今日昨日 since20030313 はじめまして chCCygEPcF |
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2009-05-11 Salve |
2009-05-11 Salve | |
今日はいい日だった
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2009-05-11 アベラールへのオマージュ | |
わたしが、いつもあなたから電話を受けたときの慣習のように、今わたしのおける状況を話したことから、ついわたしは、ひどくおんみたちを寂しがらせたかもしれないが、これとても、おんみたちの要求、と言ってよいか悪いか、ともかくそちらのせつなる願いを聞き入れてしたほかに、他意はなかったのである。お前は、わたしに構ってほしいという気持ちをぶつけておきながら、わたしがそれをすると、どうしてそれを非難するのであろうか。わたしは旧友と偶然会い友情を深めようと夕ご飯を共にしているというのに、どうしてお前はその気分を邪魔するのであろうか。わたしの感情が懐かしさと快さに気持ちよくなっているというのに、お前は<この文章で、私の勝ちであることに気づいた。アベラールは、悲しみに暮れる者には同調すべきだというエロイーズと同じ意見のようだが、わたしとSを比べたとき、私の悲しみに暮れている状況は明白だ。ただ、重さが違うが、重さなど誰が計れよう。単位の統一など、誰がとれよう。(つまり、Sは、わたしの真の友であるとするならば、こちらの寂しさに構ってくれてよかったのだ。)>
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2009-05-01 笑いー発見ー芸術 | |
『創作活動の理論』アーサー・ケストラーにおける、創作の分類が3つの方向性をもっていた。それに対するメモ
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2009-05-01 Q | |
「……Q?」
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2009-04-17 つまみ読み記 | |
4/26
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2009-04-11 悲しいこと | |
うきうきと、花を画く
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2009-04-07 踊りと言語 | |
朝日新聞に、踊りと言語という記事があった。身体表現の公演がいくつかとりあげられていた。日本では欧州と違って小さい頃からのバレエの専門訓練を受けていない人でもそういう世界に飛び込んでいける畑があって、だから独自の分野を築けるかもしれないというものだった。特に、言語と結びついたものが目立つということだった。数十年前の日本のバレエ界がそんな言われ方をしていたと思う。でも、今は世界のバレエが日本人やアジア人も目立っているらしいので、それでもそういわれるのは、日本バレエの人口が少ないとか、トップと趣味の差が激しいとか、高校生から手堅い職業にシフトするとかですか。あるいは、欧州では公演するまでは敷居が高いというか、観衆もどこか目が肥えた感じがあり新規コンテンポラリーに集まらないということですか。 |
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2009-03-21 デュルケーム | |
けっきょく、私は、次の三つの命題を順次立証してきたことになる。
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2009-03-21 デュルケーム | |
だから個人にしてみれば、生きることの悲惨を我慢づよく耐え忍ぶ理由もなくなるわけである、と言うのは、個人は集団に結びつき、それに愛着をいだいているときには、自己の利益よりも普段に優先させてきたその集団の利益をそこなうまいとして、不撓不屈の意思をもって苦難をのりこえていくものだからである。個人を共通の原因に結び付けている紐帯は、同時に彼らを生に結び付けるし、また特に自分自身を越える高い目標にたえず目を向けていることは、個人的不満感がつのることを押えてくれる。要するに、凝集度の高い活気に満ちた社会では、全体から各個人へ、また各個人から全体へと観念や感情のたえざる交流があり、これがいわば道徳的な相互のささえとなって、個人を自分ひとりの力に還元してしまわずに集合的なエネルギーに参加させ、自分一個人の力がつきたときにもその集合的エネルギーのなかで活力を回復させることができる。
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2009-03-21 デュルケーム | |
なぜなら、たとえ自分自身をあざむいて、無に帰してしまうというこの観念をある程度意識せずにいることはできても、無の到来を実際に無くしてしまうことはできず、どんなことをしても、避けようがないからである。もっとも、人はたしかに、世代の限界を幾代かにわたって延長することはでき、したがって、肉体が滅んだ後も、何年かあるは何世紀かにわたって、その名をのこすことはできる。しかし、一般の人々にとっては、すべてが無に帰するときが、いつもまたたくまにやってくる。というのは、われわれの所属している集団――その媒介によって、われわれの存在はより永続することができる――も、それ自身有限な存在であり、われわれがその集団に付加したすべてのものとともに、やがては消滅すべき運命にあるからである。集団の記憶が人類の歴史そのものと特に強く結びついていて、人類が存続するかぎり忘れられずにのこっていく、というような場合はまずありえない。だから、実際にわれわれがあれほど強い不死への渇望をいだいていても、このような短いせいの見通しをもってしては、決してその渇をいやすことはできないだろう。そのうえ、人々の死後も存続するものとしていったいなにがあろうか。一片の言葉、一つの声音、そして、かすかなほとんど名づけることもできあに、したがってわれわれの努力の大きさとも無関係でわれわれの目に明らかにされることもない、一つの痕跡がのこるだけである。じつは、子どもというものは、自然のままの自己本位主義者であり、生存への要求を殆ど持っていないし、また老人はこの点については、その他の点と同じく往々にして子ども同然であるが、にもかかわらず両者とも、壮年者と同様、あるいはそれ以上に生きることに執着せずにはいない。十五歳までの自殺はきわめて僅少であること、そして高齢に達するとまた自殺は減少していくことが、実際に明らかにされている。人間の心理構造とほとんど程度の差しかないような心理構造をそなえている動物の場合にも、それ(生存への要求をもっていないにもかかわらず、生きることに執着をしめすこと)はあてはまる。したがって、人はみずからの生の外部に存在理由をもたないかぎり生きることができない、という考え方は誤りなのだ。
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