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あかふじの独り言

退屈しのぎに日々の思いを綴ります。退屈している人は暇つぶしにのぞいてみてね。
「つっこみ」は削除・訂正できませんので要注意です。

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2011-12-15 最近の「わが人生」
2011-12-10 僕の心憧憬
2011-11-20 体力落ちすぎ↓
2011-11-20 怠慢な日々。
2011-08-06 母の転倒、骨折、そして緊急入院。
2011-08-02 夕立
2011-06-29 ドモン・ケンとドライ・マティーニ
2011-05-26 やっぱり栄養は摂らんといかんです。
2011-03-23 Life is beautiful ! !(その1)
2011-03-23 Life is beautiful ! !(その2)


2011-12-15 最近の「わが人生」

糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」を読み始めてそれなりの日数が経ちました。僕の認識の中では糸井さんは小説家でもないしエッセイストでもない(はず)なのに、その整理された文章にいつも感嘆させられています。「文章の上手な人は、ものごとをきちんと整理して簡潔に語れる人」みたいな思い入れがあるので、自分の人生を整理するような思いで読んでいます。

もっと早く作文に眼が覚めていたら、僕の人生は(或いは)変わっていたかも知れない←いや、それなないぜ!

ほぼ日刊イトイ新聞
http://www.1101.com/home.html

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2011-12-10 僕の心憧憬

多くの女性を撮ってきて、そのたび迷い困惑し立ちはだかる壁に突き当たってきた。一体僕は何をやりたいのだろうと未だに困惑し続けている。そんな僕にいままで撮ってきた写真達が微笑んでくれているように感じるのは、僕が年老いてきた証拠だろうと思う。

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2011-11-20 体力落ちすぎ↓

ここ数日の体力仕事で体が半端ないことになってます。
ちょっとムリすると坐骨神経痛が頭を持ち上げる。
もともと体力には自信なかったけど、こんなに情けないとは自分に驚き。
そろそろ歳を考えて行動せんといかん時代を迎えているようです。

スポーツ全般全く関心ない僕が言うのもなんだけど、9回裏の最後は馬原を出すと思っていたので摂津が出てきて予想外。
なにはともあれ、おめでとうございます。
ま、僕は落合さん大好きなので、どちらが優勝しても嬉しかったのですが(ホークスファンの皆さんごめんなさい)

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2011-11-20 怠慢な日々。

ずいぶんひさしぶりの書き込み。
ちょっと怠けてるうちに3ヶ月以上も経ってしまった。
同様に写真の方も怠けがちであるのがいけない。
自分の存在位置(価値ほどのものでもない)が薄らいでいくのがいけない。
どこかで進路を修正しないといけないと思う今日この頃。

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2011-08-06 母の転倒、骨折、そして緊急入院。

母が一人でいるときにリビングで転倒して大腿骨の根っこを骨折してしまった。
通常母が生活するスペースには手すりをつけ、それ以外のところは歩かないように、いつもしつこいくらいに言っていたのだが、なかなか止めようとせず、いつか事故が起こるとは思っていたので、起こるべくして起こった事故なのだが、手術入院でさらに体の自由が利かなくなるのがつらいだろうと心が痛む。

救急指定の病院に搬送されて、診断から入院への流れの中で、受け入れ時の対応と診断結果を説明してくれた担当医の態度や発言に思うところがあって、担当医にそんな話し方はないでしょうと思いをぶつけてしまった。高齢者の医療には、技術よりも患者に対する病院側スタッフの心遣いが重要だと思っているし、医師と患者は意思の疎通と信頼関係が第一だと思っているので、そういうことを話したのだが、翌日、転院も覚悟して担当医も含めて病院側に思いを伝えたら理解してくれたのと同時に、医師の思いも充分理解できたので、医師の診立てと治療方針に全面的に従うことにした。救急搬送時のトラブル時は、若いということもあり、担当医も言ってはならない発言もあったが、そこは売り言葉に買い言葉。お互いに非礼を詫び合うことで、僕の母に対する思いも理解していただいたと思っている。

後は月曜日に控えている手術が無事に成功して、今後の生活への影響が少しでも少ない範囲にとどまることを祈るばかりである。

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2011-08-02 夕立

mixi日記の使用枠を超過してしまい日記が書けなくなったので、随分久しぶりの独り言。
午後3時過ぎに八幡行きの仕事が入り、引き取りに向かっていると空模様が怪しくなり始め、依頼主の会社を出て10分も経たないうちに雨が落ちてき始めた。ここ数年、できるだけ車のエアコンは使用しないように心がけているので、窓を全開にして走っていたのだが、雨ばかりはどうしようもない。窓を閉めてエアコンを入れて八幡まで走った。6時くらいには自宅に戻りたかったので、帰りも高速を使う積もりでいたのだが、インターに向かう途中の道が何となく空いている感じがしたので、そのまま下道を使って帰宅した。八幡から直方、飯塚を抜ける国道が何となく嬉しく、久しぶりに超えるしょうけ峠の風景も何となく心にじんわりと優しく、この仕事を始めた頃のわくわく感を少しだけ思い出したような気がした。

たまには下道でじんわり帰るのもいいもんです。

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2011-06-29 ドモン・ケンとドライ・マティーニ

昨日、今日と好天が続いたので、数日間干していた梅がそろそろ頃合だろうと、帰宅して最後のプロセスである紫蘇漬けを完了し、最近その作風と写真に対する姿勢にはまっている、ドモンケン流写真の本を読んでいる。写真は人それぞれ、千差万別。写真家が百人いたら百通りの表現方法があるというのを承知した上で、土門拳さんが目指した写真の道。「リアリズム写真こそ日本の写真家の目指すところである」という考え方をぜひ一度考えてみるのもいいかも知れません。
わが町の図書館を覗いてみたら、「土門拳の格闘」−リアリズム写真から古寺巡礼への道−という本があったので借りてきて、いま読み始めたところである。机に向かって真剣に読んでいるのではない。先月ジャズバーに行った折、人生初のドライ・マティーニを飲んで以来、こちらも少しハマっているので、志免町にある酒屋さんからドライジンとドライベルモットを買ってきて、自分でいい加減な混ぜ方でなんちゃってドライ・マティーニを作って飲みながら読んでいるところである。どちらもドライづくめであるが、マスターに聞いた話では、一般的にジンが3に対してベルモットが1という比率で、ジンの比率が4とか5とかに高くなるにしたがってマティーニからドライマティーニという感じになるらしい(うろ覚えなので正確なところは各自調べてください)
ベースとなるドライジンの方が僕が買ってきたものは47.3度という強い度数なので、グラスに少なめに作ったけど結構きている。ちなみにベルモットの方は18度です。
オリーブの缶詰が見つからなかったので、オリーブがかじれないのが残念だけど、ジンの香りに加えてベルモットの甘みと香りが心地よい。
うまい酒と好きな本。
盆でも正月でもないけど、かなりハッピーな気分で、ドライマティーニの強いアルコールにクラっときている僕には、もはや不景気、仕事がないなどという憂さはどこかに飛んでいってしまいそうである。

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2011-05-26 やっぱり栄養は摂らんといかんです。

このところ貧窮を極めておるので勢い本を買う予算がない。
いや、酒を呑むのを控えればよいのだが、刹那主義の僕としてはそれも辛抱できず、ついつい目先の欲望、快楽に囚われてありもしない金を使ってしまう。そんな昨今、わが町の図書館から本を借りて心の肥しにしているのだが、今日はアサヒカメラ(月刊の写真誌)3月号と4月号がたまたま本棚にあったので、借りてきた。いつも行くたびに気にかけているのだが貸し出し中が常でなかなか借りられないのに、今日は2冊も残っていてラッキーであった。
4月号を見ると「第36回 木村伊兵衛賞」の特集が組んであり、今回は「下薗詠子」さんという方が受賞されたらしいことを知った。作品より先に下薗さんの受賞の言葉なるものを読んだのだが、なんとも不思議な文章であった。今まで僕が見聞きしてきた写真家の言葉とはずいぶん違う。感覚的にいわゆるタメ語でつづられたその受賞のことばに、正直反発を覚えつつ、その作品を見た。

衝撃的だった。

どういうシチュエーションで撮ったのだろう。なぜこんな切り口を思いついたのだろう。演出っぽいのになぜリアリティにあふれているのだろう。いろんな思いが駆け巡って目が釘付けになった。はじめてみるような写真だった。

よほど作品をコピーしてここに掲載したいと思ったけど、それはやはりいかんだろうと思いを断ち切った。関心がある方はぜひ大きな書店に寄ったとき写真集をみてください。写真集「きずな」下薗詠子。3,150円です。

まったく話は違うけれど、このところ思い出したようにギターのほこりを払って毎晩弾いている。高田渡さんのひょうひょうとして真っ正直な声とメロディにはまっている。
歌と写真、それぞれ道の違いはあれ達人の琴線に触れて、やっぱり栄養は怠らず摂っていないと栄養失調になってしまうなあと実感している。

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2011-03-23 Life is beautiful ! !(その1)

1月12日に緊急入院していた母が退院して5日が過ぎた。

緊急入院して1週間以上は絶対安静という医師の指示でベッドから離れることを許されず、絶対安静が解けたのちも短い周期で容態は良くなったり悪くなったりの繰り返しで、気の抜けない日が続いた。入院一ヶ月くらいから表情も明るくなり始め、どうにか最大の危機は乗り越えたように思える日が続き、それと同時に今度は別の不安要素が産まれた。このまま回復して退院しても、果たして入院前みたいに介護なしに生活できるのだろうかという不安である。病室ではベッドから起き上がるのも寝るのも、もちろん食事も看護師さんや看護助手さんが手助けしてくれるせいで、まずそれ以前にトイレに立つ事すらない生活で、すっかり筋力が衰えてしまったのだ。入院が決まったときにまずその不安があったので、絶対安静が解けたときに体を動かすように看護師さんにもう少し自分で動くことを促してくれるよう要請していたのだが、病院側としては無理に体力を消耗して容態が悪化する事を恐れるあまり、箸の上げ下ろしからトイレへの移動、果てはベッド上での体の移動まで、二人の看護士の介助を受けての入院生活。僕の目には筋力はおろか、食事中に左手で食器を持とうとしない、体を移動することを促しても体が動かそうとしないなど、母が自分で自分の事をする行為そのものを忘れ去ってしまったように見えた。当然気力が人一倍強い母もその事を案じていたのだが、入院生活を続けるうちに、その意識すら母から消え去ってしまったかのように見えたのがかなりショックだった。
入院一ヶ月あたりからリハビリが始まったのだが、両手を握ったり開いたり、ベッドから立たせる程度の運動で、とても運動とはほど遠いリハビリしかしてくれないまま2ヶ月になろうとしていた。そして迎えた退院の日。数日前から歩行訓練を数回してくれていたので、両手で手すりを使っての歩行くらいは出来るようになってはいたが、自力でベッドから立ち上がることすら出来ないままでの退院となり、生命の危機を逃れることができた喜びと同時に僕の意識下では、これからの介護生活に伴う不安が一杯の退院だった。

[文字数制限のため(その2)に続く]

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2011-03-23 Life is beautiful ! !(その2)

そして退院後その不安を払ってくれたのは、カミさんの母に対する態度だった。
母に食事を促す、母に箸を持たせる、口の回りを拭うように促す、それらひとつひとつの行為が、まるで自分の赤ちゃんに対するように優しい言葉と笑顔で、食事の支度や食事中の会話など全てにその心遣いが伝わってくる母への応対に、あ、これは自分たちの子供が一人増えたのと同じなのだと感じさせられた。赤ちゃんがひとり増えただけのことだと思うと、介護の不安が嘘のように消え去ったのである。
ベッドから起こす。ベッドから床に立ち上げる。食卓まで体を支えて移動する。食卓に座らせ箸を持たせて食事を促す。食後は口の回りを拭うよう促す。そして食事が終わったらしばらく一緒にテレビを観ながら過ごし、疲れたと言えば食卓から起こし上げてベッドまで体を支えて移動して寝かせる。これら一連の介助作業のひとつひとつに優しい言葉をかけ続けるカミさんをみていてとても嬉しく思った。その優しい応対に加えて、介助し始めたばかりなので完璧とはいかないまでも、寝る、起きる、食べる、排泄する、それらひとつひとつの介助に対しても、女性ならではの心配りが多く感じられてとても頼もしく感じたとき、それまで感じていた介護への不安は払拭されたのである。
そして何より嬉しく感じたのは、人間は産まれて死ぬまでずっと成長し続けていくものだということ。
いままでは、人生40年くらいから下り坂で、あとはただ死に向かって急勾配の坂を転げ落ちていくものだと感じていた。しかし、年老いた母を介護するカミさんの姿を見ているうちに、死に向かい成長していく母をみたのである。人間は老後を迎えて衰えていくのではなく、産まれた時から死に向かってずっと成長し続けていくものなのだと思いなおしたら、なんだか嬉しくなってきた。
そう思うと、今まで母の姿に自分の今後を重ね合わせて、暗い気持ちになっていた老後に対する不安がずいぶん楽になってしまった。

そんなもろもろの喜びに浸っていたときに、ずっと前にみた映画を思い出した。
そのタイトルが、イタリア映画「Life is beautiful」である。
人間、いや生けとし生けるもの、産まれた時から死に向かっていくことに違いはないが、生をバトンタッチしていくと思えば死もまた愉しい。
釈尊は生老病死の四苦を説く。生きることそのものが苦しみだと説く。
その教えをなるほどと思ったさらにその上で人は生き、生を引き継いでいく、その行為こそがその映画のテーマであった「Life is beautiful」なのだ。

母は退院後、その持ち前のファイトで、自力でベッドから立ち上がりトイレにいくことが出来るまでに回復した。もちろんそうなったらそうなったで、今度は転倒の恐怖があるにはあるのだが、力を振り絞り自力で立ち上がろうとする母をみながら、なんだかとてももの哀しいよろこびを感じる毎日である。

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