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あかふじの独り言

退屈しのぎに日々の思いを綴ります。退屈している人は暇つぶしにのぞいてみてね。
「つっこみ」は削除・訂正できませんので要注意です。

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2011-06-29 ドモン・ケンとドライ・マティーニ
2011-05-26 やっぱり栄養は摂らんといかんです。
2011-03-23 Life is beautiful ! !(その1)
2011-03-23 Life is beautiful ! !(その2)
2011-01-27 僕の生きた証
2011-01-06 あかふじ第三回作品展のご案内。
2011-01-02 謹賀新年。
2010-12-30 撮り納め。歳納め。
2010-12-20 眼に見えるもの見えぬもの
2010-11-25 鬼が笑う話


2011-06-29 ドモン・ケンとドライ・マティーニ

昨日、今日と好天が続いたので、数日間干していた梅がそろそろ頃合だろうと、帰宅して最後のプロセスである紫蘇漬けを完了し、最近その作風と写真に対する姿勢にはまっている、ドモンケン流写真の本を読んでいる。写真は人それぞれ、千差万別。写真家が百人いたら百通りの表現方法があるというのを承知した上で、土門拳さんが目指した写真の道。「リアリズム写真こそ日本の写真家の目指すところである」という考え方をぜひ一度考えてみるのもいいかも知れません。
わが町の図書館を覗いてみたら、「土門拳の格闘」−リアリズム写真から古寺巡礼への道−という本があったので借りてきて、いま読み始めたところである。机に向かって真剣に読んでいるのではない。先月ジャズバーに行った折、人生初のドライ・マティーニを飲んで以来、こちらも少しハマっているので、志免町にある酒屋さんからドライジンとドライベルモットを買ってきて、自分でいい加減な混ぜ方でなんちゃってドライ・マティーニを作って飲みながら読んでいるところである。どちらもドライづくめであるが、マスターに聞いた話では、一般的にジンが3に対してベルモットが1という比率で、ジンの比率が4とか5とかに高くなるにしたがってマティーニからドライマティーニという感じになるらしい(うろ覚えなので正確なところは各自調べてください)
ベースとなるドライジンの方が僕が買ってきたものは47.3度という強い度数なので、グラスに少なめに作ったけど結構きている。ちなみにベルモットの方は18度です。
オリーブの缶詰が見つからなかったので、オリーブがかじれないのが残念だけど、ジンの香りに加えてベルモットの甘みと香りが心地よい。
うまい酒と好きな本。
盆でも正月でもないけど、かなりハッピーな気分で、ドライマティーニの強いアルコールにクラっときている僕には、もはや不景気、仕事がないなどという憂さはどこかに飛んでいってしまいそうである。

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2011-05-26 やっぱり栄養は摂らんといかんです。

このところ貧窮を極めておるので勢い本を買う予算がない。
いや、酒を呑むのを控えればよいのだが、刹那主義の僕としてはそれも辛抱できず、ついつい目先の欲望、快楽に囚われてありもしない金を使ってしまう。そんな昨今、わが町の図書館から本を借りて心の肥しにしているのだが、今日はアサヒカメラ(月刊の写真誌)3月号と4月号がたまたま本棚にあったので、借りてきた。いつも行くたびに気にかけているのだが貸し出し中が常でなかなか借りられないのに、今日は2冊も残っていてラッキーであった。
4月号を見ると「第36回 木村伊兵衛賞」の特集が組んであり、今回は「下薗詠子」さんという方が受賞されたらしいことを知った。作品より先に下薗さんの受賞の言葉なるものを読んだのだが、なんとも不思議な文章であった。今まで僕が見聞きしてきた写真家の言葉とはずいぶん違う。感覚的にいわゆるタメ語でつづられたその受賞のことばに、正直反発を覚えつつ、その作品を見た。

衝撃的だった。

どういうシチュエーションで撮ったのだろう。なぜこんな切り口を思いついたのだろう。演出っぽいのになぜリアリティにあふれているのだろう。いろんな思いが駆け巡って目が釘付けになった。はじめてみるような写真だった。

よほど作品をコピーしてここに掲載したいと思ったけど、それはやはりいかんだろうと思いを断ち切った。関心がある方はぜひ大きな書店に寄ったとき写真集をみてください。写真集「きずな」下薗詠子。3,150円です。

まったく話は違うけれど、このところ思い出したようにギターのほこりを払って毎晩弾いている。高田渡さんのひょうひょうとして真っ正直な声とメロディにはまっている。
歌と写真、それぞれ道の違いはあれ達人の琴線に触れて、やっぱり栄養は怠らず摂っていないと栄養失調になってしまうなあと実感している。

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2011-03-23 Life is beautiful ! !(その1)

1月12日に緊急入院していた母が退院して5日が過ぎた。

緊急入院して1週間以上は絶対安静という医師の指示でベッドから離れることを許されず、絶対安静が解けたのちも短い周期で容態は良くなったり悪くなったりの繰り返しで、気の抜けない日が続いた。入院一ヶ月くらいから表情も明るくなり始め、どうにか最大の危機は乗り越えたように思える日が続き、それと同時に今度は別の不安要素が産まれた。このまま回復して退院しても、果たして入院前みたいに介護なしに生活できるのだろうかという不安である。病室ではベッドから起き上がるのも寝るのも、もちろん食事も看護師さんや看護助手さんが手助けしてくれるせいで、まずそれ以前にトイレに立つ事すらない生活で、すっかり筋力が衰えてしまったのだ。入院が決まったときにまずその不安があったので、絶対安静が解けたときに体を動かすように看護師さんにもう少し自分で動くことを促してくれるよう要請していたのだが、病院側としては無理に体力を消耗して容態が悪化する事を恐れるあまり、箸の上げ下ろしからトイレへの移動、果てはベッド上での体の移動まで、二人の看護士の介助を受けての入院生活。僕の目には筋力はおろか、食事中に左手で食器を持とうとしない、体を移動することを促しても体が動かそうとしないなど、母が自分で自分の事をする行為そのものを忘れ去ってしまったように見えた。当然気力が人一倍強い母もその事を案じていたのだが、入院生活を続けるうちに、その意識すら母から消え去ってしまったかのように見えたのがかなりショックだった。
入院一ヶ月あたりからリハビリが始まったのだが、両手を握ったり開いたり、ベッドから立たせる程度の運動で、とても運動とはほど遠いリハビリしかしてくれないまま2ヶ月になろうとしていた。そして迎えた退院の日。数日前から歩行訓練を数回してくれていたので、両手で手すりを使っての歩行くらいは出来るようになってはいたが、自力でベッドから立ち上がることすら出来ないままでの退院となり、生命の危機を逃れることができた喜びと同時に僕の意識下では、これからの介護生活に伴う不安が一杯の退院だった。

[文字数制限のため(その2)に続く]

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2011-03-23 Life is beautiful ! !(その2)

そして退院後その不安を払ってくれたのは、カミさんの母に対する態度だった。
母に食事を促す、母に箸を持たせる、口の回りを拭うように促す、それらひとつひとつの行為が、まるで自分の赤ちゃんに対するように優しい言葉と笑顔で、食事の支度や食事中の会話など全てにその心遣いが伝わってくる母への応対に、あ、これは自分たちの子供が一人増えたのと同じなのだと感じさせられた。赤ちゃんがひとり増えただけのことだと思うと、介護の不安が嘘のように消え去ったのである。
ベッドから起こす。ベッドから床に立ち上げる。食卓まで体を支えて移動する。食卓に座らせ箸を持たせて食事を促す。食後は口の回りを拭うよう促す。そして食事が終わったらしばらく一緒にテレビを観ながら過ごし、疲れたと言えば食卓から起こし上げてベッドまで体を支えて移動して寝かせる。これら一連の介助作業のひとつひとつに優しい言葉をかけ続けるカミさんをみていてとても嬉しく思った。その優しい応対に加えて、介助し始めたばかりなので完璧とはいかないまでも、寝る、起きる、食べる、排泄する、それらひとつひとつの介助に対しても、女性ならではの心配りが多く感じられてとても頼もしく感じたとき、それまで感じていた介護への不安は払拭されたのである。
そして何より嬉しく感じたのは、人間は産まれて死ぬまでずっと成長し続けていくものだということ。
いままでは、人生40年くらいから下り坂で、あとはただ死に向かって急勾配の坂を転げ落ちていくものだと感じていた。しかし、年老いた母を介護するカミさんの姿を見ているうちに、死に向かい成長していく母をみたのである。人間は老後を迎えて衰えていくのではなく、産まれた時から死に向かってずっと成長し続けていくものなのだと思いなおしたら、なんだか嬉しくなってきた。
そう思うと、今まで母の姿に自分の今後を重ね合わせて、暗い気持ちになっていた老後に対する不安がずいぶん楽になってしまった。

そんなもろもろの喜びに浸っていたときに、ずっと前にみた映画を思い出した。
そのタイトルが、イタリア映画「Life is beautiful」である。
人間、いや生けとし生けるもの、産まれた時から死に向かっていくことに違いはないが、生をバトンタッチしていくと思えば死もまた愉しい。
釈尊は生老病死の四苦を説く。生きることそのものが苦しみだと説く。
その教えをなるほどと思ったさらにその上で人は生き、生を引き継いでいく、その行為こそがその映画のテーマであった「Life is beautiful」なのだ。

母は退院後、その持ち前のファイトで、自力でベッドから立ち上がりトイレにいくことが出来るまでに回復した。もちろんそうなったらそうなったで、今度は転倒の恐怖があるにはあるのだが、力を振り絞り自力で立ち上がろうとする母をみながら、なんだかとてももの哀しいよろこびを感じる毎日である。

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2011-01-27 僕の生きた証

ふとしたことから死を身近に考える日々。

僕が死んだら、カミさんや息子に何が残せるんだろうと考えた。
恐らく僕が好きで写真を撮っていたというのは知っているだろうけど
どんな写真を撮り続けたのか、何を考えてシャッターを切っていたのかまでは
伝わらないだろう。

この数年、個展や合同作品展を重ねているけどその作品も展示会が終わってしまえばただ積み重ねているだけ。どうにかしないといけないと考えていたときにマイミクのまっちゃんのフォトブックを見せてもらい、心にずしんと響いた。
とりあえず、これまでの個展に出展した作品をそれぞれフォトブックにまとめようと思う。まずは最初の「My Life」そして「My Life 2010」それから昨年9月に参加させていただいた合同作品展出展の「Tokyo」。それらをフォトブックにまとめようと考えている。フォトブックにして家の本棚にでも置いておけば、僕に何があっても僕の代表作品はしっかりした形で残るような気がする。

というところでフォトブックの準備中。

出来上がったらぜひ見てやってください。

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2011-01-06 あかふじ第三回作品展のご案内。

今年で三回目になる個展を開催させていただきます。
去年はあちらこちらから声をお掛けいただき、4回もの作品展に参加させていただきました。
一昨年から毎年一度は個展を開催させていただくよう、頑張って活動してまいりましたが、皆様の暖かい応援をいただき、今年も開催の運びになりました。篤く御礼申し上げます。

去年は思わぬご縁をいただいたおかげで、東京、熊本でのスナップも体験させていただきとても嬉しく思っています。その成果を一堂に集めて「東京・熊本・そして福岡」で撮り集めた中から選んだ30点ほどの作品を展示させていただく予定にしております。


○ あかふじ第三回個展「My Life 2011」
○ 会場  アートエリアasipara  電話090-2587-4076
      福岡市中央区今泉2-4-30 拓栄ビル2F (今泉交差点角ローソンの2階です)
○ 会期  2011年2月18日(金)〜2月27日(日) 12時〜20時
      店休日 2月23日(水) 最終日は18時まで

アートエリア・アジパラさんのサイト
http://www.asi-para.com/artstation/artstation.html


ご多忙の折とは存じますが、なにとぞお一人でも多くの皆様においでいただきますようお願いいたします。

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2011-01-02 謹賀新年。

あけましておめでとうございます。

自宅でのんびりまったりなお正月を過ごしています。
去年は期せずして4回の作品展の機会をいただいたのがとてもありがたく、色んな意味で新境地に進むことが出来た一年でした。それと同時に自分の写真についてあれこれ意味なく考えさせられた一年でもありました。
昨日はそんな一年を振り返りながら、書初めを「実修実証」としました。

京都市醍醐にある真言宗醍醐寺のご開山である理源大師は、承和14年(847年)剃髪得度し、真言宗の開祖弘法大師空海の実弟である真雅僧正について真言の奥義を学んだ後、三論宗、法相宗、華厳宗、律宗をそれぞれの師に学び修めました。当代随一の学問を修めたにも関わらず、理源大師は何より実践を尊び、山深く分け入って、修験道の祖と仰がれる役行者(えんのぎょうじゃ)神変(じんべん)大菩薩修験道の行道を顕彰してその修験道を再興さえるにいたりました。その理源大師が示した仏教の真髄が「実修実証」です。「自らが修め、現実社会に証していく」。

まあ平たく言えばあれこれ理屈をいうより自分自身がしっかりその道を修めていけということでしょうか。
その言葉を繰り返し唱えているうちに、そうだそうだ、ぐだぐだ言うより黙々と写真を撮っていけばいいのだ!と自分に言い聞かせながら書初めをしたのでありました。

そおいうわけで、相変わらず変わり映えしない写真を今年も撮り続けていこうと思っています。
毎年の撮り初めは元旦に毎年撮っている家族写真。
相変わらず変わりようのない日々ながら、今年もみんな元気で正月を迎えられたよろこびをひしひしと感じております。

今年も一年、よろしくお付き合いいただきますよう、臥してお願い申し上げます。

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2010-12-30 撮り納め。歳納め。

巷は歳納め行事の真っ只中。
僕もそれにならって今年一年を振り返ってみたら、めっきりポートレートを撮る機会の少ない一年だった。
年半ばくらいから、いっそこのままスナップにシフトしていこうかとほとんど決めていたけど、先日のポートレート撮影の際に思わぬピント抜けが一カットあり、かなりショックを受けた。やっぱり写真というものはちょっと撮らないでいるとカンが鈍ってしまうような気がする。D300とかD7000ならAFのせいも考えられるけど、D3でのアクシデントだったので考えさせられて、その反省を生かしポートレートのカンを取り戻そうと、それ以降今日まで3回のポートレート撮影をさせていただいている。その撮影と処理に追われて今年最後のイベントの仕上げが遅れてしまい、先ほどやっと公開にこぎつけた。
来年に向けて勢いをつけようと思って、一昨日、昨日と続けてスタジオを使ってのポートレート撮影を行った。がむしゃら撮影ながら、それなりの手ごたえを感じており、どうやら来年の活動に繋げられそうな気がしているところである。

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2010-12-20 眼に見えるもの見えぬもの

最近スナップを撮って帰って、自分の撮った写真をじっと眺めていると何か違うものが見えてくるような気がする。それはきっと思い込み、あるいは錯覚なのかも知れないけど、撮ってきた画像のコントラストを極端に破綻させてノイズを加えると、それこそが自分が撮りたかったもののような気がしてくる。
もともとモノクロプリントは美しくなければならない、トーンがきちんと出ていなければならないという主義であるが、最近何だか心境に変化が出てきたのか或いは写真を撮るものとして末期症状なのか自分でもちょっと不安である。

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2010-11-25 鬼が笑う話

来年の話をすると鬼が笑うというけど、来春発売予定でちょっと前から話に聞いているフジの新製品が気になる。
D7000を買ったばかりで(しかも10回分割で)、何言ってんだという話ですが、撮る気マンマンで出かけるときはさておき、撮る予定はないけどカメラを持って出ないと寂しいというような中途半端な気分のときのお供はやっぱりコンパクトデジカメが最適なのだが、GR3の高感度もともかく、持っているGX200の高感度が使えないという話は東京スナップで身にしみて感じているので何かないかと思っていたら、欲しくなるコンパクトデジカメがいよいよ発売されるようです。その名も「FinePix X100」。詳細は下記から見ていただければよいのですが、何と言ってもそのデザインが嬉しい。FUJI FILMというダサい(失礼)ロゴが前面に入ってないのがいい。

http://openers.jp/interior_exterior/new_products/finepixx100.html

http://finepix.com/x100/jp/top.html
↑動画の右にある「ZOOM」ボタンを押すと大きい動画を見ることができます。

詳細はまだ分からないけど昔の真鍮製カメラを髣髴させるそのデザインがいい。APS-Cサイズの画像素子というのがまたいい。35mmフィルム換算で35mm、しかも開放f2というレンズがさらにいい。レンズが最近主流の沈胴式ではないというのが故障の心配が少なくてさらにさらにいい。ただ気になるのはやっぱり画像素子。フジのお家芸のハニカムCCDではないようなのが残念なところ。開発者いわく、電源offの状態でも設定が見えるように極力ダイヤル化したというのが嬉しいじゃありませんか。もちろんデジタルだから電池無しで「写ルンです」とはいかないだろうが、なにはともあれレトロなデザインといまどき珍しい「取説なしで使えるカメラ」的な開発者の意図が感じられて、デジタルでありながらアナログチックな予感がする。
写真は写さなくてもいいから、とりあえず首から提げて街を歩きたい。そんな気にさせるカメラです。

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