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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-05-19 近況
2009-05-12 アール・ブリュットについて
2009-05-11 ラテン語原書 素人の乱
2009-05-11 Salve
2009-05-11 アベラールへのオマージュ
2009-05-01 笑いー発見ー芸術
2009-05-01 Q
2009-04-17 つまみ読み記
2009-04-11 悲しいこと
2009-04-07 踊りと言語


2009-05-19 近況

フランクリン自伝を読んだ。妻と子どものことが一言も出てこなかった。私のほとんどはそれによっているというのに。また、ああいう人がアメリカ人であるということに驚いた。アメリカ人像の極端なところがきえた。
1700年代のアメリカ、ペンシルバニアという地ではあのように、普通に生きていれば経済的な成功を手に入れることができたのだろうか。今は、正直者がバカを見る、蔓延しており、グローバルに監視され評価されあっという間にかすめとられ、そこに浪漫は無く、それすら予定に入っていたことのようである。今、あのように普通に生きていれば、と言った。語弊がある。フランクリンは非常に勤勉のようだけど、突拍子もないことをやったわけではないということだ。

突拍子もないことに価値を置く、あがめる、みんなで讃えましょう、というものが純文学が純文学として評価されているところに表れている、芸術が芸術という名を帯びている、というようなことを今売っている大航海で小谷野敦が言っている。

小谷野敦が対嫌煙な理由で東大を辞めたらしい、東大駒場派なんとかという本が出たのはそれありきの話で、ということを最近知ったけれど、私が1ヶ月前夢で見た気になっていた似たような事実は何だったんだろう。その夢は「小谷野敦がこれまでは『退屈論』などというふざけた本で半分遊んでいたが、本腰を入れはじめた」というような概念が、媒体すら不明のものとして、だった。ちなみに私が少なからず学術的な本に始めて触れたのは『退屈論』だった。ちなみに本の内部に入ることをしったのは『ねじまき鳥クロニクル』である。


昨年、一昨年どっぷり漬かったサークルを辞めた。そこでは自分が内部に居ることを初めて感じるところだった。世の中の若者がどういう風に日々を過ごしているか、どういう風にああいう風になったのか、大体分かった。辞めて、毎日のように寂しさが吹いては去っていくが、やはりその寂しさを埋めていたものは、前から言っていたように誤魔化しでしかない、ということだった。けれど、そこにつけくわえたいのが、喜びの源泉がそこにあるということだった。

辞めて、ひたすら自分のために知識を詰め込んでいる。英語、ラテン語(2年)、中国語(2ヶ月)、世界史(6ヶ月)。あとは好きに現代ノンフィクション、文学、生物学、芸術に関する本を読んでいる。授業は美術史に出ているが、特に奥に入ろうとはしていない。週に1回は体を使うようにしている。砂漠のでき方と新聞の読み方を知りたいので地学と現代社会を好きな時期にスタートさせ、夏休みには生物か物理か化学をはじめからちゃんとやろうと思う。

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2009-05-12 アール・ブリュットについて

なんでかいているんですか?
と聞くことが相手の心を惑わして描けなくすることが想像されるから、うかつに聞けない

ひきこもること、
1種の生物の環境が1代2代3代のうちに変わってしまって、その前に身体が1万年基準としたら100人200人でうまくいくように慣らされているというのに。底を流れるものより富国が優先されて、その功罪として、とてもストレスの多いところに生きている私達。共同体は簡単に消失してしまって、あるいは共同体自信が盲目のような扱い方をされてしまって、日々知らないことに晒され、知らなかった人のことを考えなくてはいけなくて、それに対応している間に一生が過ぎていってしまいそうだ。そして不器用な人が”ひきこもり”ではなくともひきこもり、何か情熱的にしているのだとしたら、それこそが美しいと思う。


・論点
研究書が少ない(無い?)。あっても、アーティストの紹介集
言いだしっぺのデュビュッフェの言う「生まの芸術」という字面から受け取ったのはもっと広いところだったし、とても良い表現だと思ったが、本人の定義するところが条件的であって、それよりは広く、あるいは各々にあるかもしれないある種のものを扱いたいし、本質はそちらにあると思っている。
また、アウトサイダー・アートという訳語はその条件的なところの一部分を抜き出した印象があり、よくないと思う。現に取り違えた用法をした冊子も見たことがある。
また、斉藤環の『アーティストは境界線上で踊る』に出てくる作家は、また違う気がする。

・不器用、客観観念を知ってはいても体はそちらに向かない(笑い/客観/共感のうち、真ん中ではない)、生活そのものが

・人間の誕生の時に、精神病者が深く関わっているのではないか、と言ったのは誰の本だったか。アインシュタイン、デビット・ボウイ、天才の近親者には躁うつ病、分裂病がよくいる。それは、遺伝的にそういった性質(簡単に言って凝り性)を受け継いでいながら発病までにはいたらない、そういった人間が(ひとりの天才が歴史を作ってきたように)、人間の誕生に深く関わっているのではないかと提言した(それは、その病の率が当時と今とほとんど変わっていないからだという論拠)外人の本を紹介していた。のは竹内久美子さんだ。でもどの本だったか返したのでもう忘れた。

・上の本は『遺伝子が解く!なんたらかんたら』竹内久美子という本で、その外人の本とは『天才と分裂病の進化論』D.ホロビン

・隠遁思想
東洋では反体制がドンキホーテになりえることがなかった(『芸術崇拝の思想』松宮秀治)

・アウトサイダー・アートという言葉は2つにおいて被害を被っている。1つはアウトサイダーという語訳のもつ色々。もう1つはアートの同じく。アートについては松宮秀治さんが素晴らしく指摘している。
これによって、英訳者     さんの本を読まなければならなくなった…
けれど追いかけたい本質は人が汎することによる弊害に対してではなく、隠遁への共感と(それは共同体を失い、理想、夢、虚構のあとという時間に生まれた出自に関係するらしいが)、様々な中でもアール・ブリュットへの特別な思い入れが生まれる所以を知りたいためである。

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推敲すればきっと書けます! / ヒポコトリ ( 2009-05-01 15:10 )
なぜ、君はこの文体で書き続けるんだ。まったくもって、要領の得ない修飾と絡まったような表現が続くだめな翻訳のようじゃないか / ぱんつ ( 2009-04-26 05:59 )

2009-05-11 ラテン語原書 素人の乱

■翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソースhttp://www.kotoba.ne.jp/sysinfo.cgi?k=maps&fsz=2
というページがあり

そこの
□ラテン語翻訳とラテン語辞書・羅語辞典 : 翻訳のためのインターネットリソース
http://dir.kotoba.jp/ddcat.cgi?k=latin
というところから

”西洋文化を鳥瞰する超弩級の人物百科事典的アーカイブサイト”なる
■BIBLIOTHECA AUGUSTANA
http://www.hs-augsburg.de/~harsch/augusta.html
へ飛ぶことができ

そこからJ.Monfrinという人が編纂した原書が読めました。
乱は起こす気も起こす実力もないですが、喜びました。

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2009-05-11 Salve

今日はいい日だった
 
●気づいたら、暗かった
私はT図書館の2階下にいたはずだった。
私は漢字の意味を一個一個調べるのに嬉んでいたはずだった。
あれ、これはM図書館の中2Fのときの話だったか?
外がいつの間にか暗くなっている。
私は椅子に座りなおして、続きを調べることにした。蒙という字について。
そこには漢字の字典があった。図書館の奥には『じが』があるはずだ。電子辞書だってもっている。けれど、動けない(漢字の多さに、漢字の外にあるものの多さに、途方に暮れていることに気付かない)。
もう一度顔をあげてみると、残っているのは私だけになっていて
みんな家に帰って、誰かのために生きていたし、誰かと喜びを分かち合っていたし、誰かを罵っているようだった。
だから、私も家に帰ってみた。
私は話し相手をやっと見つけたけれど、
誰かのために生きるのにも、誰かと喜びを分かち合うのにも、誰かを罵るのにも、
心を任せることはできなくなっていた。
けれどみんなは、そんな方法を学ばずとも、いや、方法って何語だい?とでも言いたげに、簡単にやってのけているようだった。
夜は、なかなか明けてくれない。
みんなが起きるまで、私は漢字の続きを調べることにした。

夜も忘れたころ、家に訪問者がきた。
その人は年が違う人がいることを改めて教えてくれたし、知識や経験によって選ぶ行動が変わってくることを教えてくれた。
気づいたら、外が少し明るくなっていたけれど、私は外があることを、カーテンを、雨戸を、ドアがあるということをただ忘れていただけのようだった。

●外部(時間的/集合的)から覗き見る争いというもの
争いを静めた者に対するこの英雄的感情はなんだろう。
その感情には瑣末な犠牲は見えてこない(手段が何であれ、英雄にかわりはない)。
その、最も善いらしきところを目指そうという気がおこってしかるべきと思うが、
私がこの実現実で目指したいと思えるのはそこかというと違ったから、なんだろうと思う。


●日本の外人に対する感情
ポルトガル人のことを悪く書いていない。
先生の指導の下、高校生が訳した本があるという。
バイト先で、ずっと売れない100円本の中に書いてあった。
『日曜日の図書館』という本の宮下啓三、勝原晴希という方のところを読んだ。
その高校生の本というのは『外国の教科書の中の日本と日本人』というものだ。
結構いろんな図書館に置いてあるようだ。



 いい日だったというのは気のせいだったらしい。
 内田春菊は1人目を育てていたとき、寝るという死の前に世の中を見たいという欲望なんだろうなと思ったと言っていた。泣き止まないときに、お散歩にでかけて、そのうちに寝てくれるというところから。それですか。
 ロッテリアでパソコン使いながら勉強して、風呂入って、飯食って、ちょっと片付けて、ガザ特集を見て、新聞を読んでいた頃は今日はいい日だったと書こうと思っていた。そのうちに、寝るらしい時間がやってきて、TVはいまわの清しろうがうつっていて、つまり世界の広さ(清しろうは隣りの世界の出来事だからであって、新聞という媒体は私の隣の世界にとってはマイナーである)を知らされたとき、自分がいま一人だという概念を教えられたとき、急におかしくなりはじめた。
 おそらく、横になって無理やり本を開けば面白くなって、そのうちに眠るだろう、でもまだ今日を生きたかった。未知の未知を探さなきゃいけない。媒体を変えた。TVからつながっている線をDVDに変えた。1年前に買って封をあけていなかったBerryz工房のDVDを入れた。これはよかった。

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2009-05-11 アベラールへのオマージュ

わたしが、いつもあなたから電話を受けたときの慣習のように、今わたしのおける状況を話したことから、ついわたしは、ひどくおんみたちを寂しがらせたかもしれないが、これとても、おんみたちの要求、と言ってよいか悪いか、ともかくそちらのせつなる願いを聞き入れてしたほかに、他意はなかったのである。お前は、わたしに構ってほしいという気持ちをぶつけておきながら、わたしがそれをすると、どうしてそれを非難するのであろうか。わたしは旧友と偶然会い友情を深めようと夕ご飯を共にしているというのに、どうしてお前はその気分を邪魔するのであろうか。わたしの感情が懐かしさと快さに気持ちよくなっているというのに、お前は<この文章で、私の勝ちであることに気づいた。アベラールは、悲しみに暮れる者には同調すべきだというエロイーズと同じ意見のようだが、わたしとSを比べたとき、私の悲しみに暮れている状況は明白だ。ただ、重さが違うが、重さなど誰が計れよう。単位の統一など、誰がとれよう。(つまり、Sは、わたしの真の友であるとするならば、こちらの寂しさに構ってくれてよかったのだ。)>

これは電話をして1回、町/友人/会食という情景をつきつけられて、   で壮年に消え入りそうな家族共同体で1人過ごす私が、たまらず電話をした。切って数分後に電話をして2回、私は明日踊る約束をした。
けれど晴れない私の気持ちは、その時読んでいたアベラールのエロイーズとの書簡への遊び

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2009-05-01 笑いー発見ー芸術

『創作活動の理論』アーサー・ケストラーにおける、創作の分類が3つの方向性をもっていた。それに対するメモ


笑い(ユーモア、お笑い)
多くの小説…なぜなら、自分にふりかかる/知としてふりかかる出来事を分析したあと、それを楽しい何かに変換できる/しようとするのは、まさにここだ。(教訓や改善や分析としてとらえるのは、科学であり、哲学や芸術の方を向いている)


発見(科学)



芸術

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2009-05-01 Q

「……Q?」
「…あ…久しぶり」
 Qは相変わらず愛想悪く挨拶をする。愛想が悪いというよりかは、表情がきついのだ。
「44…あ、あっちか…」
 明は大学の学生が共同で使うパソコン部屋で、44の番号のついた席についた。ここでは、知り合いによく会う。それというのも学部が何個もある総合大学ではないこじんまりとした規模のせいだろうか。でも私はほかの大学に通ったことがないから分からない。それとも、私がこの3年間に動くだけ動いた結果だからだろうか。

(よかった、44はQが視界から外れる)
と明は思った。

 Qは、表情がきついとはいえ決してバランスの崩れた顔ではなく、むしろ愛らしい。けれど、きついという印象は拭えない。でもそれも付き合って数か月、あるいは1年経ってから気づいたことだ。中でも、あの目がきついことは、本人も自覚していることなのかもしれない。けれど気にしているのだとしたら、もう少し気を遣って表情を作ってきた跡があるはずだと思う。けれどその跡はそこにはなくて、時々愛想だと思われる表情は、笑っているのに逆に心を隠しているようでそれはそれで警戒を呼び起こすのだ。

(せっかくいい気分でいたのに…)
と明は思った。けれど明は名前には反して、くよくよした性格で、よくいえば謙虚というか。この場合でいえば、いい気分でいた自分を責めるような人間である。そのため同時に

(あ、人間というのはいい気分でいたら危ないんだわ、大人になったら誰も怒ってくれないから怒ってくれる人を大事にしろ、というあれと近い気がする)
などと思い、本人曰く「反省」を怠らない。

 今日は授業がないから、朝(昼)からゆっくりして、家でだらだらと本を読み、昨日作ったハヤシライスを食べ、本にも飽きてきたので学校へ行こう、と時計を見たのが午後2時半だった。
 天気が良かった。途中の道で友達のRが挨拶してくれた。少し歩いたらもう1人、Sが挨拶してくれた。東京都と言えども郊外の、私鉄の各駅しか止まらない駅にある
おかげか、こういう風に通学路を過ごせるのは、とても気持ちがよかった。今までは自分の通った公立小中学校のあの集団登校のような感覚、また高校ではクラス外に知り合いを作るようなことがなかったから、そして何より、明の家は転勤族で、地域共同体のようなものにも縁が無かったから、そういうこと自然と思い出し、今の自分の環境を心で詠っていた。

(やはりヒトは共同体で生活しやすいように慣らされていて、喜びや生きる糧の源はそこにあるのだわ…可哀そうな日本現代人…のほとんど)

 そして、あの可愛いらしい形だと感じている缶コーヒーを自動販売機で買って、パソコンが使える、と思って心馳せて44の席を探していたのである。そこで、Qに会った。

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2009-04-17 つまみ読み記

4/26
『機械の中の幽霊』アーサー・ケストラーArthur Koestler
4/24
『三人目の子にご用心』竹内久美子/文芸春秋
4/23
『東京のまちづくり』藤森照信と
4/22
『メドゥーサと仲間たち』R.カイヨワ
4/17
『賭博と国家と男と女』竹内久美子/日本経済新聞社
4/16
『中世に生きる人々』
生協のフリーペーパー2008冬号
4/14
『タンポポハウスのできるまで』藤森照信
『Words』Margaret Erunst
4/12
『研究者英米文学評伝叢書40 クレア』/北村常夫
4/6
『達人たちの大英博物館』松井竜吾ほか/1600円/1996
4/3
フリーペーパーアクセス4/1,3/1
4/2『ビジュアル美術館 マネ』パトリシア・ライト
1/18
『今昔物語と医術と呪術』槇佐知子
『ル・コルビュジエ 機会とメタファーの詩学』アレグザンダー・ツォニス
『西條八十』筒井清忠
1/9
『近世陰陽道の研究』
『民俗学体系4 社会と民族』
『日本陰陽道史総説』村山修一
12/30
『私の国語教室』福田 存

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2009-04-11 悲しいこと

うきうきと、花を画く
時間をおいてまた画きましょ 用事を見つけあちらへゆく

ききなれた音楽 
それは どこか懐かしい ではなくて 懐かしい音楽
(それは辞めた部活が流していた音だから)

こんにちは
わあ みなさん 寄ってらっしゃる ありがたいありがたいわたし
さようなら

お医者さまの健康診断
世間話に花が咲いた だって就職ですか進学ですかと聞くのだから
間をおいてわたし 看護師学校なんです と にやにや

それは素敵じゃないお医者さまだった それは心のないお医者さまだった
私の居なれた世界に心のない人はいないって知ってる
だから だから 不安でいっぱい
先生の教えている学校の名前聞いたのは そのためなんだからね
(見せていただいた かわいそうな学生の写真表には同じ進路をたどった人がいた)
絶対行かないんだからね


もどる
もどる

こころ ざわざわ
ひとがいっぱい
こんにちはってできないのって悲しいことね

電話がふるえている わたしをよんでいる いっこくもはやくボタンを
こんにちは あら待ってたわ やっぱり そうなのね







それはなあに

聞いてないことだわ

わたしの知らない遠いところへ行ってしまうとは 聞いていないわ

さも言ったことのあるように話すそれは私以外の人には話したりしたことなのね

それは悲しいことを示すわ



私は、心を失くさなければいけなかった人の多い世界に飛び込んでいくというのに
あなたは、自由で、険しいけれど、人間の道をゆこうとしている
{それなのに、へらへらしているあなたがむかつく どんかん むしんけい (とは『カラスのカーさん へびたいじ』で学んだ言葉よ)}

花のそばから少し離れた少しの間にこのひどい対比


うらやましくて
じゃあ移動すればいいじゃないという声、でも私は

かなしくて

くらいくらい私の未来
くらいくらいよ くらいくらい

どこを選んでも暗いけれど
飛び込みたい世界が暗い

たえなさい、たえなさい、はしのえみは偉かった。
力を抜きなさい、力を抜きなさい、宇多田ヒカルは偉かった。

ざわざわざわざわ、おどるよ、おどるよ、飛ぶよ飛ぶ
このときをまってたんだ このときをまってた人もいるんだから 救われる し  それもわたし
わたしきれいにおどれてるかしら うそ そんなわけがない なまけているこの肉体で 何を言う
でも自信あるよ あなたよりこのときをまっていた 純粋なわたしのなかの細胞 遺伝子


歌は姫神の神々の詩だった

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2009-04-07 踊りと言語

朝日新聞に、踊りと言語という記事があった。身体表現の公演がいくつかとりあげられていた。日本では欧州と違って小さい頃からのバレエの専門訓練を受けていない人でもそういう世界に飛び込んでいける畑があって、だから独自の分野を築けるかもしれないというものだった。特に、言語と結びついたものが目立つということだった。数十年前の日本のバレエ界がそんな言われ方をしていたと思う。でも、今は世界のバレエが日本人やアジア人も目立っているらしいので、それでもそういわれるのは、日本バレエの人口が少ないとか、トップと趣味の差が激しいとか、高校生から手堅い職業にシフトするとかですか。あるいは、欧州では公演するまでは敷居が高いというか、観衆もどこか目が肥えた感じがあり新規コンテンポラリーに集まらないということですか。

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