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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2010-10-29 名古屋に行った
2010-09-27 アマゾンの本
2010-09-26 保守的な人生
2010-09-10 9月
2010-09-01 ミャンマーの本屋、古本屋事情
2010-09-01 ミャンマーでの金銭的な思い出
2010-08-18 この夏のおもいで
2010-07-12 映画を見る・小説を読む
2010-07-06 医療事故(看護師による)について
2010-06-30 そうした方が、円滑だ


2010-10-29 名古屋に行った

名古屋に行った。

一番の収穫は、

「授業は一番前で聞くこと。いくら先生がくだらなくても、その単元が重要であるのに変わりは無いから。勉強はその授業内で終わらす。絶対ストレートで卒業する。でないと免許取ってからできることが1年、2年減る。」

という言葉だった。

それから、個に執着しないで授業を聞くことができるようになった。




・同級生Aは言葉が軽くて気が強いので近寄らないようにしていた。でも今日見たのは器材を拭くためのタオルをちゃんと洗濯機で洗わないで干していたのをムカついて洗いなおしている光景だった。



・いやな大人になっていく人たちを横目に見る
 休み時間を使ってテスト解説をしていた先生のことを、あの人は島生まれのだからといってガハハと笑ったらしい。「○○だから△△」、親が人殺しだから子供も人殺しみたいなことを言うのは絶対やめようと思った。
 お金とか学歴とかに感嘆するセンスは、本当にいいものを知らないんじゃないかな?って思う…。進化論でよくある、ステータスを備えた個体が子孫を多く残すというのがあるが、ではこんなことを言い出したら本能が壊れた動物と言われるのだろうか?
 割と尊敬している店長が、こんなことを言い出した。
「今は就職難って言われるけど、娘の高校の友達に聞くと講談社とか三井住友とか…(※娘は高校が公立のトップ校だったらしい)就職できない子ってあれね、慶応でも偏差値低い学科とか…」
「はぁ、住友銀行、あのバブルで一番悪名高い」
とは言わなかったが、この国はどこか大事なことが抜けているんじゃないかと思った。ひとつ、キューバの本を読んでも、「キューバは日本と同じく高齢化が進んでいますが、高齢化は誇りに思っています」という言葉が出てきて、感動する。日本に生きていて、新聞にも、TVにも、教科書にも、町にも、そんな言葉は聞いたことがない。そしてキーワードをもてあそび、考え方は語られない。
 担任は、大人として、先生として、人間として、かなり尊敬できるから、先生はこういう人をどういう風に見てるのかなと知りたい。


GORDO CAFE
伏見駅の伏見地下街側の改札を出てつきあたりの店。徒歩3分くらい。
モーニング400円(土曜は380円)


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2010-09-27 アマゾンの本

 Jが土曜から渡良瀬というところに行っているので、土、日と夜更かしをした。私も昨日は3時くらいまで起きちゃって、といったら、3時じゃ頭痛くならないけど、というクラスメイトが一日中頭痛で辛そうだった。そういう時私は頭や肩を揉んであげるのが好きである。なかなかけれど、医療従事者になるのなら、揉んでも悪い影響を与えないのか勉強すべきか。でもこれに答えは出るのだろうか?とりあえず気持ちがいいということで続けたが。ちなみにそのクラスメイトは、子供のいる30代女性で、睡眠時間を聞かれて3時間の人に手をあげた唯一の人であった。

 そういうわけで月曜の今日もネットをだらだらしてしまっている。ヒポコトリも更新してしまうほどだ!ところで、アマゾンで古本を買うなら、「概ね」「クリーニング済み」「消毒済み」とかいう単語を使うところからは絶対買わない。とくに「概ね」が気に入らない。「概ね状態は良好です。」「基本的には比較的キレイな物を出品しておりますが、中古品の為、中にはヤケ等ある物もございます。」「中古品のため使用感はありますが外観上、綺麗なものを販売しております。」ああもういくらでもコピペしてやる、せめて、何版か書くべき本には書いてほしい。

 カレー・シチュー用肉とか書いてある肉を絶対買ってやらない心理と似ている気がする。

 それでもカレー・シチュー用野菜セットは買ってしまった。単体で買うより安かったから…そして手持ち金が200円しかなかった時に単体では買えなかった上に、割合がちょうどよくできていたものだから…

 そうして私はいつか「あくまで中古本の為、経年のヤケ、若干のスレやキズ等ある場合がございます。その点ご了承下さい。」とか書いてある本も買ってしまうのだろうか。

 あと、ミャンマー土産をほとんど買ってなくて、タイの空港で苦し紛れに買ったベトナムのフォー100B≒300円が、三浦屋*1で320円くらいで売っていた。市街ではどんくらいだったんでしょう。

 ミャンマーは、さすが、物価安い、と私はビル・ゲイツ*2になった気分だった。それで日本の百均に抵抗が無くなってしまったんだよ(充分な賃金だから)、石油使うのは嫌だけど、とサチコに言った。サチコは中国好きだから、行ったことがあるので、通じると思った。そしたら「充分な賃金」というところが通じなかった。ミャンマーの物価は1/10〜1/2〜1/1くらいだと思うけど、と言ったら、アリエン!ということだった。




*1
高級スーパーというイメージ。ただし庶民でも入れる。ちなみにその加工工場がうちから徒歩数分のところにあり、最近アジア人2人組が働いとる。なぜ私がそれを知っているかというと、うちの前が徒歩通勤の途中の道らしいからだ。

*2
現代の王様

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2010-09-26 保守的な人生

最近は平日にも本を読めるようになった
テストが1週か2週に1度あるので割とメリハリがあり、勉強したような気分にもなっている
その合間に本も読めるし、飯も作れるし、
休みの日に昼寝をしても罪を感じない
人にレールを敷いてもらうのは楽だ

読む本というのも、長い大作や古典はまるで読んでおらず、今後読む日が来るのだろうかという感じで、
最近心をつかまれたのは養老、宮本常一、宮崎学

相変わらず先生たちは適当なことを言って授業をしていますが
養老いわく知るということは怖いはずだと、見方が変わるわけですからと(『「都市主義」の限界』)←これと、『形の見方』が特にオモシロカッタが、ツマンナイ奴も三つ四つオモシロカッタ箇所はある
本当の学問させたら明日から学校来なくなっちゃってうかもねと思えば、
3年かかる職業養成に5年もかかって効率悪いとかいうことが起これば、
こんな適当な授業の方が好都合でしょうか

聞いた話では教育課程(シラバスのようなものだろうか)を提出するのに漢字一文字のルール違反も許されず返却されてしまうらしく(その管轄のとこでは”障がい”は”障害”でないとだめらしい。ちなみにその先生は”障害”派らしいが。差別は言葉で規制できるかのような風潮がよくないという意見で)
シラバスと授業の良さがまるでまるでまるで比例しないことは皆知っていると思うが
管理管理という感じで
管理は管理する権力の保持のためにしかないのでは?
と思う 宮崎学を読んだ今日この頃。

ところで 自主規制語はいろいろとめんどいからやるわけで
あと”人権”をうたうことはわがままを助長することで
法律はIQの高い人を金持ちにさせるもので
メディアは子供の魅力を奪うもの
だと思う

市役所の臨時職員をはじめた友人は
市の議員は皆いばりんぼで欲深いと言う ああいう人が市政を論じてるのかと思うと…と言う
ちなみにこの臨時職員という雇用は期限つきのイヤーな雇用で雇用形態について?訴えてる人もいるらしいが
でもそれでもその友人の話ではコネで
何人か集める面接は形だけで 本当は決まっていたらしい
はじめ話が来て、受けるか迷って受けることに決めたが、断ること自体できなかったらしく、面接の前にはおそらく○○さんで決まりますからという電話も来るらしい なかなかの田舎社会である(そこは県庁所在地であるが)

ちなみにミャンマーもコネ社会らしいが

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2010-09-10 9月

 このペースで勉強していて3年間で病気のことまでちゃんとできるのかしらという心配はとりこし苦労で、気付いたら疾病論と名のついた授業が時間割に入っている。教科書がある、どこかから医者がやってくる、覚えることが多そうだと思うと、テストを見ると問題が少ない。

 同時に看護師の先生たちが、子どもとは何なのか、アイデンティティとは何なのか、今90歳の人はどういう人生だったのか、説いている授業が始まった。つくづく、私は絶対先生にはならんと思う。教科書に準拠しなきゃいけない授業ほどつまらんものはないなと思うし、自分で研究してないことを教えることほど辛いことはないなと思う。そして教科書にもっともらしく子どもだの条例だの人生だのについて載っているが、システム化になじめない者にとっては辛い時間である。それを小学校のような机で聞いている。

 学生はよく寝ている。勤務時間にしばられる大人という語り口が昔のものには時々書いてありますが、それに似ている。

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2010-09-01 ミャンマーの本屋、古本屋事情

 本屋、古本屋は結構ある。ヤンゴンでイイナと思ったのはパノラマホテルの通りにある2軒の新刊屋で、日本の町の本屋のサイズ。ミャンマー語の本を中心に、英語のものもあった。子供向けの英語の本と、プログラミングの本が目立っていたが、私はそれ以上の特徴が分からなかった。その他にも街角でBooksっていうのは見かけたから、もっと大きい本屋もあるかもしれない。この2軒はパノラマホテルから遠い方が、凝っているかもしれない。本も横に積んで、少しでも量を入れているのだろうか。このミャンマー人の著者の本が欲しい、とメモを見せ、Short Storyと言ったら、すぐに出てきた。読めないのだが、日本語に訳されているらしいので。もう一方の店では出てこなかったのだ。でももう一方の方が広く、過去のTIMEなんかは300チャット(約30円)で売っている。本の物価はミャンマー通りなので、我々にとっては辞書がとにかく安い…!!日本語ミャンマー語、ミャンマー語日本語(各5500Ks)、大学書林の  年のやつ(各2500Ks)。これはOceanという金持ちや外人向けの、ミャンマーから浮いているスーパーマーケットの本屋では6000Ks、3500Ksであった。Oceanは2つあるらしくイーストサイドの方に行った。ここには本の売り場が4ヶ所ある。2つはゲートの中の方で、雑誌(ミャンマー語)本(辞書やプログラミングの本他)と分かれていた。ここでMedical Termsという英語ミャンマー語の絵付きの薄い本(1000Ks)、英語ミャンマー語辞典は豊富にあり、2000Ksのものを買った。英語教育は小1から行われているそうだが、英語教育が将来の仕事に関わってくるからだろうか。英語のエッセー集の英語ミャンマー語のものが色々とあり、1000Ksのものを買った。ゲートの外の店は2つ、1つは完全に英語の本屋でおそらくアメリカ価格、文具なども売っていた。もう1つは隅っこにあって、辞書やミャンマー語・英語の本屋で、私はここの本屋で辞書を買ってしまった。しかも、チャット(Ks)でしか支払えないと言われ、両替所はないと言われた。本は一度見つけたが最後、欲しいものはまた店で出合うことは少ないことが多いので、どうしても買いたかった。ドルで買いたいとごねていると、警備の中の店でドルで買ってチャットをおつりでつくってきなさいなというので、そうしたら、さすがに1000Ks(1ドル強)で20$のおつりは18$で返ってきた。チャットでおつりをくれとごねていると、2$扱いだったのが1ドル強扱いになって数枚チャットが上乗せされて返ってきたが、私は18000Ks欲しいのであった。だめだということが分かり、だめでしたと本屋に告げてから20分遅れの集合場所に行くと、いなくて、上の階にいた。そして飯を食うところで、両替ができるという店員がいるので、レートは悪かったが、それでチャットを作ってここで本を買ってしまったのだった。でも外貨の方が欲しいんじゃなかろうか?しかしあの両替できるという男が、店の角のどっかの店で両替してきたのが、外国だなと思った(ちなみに人柄はファニーである)。

 古本屋はヤンゴン駅近くに沢山ある。キオスクみたいな広げ方してる店、道路の真ん中に広げている人も、橋の下でやってる人もあった。よく立ち読みの人がいた。ちなみに新聞もなんか良く分からんが沢山出てて、よく読まれていた。古本屋は学校の教科書みたいなのがほとんどの店にあったけど、他は全く分からんかった。どこから仕入れるのか、日本の本で100円にも並ばない本が並んでいた。ちょっと珍しいのかなと思ったのが、  にある寺の模様とか刺青?の模様集。それと一緒に日本車の昔のメンテナンス冊子も並んでいた。

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2010-09-01 ミャンマーでの金銭的な思い出

 ところで、値切るというのはよくわからんなぁと思う。値切らなくても十分安いが、相場より高いとむかつくなと思うからなんとなく値切るわけで、私はメンドイナと思うし、ついでに立ち止まって話しかけてくるのも品定めできんで困る。普通のミャンマー人は英語が日本人より遥かにできると聞いたが、市場の人は通じなかった(かといってそんなに貧富の差は感じなくて、むしろ市内の人は貨幣が入るので貧乏ではないと思う…が曖昧)。なのでミャンマー語の分からん私は談笑もできず、やはりうっといわという感じであった。
 値切るのがよく分からんという理由は、自分がその商品にある価値をつけるという行為がどっかに行ってしまっているのが気持ち悪いからだろうか。それでも軽い会話ではそこまで触れてたらくどいなと思って触れないが 私はそんなくどい会話をずっと続けても構わない。

 でも日本に帰って、やっぱり真面目というか息苦しいというか自分で自分の首を絞めているというかそうでもしないと経済が滞るのかしら?というか…少なくとも私はそう感じる。気遣いの国デショウカ。簡単な単語の羅列でも通じる英語を使うのが面白くて日本行きの飛行機で韓国人の真似をして決して日本語を喋らなかったが、すみませんあありがとうございますみたいなこれ日本でやらなかったら逆に気持ちよくないんだよなというやりとりをしなくてよいので楽であった。ミャンマーも村社会とはいうが、そこまで文化を感じ取ることはできなかった。


 ミャンマーは空港のパスポート照合の後、Gate inの前の、普通の空港なら免税店みたいないい匂いのする店があるだろうところにある、アクセサリーの店が安かった。1ドル(チャット可)で、市内の店より安く、”女友達”の喜びそうなものが売っている。国籍の分からないみやげなので私は買わなかったが、やはり買っとけばよかったなと思った。

 そしてANAの人にすかさずキャリーケース壊れましたねと気付かれ書類を作ってくれたのは、このサービスの良さありえんのでは…?と思った。ありがたく嬉しかったが、管理社会だろうか、息苦しさも感じた。

 異常に高いなと思ったのがゲーセンで、沢山のコインで遊ぶのが夢だったと思ってわくわくしたら、100チャット1コインだから、日本とほぼ同じであったのでやめた。

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2010-08-18 この夏のおもいで

図書館の勉強室で、PC・電卓など利用可能席が設けられているのは知っていたが、電気も供給してくれるとは驚いた。それで使ってみたらネットの穴があるのでまさかと思ったらネットも使ってよいということだった。もちろん閲覧規制はあるが、なぜかひまじんネットは”ブログ””ウェブコミュニケーション”などの規制がなく、何となく更新してみる。


気づいたら8月18日になっていて、庶民として人生勉強はしたが、勉強はまるでしてないなと悲しむこともできる。よく、この緊張の続く日々で体を壊さなかったと思う。下痢はよくしたが…(冷房のキツイ部屋たちと、弁当の早食いと、その後の立ちっぱによるだろう)


中島らもは本屋の人が誉めていたから気になってはいたが、初めて読んで、椎名誠みたいでヤダナ、と思った。私の中でバブルの頃の本やバブルと広告は同じイメージで好きでなく、両方いけすかないやつらだなと思っているが、この手の本も好きでない。産業だなと思う。でもこの程度のものを好きでないといったら、世の中は好きでないものばかりである。好きなものも多いが。


好きか嫌いかで話をする人がなぜ嫌いか、が分かった。それはあなたの感受性が鈍いのだ。なのにその対象のせいにするからだ。もう中島らもの悪口は言わない。


アルバイトを、気づいたら木曜日からしていて、気づいたら次の次の火曜日まで続けていた。それでも給料計算をしたら日当たりも考えて働かないとなと思った。だからといって、当日手ぶらで行って(打ち合わせとか責任とかなくて)お金をもらえる仕事を続ける人が、早く帰らされて予定より稼げなかったからとか責任者が休憩まわすのが下手でーとか言って愚痴を言うアルバイトのいる現場はもうウンザリナワケで(ちなみに休憩も自給が発生するのにだ…)、仕事をくれるだけ私はありがたいと思って働かせて頂くが、あまり気持ちと儲けは比例しない。いくつかの似たような会社で、ここはいいところだなと思うところは、おそらくお互いに割が悪いんだろうが、それでも辞めたくないなと思う。そして最も稼がせてもらった会社は、最もくだらぬ会社だと思う。そして私も、その愚痴を言う人々のことを真面目に取り扱って、その人々とも誠実に対応していたが、彼らの言うことは適当なことが多く、何の真実も語っていないことに気づいたが、しかし彼らは時々楽しく、その会社の仕事を一歩でたら何の役にも立たないがこの会社の中では少しは有益な情報をもたらしてくれるので、私はにこにことしている。そして気づいたのは、こういった日払いの仕事ならいくらでも、たとえ13日連続でも働ける理由は、会社に心を売らなくて済むからであり、一緒に仕事をしなければいけないが尊敬せぬ人々と明日は顔を合わせなくて済むからだろうと、一応完結した。


というわけで、何の勉強もしていない(宿題をするレベル)長期休みがどうだったかというと、割と嫌いじゃなかった。人間(客・バイト共に)と大量に接する仕事が多かったため、世の中で出会うあの不快な人々の構成が少しは見えたからだ。そしてむしろ休みの時に心が開放されている時に、そのような不快なものに出合うとものすごく悲しいが、今日は仕事の日という日には気にならない理由もわかった。だから彼らは不快なのだ。彼らが仕事の日なら感覚が人間ではなくなっているのであり、彼らが休みの日であるのなら、私と彼との感覚の不一致なのだろう。


そしてその金をもって、ミャンマーに行く準備ができた。

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ミャンマーは入りたい団体の見学に行きました。でも軽くバックパッカーのような真似ができて、もうほんと、念願叶って嬉しいです。期待通り、理想通りでした。そこにいた似たような人もモロッコがよかったと言ってました。ミャンマーは温度も湿度も似たようなものでしたが、1日1回は通り雨が降るので(雨期と呼ばれていました)、日本(北陸以外なら)の方がたまらんです。でも夏にあたる3~6月は猛暑だったそうです。 / ヒポコトリ ( 2010-09-01 18:12 )
ミャンマーはパッカーですかー? 最近・・・ と言うかズーッと半端無く暑い日が続くから体調を壊さないようにね! / nsjm ( 2010-08-31 16:56 )

2010-07-12 映画を見る・小説を読む

私も大概せちがらく
映画を見るのも小説を読むのも音楽を聴くのも、とりわけ好きではない
おそらくそれは真実は調べて分かることで、表現されるものではないと思っているとか、何の役に立つのか?誰かの言うように、人間の理解にだろうか?しかし、未知の作品を前にしたときには、それはまるで贅肉のように、お前が役に立つのは共通語としてぐらいだろうとも思う。だからかっこいいこと言う人に引用されたりすると困る。かっこいいこと言う人とは、中身がかっこいい人のことである。…というように、行動を評価するときには役に立つ立たないで判断する人だなとも思う、ただしそれは最も平均的なタイプとして、とも思う。

けれど心が栄養分を吸ったかのように感じるのは不思議である

カッ若い人の恋愛話か 25の私でもカッと思うくらいでは この国の大人たちはほとほとつまらないのではないだろうか と思いながら「スウェーディッシュ・ラブストーリー」ロイ監督を見て『首鳴り姫』岡崎祥久を読んだ。スウェーデンのことを知りたかったのと(別にそれはスウェーデンでなくても良かった)岡崎祥久の本を手に入れていたが(別にそれは『首なり姫』でなくても良かった)ほったらかしにしたままだったからである。お金もなくバイトもなく(心身の危機を感じて入れなかった)用事もキャンセルし血族的な仕事もなくJも泊まりでいない土日であった。2日間一日ゴロゴロしすぎて頭が痛かった。こういうときに、自然の近くに住んでいたらいいのにと思う。せめて岩の上でゴロゴロするのだろうか。

「スウェーディッシュ・ラブストーリー」は期待通りスウェーデンの感じが分かっておもしろかった。散歩する惑星の人だと分かったのも面白かった子役の未来を知るのもおもしろかった

『首鳴り姫』は期待通りよい世界観であった。物語として何とは思わないが。ひとついつも違和感を感じるのは、労働に何か意味を求めるところというか、「労働」という言葉があまり好きではない。この国で生きている人のほとんどならば、おんぶされて生きていることに愚痴を言う人という感じのする言葉だからだ。サラリーマンは気楽な家業という歌を知っているのだろうか。まあ知っているだろうが、では何が嫌なの、自分のやる気のないことがいやなの、と話をしてみたいなあとは思う。この話に出てくる女の子に非常に似た感じの人がいるので読ませたら何というのか気になる。でもその子は中肉低背だが、この話に出てくる女の子は低肉中背な気がした。





面白い言葉があった

「愛おしき隣人」より

私は精神科医です
もう27年もやっています
身も心もボロボロです
何年も何年も患者の話に耳を傾ける
自分たちの人生に満足せず―
楽しみを求め 私に その手伝いをさせる人々
彼らの相手は疲れます
私の人生だって楽しくはない
彼らは要求しすぎる
それが私の結論です
幸せを求めるくせに―
彼らは自己中心的であり 大変 身勝手です
とても心が狭い
私は正直でありたいと思います
彼らはただ単に意地の悪い人間たちです
多くが そうです
何時間もかけて セラピーをして―
意地悪な人々を幸せにする
そんなの無意味です
あまりに虚しい
だから やめました
最近は薬を出すだけです
効きそうな強い薬を
それで十分です

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2010-07-06 医療事故(看護師による)について

医療事故で死んでいる人というのは、交通事故で死んでいる人よりも多いだろうという教育を受けた。医療事故防止の授業でだ。その授業の先生はそういう機構で働いている人らしい。


その授業の大要はこうだ。”医療事故は、それを起こした本人が悪いのはなく、その病院の医療事故防止システムがなっていけないのがいけない”


私はメディアを通しての情報しか知らないので、個々の出来事を聞くと、確かに


ところが、上の学年の人の会話を聞いていると、確実に感覚が違う。同じ授業でも先生が違うだけで、こうも違うのかと思った。あの先生の授業を受けていたら、「そんな単純なミスして患者さん死んじゃって、その看護師の能力を疑う」みたいな話はできないはずだ。今の先生と去年の先生のどちらが真実/有用か、多数派・少数派かを知りたいと思う。




ところで、それは分かった。でも、では自分は看護師としてどう気をつければいいかは分からなかった。はっきり言って優良大学以外の看護師(つまりほとんど)はデシリットル単位で覚えていた数値がミリリットル単位で出題される問題を間違える人たちである(そして出題方法に対してケチをつけるだろう、なんたる善良庶民である)。ただし、医療事故を起こす人がそういう人かというと、聞いた話では、非常に優秀な人だそうだ。

でも、医療事故の授業で習ったのは「この容器とこの容器はラベルが違うだけだから、間違いやすい」という事例による「医療事故」の責任が「看護師1人に負わされた」これは確かにその看護師が悪いだろうが、「けれどその看護師だって被害者だろう、誰かが起こすに違いない状況にあった、その1人目を担当した、被害者だろう」ということだ。


ただし、確実にダメな場合もあるだろう…




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ところで、その授業はとっくに終わって、私は日払いバイトなどをして、ヒヤリハットな現場を沢山見たというか仕事場というものはヒヤリハットに満ちていると思った。そして、「病院のように、事故防止活動のない仕事場って、かわいそうだな〜」「病院はやりがいがありそうだぜ」と思っていた。



そして日々は過ぎ、医療事故に関する授業を経て初めてニュースで医療事故を知ることになった。ここで思った。「あれ、事故防止活動および”加害者も被害者”感は意識として未熟である」


私たちの習ったのは理想図だったのだ。いや、だからこそ、習ったのではないか…

けれどここが”理想”という言葉とは異なる”理想図”であって、結構本当に理想が現実になることが多々あるらしいので、何かできることを見つけたときにはがんばりたいと思う。


ただし、(高度)医療のおかげで生きている人が医療事故で亡くなるケースは多いので、もし私が医療の客として発言できるのだったら、文句は言わないと思う。もし文句を言うとしたら、その時の対応が人の営みでなかったときだろうか。


ひっかけ問題を沢山こなせば「看護師による医療事故」はなくせるのだろうか?(ただし医療事故は技術的なものもあるらしいが)
それ以上に防止機構の充実をした方が有用なのだろうか。
でもひっかけ問題と現場のあの感じは違うだろうなとも思う。







ところで、トラックの運転手が確実に見えなかった子供をひいてしまう、業務上過失致死しょうって何なのか…

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2010-06-30 そうした方が、円滑だ

私は「生徒」役を求められたので、まるで交渉する気はなかったが、困った顔・粘る顔をして、休んだ理由を述べた。休んだ理由次第で交渉の対象となるからだ。私はそんなことを言いふらしに来たのではない。ただケアをしにきたのだ。面倒見が良いために1人の欠落にも顔を出してくる制度のために。けれどそんな態度は出さなかった。私は「患者役を演じた」ならぬ「生徒役を演じ」て、そうした。そうした方が、「円滑だ」と思ったからだ。

※「患者役を演じる」という言葉が聞かれることがある。患者さんは本当は困っていることがあるのにいい患者のふりをして
我慢をすることがあるので、まだ観察を要するという言葉だ。

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