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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

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2010-05-13 自分の病気について詳しく知りたい人のために
2010-05-11 私は20代で手に入れた感覚ですが皆さんは…
2010-05-10 平和の病
2010-05-05 英語のいいところ
2010-05-04 ゴールデンウィークのワカメちゃん
2010-04-17 ゲロの歌
2010-04-11 日本のマジョリティ
2010-04-06 今春のサザエさん
2010-03-28 社会学の、あのスカッとしない感じについて
2010-03-26 読んだ本


2010-05-13 自分の病気について詳しく知りたい人のために

最近はもう、頑張りたいのに頑張れない、「頑張りどころ」の見つからない、けれど日々は過ぎていく、そんな焦る日々が続いた。しかし今日、これからしばらくの仕事を見つけた!


〜私にとってゴールに近づくまで〜
まず「近所の本屋」に答えはないだろうというのは分かった。
そこで病院に「患者用の図書室」というのがあったので、期待して行った。これというものは無かった。
医学部のある大学の図書館という手があるのだろうなと思ったが、絶対に途方に暮れると思って近寄らなかった。
看護学校に入ったはいいが、あまりの図書室の狭さと埃臭さに近寄らなかった。




今は身体の構造・身体に関する化学反応・看護の理論という、かなり漠然とした勉強しかしていない。身体のことを知る勉強は楽しいが、このペースでやるとしたら、間に合わないんじゃないか!?と思った。これは、私の学校が専門学校だからなのだろうか?看護大のトップの方か医学部は一体どういう勉強をしているのだろう?シラバスでも盗み見に行こうかというところだった。



ところがそれは図書室にあった!今日はぶらぶらしたい気分だったので昼休みに司書さんに聞いてみたのだ。以前、別の学年の人が司書さんに「○○みたいな病気の人にはどうすればいいですか」と聞いて、司書さんはすらすらと答えていたのだ。なに!?看護学校の司書とは本のプロでなくて医療のプロなのか!?と思いつつも、元気が無かったのでつっこまないでいた。それで今日は「そういう気分」だったので踏み出して、「これこれこういうことを知りたいんですが」と聞いてみたら、ちゃんと「そういう本」が出てきたのだった!
ゴール!



∴看護のみの学校の図書室に行けば、狭いので、途方に暮れることなく見つけることができる。自分のかかった診療科の分類のところに行けば、『○○科』みたいな本があって、その器官のしくみ・主な疾患が載ってる!文章は平易である!なぜこの本が町の本屋の「怪しげな健康コーナー」に並ばぬのか!!!





ところで、私が自分の病気について知りたいのは、「原因」「病気となるしくみ」「今後どういうことが起こりうるのか(どういうことに気をつければいいのか)」の3点に集中する。病院で説明されてもうっとうしいという人もいるらしいが、逆に知りたいという人がいるとして、何を知りたいのかは分からないので、とりあえず自分が知りたいことを基準にして調べることにした。病気ごとにその3点をまとめたものをコツコツと溜めていくことにした。ただし「原因」「今後どういうことが起こりうるのか」という答えを見つけるのは大変そうである。ただし「主な病気」とその「症状」「治療法」などの大まかななことはたった1冊でカバーされている。まずはこれでゴールと言ってよいだろうと思う。
内田春菊は若い医者を卓上の知識とバカにしていたが、私もそんな医者は怖いが、でもいざこれから病院に出て行こうとする者としてできるのは卓上の知識を豊富にすることだろう。私の学校の看護学生は病院実習に行ってからそういうことを始めるらしい(でももしかしたらその直前に授業でやる気もするな…私は早まっているのかもしれない)が、医者や他の看護学校はどうなのだろう。やはり、もうちょっと余裕が出たらシラバス盗み見は実行しようと思う。

この疾病ファイル化は、世界各国のことを調べていた時と似たような感覚である。

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2010-05-11 私は20代で手に入れた感覚ですが皆さんは…

ここ最近手に入れた感覚がある

その感覚は、「象徴的な何か」である、つまり記憶にあるものではなくて、頭の中で作り出したもの

大体が創作物を消費している時に起こる。そうでなければ、夜中とか、起きた後とか、宵に起こる。つまり、宵に外を歩いて音楽を聴いている時とか、寝起きに絵を見たときなどは、よく起こる。


かなり感覚的な何かである





その2次的なものなら言葉に言い表しやすいので、体験したことのある以下に箇条書きにしてみる
・    の絵
・ドラえもんのファミコンの音楽
・沖縄の湿度
・オーストラリアの湿度

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2010-05-10 平和の病

平和の病の一つは、保守的なところだと思った出来事があった。

講師で、どこの出自だか分からないが、医療界の小ネタにやたら詳しい人がいる。半信半疑で聞いている。

エイズの話の時。「いったん臨床医になったが高校生の性教育が重要だと思って医者を辞めて保健体育の高校教師になったという有名な人がいるが…」と心打たれる何かを話し始めたと思いきや、話し手がこの人である限りそんなわけがなく、やはりそれはネタだった。高校ではなくて小学生エイズという単語を出したかっただけらしい。「僕も発起してそうしようかと思ったけど、もう高校生じゃ遅いんですね、小学生エイズが…」といつもお決まりの可愛い系下ネタで三流落語家に落ちぶれたのであった。要は被せればいい、という話。



ろくな性教育を受けた記憶はない。

だからといって、どのような性教育がいいのか、分からない…(この人のでないことは確かだ)

しかし、今の所一番ハッとさせられた話がある。読み返そうと思った。





『セーヌ左岸で』犬養道子
「もろはのナイフ・性教育」から要約
コンドームについて聞かれた教師が、逆に聞き返した。
13歳の生徒は「妊娠させないための道具です」と答えた。
教師は「あなたはものごとを否定的にしか見ないのですか、いつもはそうじゃないでしょう。例えばナイフは何ですか?人を殺す道具ですか?」続けて「避妊とは、2人が深く考えて、お互いと子供のためにいちばんよい時期に生むための道具です。それは肯定的なものです。逆に否定的な意味で使ったとき、人の倫理からそれます」
ナイフは便利なもの、火も、水も、けれどよいものがすべてひっくりかえったときに怖ろしいものに変わる。一時期「刃なし運動」がはやった。ナイフの事件がはやったからで。しあしそれは「すべての人間はナイフを見たら殺人をしたくなる」という理論を前提にしている、それは人間の否定だろう。
性教育はそれに似ている。





犬養道子の本はこの時代のものしか読んだことがないが、ヨーロッパと日本と、背景の違う間でどう相手の文明を生かせるか、という視点が抜けているのが気になる。それでこそ今巷に溢れている本に多い。でもこの時代はそもそもその情報自体レアなものだったのかもしれない。それならこのきつい口調も理解できる。

しかし、文化の分析のおおよそは30年前と変わっていないと思う。日本は画一的だ。多数決が民主的だと思っている。話し合いは権力が勝つことを知らない。



ところで、平和の病とは私のことである。
この授業、初回はあまりの「(知識を売り物にする)知識人ぶり」に耳をふさがずにはその場にいられなかったが、今では平和な日常の中を繰り返す日々の中では、むしろこういった方が、短絡的な刺激の方が、歓迎しているのである。これが非独学の病か。その人の役立つ場所は偶然見出される、あいまいな世の中、これが世の中か、と思った。

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2010-05-05 英語のいいところ

私にとって外国語のいいところは、自分と他者を離して見ることができるところです。


常識を自明のものとして伝えてくるメールには閉口します。そこで、TOEICの問題集に載ってるメールの文章かのように見なしてみます。すると、そういう人もいるんだなと思えます。


心ない新聞屋の電話に対して、英語のCDだと思えば、もやもやが消えます。



それは他者と分かり合うこと=妥協点を見つけることの諦めでもあり、
生きていく知恵でもあります。


あるいは、私はかなり、いわゆる日本人で、どんな人とも同調できるものだという認識につかっているということです。それは、上のことを英語がどうのこうのと持ち出す前に、難なくやってのけている人が結構いるからです。




あるいは、
「こういう口調の人はこういう人、こういうことを言う人はこういう人」
「この表現はこういうこと、この表現にはこういう背景がある」(例の、政治家/行政家語とか…)
ということが分かりすぎてしまう自分の国の言葉に疲れています…


∴頼みたい新聞を頼める店がありません…

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2010-05-04 ゴールデンウィークのワカメちゃん

A月A日
お金も仕事も無く(くどいことを言えば、生まれてからさいなまれていた貯蓄プレッシャーからはなたれた春を謳歌し、そして仕事が無いのはアルバイトを計画的に探していなかったツケであり、別にしないならしないで本読めるからいいやと思って熱心に探さない内にGW前日を迎えた。ところで私が最もアルバイトをしていた2000年頃というのは、コンビニに行けば直前・短期のアルバイトは見つかった感覚があるのだが、今はどうやって探すのだろうか、携帯だろうか)、何となく英語の続きを進める。


B月B日
お気に入りの「図書館」のところをよく開くから、いつの間にかアイドルのブログがそこに溜まっている。見つけやすいから。アイドルのブログをだーっと開いていって端からとじていくと、パソコンを閉じるふんぎりがつくのだ。てんかりん、AKBのトップと外人顔と社長のお気に入りの3人、さゆ、がおもしろいかな。ファンというよりは、町を歩くみたいに世の中がどうなっているのかを知りたい気持の方が強い。菅谷梨沙子のブログが作られたときには、嬉しくてたまらないと思う。タイムラグを感じないブログ・オフショット的な写真(そして可愛い)というのがあるという現代は、非常に羨ましい時代だ。書くのが嫌いなアイドルは大変だろう。


C月C日
駅前のキャフェイに人が少ない。昼になっても混まない。キャリーケースを持った人が多い。近所は人が歩いてなくて田舎のようだ。ゴールデンウィーク!
図書館に行く。自習室の席が日曜日以上に埋まっている。
休みといったら遠出する人と勉強する人、そのうち何割はすれ違うのだろうか。


D月D日
TOEFLに励むにはリアル外人が必要でお金がかかると思って、打ち込めないでいたが、もういい加減素直にTOEICを受けてみようと思って、申し込んだ。財団か何かのの名前がビジネスコミュニケーションとあってがっくりした。TOEICってビジネスマンのためだったのか…。申し込んだものはしょうがないと問題集をやっていたら、これがまた楽しくてびっくりした。確かにビジネスだが、とっつきやすい。1つの問題が短いし、全訳があるし、注意も面倒見がよい。1週間後には英字週刊誌が暗号ではなくなった。しかし宣伝にあるように600点程度で外人と取引できるとは思えない…そもそも990点でなければ間違えてるわけだからそんな人雇いたくなかろう。せめて900点。でも900点あれば高給の家庭教師とかできるとか見たことある記憶。うそだ!


E月E日
粗大ゴミにかかるお金について、私は今の通り個人が負担するのがいいという意見にまとめた。どんどん買い換えなければいけない世の中の責任をとるのは企業だと思っているが、だからといってテレビの値段に1000円追加されたところで、買う側には「消費に対する責任」の実感はそんなに無い。「捨てる時にお金がかかる」ということの方が上手な法治だろう。
まあ逆に言えば企業が粗大ゴミの負担をした方が消費はまわるということか。
あくまで私の「実感」なので、ずれているのかもしれないが。

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2010-04-17 ゲロの歌

M月R日
 じいさんが椅子に座っていたので疲れてるのだなと目に入ったら、その途端ゲロゲロ吐いちゃった、じいさんがいた。もしあれが私だったらまずしてほしいことが、恥ずかしいのでトイレットペーパーで隠してもらうことだなと思った。トイレに向かったら、掃除のおばさんが優しい方で、あれ大変ね、とモップなんかも持って向かってくれた。ついていったら、悲しかった。本屋の前の通路だったのだが、そこに人間の顔の放射線が集まっている、距離を置いている、そして何もしない、しかも一番多いのが店員さん。悲しい光景。
 じいさん体調落ち着いて、家が近くてすぐ奥さんが来た。その奥さんが優しそうなしっかりしていそうな白髪の淑女、という感じであった。素敵な奥さんですね、とじいさんに言ったら笑った。幸せな光景だった。これに優る芸術品は私にとってはほとんど無いです、なぜ感動したんだろう?と考えた、夫婦愛を過大評価しているのだろうか私は、寂しいと言われる老後とのギャップか、まあ体調の悪いときから治った時の世界の明るさに似ている何かだと思う。あと自分と母親にだぶった(=自分に感動したのか?)。
 じいさん、2日前に退院したばかりとのこと(おそらく貧血)。


酔っぱらいのゲロは 汚いゲロ
じいさんのゲロは きれいなゲロ
付き合いで飲んだゲロは 悲しいゲロ


 もうひとつ悲しかったのが、落ち着いたじいさんにビル警備の方(じいさん第一発見者)が「でもまだ顔色悪いですよ」と言ってそれだけだったこと。私は顔色のよしあしを見分ける能力が昔から無く、じいさんを見てもよく分からなかったが、じゃあ顔色悪いからそういう部屋に連れて行ってくれるわけでもなく別にそれ言って何がどうなったわけでもない。じいさんの不安を煽っただけだ。

 掃除のおばさんは良かった。私はいいおじさんよりいいおばさんに会う確率が高い(以前、面接で都会にはおばさんの精神が必要だと思うんです、と言った瞬間空気の凍る音が聞こえた、目の前に座っていたのはおばさん二人だった)。


C月T日
 知識を商売にする講師というのが存在する。今日の授業は今までの中でも強烈だった。そして皆は自分がバカにされていることに気づかずに笑っている。金、偏差値(学歴)、権力、女の話ばっか。






E月R日
 だから決して教師にはならないでほしいと近所の学生に言ったら、僕は大丈夫ですよ、とのこと。講師なり小中学校的な今回の学校の校風の気持ち悪さを訴えたら、そういう風になるだろうなぁっていう女子学生は多いですよ、という。でも駅前のイェーイってやってる学生って何割くらい?って聞いたら7割という。おそロシア!というわけで、ヨーロッパの教育がどのように成り立っていったかが気になって仕方がない。ルソーとかデュビュッフェとかゴッホとか言っちゃって、ヨーロッパかぶれっ気のある自分だが、日本の教育は明らかにヤバいと思っているんです。

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2010-04-11 日本のマジョリティ

 職業訓練校(3年制)の初週が終わった。私は公立好きというか、大衆好き、素朴好き、である。だから国立公立私立とあるこの手の職業訓練校の中から、国立は4年生しか無かったので、公立を選んだ。けれどここ数日の”感じ”と、”自己紹介”からして、この公立選択、まずかったかなあとも思っている。というのも、中にいるのも小中高と公立で来た人が多く、つまり日本教育の弱点をしっかりと素直に備えて入ってきている。年齢(経歴)が様々というのが救い。私立は金持ち、金持ちは悪(この恵まれた国でさらに子供に年間100万使う親が平気でいるのが理解不能)と思っていたが、公立というのは国の弱点をもろに受ける被害者か、と。しかしここは学費最安と期間最短と通学時間数分の”自慢の学校”なのだ。欲を言っているだけだ。ただし教員は期待できそうであった。おもしろいのが、9割5分が女性教員のせいか、建前と本音のうち本音で世界が作られている。


 町の消防団の人々の給仕をする機会があったが、これまた文化ひどし。世の平均が見れる場でもあるかと思うが。


 大昔からきっとこういうもんだろうなあとも思う。少数精鋭ならぬ多数精鋭のために教育はあるのかと思うが、それなら日本は失敗している。GNP稼ぎの教育と、それを治める政治が優秀なおかげでなんとかなっている。あと僻地的平和の恩恵。

 受動的国づくりとして何ができるだろう?諦めませんが




 新聞を改めて見て、机に長時間座れない子供のために、座れたら褒めましょうと載っているのに驚く。そんなことを新聞が教える日はやばいんじゃないかと。いやそもそもその教育がやばいんじゃないかと。でも昔の新聞はもっとやばい。


 頭が弱くなる。8時間労働+残業+「和」の形成=8時間学習+予習復習+「和」の形成が始まって、これが今の日本のマジョリティの生活かと思うと、予想以上に本を読めないことを知る。そしてそれ以上に、自由な思索・判断というのができなくなる。自分という容れ物の変容だ。それは今日の記憶が邪魔したり、明日への心構えのせいであったり。中立的な教育は社会に出る前にしろとはよく言ったもんだ!頭が弱くなる。判断に自信を持てなくなる。有名な炭鉱労働はどれだけ悲劇なのだろう。

 この限られた時間で、このクソ新聞(いい記事もある)を読まされるのは………なので新聞の契約をやめて、総合誌と外国紙にする。普通の新聞はキオスクなどで時々買おうと思う。新聞の電子書籍化は一番望んでいるが、日経の動きを見ている限り、かなりの時間がかかると思われる。



 そんな私たちが衆議院議員を選んでるとしたら、なんと頼りない現象だろうか。それをまとめる政治家は、煽られて、それでもやっているだなんて、よっぽど待遇がいい仕事なのだなと思うわけですよ。この論理でいくと私たちが悪いですよ。でも消防団の人から見える町の人像を思い浮かべて、そんな風に思える人、マイノリティですよ。マジョリティは自分のことばかりですよ。自分のことばかりでみんなハッピー、ってのがアメリカ経済学=日本の経済教育ですよ。カンパーイですよ。




4/12修正

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しかし、この手の私立の専門学校は特殊で、いわゆる「個性を尊重する」私立ではなく、「入ったら必ずここで働いてもらいます、その代わりみな奨学生になれます」らしい…本当か / ヒポコトリ ( 2010-05-05 00:00 )

2010-04-06 今春のサザエさん

A月B日
 近隣の中学校の吹奏楽部の定期演奏会を聞きに行った。教育委員会の挨拶とか校長先生の挨拶とか保護者の挨拶とか祝辞を頂きましたので紹介しますとか、かなり懐かしかったが、今見ると異様だ。吹奏楽や野球部みたいな滅私奉公的な部活動は日本以外にあるのだろうか。それでも感動してしまう自分が好きでなかったり、それが自分かと思ったり。自分はできなかった。


W月O日
 キャフェイで勉強する人は野暮だと思っている。そんな野暮な私に「さしいれ」とサンドウイッチをくれた見知らぬおばさんをどうとらえてよいか分からない。そういう人もいるんだなと思う。………そう思う私は時間を置いた私で、同時性の私は素直に感動していた。シカシXダイガクセイデハナイヨ


F月V日
 ひいきしていたXキャフェイの店員が実はサイアクソだったことがわかる。あれが同世代かと思うと………………同世代というくくりはしないことにしようと思う。


M月R日
 社会学部の人に社会学批判の引用を渡したら、社会学如何ではなくて自分の選ぶ行動について考え出したらしい。私の考える社会学を超えた何かを知っているのか。


F月K日
 この春に取り組んだのは経済学だった。
 私が”経済学”だと思っていたものは、その昔”政治経済学”と呼ばれていたものだった。今の経済学は、基本的に儲かる方法を扱うか、金融業(生きる経済を安定させる)を扱っているようだった。それはアメリカが得意としていて、日本の大学生の教養課程ではアメリカ人の書いた経済学の入門教科書で1年なり2年なり過ごすらしいが、1週間もあれば読了ならできる本である。政治経済学は、今で言う格差、貧しい人々の層が出現するという出来事に対して対処するか、もしくはどう救うか(どちらのニュアンスなのかはまだ判断できていない)の方法であった。

 とりあえず結論を出すと、資本主義を肯定すること、その上で立法と行政に期待すること。そして資本主義の壊す「人間性」特に寡占化によるものを害とみなす私のような種類の人間は、消費をちゃんと選択すること。消費が楽しいというだけの人々も、資本主義は人間の欲と仲が良いので、人間にとっていい環境を壊すなりしてどっちみち自滅の道に導かれるが…。

 資本主義の世界は、基本的に幸せなものだった。人は戦をする生き物らしいが、人殺しが経済戦争に代わってくれたおかげで、19世紀はなかなか平和だった。その代わり今は人にとっての地球殺しが着々と進んでいる。しかし人殺しより幸せなことだと思う。殺される・早死にする・狩猟失敗や飢饉が時々起こる………ような世界より、たとえ殺伐としていても資本主義の作ったこの世界の方がいい。殺伐の中にも人の心は見つけられるし、その上にしくみを構築することができるから。あまり思いたくはない考えだが、自分の尻拭いという目標を手にすることができる。まあ、人類の寿命が縮んで、”生まれるはずだった人間が殺された”という意味では人殺しの比ではないかもしれないが。

 しかし、国づくりに失敗した国や、搾取されている人々がいる。一転して自分や自分の国もそうなりかねない。そんなしくみが世界をめぐっているからには、どうすればいいか考えて行動するべきである。

 立法と行政に期待するためには、選挙に真面目に取り組むこと、その時私欲を離れること。その自信が無い場合は無記名で投票すること。

 自分の周りのおかしいと思うことはそのままにしないこと。
 おかしいと思う自分の判断に自信を持つためには資料を多く摂取すること(主に読書)。

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2010-03-28 社会学の、あのスカッとしない感じについて

 私の読書歴はなかなか頼りない。初めて読みきった!と思ったのは中1『シーラという子』トリイ.L.ヘイデン 破天荒な少女には永遠の憧れが花開いた。それは今も続くが、少女少女というあの最近の絵画を見ると若者として恥ずかしくなる。ジブンノコトバカリデスカそれは時代の真なるものかもしれないが”現代性のある芸術”など興味無い!しかしこの本のテーマは学校不適合児童についてなのだろう。
『バイトの達人』で遠藤周作と村上春樹と椎名誠を面白いなと思い、それは後にキリシタンと若気の至り(昔こう言われていたのを読んだ)と嘘つき野郎に変わった。
 冗長なので話を飛ばすと、宮台真司を読んだ時に何だこの回転の速い感じはと衝撃を受けた。梨沙子ちゃんの舞台挨拶に来ていたので知った(湘南瓦屋根というのに元天才超能力少年という役で出ていた)というのも、それはお気に入りになってしまうだろうというものだ。
 でもこの界隈の人の言うことをいくら読んでもなんか悪徳商人みたいな感じがするのだ。役に立つとしても、マーケティング的なこととか…。時代分析なんて枝葉末節で消費っぽくて嫌な感じがする、なのに視界に入ってくると気になるなと思うのがスカッとしなかった。商業と仲が良いのかもしれない。
 私は秀才によく憧れる…といっても現実で出会って惹かれるのはまた違うタイプだが、宮台、東、佐藤優はそういう意味で流行った。(子供にもそういうことを期待するタイプなのだろうかと今から怖がっている。)そのうちケインズにも憧れたりするのか。今は落ち着いて、それはよりよい何かにつながるのかどうか、秀才より善人だなという風に見るようにしている(善という言葉の後ろには泥臭い努力批判が含まれているのだろうか…まだ知らないので使う)。「おもしろい」は本当危険、と。



 なのでこれでいくことにした

「九月十八日
社会学という名によっておこなわれている思考方法と討論の大多数のものは、人間生活の改善にかんするかぎり、ほとんど価値をもたないとわたくしは考えている。その理由はそれが真実でないとか、それのあつかっている諸問題があまり重要でないとかのためではなくて、人間の制度の予想される結果や傾向についての、多かれ少なかれ思弁的な性格の情報はそれだけでは、その制度を改善しうるものではないようだということである。社会の改善のために必要なものは、人びとがその行動の可能な結果に着いて詳しい情報をもつことよりも、むしろ人々が正・不正のするどい感覚をもち、商売のように、これを適用することがもっともやりにくいところもふくめて、「正・不正」の考えを生活のあらゆる諸関係に適用するよう自覚し、その認識にもとづいて行動すべきことである。〔われわれは?〕もっと多くの知識をたしかに必要としている。しかしそれ以上に必要なことは、われわれのもっている知識にもとづいて行動するという傾向である。そしてわたくしが社会学者一般に不平をいいたい気持になるのは、かれらが直接の義務についてではなく、遠い結果に注意を集中している点であり、また罪の代わりに不便を、良心の代わりに社会の福祉をおくことであり、その結果世界は破壊の町からとびたった悲惨な罪人であると感ずることをやめ、未来の可能性について思弁をめぐらすことにより、今日の責任を免れようとすることである。」
R.H.トーニー『ある歴史家の時代批判――第一次大戦前夜の日記』p70-71

先頭 表紙

2010-03-26 読んだ本

『ガセネッタ&シモネッタ』米原万里

p168
 この話を聞きながら、二〇〇〇年ほど前の古代世界では胡散臭い新興宗教の一つにすぎなかったキリスト教が、(中略)プロテスタントは、これに対してあくまでも個人の内面的な悔い改めを求めた。しかし、どうしてもそれでは心の平安が得られないという信者が続出して、結局、牧師への告白を認めたらしい。カトリックの人身掌握術の方に軍配が上がった形になった。自分一人で抱えきれないからこそ聞き手を求めているのに、神や仏に告解せよ、つまりはおのれの良心と向き合えと説くのは、大多数の人々には無理な話だったのである。


(おのれの良心の話について思うこと…
 中学1年の時の無記名アンケートで「相談ごとをする相手は誰ですか」というのがあった。私は思い当たらなかったので「自分」と書いた。後日担任がホームルームの時に「自分て書いた人がいて、」と言って何が言いたいのか分からなかったが話のネタになっていた。私は自分はおかしい人なのかもしれないと思ったが、自分の頭で考えてアンケートを書いた自信はあったので特に傷つきはしなかった。

 小学4年の時、あとで思い返せばおそらくいじめアンケートみたいなものがあった。4年になって何となく友達の感覚が違うなと思うことがあったので、それが女子というもんだろうなと思いながらも「冷たいときがある」みたいなことを書いた。そしたら後で先生に呼ばれて、詳しく聞かれて、親に連絡された。詳しくといってもそれ以上話すことなどなかったが。そもそもそのアンケートは、誰にも言いませんから素直に書いてくださいというアンケートだったのに。

 保護者会のある日は、廊下が無礼な肉の塊になって、香水臭くて、それで先生と親しいらしい、幅をきかせている「○○ちゃんのお母さん」みたいなのが存在するらしくて、気分が悪かった。月に1回くらいそれを経験する度に、「私もこれにならなくてはいけないのか…なら子供は生めないかもしれない…」と思った。

 小学5年の時に、通知表をもらって、右下に人物評価みたいなのがあって、私はここがどうすればあがるのかさっぱりわからなかった。先生は「大事なのは左のじゃなくて右下のですからねー」と言ったが、私たちの毎日は、国算理社…というものしかないはずなのに、ひどい話だなと思った。)

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