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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

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2010-02-27
2010-02-27
2010-02-27
2010-02-27 読んだ本
2010-02-25 コンクリートから砂利へ  ARCレポート
2010-02-06 「…は今まで難しくてよく分かんなかったのですが、この本はおもしろくて、すいすい読んでしまいました。例えば、引用ですが”これはこういうことで、あれはああいうことである”って、やっと納得がいきました。」
2010-02-03 飛びぬけると煙たがられるのは日本だからではない
2010-02-02 2010年1月
2009-12-31 12/30の読売朝刊が面白かった件について
2009-12-31 今日も過ごせました。


2010-02-27 〃

夫への手紙
(p180)勉強してほしい。こどくでゐてほしい。

(p211)英国は落ちつける。巴里のやうに植民地的でないのがいゝ。

(p212)ねえ、私が死んだとしても、私のヂケツする気持ちは判つてくれるだらう。恋愛のためとか、金がないからとか、そんなケチな私ではない。

(p212)誰に見せるべきでもない、すばらしい絵を描いてほしい。片言で沢山だ。

(p213)日本は日本の此頃はどうだらう。相変わらず変なイズムが流行ですか、大陸へ来て感じた事は、流行がにぶい事だ。日本のやうに、あゝせっかちではない。それだけに芸術家たちも貧しいながら王様だ。


世紀末文学を中心にある、あの帝国主義によることをちゃんと知っているのかしらないが、恵まれてるのに、暇を持て余して、人生とは何なのだと言っちゃう空気が大嫌いだが、これもそのひとつだなと思ったが、これを読んだ時はちょっと共感できた。そんな自分をくだらないと分かっている感じがするからだろうか。

先頭 表紙

2010-02-27 〃

『そうか、もう君はいないのか』城山三郎 1単位
まじめくん

『ダヤンのスケッチ紀行モロッコへ行こう』池田あきこ 1単位
幸せな人ね、という言葉が皮肉になったことについての文章を5年前くらいに現代文で読んだ気がするので、今もう一度読みたい

『ビギナーズクラシックス おくのほそ道(全)』角川ソフィア文庫 1単位
これだけの量の内容なのかな、と思った。文章のつまらなかった時代だなと思う。ちゃんとそう思うために原文で読んでから文章のつまらない時代でしたね、と思おうと思う。

『ビギナーズクラシックス 徒然草』角川ソフィア文庫 2単位
じいさんは嫌いだ、内田樹の文章は嫌いだ、飯田橋のサラリーマンは嫌いだ
草食系という言葉はいまだ廃らないが、特に男の、今の社会の幹部たちの世界が分からない だからそれに入っていこうという女の人も分からない 草食系というのを私は非異常だと思っている。あの国を動かしている人たちは、自分の幸せは得られない仕事の人たち、だから出世や収入や先進国や非3Kという魅力がないとやっていけない仕事だと思っている。兼好と関係ない話になった。兼好も樹も決め付けた喋りをするから嫌いです。

『日本の昔話』柳田国男 X単位

『エブリシング』安野光雅 2単位
安野光雅の文章を初めて読んだ。絵を描く人の文章を読むときは気をつけなければならぬという文章をどこかで読んだが、まさにこの人のことだなと思った。くどくてびっくりした。そしたら自分でも自分の文章がくどいのは父親もそうであって、とちゃんと言っていておもしろかった。私は読んだ絵本というと乏しくて、安野光雅の数の絵本とぐりとぐらくらいだった。

『佐藤家の人びと―「血脈」と私』佐藤愛子 2単位
(p22)だから、「あいつはダメな奴だ」とか、「あいつは冷酷な奴だ」とか、「あいつはいい奴だ」というふうに、われわれは日常生活の中で簡単に言いますが、人はそう簡単に決められるものではないということも、私は、私の家族によって学んだわけです。
(p25)原爆で死んだのは、チャカさんにとっては楽な死に方だったのではないでしょうか。あんなにいろいろ悪いことをして、親を苦しめ、人に迷惑をかけたのだから、死に際は苦しんで死ぬのではないだろうかと思っていましたが、兄は愛人と一緒に朝、広島に着き、疲れてたので宿で寝ていたところに原爆が落とされて死んだのでした。広島で亡くなった人達の中で、一番幸せな死に方をした人かもしれません。
(p25)洽六も強い情念の持ち主で、その情念に流されまいとしながらも、結局は流されてしまいました。けれども、流されつつも、彼には人間としてどう生きなければならないかという人一倍高い理想があり、理想と情念の板挟みというか、半生し苦しみながら情念に流されていくという、大きな矛盾を抱えていたと思うのです。

先頭 表紙

2010-02-27 〃

(p33)佐藤家で常識人という場合には、その言葉の中に、「ヘンな人」という意味がこめられています。東大を一番か二番で出たと聞くと、世間の人は「いやァー、それは大した人だ」と言いますが、うちの兄達にかかると、「なに? 東大? ろくなもんじゃねえな」となるのです。だから”東大さん”にとっては、ひどく辛かっただろうと思いますね。誰も尊敬しあいのですから。しかもこの人は知識ばっかり先行して、繊細な感受性がない。勉強ばかりしているとそうなるという見本のような人でした。
(p48)いまだに八十過ぎの人から、昔紅緑を愛読して、紅緑によって自分の人生は決まったみたいな手紙をいただくんですよ。それからハチローの『おかあさん』の詩を読んで感動して泣いたとかね。そうすると、こういう素朴な人たちが『血脈』を読んだらさぞや失望して、自分の人生を否定しなきゃなくなるんじゃないかと思って……。それが気の毒というか、申し訳ないというか…。
(p64)やっぱり人間は生きていくなかで、時間によって変化していく。プルーストなんか読むと、ほんとに驚くように変わっていくでしょう。
(p73)長部 「荒ぶる血」だと思います。荒ぶる血、荒ぶる神、荒ぶる魂……、中央から、蝦夷の人たちを呼んだ言葉です。「荒ぶる」とは、まつろわない、従わない。中でも「荒夷」というのが従わない。「津加留」はそれよりもっと従わない。戦いに負けた荒夷が、最後に津軽に集まり、血が凝縮された。紅緑は津軽の出身で、それがプラスのエネルギーとして出る。逆に、怠けるというのも、まつろわないマイナスのエネルギーでね。津軽の言葉で怠け者を「空っぽ病み」というんです。いわば、ニヒリズム。巨大な矛盾とか理不尽なことに幼いときから出会い過ぎると、何を信じていいか分からなくなる。
(p77)なにしろ、野球を見にいってて、隣に座っている人が貧乏揺すりをしているのが不愉快だといって、いきなり殴るんですからね(笑)。
(p103)やはり私は人間というものに興味があるんですね。人は外からの力や事件で流されていくんじゃなくて、その人物が本来持っている要素によって流れていくんだと、そういうふうに考えるんです。
(p150)
「どこそこの鰻でなければ食わないとか、てんぷらはどこそこに限るなんていう手合は死にかけの病人だ」
 ともいった。そんな折々の父の言葉がいつか私に染みつき、私は金ピカを好まず、男のおしゃれを見ると嗤いたくなり、粗食を好むようになった。私は後に夫の借金を肩代わりして苦闘の何年かを過す羽目に陥ったが、彼と初めて会った時、ズボンのお尻にアイロンのコゲ跡が黒々とついているのを平気で穿いているのを見て好感を持ったのが運の尽きだった。
(p154)「またダメやった? へーえ、なんでェ……」
 この方がぴったりくる。あんなに勉強してなぜ落ちたの!という親身な気持ちが感じられる。可哀そうねえ……」では、言葉と実感の間に隙間があるではないか? 少くとも私はそう感じる人間なのである。
(p157)自分を守ろうとするから……傷つくまいとするから……損するまいとするから……いろんな欲を持つから人生は辛いのだ。流れに委せ、自分の自然に添ってあるがままに生きればらくなのだ――私はそう思うようになっていた。

『わが友 石頭計算機』安野光雅 2単位
SF、機械にのっとられるというのが20世紀の想像・不安だとしたら、私は今感じているそれは食糧難 食糧難SFもあったが

先頭 表紙

2010-02-27 読んだ本

『ジーニアス・ファクトリー』デイヴィット・プロッツ
(p27)米国のリバタリアニズム(完全自由主義・市場原理至上主義)の震源地である南カリフォルニアという土地柄も、一役買っていた。
(p42)一八世紀の陰気な経済学者、トマス・マルサスは、後に優生学として知られる学問の枠組みをつくった。マルサスは人口過剰を恐れた末に、貧民の窮状は母なる自然の定めと結論した。彼らが苦しみ早死にすることは良いことなのだ、なぜなら、そのおかげで天与の低能ぶりを撒き散らさずに済むからだ、彼らの運命を和らげようとするいかなる試み――たとえば最低賃金法の制定など――も、長い目で見れば、かえって苦しみを増すことになる、という考えだった。社会的ダーウィニズムは、マルサスのそんな直感に科学的骨格を与えた。「適者生存の法則」が(中略)こうした不穏な理論を優生学という「科学」に仕立て上げたのは、チャールズ・ダーウィンの従兄弟フランシス・ゴールトンである。
(p207)<人工授精が素人でもできるのに20世紀まで広く行われてこなかったことについてのジーナ・マラント『完璧さの追求』の説明→17世紀まで、生殖能力はよくわかっていなかった。科学者精液を知っていたが、妊娠とどう関係しているかを明かすことができなかった。1677年レーウェンフックの顕微鏡で精液中を泳ぎまわる精子を観察した。>
(p211)『子孫』映画。エイドで生まれたバリー・スティーヴンス50代が、自分のドナー探しソキュメンタリー

先頭 表紙

2010-02-25 コンクリートから砂利へ  ARCレポート

『入門 経済学』大瀧
『スティグリッツ 入門経済学 第3版』
『ミクロ経済学 上下』八田
『入門 経済思想史 世俗の思想家たち』ハイルブローナー
『経済学史』
『医療経済学』大森

をほとんど読んだところ。経済学というのがどういうことをやっているかは大体分かったつもりで、これ以上は手をつけなくていい気がしている。全貌はまだ見えず、分析も素直に眺めているだけで騙されかねない。あとは演習本と入門本が何冊も手元にあるのでそれを消化したい。

 しかし経済学ひとつ取ってももう既にかなりお金と時間をつかってしまった。これでもまだ世の中の持つ見えない落とし穴に抗する武器を10個くらい持たなければならないと感じている。これは、生きるということは、とんでもない荷をしょってるなと思った。でも弥生や封建よりはいいだろうと思った。その内に、では効率化とは国が栄えるため(八田の本で言うと便益最大化のため)、税金を納めるために頑張るものだろうか?高福祉は幸せなことだけれど…というところで、経済学の本が眠たくなってきた。そして経済学部の不真面目学生と話す場を持った。その人は「○○○国は政府と国民の信頼関係が強いから、高負担高便益でうまくいっている。たとえ経済とか政治の勉強しなくても、頑張ったり楽しかったりして生きられる国というのがいい」と言った。それで私は、いやだまた優等生(ただし受験に受からない優等生)になってた自分は、と恥じて3日経った。この3日は楽しかった。

 ARCレポートという神雑誌が世の中にはあると知った。スイスの戦争品輸出のことは明記されていなかったのでどこまで信じられるものかわからないが、税金の制度とか産業別雇用者数とか教育制度が大体分かる本。これが置いてあるのが、非常に頭のいい学校なので、匂いを嗅いでみると、これは優等生だなという匂いがする。そしてそれは時代と環境に作られてしまう、非常識人ほど優等生になっている気がした。ただし私が初めに読んだ素晴らしい経済学の入門書はここの学校の先生だったから、どれもこれも一部だとは分かっている。けれど、優等生が行政を行うことは怖い。ARCを読んでいて、日本はイギリス・ドイツととても似ていた。そしてこの3国は、行政はデータから国の方針を決める、それは保護者にきれいに磨かれたエリート社会なのではないかと感じた。逆にフランスは良かった。ただし、それは国家としての話。

 そして、私が生きている時代は信頼関係は半分くらいしか無いわけだけど、これが絶大な信頼関係となるためには、今の世代の人がちゃんと監視して、お金がかかるけど勉強して、ちゃんとした投票と消費をしていくべきだということで落ち着いた。つまり私はアルバイトを増やそうとしている。


 便益最大化がどうのと言っているのは何何経済学といわれているのか、それ以外とあと『大転換』と、ワルラス均衡を導く功罪のあたりの歴史にいる人のものから手を付け直そうと思う。あとなるべく人と話したい。が、話す相手になりえていない状態。

 城山三郎は大学在学中に傘を持っていなかった、それは外に出なかったから、本を読んでいたから、というが、私はとても贅沢に、家があるのに本を持って外に行ってそしてお金もつかってしまう。1駅2駅で大分勉強環境が整っているので、歩くが、土手と砂利を見ると、心が安らいでしまう。私の子供の頃は、土手と砂利があって、中高生になってからは無かったのだ。変わらないととてもやっていけない時代だと聞くが、変わらないものをひいきしてしまう。

先頭 表紙

2010-02-06 「…は今まで難しくてよく分かんなかったのですが、この本はおもしろくて、すいすい読んでしまいました。例えば、引用ですが”これはこういうことで、あれはああいうことである”って、やっと納得がいきました。」

 立花隆の勉強方に従ってみて気づいたこと。本を選ぶとき、私は今までは本としての”おもしろさ”ばかりを求めていた。良書と言われそうなものや、物語のように人を夢中にしてしまう力をもつもののことである。

 ”おもしろい”という感情は、かなり主観的で危険だと思った。世の中を自分に都合よく見てしまう手助け。もちろん、本を読むという人は魅力的な人が多いし、役に立つこともあっただろうが。私も前より感覚器官が喜んでいる。けれど結局こういう私みたいなのは、知らない人よりは、ちょっと知ってるだけで、正しいことは分かってない、そういう意味で、世界を自分に都合よく見るためのものになってしまっているんじゃないかと思った。

 その結果は、本人はエッセンスを集めたつもりでいて、肝心のところは欠けている、という感じ。とはいえ計画的なところもあった。古本屋で安値で揃えて、それをためて僻地で働きながら読むのが夢だな、とか。夢想好きなのか。研究者は目指さないだろうからそれでいいかと思っていたが、研究者じゃなくてもこれはよくないなと思った。積み上げられ本が目に入る度に、先送りして興味を失っていってしまうかのような焦燥感に襲われた。




 そうなのかもしれないと気づいた瞬間が次のとき。立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』でいう、


1.”大金”を持って新刊書店をはしごし、

2.以下の本を探し
入門書3冊くらい
史的なもの最低1冊
学説別に3視点くらい
辞典的なもの最低1冊
関連分野のなども見る
読みもの的なものがいくつかあると休憩にもいい   ←←←

3.予算にあわせるために探した時につけたメモを見直す



ここで、メモをしたあとに、「読みもの的なもの」ばかりだったのに気づいて、こりゃいかんと思ったのだった。もっと言えば、今までわざわざ本屋や図書館やネットやらで、チェックしてたものを求める時は、まず9割「読みもの的なもの」だったと気づいた。

 でもそれは、とてもセンスの足らぬわれわれにとっては、しょうがないことだと思った。書評を参考にするし(書評は脇道の方が好まれているようにみえる)、(○○学部の)学生でもなければ、なかなか時間と労力のお金のかかることだと分かったら記憶から薄くなっていく…読んでも教科書的な名著1冊…。逆に言えば立花隆やら佐藤優がやったことというのは珍しいというか、でもこれが珍しいというのは何だか変な話だとも思った。こちらの方が正攻法なはずなのに。





 というわけで、中世ヨーロッパギルドの人たちの人生観を早く知りたいので、体系を早く終わらせて、読みたい。そして、「ヨーロッパだって、飛びぬけることを嫌っていたのが普通だった時代があった。日本の人々は外国に行って、自己主張をしないといけないんだなって、日本って周りに合わせる人たちですね、って思いました、なんて言うけれど、そんな分析どっかで聞いたことある話でつまんなくて、ヨーロッパやアメリカの人がはっきりと主張するのはこれこれこういうことをしてきた近代化っていう流れの一部であって、アフリカの人たちはこういう風にものごとを決めるし、サウジアラビアの人たちはこうだし、日本はもしかしたら50年後にAO入試的自己主張が謙虚にすり替わって美徳はどこか行ってしまうのかもしれない。だとしたらそれは近代化とはどういうことか、歴史とか伝統の軽視がどういうことか、私達が常識だと思っていることはどういうことか、っていう話をあの時した方が真に近かったはずだ。」と、その”おもしろい”だろう本を、”自分に都合よく”解釈したい!

先頭 表紙

2010-02-03 飛びぬけると煙たがられるのは日本だからではない

 私も資本主義を批判したいし、町にもそういうタイトルが溢れているので、経済に手を出したら、どうやらその何かいやなものは「資本主義」ではなくて「市場システム」というものらしい。市場システムというのは一般的な語ではないらしいし、この本の著者の話に時々?マークをつけたくなったので、明日も読み進めたいと思う。

 1500〜1700年くらいに徐々に市場システムが現れたらしいが、はじめは、よりよい絹の生産方法とか、いわゆる時間的効率のよい生産方法などは、煙たがられたという。ヨーロッパの話。

 日本の場合近代化して150年くらいなんでしょうか、ヨーロッパの近代化の歴史とは違うから、日が浅いといえるのか急速であったのか時間の量だけじゃ分かりませんが…。けれど、農耕民族だったから、とか空気がどうのこうのとか、色々言う人はいますが、日本人は…とやけに限定的に使う人がいますが、その人の知性は今日私にばれました。



 少なくとも日本人には流れている、目立つ人を気に食わないという風潮は、日本人だからなのか、近代化の問題なのか、地理的な問題なのかは学問に任せるとして、もうちょっと、飛びぬけられることは何が嫌で何が良くて、協調することはどこが悪くてどんな利点があるか、というのを話し合うことをしたいです。この話題に限らず、対話サロンがほしいです。このままでは息が詰まりませんか、と思います。

先頭 表紙

2010-02-02 2010年1月

 12月31日昼に実家に帰り、1月20日頃までいた。専門学校の試験と面接を受け、学校の卒業に際しての雑事を経て、今日になった。専門学校の試験勉強は、3教科で基礎レベルだったので、時間がなく大変ではあったが難しくはなかった。12月はひたすら専門向けに作られた教科書のような参考書をやり、1月9・10日に予備校に通って、衝撃を受けて本屋で問題集やら参考書を買って、それから10日間はそれを消費して過去問をやった。秋田県が高校生支援として東京に予備校合宿斡旋みたいなことをしていると聞いたが、そこで高校生が講師・授業のレベルの高さにびっくりした、都市の学生が羨ましいと言っていたその通りで、私も世の中の予備校というやつに通ったおかげで受かったと思う。あるいは逆に、予備校という一義的に言ってコツ売り場というものがなければ一流大学に行きたい人は18年間では受からないのだろうと、嫌な気持ちになった。が、学校の歴史から見ればまだまだ幸せな時代だろうと思うことにした。


 現代文が面白かったのと、高校英語をやらずに英文を読んでいた自分が本当にバカだと思った、のがよかった。英文がおそろしいほど読みやすくなったし、現代文があんなこと(バカの壁、言語論)をやってたとは思わなかった。


 最近、立花隆の本の話を読んで、本人の思想には共鳴しないが、勉強法を真似している。知らない世界が見えてきた。とても感謝している。たとえば、今まで、この会社がのさばったら世の中はよくない、会ったこともない人たちのつくる、何を考えているかもわからない人たちのつくる、野菜や食べ物や家電やらを選ぶことへの真剣な悩みは、無駄でなかったことを、共有できた。つまり、経済学に、「悪いやつがいて、でも悪いやつのやることを避ければ、悪いやつは限りなく0に近づく」という考えがあるというのが、驚きだった(ただここで入り込むのにひと手間かかるのは、悪いやつがいなくなるとはいえ、あの悪かったやつは今何歳だろうか、死ぬのを待てというのだろうか、それを見過ごすことは非常に人工的な何かだな、という思いは扱えないということを、許さないといけないことだ)。


ところで、東アジア共同体の話題がいよいよ盛んなようですが、私たちは帝国時代に日本がアジアにしたことについてまともな教育を受けていないために、非常によくない流れを感じます。国民主権というからには、今こそ2丁目の新築に住んでるお父さん自ら学ばねばならないのでしょうが、お父さんのようにまっとうな生活を送ってる人は、勉強する時間をとれないという、皮肉!

先頭 表紙

2009-12-31 12/30の読売朝刊が面白かった件について

・藤子不二雄Aといしかわじゅんの対談
Aが愉快、浜田ブリトニーと話したら言葉が分からなかったのでちばてつやに通訳してもらったという。それでいしかわじゅんが、浜田ブリトニーと藤子さんが同じジャンルになれるというので、マンガってすごいとコメント、愉快。あと、今は編集さんがプロデュースしたりするから、逆に好きなもの描いて、と言ったら何を描けばいいですか、というのとか。美大で言ったら、展示のために描くというやつで、こういうのを、思想がないと呼んでいます。ところで、福満しげゆきは、Aネタをよく出すが、これをどういう風に読むのだろう。何もつまらない(することがない)、フィギアを中野に見に行くくらい、みたいなことを昔言っていたが…しかし、福満しげゆきは思想を持っている。


・鍋の掃除の方法
アルミ製には、りんごの皮を煮て、汚れをとって、数日使わない
ステンレスは、重曹で煮て、汚れを取る
本当だろうか。明日やってみる。

・胎児の微笑を撮影
これへのコメントがいい、川上清文曰く、情動の進化を解明する手がかりが隠されているかもしれないとのこと。

・1面に、小沢さんの秘書の件について、完全に黒として書いているが、ところで東京新聞でこないだ終わってしまった佐藤優のコラムの最後は、自分を重ねていた。つまりよくわからないが、色々な尻拭い先としてこの秘書が矢面に立たされているということだった。新聞は難しいなぁ…

先頭 表紙

私も何で書いてるのか分かりませんが… ルソーの『告白』が一番好きな本なのでその影響かもしれません / ヒポコトリ ( 2010-02-02 17:40 )
この独り言日記が続いているのが、悪くない。だけど、他人の日記を盗み見ているような気がしてしまうよ。 / パンツ ( 2010-01-07 21:57 )

2009-12-31 今日も過ごせました。

 ひまじんネットはなにゆえ作られたものなのか気になったので検索したら、分かったのは、株式会社カルディアというIT系の会社がやっているということで、やはり分からなかった。こういう、広告もなく発展したいわけでもない、素朴なつくりの、ブログと言う言葉はなかった、というようなサイトは結構残っているのだろうか。


 今日は最高に調子が良かった。ただ、日が落ちてまだ外にいて、寒さのこたえる気温にいると、内臓が悲鳴をあげてくるようだ。この反応はそういえば数年前によくあったもので、でもここのところは感じていなかったので、やはり今回の腸閉塞はびっくりするというものだ。腸閉塞とは、救急のとこにいたお医者さん曰く、毎日のように見る(本当かな…確かに同じ病棟に1人いたが)とのことだが、入院したところ(外科だったが、以前のとこでは消化器内科だった)のお医者さん曰く、腸閉塞持ちだとしても、なぜその人が今つまってなぜあの時つまらなかったかというのは分かっていない、というようなことを言っていた。だから十何年も経ってからなる人もいるし、というフレーズはよく耳にした。あと酸化マグネシウムという薬がよく出されるみたいで私も飲んでいるが、以前読売新聞で体にマグネシウムが溜まる(不確か)という記事があったので、まあその頃は飲んでなかったので、あらまあと思ったわけだが、今回聞いてみたら、あの記事は変なのでなんとか医師会が抗議文を出しました、と言っていた。国内に?体に溜まったマグネシウムをはかる機械はありませんと。

 そういうわけでまたダスクの時間に散歩に出たわけだが、空はやはり屋上からでないと、あれほどは面白くなかった。犬養さんが30年前の日記でヘラルドトリビューンの意見家がやっぱりいい、というので、IHTたるサイトを覗いていたが、ヘラルド朝日というのを見つけて、近所の朝日新聞の配達やさんで買えないかな、と向かったのです。そしたら、そこで話してくれた人が、人間だったので、とても嬉しかった。あまり町にいると人間になってしまうと言って山探しに向かった人の言う人間ではない方の人間。そしたら駅のキオスクにあると教えてくれた。昨日ネットで調べたらキオスクでもあんまり置いてないとのことだったが、最近は都心でなくても乗換駅くらいなら置いてあるのかもしれない。ところで、医療びいきというので決めていた読売もそろそろ苦痛になってきて、でも新聞で定点観測をやめるのが怖いのでやめてこなかったが(しかも今日12/30の読売朝刊はおもしろかった)、この新聞という人間は、一紙に決めてしまうのは怖ろしいということにやっと気がついた。定点観測をとるか、バランスをとるか、それとも定点観測+キオスクとするか…犬養さんが言う、スイスは田舎でも夕方に土の人々が軽食店?に集まって新聞の話をするという、それがあれば一人で何紙も読まなくてもいいし愉快だなあと思った。ところでスイスの武器輸出は誰が決めているのだろう。

 整理をしていて、2009/9/1のプチ書評欄の切り抜きを見つけて、本は疲弊しそうなので読みたくないが、いい感じの紹介文であった。『やっぱり、人はわかりあえない』中島義道・小浜逸郎著/PHP新書で、東京新聞の月という人が紹介文「(略)2人の対決の背景には、多神教的な包み込む風土に、一神教のもとで発展した哲学がむりやり嵌入している、日本の精神の風景そのものが見える。それにしても漢字が多い! 双方つい観念語で武装してしまうのだろう。観念はわかりあえないのに。これを「語り言葉」でやったらまた面白いのではないかと思った。」最高…!!!

先頭 表紙


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