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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-07-30 ニヒリズム
2009-07-19 幸福
2009-07-12 なぜデアゴスティーニの画家シリーズは、1番目がゴッホなのか
2009-07-06  狂気
2009-07-06 狂気
2009-07-06 6月
2009-06-16 気に入っている道具について:ICレコーダー
2009-05-23 病院について
2009-05-22  アール・ブリュットについて
2009-05-19 大航海No.70


2009-07-30 ニヒリズム

自分の欠点は、自分の欠点について考えすぎるということだと思った。
それは今まで何度も気づいていることなのに、忘れてしまう。

おそらく衝撃的で長くて全てであった暗黙知というものが
「やる気のない方がかっこいい」ということに未だに引きづられているのか。

自分を認識する自分というのは決して客観ではない。

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2009-07-19 幸福

チケットを売らなきゃと思って昔の知り合いを思い出していて
携帯を変える度に連絡するのを怠る私だから既に連絡などしようがなくて
私はそういう人がいいなと思ってそうしていた

思い出す名前で検索をかけると少し出た
その中にモデルになっていた子がいた
その顔は知っている顔だったけれどそこにモデルによくある表情がかぶさっていて不気味だった
嫉妬を覚えた
絵と言う制約の中で何かを表すということに感じる息苦しさなど屁でもなく
モデルというのは制約制約制約の嵐でとても好きでないとやっていられないだろうと思った
しかしとにかく不気味だった


まず普通に歩いている人の化粧やキめた髪型や形のいい服にさえも世界から浮いていると感じる私だから余計に

いや みんなそんな平気そうな顔をしているけれど本当だろうか?

私達の知っている素晴らしい人たちは、その、狂気に対するそれを、見てみぬふりして文脈に乗っとって空気と同化して個を発揮するという、神業をしている。
見てみぬふり、というのはゴヤの『』に通ずると思う。私はそれを描こうと思った。

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2009-07-12 なぜデアゴスティーニの画家シリーズは、1番目がゴッホなのか

 

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2009-07-06  狂気

私は今狂気を調べている
ということになった

私は決して発狂という才能は無い。
けれど、狂気のことを思うようになってから、心が自由で平穏を感じる時間が増えた。
今日はものすごく気分がいい。理由1過去(歴史)2気分(本人)3その他
このその他 それが狂気

今日はついに2年前少し読んだ『狂気の歴史』を借りた。
そこのはじめに書いてあった現実という言葉は それだけでも概念の友情だった
大澤真幸の言っていることへの理解も深まった。

述語としての現実という言葉にこめられた、歴史的背景
みんなで可愛がってきたその子供




今日はものすごく気分がいい ふらふらとはするが 頭は働く 私は昨日あまり寝なかった てんかりんの日記を読んでいたから 
こういう時は隣の人が気に入らないことも気にならないから
本を読むときかもしれない

ところで昨日読んだどこかの若者が、駅で肩がぶつかった人にも切れるという殺伐さに異議を唱えていたが私はとても切れる気持ちがわかった 切れはしないが


今日はものすごく気分がいい 絶対的自由を感じる
昨夜不安を煽った、てんかりんの日記から思い起こした私の暗黒の中世は、
朝目覚めたときのSの存在、態度、終わりなき日常的な終わりのあるだろう幸福な日常の1コマ、によって、
中和された






私は昨日念願のブリヂストン美術館に初めて行った。

マティス、デュビュッフェ、ゴッホ、ルドン、聖猫、ザオ・ウーキー
素晴らしく素晴らしかった。
私がマティスを見たかったのは、村上隆が、みんな最後はマティスを好きになる、と言っていたからだ。
ブリヂストン美術館が念願だったのは、ザオー・ウーキーを見たかったからだ。
不意なる収穫は、ルドンだった。




outsider artという呼称については、なんとかならないかと思っている人でも、なぜブログのタイトルや講演会のタイトルに使うんですか?そのあなたの行動が、outsider artという傷を深めているという自覚はないんですか?ハズカシイ


彼らの言葉は空虚だ 耳が傷む とても聞いていられない 目を伏せる 頭が拒否する
けれどそう言える人は言葉は空虚しかし頭はいいし心もある すてたものではない

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2009-07-06 狂気

狂気のことを調べている
ということになった

はじめは「生の芸術」という4文字で表された概念にひかれて
本当にわたしはひかれていいのかというのを確かめるためだった

まず「art brut」と題した展示をしたジャン・デュビュッフェという人を調べた
その人に親近感を覚えた
町の人のコミュニケーションのその、うまくいっている感じに対して彼の覚えた感覚に対して。
彼は彼が訓練を受けた教育や技術はそれを包括していないと感じた。

日本という私の依拠する国で最も触れやすいものは
「パラレル・ビジョン」という神がかったカタログだった
そこには多くの思想の細切れが入り込んでいた。
私がそれを知ったのはどこかのおにいさんのブログだった。
(なぜ、あのように、神聖さを消して、書き写せるものだ、と今も思う。)

私は既に博物学ばりの文献世界の存在を知っていたから
多くのinformationを収集した
その中から私の能力との戦いで とても遅い。

とりあえず「パラレル・ビジョン」で小出由紀子さんの言うように
必読書『The discovery of the art of mentally ill』だかof insaneだかいう本を読み始めた

日本語には訳されていなかった。
気になるタイトルを1週間かけて1章分読んで、その章自体の内容は重要ではなく中盤に位置するものであったけれど
目の覚めるような文章に毎度のようにでくわすこの本のことを信じて
再びprefaceから読み直し今は5章に至る。

その間に芸術新潮の小出由紀子さんとabcdなんとかという美術館の館長さんとの対談を読む機会があった
私がart brutに感じていた何か、および、art brut→outsider artへの理解の停滞さ(=人々が、狂気(反現実)をいかに隅に置いているか、2009年でさえ)
について全く同じことを言っていて、私は自信を持った。

その日の午後、バイトにバイトのおにいさんがやってきて、そのおにいさんも日ごろから水木しげるとか鬼のお面とか言っている人なので、このことを話したら、アントナン・アルトーのことを教えてくれた。そういうわけで、アルトーもゴッホも私のショートカットに入ることになった。

ところで、outsider artなる俗悪語の万延には、アメリカで年に一度に行われるoutsider art即売会が大きくあるというのが1つあるということだそうだ

きっかけは気分
竹内久美子いわく、排卵前に外出したくなるのは、partnerのいる人の場合は浮気欲から、partnerのいない人は妊娠欲から、ということだそうだ。
私は排卵前であったが、どうしても、普段行かないところへ行きたくなった。
それは、普段にとってはありがたいことで、つまり、お金も時間もとられる都会に行くと疲れて帰ってくるばかり、という普段の私にとってはありがたいことなので、活用させていただくことにした。

ワタリウム美術館に行きたかった。
それは、おにいさんが貸してくれた本は、素晴らしく、あまりとりあげられないart brut集だったので、それをワタリウムで買ったと言っていたから、お店を見たかったのだ。
「アロイーズ展」は見なかった上、期待した本も見つけられなかったが、
水木しげるの『猫楠』を買った。
そして、南方熊楠の本がよく並んでいたので、
それから昨日までは熊楠を宿らせていた。

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2009-07-06 6月

最近は家にSが住むようになったので、寂しさというものを忘れました。
ちょうどひとつきくらい経ちました。

家の中のものは完全に私のもので
Sは寝る場所とかばんくらいしか分け与えられてないという状態なのにも関わらず
愚痴を言うでもなく どこかをうろつくでもないので
ありがたいという感じです
一応家賃の半額を頂きました。
夜ご飯はうちで用意するし(といっても大したものではないのだけど)
光熱費分みたいにしてもらうものはないけれど
それでもちょっともらいすぎかなと思います

なので1万円はこっそり貯金しました
まだひとつきぶんしかやっていないのですが
続けられるといいなと思います

Sはいわば無職なので
あまりに安いとか0円とかでもよくないかなあとも思ったところもあります

無職とゆってもほぼ毎日去年まで通っていた学校へ行き
やりたいことがあり
その行動や言動に私は感心するところがあるので不安のようなものは感じていません

逆に毎日何かしらの新しい何かや知識をもって帰ってきてくれたりしてくれて
感覚が喜んではいます。
むしろたとえば毎日23時に帰宅して疲れてすぐ寝るような生活だったらとても続けられない気がしました。

このあいだ久しぶりにパソコンの電源をつけてから
橋本甜歌さんのことを調べたりしたり
主にてれび戦士のその後などですが
一度つけたら止まらない
この間にもどこかの受験生や研究者や政治家が(これ以上は含めません)
時間を惜しんで励んでいることを思うとひどい罪悪を感じますが
けれどアールブリュットから入った、人の様々な生き様を盗み見してからというもの
楽しいという感情を信じて行動を選択するということが昔より増えました
ということでそれはそれ

問題なのは私はちゃんと週に5日を働ける人として頑張れるかということ
それは励む人としてではなくて単調な生活スタイルとして。

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2009-06-16 気に入っている道具について:ICレコーダー

OLYMPUSのVoice-Treck V-61

買った当時(2008年の1月頃)
容量は中の上くらいだったはず
値段は1万ちょいだったはず

なんといっても、丈夫
カバーなどなしでポケットに入れていて、たまに落として、1回くらい小雨にさらされて、毎回冷や冷やさせられても、今の所大丈夫です。

録音できます。けれど失礼の無いように。

音楽も聞けます

USBなので様々なシーンで役に立ちます

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2009-05-23 病院について

医者について、看護士について、検査技師について…も、医療について、というよりも、「病院」という言葉が、体の異変を感じて頼るところの象徴に相応しいと思ったので「病院について」とする

頭を強く打った。すぐよぎったのは多田かおるである。病院にいこうかという判断をどう下してよいものか。いくら友人に相談したところで判断材料にすべきではない。それは本人の精神状態がよくないときに落ち着けるためのものとすべきである。

とりあえず病院に電話した。今日は土曜日であるからそこは休みだったので、相手は救急外来である。
1.待たされること
2.打った直後のことを     られる
3.絶対とはいえないが

次にネットというものを利用してみる。
「頭の外傷はあとからでる」というのは有名らしい。それは科学革命の普及する前のなごりも含めて。脳に感覚がないためだそう。そして特に打った直後に気を失う、前後の記憶が無い、場合には気をつけなければならないということだった。そして症状の出る前に防げるとしたらCT検査が必要だろうということが分かった。お金がかかる…

とりあえず外に出て歩いてみた。いつものように、正しい歩き方にはいつ手が届くのか、という不満を感じながら、まっすぐあるくことができた。行く先の電柱をまっすぐみつめられた。これは、まっすぐ歩けますか、という問診やこの紙のこの点を見つめてください、というテストがありそうだなあというかなりあやしい安心材料である。

安静にするべきかどうかは、まあ、ボーッとしたりめまいがするらしいが、頭を低くして安静にしていればよいだろうという文章をみつける。




頭を打った人のためには、
1.意識があればまあ安心らしいが、打った直後に意識を失ったか、状況を覚えていなければ診察をすすめる
2.直後であれば、呼びかける。返事がなければ必ず診察をすすめる
3.その日〜特に数日間〜最高で2ヶ月間様子を見て、頭痛が出てきたら診察をすすめる

医者はそこまでカバーできないだろう。忙しいから。(自分が知っていても、患者に対して説明する時間がないということ)とはいえ医者以外の人間がそっとアドバイスしたとしたら、およびそのアドバイスがその中途半端な能力からして正しいものでなければ(また正しいアドバイスというのがどこまで可能かということがある)、それはそのなわばりを仕切る者(医者?)にしたらめざわりなことであるという人間関係が生まれ、そして責任は誰がとるのか、ということへの予防からか、現在そのアフターサービス機関に私はめぐり合えたことがない。それをカバーするためにスーパー看護士をつくるべきである。ところで専門看護士という方はどこにいるのだろう??

自分が健康であれば、相手はこの不安であることを、すぐ忘れてしまうものだ。

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2009-05-22  アール・ブリュットについて

・アール・ブリュットの中にシェイクスピア時代に言うところのcreateを見ているのかもしれない。けれど、その生涯付き合わなければならないその性質に対して、そういい捨てるかのようにできるのはその人がその拭えなさを持たなくて済んだからであろう。また、心理学や精神医学からの切り口は避けた方がいい。到底手に負えたものじゃない





・関連のある作家
ジャン・デュビュッフェ


ジョン・マグレガーJohn M.Macgregor米?美術史家
『The Discovery of the Art of Insane』
小出由紀子 慶大卒資生堂入社後
松宮秀治
『アーティスト症候群』
はたよしこ


資生堂


ヘンリー・ダーガーHenry Darger米
『』
マッジ・ギルMadge Gill英

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2009-05-19 大航海No.70

国家と芸術/松宮秀治

「芸術」という言葉は意味不明な「アート」という語に置き換えられ、「芸術」は
ほとんど死語化している。

昔、昭和30年代、人々は戦争が過ぎ去り、美への飢えを満たそうとするかのよう
に展覧会に群がった。豪華な全集が出まくった。それは美術ではなくても文学に
も。

対して現在、当時の文化勲章受賞者の永井荷風、谷崎潤一郎を読んだことすらな
い文学部学生がいる。教員まで読書力が衰退している(らしい)。このような状
況の現在のなかで「芸術」を語るということ自体が時代錯誤である!

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しかしその昔も特異な時代である。

その時代、伊藤整をのぞいたほとんどの知識人たちは「芸術の自律性」を疑わな
かった。だからその時代の芸術はエライ!といった風潮を生み出した。しかしこ
の「芸術の自律性」は、芸術のすべてではないのだ。

芸術は、人間の工作物である。つまりそれはイデアの模倣とか、神に捧げるとか
、死者を送るとか、そういう出自である。「芸術の自律性」はそこでは生まれな
い。なぜなら人間の工作物にすぎないから。

「芸術の自律性」思想が生まれたのは18世紀の西欧である。理由は省略。

しかし時代は下がり、その「芸術の自律性」の無力に気づく。なぜか、昔の古代
的芸術作品のような「職能的な技芸」以上のものを生み出せない。それは、信じ
きっていた「芸術の自律性」が芸術の一部でしかないことを知らされていないか
ら。

そこにピカソ、デュシャンが現れた。「芸術の自律性」で勝負できるわけがない
ので、スキャンダルやパフォーマンスや破壊行為で、これが新しい創造だ、とい
う錯覚をうみだした。

今日、「芸術」は逸脱によってしか存在証明を果たし得ないものになりさがって
いる。けれど、「芸術」はそこで終わらせるにはもったいないものだ。

「芸術」の価値を呼び戻すためには、「芸術」という用語をできるかぎり使わな
い、または捨てて、もっと職能的な呼称にすることだ。

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