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ヒポコトリの「書を捨てないで 町へ出る」


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はじめまして    chCCygEPcF

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2006-06-21 楽観視線
2006-06-13 渋谷の写真屋にジャイアンがいた
2006-06-03 まるで昔の自分を見ているよう
2006-06-03 今日の講評会
2006-05-24 死んだ魚の目
2006-05-22 くもり
2006-05-20 青春のお小遣い
2006-05-20 人間と縁がある2日間
2006-05-17 【10-23】 なんとか風
2006-05-17 【10-23】 未知と準未知


2006-06-21 楽観視線

ここ数日何かにつけて涙が出てくるのが何をきっかけだったのか、確認したはずなのに思い出せないし思い出す働きが鈍い。それは、ゴキブリに脅かされているあの部屋に帰らないといけないせい……

望んでいた似非遊牧民生活は、今も解けていないけれど。


遊牧民という言葉は不適切だな。
自由民てヤツも甘い感じがして嫌だな。(実際、3食健康的なものを食べられて学校に通えて身体労働以外の時間がメインである私の生活は甘さに満ちているけれど。)

つまり何を書こうかとしたかというと、新鮮フィーバーもフィーバーじゃない時があるから新鮮なわけで、新鮮が続けば新鮮は停滞になるんだよね。と、新鮮フィーバーの幕開けに感づかされていた予期を、今実感しているということをとりあえず残したかった。(感づかされていた予期という二重表現は正しいですか、世界?)春の次の夏の後には秋が来て、冬が来る。とりあえず私の生まれた世界では。

しばらく自分のことで泣いていなかったのに涙を分泌する私は今、冬なのかもしれない。休みたがっているのかもしれない。休みながら、足場を固めたがっている。


kくんとの4本目をろうそくを手に入れた。
それはやっと外に出れたということ。今までただ内ばかりを唄ってきて、いわゆる自己完結していて、…つまりはそれはあればあるだけ遠くまで出掛けられるはずのものを蓄えていたはずなんだ。


って、悲観にならない物語は物語以外の何になれるのだろう?

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2006-06-13 渋谷の写真屋にジャイアンがいた

ある日
「現像とプリントで1450円になります」
※現像500円 プリント1枚=50円
「…これおかしいですね。9枚しかプリントされてません」
「9枚と19枚を間違えたみたいですね」



また別のある日
「1250円になります
 1500円頂戴しましたので250円のお返しです」
「…これおかしいですね。プリントしか頼んでいません」
「本当ですね。では750円になりますので、
 ええとさっき250円を返しましたので
 1250円との差額である250円を返せば……」




ジャイアソ「おいのび犬、お前の持ってるアイス譲ってくれや」
のび犬  「100円のアイスと50円のアイスがあるけど」
ジャイアソ「安い方でいいや。ほれ50円。」

ジャイアソ「ちょっと待った。やっぱり100円のにするから50円のアイスは返すわ。
      じゃあな」
のび犬  「…ちょっと待ってよ。あと50円くれよ」
ジャイアソ「どうして?
      はじめに50円払ったよな。それで今50円のアイス渡したな。
      合わせていくらだ?」
のび犬  「ちょうど100円!」

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2006-06-03 まるで昔の自分を見ているよう

求められるのは好きだ。その弱さ。求められるのは嬉しい癖に、それに応える気が無いという点がここで言う弱さだ。この弱さはたぶんそのうち強くなる。

蟻くんはちょっと話しかけただけで女の子を好きになっちゃうみたい。ちょっと微笑んで話しかけただけで。微笑むのは未知人を警戒してほしくないからだよ。というかかわいくなく見られたくないから。それすごくかっこわるい。というか馴れてない人と話す時は微笑んでしまうのさ。それは円滑にすべき社会にまみれなければ生きてゆけない私達のマナーかもね。だから蟻くんはつまり。つまりは愛するよりも愛されたいお年頃なんだね。まるで昔の自分を見ているよう。そしてその思惑通り、話しかけなかったら私の周りウロつくのやめたみたい。人はこの時の私をナルキッソスと呼ぶ。

弟と同じ年齢のクラスメイト里芋はまるでその年齢の時の自分を見ているよう。いわゆる、誰にでも好かれたいお年頃らしい(でもその時はお年頃どころの話じゃなく、真剣にそんな自分が苦しい)。むしろ、私も同じ年齢の時に今の私の年齢の人と話して、里芋と同じだった。今の私になりたかった。いやむしろ。ムシロ全然可愛くない年下であった私。それをここの日記で確認した。その年齢の時に書いた日記の脈絡の無さも里芋のうつメールと似ていた。そのメールに惚れ込んでいた私なのに(真似できないと思ったから)。ああ私は何をべらべらと打ち込んでいるのだろう。予定外にこれからKくんが来ることが26分前に分かってから(ああ、あれから26分も経ってしまっているとは)、何にも手をつけられなくなりつつある。


ああ
Kくんよ
左脳を持たない者よ
その評価していた特性を
今物足りなく感じる私よ


私は自分の花壇を
つくる。そこにまくための
肥料と、そこでできた
花を見て能動的に
なる者になってほしい


ここで言葉の浪費をしている自分を、カントのように沈黙を守って大業を成し遂げる人を比べてみる。そして「比べる」というのは「考える」ことであるということを思い出す。その逆である[思う」は複数の事柄を並べ立てないことであることを。それは全て習ったこと。ただアメリカが日本に強いた教育に沿ってるだけのこと。そしてこれまでもが。

キてる。これまでプラスやるべきことやってしまえばこれからの人生がキてる。
昨日の27時、やっと終わった課題を置いてこれからの人生の不安と期待とを想いそして今現在の自分の送ってる日々を想い。そして側にKくんという人間がいたから口から言葉が出た(私は独り言が出ない)「人生…楽しいねぇ……」。寝ていたKくんは頷いた。


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2006-06-03 今日の講評会

よい芸術家(になりえるべき人間性の持ち主)は
日本美術教育の中で埋もれていく
良さが、可能性が、矯正されていく

見てられない
この中からは生まれない(今までのように)
(生まれるとしたら、メシアを手に入れた人だけだ)

既成概念に評価される
自分に甘い者たちに評価される
それがよしとされる社会で
多くの普通人はつまらない人間に矯正されていく
そこを踏み出せないでいる目の前のくだらない者たちよ
多くを知よ。

いや
この言葉のあてはまらない者よ。
私はあなたを救いたい。


満足気に立っている「プロ」たちの隣りにあるどの絵にも
何も感じない(感じえない)


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2006-05-24 死んだ魚の目

「僕は浪人生や就職活動生と話すのが好きです。なぜなら彼らの目は輝いているからです。大学に入れるんだろうか、就職できるんだろうかという不安定な状況が彼らを強くします。
でも悲しいことに、彼らが大学に入ったり就職してしまうとその輝きは失われてしまうのです。サラリーマンなんか死んだ魚の目をした人がよくいたりします。」

嬉しいことに、こないだ見たサラリーマン風のmiddle ageの目は生きていた。
人間の赤ちゃんや小動物なんかの目も完璧なる輝きを放つけど、生きてる魚は…どうなんだろうね…
教務課の人は死んだ目の人が多い↓


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2006-05-22 くもり

この前RTさんとメールした時、学校の先生が嫌ブログ論を唱えたことを言ってたよね。そして今日私もそれに遭遇したよ。デザイン系の先生というものは時代に言及するのが好きなのかね。先生はこんなことをおっしゃった「あの今のオタクって言う人たちね、分からないのは…日記は公開して見てもらうのに、実際人と会うのは避ける。僕なんかの(時代の)人たちは逆でね、人とは会いたいけど日記は見せたくない」。これだけならまだしも、その後に今の日本人の目力の無さの引き合いに中南米の人たちの目を出してきたもんだから、もうまったくぅ。眠くなってきちゃったよね。

心理学の先生がフロイト心理学がよく表されていると推薦された漫画「殺し屋イチ」(山本英夫)のある棚を見てたら、近くに手塚治虫の「きりひと讃歌」があって、何かで聞いたタイトルのような気がしたから買ってみたら(なんてリッチなの!)もの凄かった。治虫ワールドはブラックジャックくらいしか知らなかった。恥ずかしい…。まだ2巻しか読んでないけど、物語自体が波瀾万丈で引き込まれるし、医療界の黒さも表されてるんだろうし、そして漫画的表現が本物だあ!

奇人種…この漫画でいうモンモウ病(人間が犬になってしまう)や、くる病、侏儒、巨大症なんかは内分泌腺異常が関係しているんだと。内分泌腺というのは、ホルモンを分泌するところであって、ホルモンは血管の放出される。人間の場合、脳下垂体、甲状腺、さいこう腺、副甲状腺、なんとか臓、胃腸、副腎、精巣、卵巣、松果腺、胎盤、腎臓、胸腺の13種なのかな?とか読んでた。

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2006-05-20 青春のお小遣い

外はここ最近稀に見る真っ晴れで夏のように暑かった。気づいたら私はヤフーゲーム”ブロキシー”をやっていた。そこに「今日洗濯物干してぇ」って声が聞こえたから、「ブロキシーやってる暇じゃない」なんていう素晴らしき日本語が頭に響いて、席を立った。

4限までのあまりない時間と、1日ぶりの我が家によって、そこには良い気が流れていた。まず生理的排泄を済ませながら心待ちにしていたOさんからの手紙を読んで、お湯を沸かし、洗濯物を放り込んだ。その全ての行動に、あの魅力的なるオバチャンの所作を感じた。つまりは、要領が良かった。手つきが良くて、自分が痛快だった。
メールがきた。ケンによる私の仲介への「ありがとう」メールだった。ふと受信BOXを回し見ると、その前のものもダンコによる店名を教えたことへの「ありがとう」メールだった。「ありがとう」という言葉が好きになった。

学校へ行く前に市の図書館に行った。ここの図書館は初めてだった。なのに、「コレキタヨ!」と呟く私の脳は懐かしさを感じたようだった。公共施設の匂いと、暗さと、入り口のトイレからのの臭いが、私に愛媛県に住んでいた頃のコミュニティ・センター(通称コミセン)を思い出させた。すごく良かった。愛媛県に行きたい。
「ケルト木の占い」「チェコの歴史」「ゲマトリア」「手相観」を返却した。半分しか読めなかった。そして「日本思想を解く」「シャイロックの子供たち」を借りた。前者は絶版らしく、発見したときは感動した。後者は新着本の中から響きのよいものを選んだ。そして高校受験案内でKくんの出身高校のページを探した。やはり、私と同じ中の下ランクの高校だった。

土曜はダンスの授業しかとっていない。1時間汗をかいたところで、先生が外に行こうという。外のグラウンドに初めて出た。素晴らしき、半分は作られた自然が歓迎してくれた。というか、授業で天気がいいから外で遊ぶなんて、もう何でもありで学校という息苦しかったはずのものが嘘のようで、自由で…裸足でかけていた。草の上に寝転んで、藤本美貴の歌にあるように「グラウンドの陸上部 窓から見える景色 お腹が減ってきたら 涙が出てきたわ?だっけ? 青春ね」と歌っていた(心の中で)。本当はどんぐりの歌と森のくまさんを歌っていた。そして、今青春の風景に違いないことを青春と確認していることに違和感を感じた。でも、何なら違和感を感じないで済むのだろうか。と考えたらまたもKくんが頭の中に浮かんできてしまった。Sさんが。あの日が…その違いは何かと考えると、やはり男女の方が絵になるからだろうか、ということにした。自分が絵になりそうかなんて、ひどい話だ。
そしてものすごい速さで流れる雨雲を眺めていたら突然暴風雨に巻き込まれ、私たちは全速力で体を守りながら校舎へかけていた。土が体を覆い、木の枝が散乱しはじめていた。
授業が終わり、羽振りの良い先生にお小遣いをもらって売店に行って、思い思いの品を買って食べた。履修のことを話して、皆の熱さを、今までの学校にはない雰囲気を感じて、これから一人になることを勇気づけられた気がした。

Kくんからの返事がまだこない。珍しい。それは、近況といううっとうしい内容を送ったからなのだろうか。あるいはこの前のように携帯を失くしたからなのだろうか。あえて無視してるというよりは、返しようが無かったからという理由の方がしっくりくる気がした。電話をしてしまいそうだ。するとしたら、言語的愛撫だけは避けなければならない。つまりは、無理矢理でいいから話題を用意しなければならない。それは、全然負担じゃない。


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2006-05-20 人間と縁がある2日間

06/5/19
今日は友達の家に泊まった。1年前会った時は絶対違う世界の人だと思ってたのに泊まるまでなるとは…泊まったのはその家の持ち主で1個下であるピキと、同い年の別の大学のノーポと、1個下の華華と、2個下の里イモ。あと途中で帰ったダンコもいた。泊まりという仲良くなり方に違和感のあった20年間が嘘のようだ。今年は、今まで違和感のあったことがどんどん自然となっていくことが多い。

最近の交友関係にあるKくんやOさん、Sさんなんかとはまるで違う種類で、もしかしたらこれがいわゆる普通なのかもしれないと思いながらという、時々傍観心の芽生えた嫌な奴。というか、この人達と仲良くなれると思っていなかった。単純に楽しかった。隣りに人がいるのは嬉しいことだった。この日の夜はそうめんとおかしとお酒っていうすごく不健康な食事となった。朝も出来合いの味噌汁とご飯と余ったおかしっていう。でもすりごまとわけぎとマヨネーズの入ったそうめんはおいしかった。

寝ながら話していると、今まで10年間東京で生きていて、知り合う同世代に感じていたある種の冷たさが、地方出身の彼女らには無いことに気づいた。あるいはまた違う冷たさが見えた気もした。でも一概に彼女らは純粋だった。それに気づいた時、また明るくなった。

翌日の土曜の朝、同じクラスの里イモと教室に向かっていたら、いつの間にかあややを歌っていた。教室で時間を持て余していたら、いつの間にかBerryz工房を踊っていた。これもまた自然な流れだった。そしてこの里イモと共有する空気は小学生以来であり、里イモという種類の人間は中学のRTさん以来2人目だった。探せばいるものだ…探さなくてもいるものだ。というか半年前から知っていたのに、本当を知ったのは今日だ。

教室から荷物を運んだらその途中に知ってる人がいる。着いたら知ってる人がいる。知ってるどころか好きな人たちだ。そこにいた暮さんと話しながら、新たに出現したニューカマー”レーサー”くんについて話す--今まですごく想像力の育みをもたらせてくれてきたSさん、Kくんとはもう仲良くなっちゃったんだよね。それって本当に夢のような事実なんだけど、それってそこにあったはずの想像性が消えてしまうんだ。それはそれで素晴らしい世界ではあるけれど(先から話が抽象的すぎる…)今はレーサーが新たなるその対象。謎。謎を解きたい。でもそれを解いたらまた夢も溶けるんだろう。でもきっとその時には新しいものが見えるはずだしなぁ--そんなことを話した。

そして一人になった。その時に、おそらく準仲間がそこら辺にいることからくる楽しさに気づいて、体が熱くなって体がよじれた。と同時にこのままでは絵は描けない、勉強はできないことを確認した。かといってよくいる秀才リーダー格のようなあの冷徹さも持つことはできないと思った。かといってオンのスイッチ、オフのスイッチなんて感情の具現化もキムタクにしか似合わないと思った。目の前の楽しさは嘘じゃないだろうけど、楽しさに流されることは人生でやりたいことを流されてしまう気がする。

Kくんからのメールの返事が来ない。



ボディソープ否定派だったけど、新たに用意した。そしたらもう何でもできる気がした。


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2006-05-17 【10-23】 なんとか風

哲学の授業で配られる資料を受け取りながら南沙は思った。配られる資料、それを黙々と、しかし生き生きと配り回す大学生よ。どうせ読まない紙を生き生きと回す大学生よ、私たちはこの6月の空気と似ているではないか。この雨のしとしとと降る梅雨の幕開けと似ているではないか。
しかし前回の授業で配られた似たような紙を読んだ生徒に手を挙げさせた時、その手の数が皆無に等しかったわけだから、どうせ今回は皆読むんだろう。
ヘレニズムの片方の意味は、「ギリシア風文化」というウェットに富んだ表し方をされるらしい。図書館に行くと、新聞の中の方に歌声喫茶風CDの広告が載っていた。
▼30代女性が猫の死骸100匹を家に...(生後1〜2週間で死んだのが可哀想で)
  ▽すぐ異常と見なしてしまた自分の固くなったが正常な倫理観
   この30代女性は孤独を感じていたのだろうか。
   この人を頂点にしたピラミッドを構成する人は、きっと隣りにもいる。
▼携帯販売が低迷
 1円売りで成り立っていたのもそろそろ潮時
 KDDIによると小売店へ払う契約成立代は3万7千円
  ▽安住できない苦しさ企業...いやその企業はよい企業なのだろうか。
▼歌声喫茶風CDの広告
  ▽青春を歌声喫茶で過ごすという思い出もなかなかよさそうである。というか、私と高彦にはカラオケや歌やなんかで過ごすという時間が向いている。現代…自分たちの場合はどこに置き換えられるだろうか。ああ、もう少し怠けて会ってもいいのかもしれない(会う=怠けていると見なしているようだ)。というか、会いたいのなら会うべきだ。基本的にはやりたいことをやるべきだ。そして、あの家で絵を描くのがベストなのに。高彦くんもナマケモノだから…。いや、私たちには長い素晴らしい夏休みが待っている。夏休み、本当にずっと過ごそう。それは「思い出のため」じゃなく、「青春のため」じゃなく、よりよくなるために。二人でいながら個になれるために。でも暇を感じさせてしまいそうな予感がする。そんなあなたの数少ない欠点を克服させてあげるための方法が、ずっと見つからない。
▼VOLという雑誌でない単行本
 「脱力系思想誌」
  ▽宣伝が書くには、ニートらを頭ごなしに否定する風量への否定雑誌らしい。
   否定が答えになってはきっとダメだな。
▼イチゴジャムの作り方
▼インドの教育
 医大の入試が下の身分層に優遇(今まで以上に)。
 インドの識字率は91年52%01年65%
  ▽良いことかと思えば、選挙を意識した政策だそうだ。
帰りに4日後用の生活費でリボン用のゴムとコーヒーフィルターを買う予定を確認して、何とか足を家に向けさせる(このことは何の暗示でもない)。


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2006-05-17 【10-23】 未知と準未知

高彦に会ってない・・・南沙は、まだ六日目なのにこのまま一生会わないでしまいそうな未来さえ見ていた。自然消滅という言葉は、このように生まれるのか。それでも南沙はそれは私たちにはありえないものであるつもりでいた。
南沙は今考えていたことをノートに書き始めた。
つもり、というこの頼りないがしかし謙虚な表現は、つまり恋愛は一人ではできないということの確認を表す。今読んでいる志賀直哉の小説にもまたゴール=スタート説が出て来た。「この相手と一生つき合うという気持ちは若い人にありがちの感情...果たしてそれはそうか?私の祖父母は愛し合った、死ぬまで。つまりこうだ。若い頃のろうそくは、そこで消える運命にあるのかもしれない。でも、一本目のろうそくが消える頃には、二本目のろうそくが用意されて火はつなげられていく。三本目、四本目...愛し合い方が変わっても愛し合う事には変わりない。」というモノ。ああ、私たちがこれだったらいいのに。そしてこれを聞いた私は、未来が明るくなった。私はせいぜいろうそくが二本しかないものだと思っていたから。たぶん私たちは今二本目のろうそくなんだろう。三本目はいつなんだろね。何なんだろね。未知の世界の存在を確認すると.........ヨイモノダ。未知には2種類あって、存在を確認された未知(準未知)と、存在自体未知である未知(本当の未知)。しかし、人間と相性がよいのは準未知だろう。本当の未知は、そんじょそこらの生半可な気持ちで生きている人間には、無価値のものとして判断されるだろう。
ところで?
いつもこういった文章は半分乗り気でない。なぜなら高彦のいない今は、この文章がまたも無駄で悲しいものになりえるからだ。ちなみに、さっき言ったろうそくの話で言うと、いつ二本目のろうそくに移ったんだろうか。この判断項目は「信頼ができたかどうか」であるとしたので、あの日辺りか。金土日月と過ごし、月の昼、今日も泊まりたい、と高彦が初めて能動的に連絡をくれたあの日か。
『歴史とは何か』E.H.カー。私はその日を歴史とみなしたようだ。何とも狭き歴史。

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