今日昨日 since20030313 はじめまして chCCygEPcF |
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2009-04-07 踊りと言語 |
2009-04-07 踊りと言語 | |
朝日新聞に、踊りと言語という記事があった。身体表現の公演がいくつかとりあげられていた。日本では欧州と違って小さい頃からのバレエの専門訓練を受けていない人でもそういう世界に飛び込んでいける畑があって、だから独自の分野を築けるかもしれないというものだった。特に、言語と結びついたものが目立つということだった。数十年前の日本のバレエ界がそんな言われ方をしていたと思う。でも、今は世界のバレエが日本人やアジア人も目立っているらしいので、それでもそういわれるのは、日本バレエの人口が少ないとか、トップと趣味の差が激しいとか、高校生から手堅い職業にシフトするとかですか。あるいは、欧州では公演するまでは敷居が高いというか、観衆もどこか目が肥えた感じがあり新規コンテンポラリーに集まらないということですか。 |
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2009-03-21 デュルケーム | |
けっきょく、私は、次の三つの命題を順次立証してきたことになる。
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2009-03-21 デュルケーム | |
だから個人にしてみれば、生きることの悲惨を我慢づよく耐え忍ぶ理由もなくなるわけである、と言うのは、個人は集団に結びつき、それに愛着をいだいているときには、自己の利益よりも普段に優先させてきたその集団の利益をそこなうまいとして、不撓不屈の意思をもって苦難をのりこえていくものだからである。個人を共通の原因に結び付けている紐帯は、同時に彼らを生に結び付けるし、また特に自分自身を越える高い目標にたえず目を向けていることは、個人的不満感がつのることを押えてくれる。要するに、凝集度の高い活気に満ちた社会では、全体から各個人へ、また各個人から全体へと観念や感情のたえざる交流があり、これがいわば道徳的な相互のささえとなって、個人を自分ひとりの力に還元してしまわずに集合的なエネルギーに参加させ、自分一個人の力がつきたときにもその集合的エネルギーのなかで活力を回復させることができる。
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2009-03-21 デュルケーム | |
なぜなら、たとえ自分自身をあざむいて、無に帰してしまうというこの観念をある程度意識せずにいることはできても、無の到来を実際に無くしてしまうことはできず、どんなことをしても、避けようがないからである。もっとも、人はたしかに、世代の限界を幾代かにわたって延長することはでき、したがって、肉体が滅んだ後も、何年かあるは何世紀かにわたって、その名をのこすことはできる。しかし、一般の人々にとっては、すべてが無に帰するときが、いつもまたたくまにやってくる。というのは、われわれの所属している集団――その媒介によって、われわれの存在はより永続することができる――も、それ自身有限な存在であり、われわれがその集団に付加したすべてのものとともに、やがては消滅すべき運命にあるからである。集団の記憶が人類の歴史そのものと特に強く結びついていて、人類が存続するかぎり忘れられずにのこっていく、というような場合はまずありえない。だから、実際にわれわれがあれほど強い不死への渇望をいだいていても、このような短いせいの見通しをもってしては、決してその渇をいやすことはできないだろう。そのうえ、人々の死後も存続するものとしていったいなにがあろうか。一片の言葉、一つの声音、そして、かすかなほとんど名づけることもできあに、したがってわれわれの努力の大きさとも無関係でわれわれの目に明らかにされることもない、一つの痕跡がのこるだけである。じつは、子どもというものは、自然のままの自己本位主義者であり、生存への要求を殆ど持っていないし、また老人はこの点については、その他の点と同じく往々にして子ども同然であるが、にもかかわらず両者とも、壮年者と同様、あるいはそれ以上に生きることに執着せずにはいない。十五歳までの自殺はきわめて僅少であること、そして高齢に達するとまた自殺は減少していくことが、実際に明らかにされている。人間の心理構造とほとんど程度の差しかないような心理構造をそなえている動物の場合にも、それ(生存への要求をもっていないにもかかわらず、生きることに執着をしめすこと)はあてはまる。したがって、人はみずからの生の外部に存在理由をもたないかぎり生きることができない、という考え方は誤りなのだ。
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2009-03-21 デュルケーム | |
人間を意のままに型どり、人間の行為を支配するあの宗教的・政治的・道徳的信念をわれわれのなかに植えつけたのも、社会なのだ。人がみずからの社会的役割を果たすことができるようになるためであり、また、蓄積してきた知識をわれわれに伝達し、これを発展させる手段を提供してくれたのも、やはり社会である。
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2009-03-18 谷保・日野・多摩平 | |
合宿で人間と一緒にいることに耐えることができず、逃げ出して、家に帰って、とりあえずバイクに乗って、西に走った。昔、谷保神社の先にある馬の何かを見ようと思って早朝に、迷い込んだ地域にあった郷土資料館を目指した。郷土資料館は見当たらず、そのうちに多摩川に出たので、サッカーに励む女子運動部を横目に見て、ところで、言語にも肉体にもスーパーエリートを兼ねた人物はいただろうか、不可能なんだろうか、と思って、そのうちに、眠りについた。−−−太陽の刺激とはすごいようで、まともに何かに励もうとすることにもはばかられるようだ。けれどこの日の午後に読んだ本『自殺論』デュルケーム著で知ったことだったが、温度や気候は確実に人間の精神疾患に影響を及ぼしているようで、太陽が少ないところほど、精神疾患は増える。(精神疾患者と健常者は、その他の条件を同じにしたら、その潜在的な可能性として精神疾患者の方が自殺が増えるが、社会的な原因とは関係がないとしていた。)
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2009-03-18 妊娠小説 | |
アユブはオジャムのことが好きでした。
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2009-02-23 1日 | |
私は私の24年間と10ヶ月の内で、かつてないほどの幸福感また安心感(安定感ではない、私の心は安定してしばらく、破壊を求めるため、それはここで述べようと欲する陽の感情にあてはまらない)をここ数ヶ月感じているだろう。殊に年末及び年明け、及び2月期。私は11月に新たなる恋人Sを手に入れた。それがまた素晴らしく、かつてないほどのお気に入り具合である。こう言ってしまうと語弊があるが、いらないと言えば(決して言ったことはないが)どっかにいってくれて、ほしいと言えば(これも言ったことはない)そこに存在する。又た、悲しい時はその天使に救われる。難を言えば、元気な時には鼻につくところがぽこぽこと浮上してくる。とりあえず、奇跡の存在である。それが奇跡たるには、その本性を私が信じられていること、及び今までのようにそれが現時点終わってしまっているわけではないことに依る。年末、及び、このあいだの卒部旅行たる1泊2日の集団旅行に於て、その関係性に新たなるステージを手に入れた。それにより、私は、心の弱さと呼ばれるものを全てSに向けることを許され、その証拠に、毎日の毎時間が気持ちよく、寂しさを埋めるために人と会うことを避けることができ、その成果、真に気持ち良く1日を送られている。今日の大いなる自由をもてあますことなく。そのSに対して、人間関係というもの完全ではないことはその他ほぼすべてのものが完全なるものではないことからしてもそれは自明であるが、現時間を流れる関係性は、あまり芳しいものではない。それは、「Sが本日、明日の約束に対してうかない返事をしたため及びいつものように踊りの覚えが悪いことから機嫌を悪くしてしまった自分は、1.その帰り際に素っ気無い態度を取ったこと2.その約束を断るメールを先ほど送ったこと」に因る。私は、このようなことを続けていたら、バイトの店長の言葉である「そんなことをしていたらいつの間にか50代で」つまり私は一人であって、つまり私は上條さやかさんの言ったように、「50代の女性教師は冷たいでしょう、それは50代の女性は誰にも愛されていないからなのよ、教師は愛する職業よ、誰にも愛されていない人は愛することができません、だから教師のみなさまには自分が幸福であることをいつも確認してほしい。」に涙をするような、人間である。ところで、私の、その霊に最も共感し希望しそれが全てであると思っていたルソーはヴァランス夫人の下におけるルソーであって、本日さしかかった第五巻において、それは泡と消えた。泡と消えたとはいえ、私はルソーの晩年の著述によってその時の再現をたしかに精神に宿した。これは”理想家”たるところの満足に値する。
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2009-02-23 1日 | |
そろそろ自分にも慣れてきて、例えば今みたいに、ミクシィで見る周りの日記らが、実は人間レベルの高い人たちだろうことにも気づいていて、99%を否定する自分にも慣れてきたわけだから、レベルの高い人たちをおのづから否定している自分が危険であることも、知っている。だから右上の×を押して、早く消してしまうことが精神衛生上有効であることも知っている。だから消した。
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2008-12-09 読書記 | |
12/10- 『パンダの親指 上』スティーヴン・J・グールド/早川書房
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