはさまざまですね。私、お肌がさがさで、水分なしのからから女です。 / せんきち ( 2003-11-15 21:34 )
一行のやつれたボディにはびっくりしました。それが妙になまなましくて…。小娘のように顔を背けたものです。台湾小姐、なかなかツウですな。 / ぷる2@鼻の穴に指つっこんでいい? ( 2003-11-15 00:18 )
僕もDVDを衝動買いしたのはいいんですけど、封もあけてません・・・。 / しんちゃん ( 2003-11-13 22:45 )
世界広し、オトコの好みも色々ですな。私の肌も水はじきません。 / おにぎり@29歳 ( 2003-11-13 21:28 )

2003-11-11 娃娃夫人


昨晩、お休み前に樂蒂の映画『萬花迎春』(1963)を観ようと思い、VCDをセットしたところ、おまけで付いている予告編集(邵氏作品のVCDには、必ず本編の前に宣伝も兼ねた別作品の予告編が入ります)の中に『娃娃夫人』(1972)という映画がありました。

でも、それ、まるっきり『おくさまは18歳』映画化もされています。原作は漫画)なんですよねえ。

びっくり。

しかも、監督は韓国を代表する名監督・金洙容(キム・スヨン。こんな映画も撮っています)。

二度びっくり。

映画会社のほうが「こういう映画を作ってくれ」と指定したのか、それとも金監督が『おくさまは18歳』のファンだったのか。

いったいどっちだったんでしょう?

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ぷるぷる様:岡崎友紀。。。。人気ありましたよねえ。いまじゃ「おもいっきりテレビ」と、変なシルクのパジャマの広告(松方といっしょのやつ)ぐらいしかないみたいですが。 / せんきち ( 2003-11-12 23:00 )
tomohiko様:どうやらあの頃の香港映画や台湾映画は、大映テレビの影響が濃厚みたいです。誰か研究してくれないかと思っています。 / せんきち ( 2003-11-12 22:58 )
わたし「ママはライバル」が好きでした。ママ役の人が美しくって。岡崎ユキが憎たらしく思えたものです。でも今、あらためて当時の写真を見るとユキもめちゃキュート。 / ぷるぷる ( 2003-11-11 22:27 )
私が幼少の頃、おくさまは18歳の再放送をやっておりまして、岡崎ユキにはときめいたものです(笑) / tomohiko ( 2003-11-11 22:20 )

2003-11-10 小情人(3)


『南北一家親』は、脚本を作家・張愛玲が手がけた作品で、主要キャストは『南北和』と同じです。

今度は向かい同士で張り合うレストランを舞台に、上海人の兄妹と広東人の兄妹がそれぞれ恋に落ちるという設定。
丁皓は、ここではラジオ(広東語放送)のDJを演じ、恋人の家族と会うときには広東語を駆使、家族は彼女が広東人だと信じ込み、結婚に賛成します。
しかし、恋人の北京語があまりに下手なため、彼女の両親には彼が広東人だとすぐにばれてしまい、いったんは反対されるものの、彼の職業が衛生署の職員だったことから、商売上の利害を考えた父親は結局賛成、両家の顔合わせが行われます。
ところが、日頃何かと対立している相手がそれぞれの父親だったことがわかって、その場は険悪なムードになります。最終的に、両家の父親が大喧嘩を始めてしまい、顔合わせは不調に終ります。
その後、互いの知人が仲介に入りますが、また喧嘩になり、仕方なく兄と妹が代理に立って結婚の相談を始めますが、その二人も恋に落ちてしまいます。
兄と妹の機転でどうにか結婚式を終えた二人はハネムーンに出発、一件落着しますが、今度は兄と妹が「実はぼくたちも結婚したいんだけど」と切り出し、びっくりした二人の父親は気を失ってしまうのでした。

臭豆腐と大根もちといった、些細ですが決定的な味覚の対立や、レストランで父親が喧嘩を始めると、居合わせた他の客がどちらが勝つか賭けを始める趣向、ラジオのDJという当時最先端の職業を取り上げていること等、いろいろバージョンアップしていますが、トータルでみると、最初の『南北和』の方が面白いです。
じっさい、興行成績も『南北和』の方がよかったそうです。
この後もう1本、『南北喜相逢』(1964)という映画が撮られますが、この時には丁皓はすでに電懋を去った後でしたので、鍾情(1933〜)が代わりに上海娘を演じています。

と、ここまでの3本、全てモノクロ・スタンダードサイズの映画ですが、この頃すでにライバルの邵氏ではカラー・シネスコサイズが主流になっていました。
作品のクオリティーはともかく、こうした技術競争に出遅れたことも、電懋が凋落していく原因の一つだったのだなあと、今回つくづく残念に思いました。
いい映画なんだけどねえ。(おしまい)

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ぷるぷる様:わたくしも、北京語映画中心に見ているので、広東語の古い映画の方は明るくないんですよ。いづれそちらの方も見たいと思っているのですが。 / せんきち ( 2003-11-12 22:53 )
せんきちさんの日記を読んでいると、すごく香港映画が観たくなります。(最近観てない…)しかも昔の。今度行ったら古い映画のVCDをいっぱい買ってこようっと。 / ぷるぷる ( 2003-11-11 22:29 )

2003-11-10 小情人(2)


『南北和』は、戦後、特に新中国成立後に香港に移住してきた大陸出身者と、香港の地元民との対立と和解をコミカルに描いた喜劇。
現在でも、香港では大陸からの新移民が増加中ですから、この映画で描かれたテーマは、香港に住む人々にとっては今もなお進行形の問題のようです。

隣同士にテーラーを構え、しかも住まいも隣同士の上海人・李(劉恩甲)と広東人・張(梁醒波)は、何かといえばすぐに張り合う犬猿の仲。しかし、李の娘でスチュワーデスの翠華(丁皓)は流暢な広東語を操り、広東人の機長で張の甥っ子・麥永輝(張清)と熱愛中。
一方、張の娘・麗珍(白露明)は、翠華を訪ねてやって来た上海人・王文安(雷震)と偶然出会い、互いに一目ぼれ。
しかし、娘の相手を知った李と張は激怒、交際を禁じてしまいます。
李の店と張の店は、互いに無理な競い合いをした結果経営困難に陥り、李の店には取引先の支払い催促が相次ぎ、張の店では出資相手が出資を取り消すから金を返せと迫ってきます。
その時、王が現れて李の店の取引相手に交渉、支払いを待ってもらえるよう取り計らってくれました。実は、王は繊維会社の重役だったのです。
さらに、張の店の出資相手には麥が金を支払い、やはり窮地を救います。麥は翠華との結婚に備え、こつこつ貯金をしていたのでした。
娘の交際に反対していた李と張もこの姿には感動、交際禁止を取り消し、二人は和解、共同でテーラーの経営に乗り出すのでした。

電懋の広東語映画に出演していた梁醒波(1918〜81)、白露明(1937〜)、張清(生年不詳)を起用、作品の中では北京語と広東語がめまぐるしく飛び交い、かなりリアルな設定です。
ただ、京劇と粤劇、北京料理と広東料理といった争いは、上海人の場合、越劇や上海料理の方がよかったような気もします。
ま、そうなると、北京語と広東語も、上海語と広東語にしなければならなくなってしまいますが。

この映画、公開当時は大変なヒットを記録、邵氏もさっそく同じネタで『南北姻縁』(1961)を作っています。いかにも「香港には著作権はない」と豪語(?)していた邵氏らしいやり方です。
といっても、日本でも東宝のサラリーマン映画(社長シリーズ)が当たれば、他社が似たような映画(次郎長社長)を撮るといった按配でしたから、いづこも同じということでしょうか。
そして、この映画の好評を受けて電懋で製作されたのが、姉妹作『南北一家親』(1962)です。(つづく)

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ぷるぷる様:またそこで、民族問題が。。。。内戦にならないだけよいですが。 / せんきち ( 2003-11-12 22:51 )
↓なるほどね〜。私の先生は「自分は中国人じゃない、香港人だ」といつも誇らしげに言っています。 / ぷるぷる ( 2003-11-11 22:31 )
この映画、タイトルバックや劇中で『春が来た』『夕焼け小焼け』が使われていたり、両家が仲直りのしるしに日本料理屋で鍋をつついたり等、思わぬところで日本が登場します。 / せんきち ( 2003-11-11 20:32 )
↓「契機となったの出来事」って、変な日本語。。。。「の」を抜いて下さいね。 / せんきち ( 2003-11-10 22:54 )
広東省をはじめとする大陸からの移住民が多かった香港でいわゆる「香港人意識」が芽生えるのは、ここ20年ほどのことに過ぎないようです。香港で生まれ育ち、広東語を母語とする人たちも、自分は広東人だと考えていたみたいです。そんな人々の意識が変わる契機となったの出来事が、香港の中国への返還決定でした。 / せんきち ( 2003-11-10 22:53 )

2003-11-10 小情人(1)


先週、香港からドバッと8本もVCDが届いて(って、自分で注文したくせに)、目下、せっせと映画鑑賞に明け暮れております。
全て、電懋(キャセイ)の1950年代から60年代にかけての映画。
昨日から今日にかけて、電懋生え抜きのスターで「小情人」こと丁皓(1939〜67)の映画を3本観たので、ちょいとばかり、彼女のご紹介をしてみたいと思います。

丁皓(本名・丁寶儀。英文名・Kitty)は、1939年(一説には37年)10月9日、マカオで生まれました。幼少時を広東省ですごした後、国民党軍の参謀長であった父と共に中国西南部を転々とし、ベトナムに住んだ時期もありましたが、終戦後は上海で暮らします。
1950年、香港に移住し、14、5歳の頃、國際(電懋の前身)の俳優養成クラスに加入、『青山翠谷』(1956)『曼波女郎』(1957)『小情人』(1958)等に出演、映画のタイトルから取られた「小情人」の愛称で人気を博します。
60年代に入ってからも、『母與女』(1960)『南北和』『遊戯人間』『體育皇后』(1961)『南北一家親』(1962)等で主役を務めますが、62年、彼女の有力な後ろ盾であった電懋の社長・鍾啓文が退社、彼女も翌63年末に電懋を辞めることになります。
同年、華僑と結婚して一子を設け、64年からは広東語映画に転じて数本の映画に出演。が、65年に結婚生活が破綻し、66年には子供と共にアメリカに移住。新たな生活に入ります。
しかし、1967年5月23日、丁皓は子供の写真を握り締めながら自らの命を絶ちました。享年27歳。

さて、今回観た彼女の映画は、『體育皇后』『南北和』(1961)『南北一家親』(1963)。
『體育皇后』は、香港版学園スポ根ドラマ。新界の農民の娘が街の女学校に進学、はじめこそ「田舎者」といじめられますが、彼女は徐々にスポーツの世界で頭角を現し、バスケットボールチームに所属、「体育皇后」と呼ばれる学園のアイドルになります。ところが、スポーツに打ち込み過ぎて試験で落第点を取り、怒った父親は彼女にスポーツをすることを禁じてしまいます。彼女が抜けたチームは連戦連敗、困った校長や教師たちは一計を案じ、それが功を奏して彼女はぶじチームに合流、ライバルチームに快勝します。

セーラー服に体操着、ブルマーにスコートと、おじさん好みのファッションが満載の楽しい映画です。
どうでもいいけど、この頃からサンバイザーってあったのね。(つづく)

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↓間違いました。正しくは、こちら。 / せんきち ( 2003-11-11 23:15 )
いま、こんな映画特集やってますが、買ってきたDVDを日本語字幕なしでまんま流すだけみたいなんで、著作権、だいじょぶなんだろか。。。。。 / せんきち ( 2003-11-11 23:14 )

2003-11-08 空飛ぶロダン




写真は、東宝映画『空の大怪獣 ラドン』の香港公開時宣伝チラシ。

なぜか、RADONがRODANになっています。

「考える人」が、空を飛ぶ。。。。

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2.3トンの高さっていったい。。。。豚2.3匹分の高さ。。。。 / せんきち ( 2003-11-10 20:33 )
私の地元スーパーの立体駐車場の注意書きに「最大車両重量2トン 最大車両高2.3トン」と書いてありましたが、最近いつのまにやら書き直されていました。残念。 / おにぎり ( 2003-11-09 11:57 )

2003-11-07 牧子の「寄り」







←思わず「寄るな!」と叫びたくなるのは、わたしだけでせうか?

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tomohiko様:ご参考までに。。。。 / せんきち ( 2003-11-08 22:24 )
誰だかわからず検索した結果、「寄るな!」と叫びたくなりました。 / tomohiko ( 2003-11-08 11:35 )

2003-11-04 ふたりの恋物語(2)


(つづき)康威は声優をやりながら一家を支え、その後自ら映画会社を起こし、監督業に乗り出しました。
夫妻の間には次男(子維)も生まれ、息子たちの教育のことを考えた康威と胡燕妮は、一家でアメリカへ移民、康威は保険業、胡燕妮は美容業と、実業界に転身します。

夫妻より一足先に結婚してアメリカへ渡っていた鄭佩佩(1946〜)は、ロサンゼルスでアメリカ在住中国人向けのテレビ番組を製作していましたが、夫妻の移民後、製作上のアドバイスをしばしば康威に求めるようになりました。
また、『あなたの世界』という情報番組では、美容と保険部門のアドバイザーとして、夫妻をゲストに招いていました。

1988年、台湾では蒋経国総統が没し、副総統の李登輝が総統に就任しますが、このとき、国民党主席への同時就任を蒋介石未亡人の宋美齢が妨害するという事件が発生しました。
これを知った康威は鄭佩佩に「今こそ、社会時評番組を作るべきだ」ともちかけ、番組を制作、自ら司会を務めました。
が、番組中で康威は、あろうことか宋美齢のことを「長くて臭い牛のうん○」とこき下ろし、外省人系の移民から猛反発を食らいます。
しかし、康威は断固として持論を曲げようとはせず、結局、番組は打ち切りになってしまいました。
そのせいかどうか、鄭佩佩の番組制作事業自体もうまくいかなくなり、1992年、香港へ戻って女優業に復帰しています。
そののち再びアメリカで暮らすようになった鄭佩佩は、今でも康威・胡燕妮夫妻との変わらぬ友情を保ち続けているそうです。

夫妻の息子たちはそれぞれ独立、次男が男優・尹子維(テレンス・イン)として活躍していることは、周知の通りです。
周囲の反対を押し切って結婚した当初こそいろいろと嫉妬された康威でしたが、現在では、二人の恋物語は香港映画界における美談の一つとして広く知られるエピソードとなっています。(おしまい)

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ナルさん:出会いはあるかもしれませんが、長続きする例は少ないかもしれません。 / せんきち ( 2003-11-07 22:11 )
おにぎり様:はい、そうですね。よかったです。これで離婚なんかしてたら、何言われてたか。。。。 / せんきち ( 2003-11-07 22:10 )
こんな出会いと恋愛、結婚が出来る男女がどのぐらいの割合で居るのかが知りたい今日この頃です。(笑) / ナルでしぃ〜。 ( 2003-11-06 02:21 )
尾張除ければ全て葦。 / おにぎり ( 2003-11-05 21:08 )

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