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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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2009-04-07 踊りと言語
2009-03-21 デュルケーム
2009-03-21  デュルケーム
2009-03-21   デュルケーム
2009-03-21    デュルケーム
2009-03-18 谷保・日野・多摩平
2009-03-18 妊娠小説
2009-02-23 1日
2009-02-23 1日
2008-12-09 読書記


2009-04-07 踊りと言語

朝日新聞に、踊りと言語という記事があった。身体表現の公演がいくつかとりあげられていた。日本では欧州と違って小さい頃からのバレエの専門訓練を受けていない人でもそういう世界に飛び込んでいける畑があって、だから独自の分野を築けるかもしれないというものだった。特に、言語と結びついたものが目立つということだった。数十年前の日本のバレエ界がそんな言われ方をしていたと思う。でも、今は世界のバレエが日本人やアジア人も目立っているらしいので、それでもそういわれるのは、日本バレエの人口が少ないとか、トップと趣味の差が激しいとか、高校生から手堅い職業にシフトするとかですか。あるいは、欧州では公演するまでは敷居が高いというか、観衆もどこか目が肥えた感じがあり新規コンテンポラリーに集まらないということですか。

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2009-03-21 デュルケーム

 けっきょく、私は、次の三つの命題を順次立証してきたことになる。
  自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する
  自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する
  自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する
 以上を比較することにより、次のことが明らかになる。すなわち、それらの種々の社会が自殺の抑制作用をもっているのは、それぞれの社会の特殊な性格によるのではなく、それらすべての社会に共通のある原因による、ということである。宗教がその効果をもつのは、宗教感情に特有の性質のためではない。なぜなら、家族社会も政治社会も、強く統合されていれば、それと変わらない効果を生むからである。なお、この点は、いろいろな宗教が自殺に作用する仕方を直接に検討したさいにすでに証明したとおりである。他方、家族的関係や政治的関係の与えてくれる自殺への免疫も、それらの関係に特有の要素からは説明されえない。宗教社会も、それらと変わらない特権を持っているからである。その原因は、程度の差はあろうが、これら全ての社会集団が共有している同一の特性に求めるよりほかないところで、その条件を充たす唯一の条件とは、ほかでもない、それらがすべて強固に統合された社会集団をなしているということである。そこで、次のような一般的結論に達する。すなわち、自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する、と。

 ところで、社会の統合が弱まると、それに応じて、個人も社会生活から引き離されざるをえないし、個人に特有の目的がもっぱら共同の目的にたいして優越せざるをえなくなり、要するに、個人の個性が集合体の集団体の個性以上のものとならざるをえない。個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心に基づく行為準備以外の準則をみとめなくなる。そこで、社会的自我にさからい、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるようなこの状態を、自己本位主義(エゴイズム)とよんでよければ、常軌を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプの自殺は自己本位的とよぶことができよう。

 しかし、どうしてこのような原因から自殺が生じるのであろうか。

 まず第一に、集合的な力というものは、自殺をもっともよく抑制しうるひとつの障壁であるから、集合的な力が弱まれば、自殺も増大せざるをえないという点を指摘することが出来よう。社会が強く統合されているときには、社会は、個人をその懐に依存させ続け、個人が社会の命ずるがままに行動すると考え、したがって個人が気ままに自分自身を扱うことを許さない。それゆえ、そのような社会は、個人が死を選ぶことによって社会に対する義務から逃れることを許さないのである。しかし、もしも個人がこうした服従を正当なものとして受け入れることを拒むならば、社会は、その権威を個人に強制することもできようはずがない。個人が社会の任務から逃れようとするときには、もはや社会は、個人をその任うに引き止めておくだけの権威を持っていないのであり、更には自らの弱さを意識して、もはや禁止し続けることの出来ないその行動について自由にふるまう権利を個人に認めるまでになる。こうして個人が自分自身の運命の支配者となることが許されれば、それだけ、自らの運命に終止符を打つことも彼自身の権利となる。

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2009-03-21  デュルケーム

だから個人にしてみれば、生きることの悲惨を我慢づよく耐え忍ぶ理由もなくなるわけである、と言うのは、個人は集団に結びつき、それに愛着をいだいているときには、自己の利益よりも普段に優先させてきたその集団の利益をそこなうまいとして、不撓不屈の意思をもって苦難をのりこえていくものだからである。個人を共通の原因に結び付けている紐帯は、同時に彼らを生に結び付けるし、また特に自分自身を越える高い目標にたえず目を向けていることは、個人的不満感がつのることを押えてくれる。要するに、凝集度の高い活気に満ちた社会では、全体から各個人へ、また各個人から全体へと観念や感情のたえざる交流があり、これがいわば道徳的な相互のささえとなって、個人を自分ひとりの力に還元してしまわずに集合的なエネルギーに参加させ、自分一個人の力がつきたときにもその集合的エネルギーのなかで活力を回復させることができる。

 しかし、それらの理由はなお副次的なものにすぎない。常軌を逸した個人主義と言うものは、たんに(なにか別の)自殺の原因についてその作用を促進させるというだけではなく、それ自体が自殺の原因である。たんに個人主義は人間を自殺へ追いやる傾向を効果的に抑制している障壁をとりのぞくだけではなく、自殺への傾向をまったく新たに創造し、個人主義の刻印をおびた独特の自殺を生じさせる。この点が重要であり、この点こそ十分理解されなければならない。というのは、さきほど区別しておいた自殺タイプの特有の性質はじつはここから生じているのであり、それに「自己本位的自殺」という名称を与えることの正当性も、この点にこそ根拠をもっているでは、その結果(自己本位的自殺)は、個人主義のどんな要素から説明されうるであろうか。

 人間は、その固有の心理構造のために、彼の自我をこえ、死後も存続するような何らかの対象に結びつかない限り生きていくことが出来ないとよくいわれる。そして、そうならざるをえない理由としては、まったくの非業の死はとげたくない、というわれわれの欲求があげられてきた。生というものは、それになんらかの存在理由がみとめられるときに、あるいは労苦に値する目標があるときに、はじめて耐えていけるものだといわれる。ところが、個人は、彼自身だけでは自分の活動の十分な目標となることができない。個人はあまりにもとるにたらぬ存在であり、その存在は空間的に限定されているのみか、時間的にもまったく限定されている。したがって、自分以外に志向すべき対象をもたない場合には、われわれの努力もけっきょくは無に帰してしまうにちがいない、という観念からのがれられなくなる。実際、無に帰さざるをえないからである。だが、この観念は恐怖をいだかせる。こうした状態のもとでは、いかに労苦を重ねてものこるものとてないから、人々は、生きる勇気、すなわち、行動し、たたかう勇気をくじかれてしまうであろう。要するに、自己本位的状態は、人間の本性と矛盾するものであり、したがって当然、それだけで持続することはありえないであろう。

 しかし、右のような命題は、こうした絶対的な形式で主張されるとなお、大いに異論をはさむ余地がある。実際、自分の生もいつかは終わらなければならないという観念がこれほどいとうべきものであるならば、われわれは、みずからにたいして目を閉じ、ことさらに生の価値をいつわりでもしないかぎり、生きることを肯定しえないはずである。

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2009-03-21   デュルケーム

なぜなら、たとえ自分自身をあざむいて、無に帰してしまうというこの観念をある程度意識せずにいることはできても、無の到来を実際に無くしてしまうことはできず、どんなことをしても、避けようがないからである。もっとも、人はたしかに、世代の限界を幾代かにわたって延長することはでき、したがって、肉体が滅んだ後も、何年かあるは何世紀かにわたって、その名をのこすことはできる。しかし、一般の人々にとっては、すべてが無に帰するときが、いつもまたたくまにやってくる。というのは、われわれの所属している集団――その媒介によって、われわれの存在はより永続することができる――も、それ自身有限な存在であり、われわれがその集団に付加したすべてのものとともに、やがては消滅すべき運命にあるからである。集団の記憶が人類の歴史そのものと特に強く結びついていて、人類が存続するかぎり忘れられずにのこっていく、というような場合はまずありえない。だから、実際にわれわれがあれほど強い不死への渇望をいだいていても、このような短いせいの見通しをもってしては、決してその渇をいやすことはできないだろう。そのうえ、人々の死後も存続するものとしていったいなにがあろうか。一片の言葉、一つの声音、そして、かすかなほとんど名づけることもできあに、したがってわれわれの努力の大きさとも無関係でわれわれの目に明らかにされることもない、一つの痕跡がのこるだけである。じつは、子どもというものは、自然のままの自己本位主義者であり、生存への要求を殆ど持っていないし、また老人はこの点については、その他の点と同じく往々にして子ども同然であるが、にもかかわらず両者とも、壮年者と同様、あるいはそれ以上に生きることに執着せずにはいない。十五歳までの自殺はきわめて僅少であること、そして高齢に達するとまた自殺は減少していくことが、実際に明らかにされている。人間の心理構造とほとんど程度の差しかないような心理構造をそなえている動物の場合にも、それ(生存への要求をもっていないにもかかわらず、生きることに執着をしめすこと)はあてはまる。したがって、人はみずからの生の外部に存在理由をもたないかぎり生きることができない、という考え方は誤りなのだ。

 そして事実、個人にだけかかわりをもつ一群の機能がある。それは、肉体的生命の維持に必要な諸機能である。この機能はもっぱら肉体的生命の維持という目的に使えるものであり、この目的が達せられるさいには、つねにしかるべきはたらきをしている。けっきょく、肉体的生命維持の機能にかんするかぎり、およそ人間は自分をこえる目的を設定しなくとも、理にかなって行動することができる。それらの機能は、人間に役立つというそれだけのことで一定の役目を果たしているのである。だから、人間は、他の欲求をいだかないかぎりは自分自身で満ち足りているわけで、生きることそのもの以外のなにか別の目的をもっていなくとも幸福でいられる。ただし以上のことは、成年に達した文明人にあてはまることではない。彼らには、肉体の要求からかけ離れたおびただしい観念、感情、慣行などが存在している。芸術、道徳、宗教、政治的信念、科学などは、それ自体として器官の消耗をつぐない役目をするわけでもなく、またその機能をうまく維持するのに役だつわけでもない。それらすべての超肉体的な生活を目ざめさせ、発展させてきたのは、宇宙的環境(気候など自然的な環境)の刺激ではなく、社会的環境による刺激である。他者にたいする共感や連帯感をわれわれに目ざめさせたのは社会の働きに他ならない。

先頭 表紙

2009-03-21    デュルケーム

人間を意のままに型どり、人間の行為を支配するあの宗教的・政治的・道徳的信念をわれわれのなかに植えつけたのも、社会なのだ。人がみずからの社会的役割を果たすことができるようになるためであり、また、蓄積してきた知識をわれわれに伝達し、これを発展させる手段を提供してくれたのも、やはり社会である。

 人間活動のこの最も高度な形態が集合的な起源を持っていることに関連して、その活動の目的は同じく集合的な性質をおびている。それが生じてきたのは社会のなかからであるから、またそれは社会と結びついている。というよりはむしろ、このもっとも高度な形態が、われわれ各人に体現され、個人化されている社会そのものなのだ。ところで、この活動がわれわれの目に存在理由をもって映ずるためには、それの目ざしている目的がわれわれに無縁のものであってはならない。それゆえ、人々は社会と結びついている限りにおいて、はじめてその高度な形態の活動に参加することができる。これに反して、人々が社会から切り離されていると感ずれば感ずるほどそれだけ、その社会を根拠にも目的にもしている生からも切り離されていくことになる。人々にありとあらゆる犠牲を強いる道徳的規律、法の定め、人々を拘束する宗教的教義、これらは、もしもわれわれ個人以外になんら仕えるべき存在――われわれもそこに結びついているような――をもたなかったならば、どうして存在しえよう。どうして知識が、もっぱら人々の生存の機会を増大させることにつきるならば、労苦を費やしてそれをきわめるには値しない。本能のほうが、まだしもこの役割をうまく果たしてくれる。その証拠には動物をみればよい。ではいったい、本能よりもよほど逡巡しがちで、しかも誤謬におちいりやすい反省をどうしてそれにおきかえる必要があるというのか。しかも、とくにその反省にともなうしんぎんはなんになるというのか。もしも物事の価値が個人本位に評価されるならば、このしんぎんは明らかに悪であり、それをつぐなうものがないだけに理解に苦しむ。しかし、進行をかたく報じている信者や、家族社会や政治社会の諸関係に強く結ばれている者にとっては、そのような問題は存在しない。彼らはおのずから、反省にたよることなく、自分の存在とその行為を、それぞれ教会やその生きた象徴である神に、あるいは自分の家族に、その祖国または党派に一体化する。彼らは、みずからの苦悩すらも、もっぱら自分の属する集団の栄光に使える手段とみなし、その苦悩を集団のためにささげる。キリスト教徒が、肉体蔑視の心の証をたてるため、またその聖なる神にいっそう近づくため、苦悩を喜んで求めるにいたったのも、こういう理由からである。しかし、信者に疑問が芽ばえるようになると、すなわち、属していた宗派への連帯感が弱まって、それから離れるようになると、また自分の属していた家族や<都市>がよそよそしいものになってくると、それだけ、彼らは自分自身がよく分からなくなり、苛だち、苦悶し、自問せざるをえなくなる、「いったい、自分はなんのために生きているのであろうか」と。

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2009-03-18 谷保・日野・多摩平

合宿で人間と一緒にいることに耐えることができず、逃げ出して、家に帰って、とりあえずバイクに乗って、西に走った。昔、谷保神社の先にある馬の何かを見ようと思って早朝に、迷い込んだ地域にあった郷土資料館を目指した。郷土資料館は見当たらず、そのうちに多摩川に出たので、サッカーに励む女子運動部を横目に見て、ところで、言語にも肉体にもスーパーエリートを兼ねた人物はいただろうか、不可能なんだろうか、と思って、そのうちに、眠りについた。−−−太陽の刺激とはすごいようで、まともに何かに励もうとすることにもはばかられるようだ。けれどこの日の午後に読んだ本『自殺論』デュルケーム著で知ったことだったが、温度や気候は確実に人間の精神疾患に影響を及ぼしているようで、太陽が少ないところほど、精神疾患は増える。(精神疾患者と健常者は、その他の条件を同じにしたら、その潜在的な可能性として精神疾患者の方が自殺が増えるが、社会的な原因とは関係がないとしていた。)

もうちょっと西、南に行こうと思って走ると、ずいぶんと地形の起伏の激しい地帯に入った。遠くが優しい色になって、何の思想も無い町並みも、こうすれば見れなくなかった。そのうちに豊田駅に着いた。綺麗な図書館には、リサイクル本の棚と内容が私の近隣の地区の図書館のものより良く、うらやましかった。人口比も私のところより和らいでいるように見えた。ミスタードーナッツに入った女の子は素朴だった。それでも、私の心はすさんでいて、素朴という名の悪はやるせなかった。

知らない人・建物しかない町は、現代思い知らされすぎている、あの、自分の位置というものを知らされなくて済む。地図もなくて、今と比べたらまだ存分に感覚という生物を残していた頃に地図を自分で頭に何の足かせも無く描いていけるような自由。

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2009-03-18 妊娠小説

アユブはオジャムのことが好きでした。

アユブは、些細なことでイライラしたり、悲しくなったりする人間でした。アユブは、それに耐えるためにオジャムによく頼ってしまっていました。それというのも、アユブにとってはそれらは些細なことではなく、とても神聖な出来事だと感じたり、そうまでではないにしろ、アユブは思考の全てをを埋められてしまうような感じ方をするのです。

アユブはある時、今日も、明日も、明後日もオジャムに頼っていました。

オジャムは心の広い人間ですから、受け止めることはたやすかったでしょう。しかし、今度という今度は、オジャムはアユブのことを放っておくことにしました。

アユブはオジャムのことを忘れるわけがありません。

けれど、オジャムという人と仲良くなってから、アユブは一人で頑張っていた頃よりも自分が弱くなってしまっていた気がしていました。アユブはこれを良い機会にと、一生の幸せと引き換えに、連絡することを控えることにしましたし、控えることができていました。

ある日、アユブは自分が身籠っていたことに気づきました。

神さまは知っていたのです。かつてアユブがオジャムと愛し合った時、今は子どもを作らないためにと使った避妊具に、穴が開けられていたことを。その犯人が、オジャムの親友であるイスリが冗談か本気か、とにかくその人であったことを。

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2009-02-23 1日

 私は私の24年間と10ヶ月の内で、かつてないほどの幸福感また安心感(安定感ではない、私の心は安定してしばらく、破壊を求めるため、それはここで述べようと欲する陽の感情にあてはまらない)をここ数ヶ月感じているだろう。殊に年末及び年明け、及び2月期。私は11月に新たなる恋人Sを手に入れた。それがまた素晴らしく、かつてないほどのお気に入り具合である。こう言ってしまうと語弊があるが、いらないと言えば(決して言ったことはないが)どっかにいってくれて、ほしいと言えば(これも言ったことはない)そこに存在する。又た、悲しい時はその天使に救われる。難を言えば、元気な時には鼻につくところがぽこぽこと浮上してくる。とりあえず、奇跡の存在である。それが奇跡たるには、その本性を私が信じられていること、及び今までのようにそれが現時点終わってしまっているわけではないことに依る。年末、及び、このあいだの卒部旅行たる1泊2日の集団旅行に於て、その関係性に新たなるステージを手に入れた。それにより、私は、心の弱さと呼ばれるものを全てSに向けることを許され、その証拠に、毎日の毎時間が気持ちよく、寂しさを埋めるために人と会うことを避けることができ、その成果、真に気持ち良く1日を送られている。今日の大いなる自由をもてあますことなく。そのSに対して、人間関係というもの完全ではないことはその他ほぼすべてのものが完全なるものではないことからしてもそれは自明であるが、現時間を流れる関係性は、あまり芳しいものではない。それは、「Sが本日、明日の約束に対してうかない返事をしたため及びいつものように踊りの覚えが悪いことから機嫌を悪くしてしまった自分は、1.その帰り際に素っ気無い態度を取ったこと2.その約束を断るメールを先ほど送ったこと」に因る。私は、このようなことを続けていたら、バイトの店長の言葉である「そんなことをしていたらいつの間にか50代で」つまり私は一人であって、つまり私は上條さやかさんの言ったように、「50代の女性教師は冷たいでしょう、それは50代の女性は誰にも愛されていないからなのよ、教師は愛する職業よ、誰にも愛されていない人は愛することができません、だから教師のみなさまには自分が幸福であることをいつも確認してほしい。」に涙をするような、人間である。ところで、私の、その霊に最も共感し希望しそれが全てであると思っていたルソーはヴァランス夫人の下におけるルソーであって、本日さしかかった第五巻において、それは泡と消えた。泡と消えたとはいえ、私はルソーの晩年の著述によってその時の再現をたしかに精神に宿した。これは”理想家”たるところの満足に値する。



 私は一人であること以上に孤独であることが存在することを未だ知らない。


 そうというのは、複線ではなくて、あるらしいのだと誰かがささやいているから、補足として付け足しておいた。 このような感情の流れが在ることを記すことによって、世界史上実に弱弱しい生き物となってしまった人類というものをここに証明する。

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2009-02-23 1日

 そろそろ自分にも慣れてきて、例えば今みたいに、ミクシィで見る周りの日記らが、実は人間レベルの高い人たちだろうことにも気づいていて、99%を否定する自分にも慣れてきたわけだから、レベルの高い人たちをおのづから否定している自分が危険であることも、知っている。だから右上の×を押して、早く消してしまうことが精神衛生上有効であることも知っている。だから消した。



 私はおそらくこんな文章を、インターネット及びキーボードというものが無ければ書いていないだろう。完全なる創造など、どこにもない。



 1920年頃に使われる”理想家”たる言葉が、自分にあてはまるらしい。2000年頃で言えば”完璧主義”だろうか。とはいえ私の部屋は散らかっている。部屋の隅は丸く掃かないが、むしろ掃くときは丸く掃かないで、疲れたら辞める。これは理想家だ。坂口昴の『概観世界史潮』でルソーへの言葉としての”理想家”である。1個上のように文章を始めることを、”冒頭でゴタクやウンチクをたれる”と言うらしいことを、紀伊国屋で貰ってきたフリーペーパーに載ってる中森明夫の文章で知った。そして、今見直してみたら、1個上の文章を書いた時にどことなく感じた罪悪感が、村上春樹の『風の歌を聴け』の冒頭の文章を模したものであることを、見つけた。曰く、「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」。



 ルソー、ルソー、その霊に共感の多いルソー、



その冒頭を見直してみたい気持ちが興った。ところで、桑原武夫氏の訳が素晴らしい気がする。第一部冒頭、「これこそは自然のままに、まったく真実のままに正確に描かれた唯一の人間像、このようなものは、かつてなく、また今後もおそらくないであろう。」。第一巻冒頭、「一、わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う、仕事をくわだてる。自分とおなじ人間仲間に、ひとりの人間をその自然のままの真実において見せてやりたい、そして、その人間というのは、わたしである。」。私は著作権を気にしなくていいらしい。怖ろしい、世界だ。そして、楽しすぎる世界だ。わたしは今日のこの文章を次の弱さで括りたいと思う。

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2008-12-09 読書記

12/10-    『パンダの親指 上』スティーヴン・J・グールド/早川書房
12/9-    『いつかソウル・トレインに乗る日まで』高橋源一郎/集英社
 50代でだってそうなんだ!
12/5-    『ラテン語のはなし』逸見喜一郎/大修館書店
11/23-    『わたしたちに許された特別な時間の終わり』岡田利規
 この小説の20代半ばと思われる人たちのように、肉欲の神に憑かれる、あるいは私たちの文化圏としては内から湧き上がる、そういったものが表現の立派な一つになりえているところに、私は未来への苦悩を見る。これを10代に閉じ込めることはできないのか。恋だ愛だ欲望だ、というのは恥ずかしいんだ。
11/4- 『空飛ぶ寄生虫』藤田紘一郎/
10/28-30了 『哲学は人生の役に立つのか』木田元/PHP研究所
幸福という言葉には他人との比較が含まれているらしい。健康、お金。
10/14-    『サルトル全集23情緒論なんとか』
10/8-    『日本の聖と賤 中世篇』野間宏・沖浦和光/人文書院
9/21-    『アメノウズメ伝』鶴見俊輔/
9/20了    『いのちの食べ方』森達也/理論社
9/18-    『南方熊楠日記T』
9/10-    『少年H』妹尾河童/-
9/4--    『更級日記』橋本武訳
9/4了    『すべての男は消耗品である』村上龍/-
9/2--    『マイ・ドリーム』バラク・オバマ/ダイヤモンド社
9/1--    『死刑』森達也/朝日新聞社
8/31-9/02了 『少年A』少年Aの父母/文藝春秋
8/28-8/31  『奇想の図譜』辻惟雄/筑摩

8/27-8/30  『日本人は世界一間抜けな美術コレクター』新見/光文社
自国の作家による芸術品が外国人の手あるいは外国に渡ってしまっていることと、多くの若冲作品が外国にいってしまっていることを並列に並べて語ってはいけないと思う。若冲周辺の美術に純粋に惹かれ、お金も持っていた、それがたまたま外人だった。
村上隆への評論家の言及に対して、あとづけの論理である、としたところに共感した。

8/11-8/23了 『決壊』平野啓一郎/新潮社
8/6了    『若冲になったアメリカ人』/小学館

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