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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

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2009-05-11 Salve
2009-05-11 アベラールへのオマージュ
2009-05-01 笑いー発見ー芸術
2009-05-01 Q
2009-04-17 つまみ読み記
2009-04-11 悲しいこと
2009-04-07 踊りと言語
2009-03-21 デュルケーム
2009-03-21  デュルケーム
2009-03-21   デュルケーム


2009-05-11 Salve

今日はいい日だった
 
●気づいたら、暗かった
私はT図書館の2階下にいたはずだった。
私は漢字の意味を一個一個調べるのに嬉んでいたはずだった。
あれ、これはM図書館の中2Fのときの話だったか?
外がいつの間にか暗くなっている。
私は椅子に座りなおして、続きを調べることにした。蒙という字について。
そこには漢字の字典があった。図書館の奥には『じが』があるはずだ。電子辞書だってもっている。けれど、動けない(漢字の多さに、漢字の外にあるものの多さに、途方に暮れていることに気付かない)。
もう一度顔をあげてみると、残っているのは私だけになっていて
みんな家に帰って、誰かのために生きていたし、誰かと喜びを分かち合っていたし、誰かを罵っているようだった。
だから、私も家に帰ってみた。
私は話し相手をやっと見つけたけれど、
誰かのために生きるのにも、誰かと喜びを分かち合うのにも、誰かを罵るのにも、
心を任せることはできなくなっていた。
けれどみんなは、そんな方法を学ばずとも、いや、方法って何語だい?とでも言いたげに、簡単にやってのけているようだった。
夜は、なかなか明けてくれない。
みんなが起きるまで、私は漢字の続きを調べることにした。

夜も忘れたころ、家に訪問者がきた。
その人は年が違う人がいることを改めて教えてくれたし、知識や経験によって選ぶ行動が変わってくることを教えてくれた。
気づいたら、外が少し明るくなっていたけれど、私は外があることを、カーテンを、雨戸を、ドアがあるということをただ忘れていただけのようだった。

●外部(時間的/集合的)から覗き見る争いというもの
争いを静めた者に対するこの英雄的感情はなんだろう。
その感情には瑣末な犠牲は見えてこない(手段が何であれ、英雄にかわりはない)。
その、最も善いらしきところを目指そうという気がおこってしかるべきと思うが、
私がこの実現実で目指したいと思えるのはそこかというと違ったから、なんだろうと思う。


●日本の外人に対する感情
ポルトガル人のことを悪く書いていない。
先生の指導の下、高校生が訳した本があるという。
バイト先で、ずっと売れない100円本の中に書いてあった。
『日曜日の図書館』という本の宮下啓三、勝原晴希という方のところを読んだ。
その高校生の本というのは『外国の教科書の中の日本と日本人』というものだ。
結構いろんな図書館に置いてあるようだ。



 いい日だったというのは気のせいだったらしい。
 内田春菊は1人目を育てていたとき、寝るという死の前に世の中を見たいという欲望なんだろうなと思ったと言っていた。泣き止まないときに、お散歩にでかけて、そのうちに寝てくれるというところから。それですか。
 ロッテリアでパソコン使いながら勉強して、風呂入って、飯食って、ちょっと片付けて、ガザ特集を見て、新聞を読んでいた頃は今日はいい日だったと書こうと思っていた。そのうちに、寝るらしい時間がやってきて、TVはいまわの清しろうがうつっていて、つまり世界の広さ(清しろうは隣りの世界の出来事だからであって、新聞という媒体は私の隣の世界にとってはマイナーである)を知らされたとき、自分がいま一人だという概念を教えられたとき、急におかしくなりはじめた。
 おそらく、横になって無理やり本を開けば面白くなって、そのうちに眠るだろう、でもまだ今日を生きたかった。未知の未知を探さなきゃいけない。媒体を変えた。TVからつながっている線をDVDに変えた。1年前に買って封をあけていなかったBerryz工房のDVDを入れた。これはよかった。

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2009-05-11 アベラールへのオマージュ

わたしが、いつもあなたから電話を受けたときの慣習のように、今わたしのおける状況を話したことから、ついわたしは、ひどくおんみたちを寂しがらせたかもしれないが、これとても、おんみたちの要求、と言ってよいか悪いか、ともかくそちらのせつなる願いを聞き入れてしたほかに、他意はなかったのである。お前は、わたしに構ってほしいという気持ちをぶつけておきながら、わたしがそれをすると、どうしてそれを非難するのであろうか。わたしは旧友と偶然会い友情を深めようと夕ご飯を共にしているというのに、どうしてお前はその気分を邪魔するのであろうか。わたしの感情が懐かしさと快さに気持ちよくなっているというのに、お前は<この文章で、私の勝ちであることに気づいた。アベラールは、悲しみに暮れる者には同調すべきだというエロイーズと同じ意見のようだが、わたしとSを比べたとき、私の悲しみに暮れている状況は明白だ。ただ、重さが違うが、重さなど誰が計れよう。単位の統一など、誰がとれよう。(つまり、Sは、わたしの真の友であるとするならば、こちらの寂しさに構ってくれてよかったのだ。)>

これは電話をして1回、町/友人/会食という情景をつきつけられて、   で壮年に消え入りそうな家族共同体で1人過ごす私が、たまらず電話をした。切って数分後に電話をして2回、私は明日踊る約束をした。
けれど晴れない私の気持ちは、その時読んでいたアベラールのエロイーズとの書簡への遊び

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2009-05-01 笑いー発見ー芸術

『創作活動の理論』アーサー・ケストラーにおける、創作の分類が3つの方向性をもっていた。それに対するメモ


笑い(ユーモア、お笑い)
多くの小説…なぜなら、自分にふりかかる/知としてふりかかる出来事を分析したあと、それを楽しい何かに変換できる/しようとするのは、まさにここだ。(教訓や改善や分析としてとらえるのは、科学であり、哲学や芸術の方を向いている)


発見(科学)



芸術

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2009-05-01 Q

「……Q?」
「…あ…久しぶり」
 Qは相変わらず愛想悪く挨拶をする。愛想が悪いというよりかは、表情がきついのだ。
「44…あ、あっちか…」
 明は大学の学生が共同で使うパソコン部屋で、44の番号のついた席についた。ここでは、知り合いによく会う。それというのも学部が何個もある総合大学ではないこじんまりとした規模のせいだろうか。でも私はほかの大学に通ったことがないから分からない。それとも、私がこの3年間に動くだけ動いた結果だからだろうか。

(よかった、44はQが視界から外れる)
と明は思った。

 Qは、表情がきついとはいえ決してバランスの崩れた顔ではなく、むしろ愛らしい。けれど、きついという印象は拭えない。でもそれも付き合って数か月、あるいは1年経ってから気づいたことだ。中でも、あの目がきついことは、本人も自覚していることなのかもしれない。けれど気にしているのだとしたら、もう少し気を遣って表情を作ってきた跡があるはずだと思う。けれどその跡はそこにはなくて、時々愛想だと思われる表情は、笑っているのに逆に心を隠しているようでそれはそれで警戒を呼び起こすのだ。

(せっかくいい気分でいたのに…)
と明は思った。けれど明は名前には反して、くよくよした性格で、よくいえば謙虚というか。この場合でいえば、いい気分でいた自分を責めるような人間である。そのため同時に

(あ、人間というのはいい気分でいたら危ないんだわ、大人になったら誰も怒ってくれないから怒ってくれる人を大事にしろ、というあれと近い気がする)
などと思い、本人曰く「反省」を怠らない。

 今日は授業がないから、朝(昼)からゆっくりして、家でだらだらと本を読み、昨日作ったハヤシライスを食べ、本にも飽きてきたので学校へ行こう、と時計を見たのが午後2時半だった。
 天気が良かった。途中の道で友達のRが挨拶してくれた。少し歩いたらもう1人、Sが挨拶してくれた。東京都と言えども郊外の、私鉄の各駅しか止まらない駅にある
おかげか、こういう風に通学路を過ごせるのは、とても気持ちがよかった。今までは自分の通った公立小中学校のあの集団登校のような感覚、また高校ではクラス外に知り合いを作るようなことがなかったから、そして何より、明の家は転勤族で、地域共同体のようなものにも縁が無かったから、そういうこと自然と思い出し、今の自分の環境を心で詠っていた。

(やはりヒトは共同体で生活しやすいように慣らされていて、喜びや生きる糧の源はそこにあるのだわ…可哀そうな日本現代人…のほとんど)

 そして、あの可愛いらしい形だと感じている缶コーヒーを自動販売機で買って、パソコンが使える、と思って心馳せて44の席を探していたのである。そこで、Qに会った。

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2009-04-17 つまみ読み記

4/26
『機械の中の幽霊』アーサー・ケストラーArthur Koestler
4/24
『三人目の子にご用心』竹内久美子/文芸春秋
4/23
『東京のまちづくり』藤森照信と
4/22
『メドゥーサと仲間たち』R.カイヨワ
4/17
『賭博と国家と男と女』竹内久美子/日本経済新聞社
4/16
『中世に生きる人々』
生協のフリーペーパー2008冬号
4/14
『タンポポハウスのできるまで』藤森照信
『Words』Margaret Erunst
4/12
『研究者英米文学評伝叢書40 クレア』/北村常夫
4/6
『達人たちの大英博物館』松井竜吾ほか/1600円/1996
4/3
フリーペーパーアクセス4/1,3/1
4/2『ビジュアル美術館 マネ』パトリシア・ライト
1/18
『今昔物語と医術と呪術』槇佐知子
『ル・コルビュジエ 機会とメタファーの詩学』アレグザンダー・ツォニス
『西條八十』筒井清忠
1/9
『近世陰陽道の研究』
『民俗学体系4 社会と民族』
『日本陰陽道史総説』村山修一
12/30
『私の国語教室』福田 存

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2009-04-11 悲しいこと

うきうきと、花を画く
時間をおいてまた画きましょ 用事を見つけあちらへゆく

ききなれた音楽 
それは どこか懐かしい ではなくて 懐かしい音楽
(それは辞めた部活が流していた音だから)

こんにちは
わあ みなさん 寄ってらっしゃる ありがたいありがたいわたし
さようなら

お医者さまの健康診断
世間話に花が咲いた だって就職ですか進学ですかと聞くのだから
間をおいてわたし 看護師学校なんです と にやにや

それは素敵じゃないお医者さまだった それは心のないお医者さまだった
私の居なれた世界に心のない人はいないって知ってる
だから だから 不安でいっぱい
先生の教えている学校の名前聞いたのは そのためなんだからね
(見せていただいた かわいそうな学生の写真表には同じ進路をたどった人がいた)
絶対行かないんだからね


もどる
もどる

こころ ざわざわ
ひとがいっぱい
こんにちはってできないのって悲しいことね

電話がふるえている わたしをよんでいる いっこくもはやくボタンを
こんにちは あら待ってたわ やっぱり そうなのね







それはなあに

聞いてないことだわ

わたしの知らない遠いところへ行ってしまうとは 聞いていないわ

さも言ったことのあるように話すそれは私以外の人には話したりしたことなのね

それは悲しいことを示すわ



私は、心を失くさなければいけなかった人の多い世界に飛び込んでいくというのに
あなたは、自由で、険しいけれど、人間の道をゆこうとしている
{それなのに、へらへらしているあなたがむかつく どんかん むしんけい (とは『カラスのカーさん へびたいじ』で学んだ言葉よ)}

花のそばから少し離れた少しの間にこのひどい対比


うらやましくて
じゃあ移動すればいいじゃないという声、でも私は

かなしくて

くらいくらい私の未来
くらいくらいよ くらいくらい

どこを選んでも暗いけれど
飛び込みたい世界が暗い

たえなさい、たえなさい、はしのえみは偉かった。
力を抜きなさい、力を抜きなさい、宇多田ヒカルは偉かった。

ざわざわざわざわ、おどるよ、おどるよ、飛ぶよ飛ぶ
このときをまってたんだ このときをまってた人もいるんだから 救われる し  それもわたし
わたしきれいにおどれてるかしら うそ そんなわけがない なまけているこの肉体で 何を言う
でも自信あるよ あなたよりこのときをまっていた 純粋なわたしのなかの細胞 遺伝子


歌は姫神の神々の詩だった

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2009-04-07 踊りと言語

朝日新聞に、踊りと言語という記事があった。身体表現の公演がいくつかとりあげられていた。日本では欧州と違って小さい頃からのバレエの専門訓練を受けていない人でもそういう世界に飛び込んでいける畑があって、だから独自の分野を築けるかもしれないというものだった。特に、言語と結びついたものが目立つということだった。数十年前の日本のバレエ界がそんな言われ方をしていたと思う。でも、今は世界のバレエが日本人やアジア人も目立っているらしいので、それでもそういわれるのは、日本バレエの人口が少ないとか、トップと趣味の差が激しいとか、高校生から手堅い職業にシフトするとかですか。あるいは、欧州では公演するまでは敷居が高いというか、観衆もどこか目が肥えた感じがあり新規コンテンポラリーに集まらないということですか。

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2009-03-21 デュルケーム

 けっきょく、私は、次の三つの命題を順次立証してきたことになる。
  自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する
  自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する
  自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する
 以上を比較することにより、次のことが明らかになる。すなわち、それらの種々の社会が自殺の抑制作用をもっているのは、それぞれの社会の特殊な性格によるのではなく、それらすべての社会に共通のある原因による、ということである。宗教がその効果をもつのは、宗教感情に特有の性質のためではない。なぜなら、家族社会も政治社会も、強く統合されていれば、それと変わらない効果を生むからである。なお、この点は、いろいろな宗教が自殺に作用する仕方を直接に検討したさいにすでに証明したとおりである。他方、家族的関係や政治的関係の与えてくれる自殺への免疫も、それらの関係に特有の要素からは説明されえない。宗教社会も、それらと変わらない特権を持っているからである。その原因は、程度の差はあろうが、これら全ての社会集団が共有している同一の特性に求めるよりほかないところで、その条件を充たす唯一の条件とは、ほかでもない、それらがすべて強固に統合された社会集団をなしているということである。そこで、次のような一般的結論に達する。すなわち、自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する、と。

 ところで、社会の統合が弱まると、それに応じて、個人も社会生活から引き離されざるをえないし、個人に特有の目的がもっぱら共同の目的にたいして優越せざるをえなくなり、要するに、個人の個性が集合体の集団体の個性以上のものとならざるをえない。個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心に基づく行為準備以外の準則をみとめなくなる。そこで、社会的自我にさからい、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるようなこの状態を、自己本位主義(エゴイズム)とよんでよければ、常軌を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプの自殺は自己本位的とよぶことができよう。

 しかし、どうしてこのような原因から自殺が生じるのであろうか。

 まず第一に、集合的な力というものは、自殺をもっともよく抑制しうるひとつの障壁であるから、集合的な力が弱まれば、自殺も増大せざるをえないという点を指摘することが出来よう。社会が強く統合されているときには、社会は、個人をその懐に依存させ続け、個人が社会の命ずるがままに行動すると考え、したがって個人が気ままに自分自身を扱うことを許さない。それゆえ、そのような社会は、個人が死を選ぶことによって社会に対する義務から逃れることを許さないのである。しかし、もしも個人がこうした服従を正当なものとして受け入れることを拒むならば、社会は、その権威を個人に強制することもできようはずがない。個人が社会の任務から逃れようとするときには、もはや社会は、個人をその任うに引き止めておくだけの権威を持っていないのであり、更には自らの弱さを意識して、もはや禁止し続けることの出来ないその行動について自由にふるまう権利を個人に認めるまでになる。こうして個人が自分自身の運命の支配者となることが許されれば、それだけ、自らの運命に終止符を打つことも彼自身の権利となる。

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2009-03-21  デュルケーム

だから個人にしてみれば、生きることの悲惨を我慢づよく耐え忍ぶ理由もなくなるわけである、と言うのは、個人は集団に結びつき、それに愛着をいだいているときには、自己の利益よりも普段に優先させてきたその集団の利益をそこなうまいとして、不撓不屈の意思をもって苦難をのりこえていくものだからである。個人を共通の原因に結び付けている紐帯は、同時に彼らを生に結び付けるし、また特に自分自身を越える高い目標にたえず目を向けていることは、個人的不満感がつのることを押えてくれる。要するに、凝集度の高い活気に満ちた社会では、全体から各個人へ、また各個人から全体へと観念や感情のたえざる交流があり、これがいわば道徳的な相互のささえとなって、個人を自分ひとりの力に還元してしまわずに集合的なエネルギーに参加させ、自分一個人の力がつきたときにもその集合的エネルギーのなかで活力を回復させることができる。

 しかし、それらの理由はなお副次的なものにすぎない。常軌を逸した個人主義と言うものは、たんに(なにか別の)自殺の原因についてその作用を促進させるというだけではなく、それ自体が自殺の原因である。たんに個人主義は人間を自殺へ追いやる傾向を効果的に抑制している障壁をとりのぞくだけではなく、自殺への傾向をまったく新たに創造し、個人主義の刻印をおびた独特の自殺を生じさせる。この点が重要であり、この点こそ十分理解されなければならない。というのは、さきほど区別しておいた自殺タイプの特有の性質はじつはここから生じているのであり、それに「自己本位的自殺」という名称を与えることの正当性も、この点にこそ根拠をもっているでは、その結果(自己本位的自殺)は、個人主義のどんな要素から説明されうるであろうか。

 人間は、その固有の心理構造のために、彼の自我をこえ、死後も存続するような何らかの対象に結びつかない限り生きていくことが出来ないとよくいわれる。そして、そうならざるをえない理由としては、まったくの非業の死はとげたくない、というわれわれの欲求があげられてきた。生というものは、それになんらかの存在理由がみとめられるときに、あるいは労苦に値する目標があるときに、はじめて耐えていけるものだといわれる。ところが、個人は、彼自身だけでは自分の活動の十分な目標となることができない。個人はあまりにもとるにたらぬ存在であり、その存在は空間的に限定されているのみか、時間的にもまったく限定されている。したがって、自分以外に志向すべき対象をもたない場合には、われわれの努力もけっきょくは無に帰してしまうにちがいない、という観念からのがれられなくなる。実際、無に帰さざるをえないからである。だが、この観念は恐怖をいだかせる。こうした状態のもとでは、いかに労苦を重ねてものこるものとてないから、人々は、生きる勇気、すなわち、行動し、たたかう勇気をくじかれてしまうであろう。要するに、自己本位的状態は、人間の本性と矛盾するものであり、したがって当然、それだけで持続することはありえないであろう。

 しかし、右のような命題は、こうした絶対的な形式で主張されるとなお、大いに異論をはさむ余地がある。実際、自分の生もいつかは終わらなければならないという観念がこれほどいとうべきものであるならば、われわれは、みずからにたいして目を閉じ、ことさらに生の価値をいつわりでもしないかぎり、生きることを肯定しえないはずである。

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2009-03-21   デュルケーム

なぜなら、たとえ自分自身をあざむいて、無に帰してしまうというこの観念をある程度意識せずにいることはできても、無の到来を実際に無くしてしまうことはできず、どんなことをしても、避けようがないからである。もっとも、人はたしかに、世代の限界を幾代かにわたって延長することはでき、したがって、肉体が滅んだ後も、何年かあるは何世紀かにわたって、その名をのこすことはできる。しかし、一般の人々にとっては、すべてが無に帰するときが、いつもまたたくまにやってくる。というのは、われわれの所属している集団――その媒介によって、われわれの存在はより永続することができる――も、それ自身有限な存在であり、われわれがその集団に付加したすべてのものとともに、やがては消滅すべき運命にあるからである。集団の記憶が人類の歴史そのものと特に強く結びついていて、人類が存続するかぎり忘れられずにのこっていく、というような場合はまずありえない。だから、実際にわれわれがあれほど強い不死への渇望をいだいていても、このような短いせいの見通しをもってしては、決してその渇をいやすことはできないだろう。そのうえ、人々の死後も存続するものとしていったいなにがあろうか。一片の言葉、一つの声音、そして、かすかなほとんど名づけることもできあに、したがってわれわれの努力の大きさとも無関係でわれわれの目に明らかにされることもない、一つの痕跡がのこるだけである。じつは、子どもというものは、自然のままの自己本位主義者であり、生存への要求を殆ど持っていないし、また老人はこの点については、その他の点と同じく往々にして子ども同然であるが、にもかかわらず両者とも、壮年者と同様、あるいはそれ以上に生きることに執着せずにはいない。十五歳までの自殺はきわめて僅少であること、そして高齢に達するとまた自殺は減少していくことが、実際に明らかにされている。人間の心理構造とほとんど程度の差しかないような心理構造をそなえている動物の場合にも、それ(生存への要求をもっていないにもかかわらず、生きることに執着をしめすこと)はあてはまる。したがって、人はみずからの生の外部に存在理由をもたないかぎり生きることができない、という考え方は誤りなのだ。

 そして事実、個人にだけかかわりをもつ一群の機能がある。それは、肉体的生命の維持に必要な諸機能である。この機能はもっぱら肉体的生命の維持という目的に使えるものであり、この目的が達せられるさいには、つねにしかるべきはたらきをしている。けっきょく、肉体的生命維持の機能にかんするかぎり、およそ人間は自分をこえる目的を設定しなくとも、理にかなって行動することができる。それらの機能は、人間に役立つというそれだけのことで一定の役目を果たしているのである。だから、人間は、他の欲求をいだかないかぎりは自分自身で満ち足りているわけで、生きることそのもの以外のなにか別の目的をもっていなくとも幸福でいられる。ただし以上のことは、成年に達した文明人にあてはまることではない。彼らには、肉体の要求からかけ離れたおびただしい観念、感情、慣行などが存在している。芸術、道徳、宗教、政治的信念、科学などは、それ自体として器官の消耗をつぐない役目をするわけでもなく、またその機能をうまく維持するのに役だつわけでもない。それらすべての超肉体的な生活を目ざめさせ、発展させてきたのは、宇宙的環境(気候など自然的な環境)の刺激ではなく、社会的環境による刺激である。他者にたいする共感や連帯感をわれわれに目ざめさせたのは社会の働きに他ならない。

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