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あかふじの独り言

退屈しのぎに日々の思いを綴ります。退屈している人は暇つぶしにのぞいてみてね。
「つっこみ」は削除・訂正できませんので要注意です。

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2005-04-12 つまらないネタですみません。
2005-04-11 今日は入学式。
2005-04-11 少し落ち着き模様・・かな?
2005-04-09 初夏のようなお天気
2005-03-30 諸方面の皆様、昨今の失礼をお詫びいたします。
2005-03-28 嬉しいため息ひとりごと。
2005-03-26 M氏からのメール。その1(下の書き込みに続く)
2005-03-26 M氏からのメール。(その2)
2005-03-24 写真はブラック アンド ホワイト。
2005-03-23 酔っ払いの独り言。


2005-04-12 つまらないネタですみません。

最近面白い番組がないため、ほとんどテレビを見ることがない日々を送っているが、平均的日常として、毎朝朝食を食べながら国営放送の朝ドラマを見ることが日課となっている。
この4月から始まった新しいドラマだが、高校生の日常などが描かれており、その内容に胸がキュンと傷むことが結構多い。新入学で始まった学校生活の中で、何となく抵抗を感じながらも皆に合わせていかなければ行動しにくいといった内容のことが描かれたりしているのだけど、その辺りに一喜一憂しながら、時には涙ぐみながら主人公と主人公一家の言動を見つめている。
そういえば昔、僕もそういうことがあったよなあ・・などと思わずうなずいてしまうような場面があったりして思わぬところで青春時代を思い出させてくれる。
以前のドラマが、全く心配せずに安心してみていられる内容だったので、開始早々色んな問題が続出する今回のドラマは朝からだとちょっと心に重い。
じゃあ見なければいいのだけど、他に朝食を食べながら見るにふさわしい番組もないし、それより何より朝ドラを見ながら朝食を食べることがいつの間にか習慣となった僕には、朝食を食べながら見るべき番組が他に見当たらない。

ただ習慣的に見ているだけの見なくてもいいテレビ番組を見ないで済むように、テレビの基本設定などで、いっそNHKが映らないようには出来ないものか。それができれば、不満を抱きながらも払い続けている受信料を堂々と不払い宣言できるんだけどね。

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2005-04-11 今日は入学式。

いつも感じていること。
スーパーとかのちょっと大き目の駐車場には必ずといっていいほど身障者用の駐車スペースが設けてあるのだが、そこにおおよそ身障者とは思えない車が停めてあるのをよく見かける。車種で人を計るわけではなく、身障者手帳を持ってある方の車にはそれなりのステッカーが貼ってあるはずだし、そういう車しかそこには停めるべきではないはず。
もちろん、身障者認定には色んな問題もあろうし、全てステッカーが貼ってあるわけでもないのだろうが、明らかに対象外の車が堂々と、いやぬけぬけと停めてあるのを目にする度苛立ちを覚える。
今日、仕事で行った東区多々良にある某ショッピングモールの大駐車場の中のスーパーの入り口に一番近いスペースが、やはり身障者向けの駐車スペースにしてあって、僕が今いうような対象外の車を停めないようにという配慮であろう、例の車椅子のシンボルマークが描かれた縦1m横70cmくらいの大きな看板を立ててあるスペースに堂々と停めてある車を見た。車には60代後半と見受けられるいわゆる分別をわきまえた(はずの)恒例の男性が、買い物をしている奥さんであろうと思われる方を待っている風情で乗っていた。
仕事を終えて、その車が果たして対象車であるのか、或いは僕が思う通りの非常識者であるのかを確認したくてしばし待ってみた。
待つこと5分。
いたって健脚そうな50代後半〜60代前半と見受けられる婦人が、買い物を終えてその車に乗り込んでいた。
身障者認定が受けられずとも足腰が弱い人は確かにいるし、そういう足腰の弱い方が身障者スペースに停めることもあるだろう。それは理解できるのだが、重い買い物袋を両手に提げてスーパーから出てくることが出来る人間はそれにあたらない。
なぜそういうことを平気で出来るのかが僕には理解できない。
十分大人であるはずの60代の人間が守れない社会的モラルを自分の子供には押し付けられまい。そんな人間は、自分の子供に対してどういう躾をしているのだろう。
常から子供の躾、教育は親の責任だと思っている。
百歩譲って教育は学校に押し付けることが出来るかもしれないが、躾は親の責任に間違いないはずだ。
大きく身障者スペースと書かれた看板をぬけぬけと無視できるそんな親が家で子供に対してどういう躾を行っているのか見てみたい。
いや、見たくもないけどね。

そんな不愉快な光景を見たのと同じそのスーパーで見かけた婦人警官。
パトバイクに乗って町内パトロールをしていると思しき二人組みのその婦警さんは、年頃がどう見ても女子高校生という感じ。
恐らく新卒か何かで新しく配属されたか、或いは教育実習(?)なのだろうその初々しさが、折からの新一年生の、入学式を終えてお父さんお母さんと笑顔で帰宅する姿と重なり、持って行き所のない苛立ちはたちまち解消されたのが嬉しかった。
世のおっさんおばさん(僕も含めてだけど)に言いたい。
残り少ない人生、せめて新一年生に恥じない余生を送って下さいな。

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2005-04-11 少し落ち着き模様・・かな?

昨日は昼まで仕事した後、変身願望イベントの撮影を楽しむ。
昼過ぎに会場に入ったら、折悪しく雨が降り出していたため外で撮れない皆さんが会場に溢れており、とても撮影できるような状況ではなかったので、カメラを出すこともなくしばし会場の様子を見つつあいさつ回りという状態だった。このまま撮影せず帰ることになるかも知れんぞ、いかんいかん、と思いながら時間をつぶしているうちに何とか雨も上がり、どうにか撮る事ができたので一安心。
先日撮影させて頂いた写真がチラシに使われていて、主催の方から「好評です。」という言葉を頂けたのが嬉しかった。
やはり、自分の写真が印刷物に使われると言うのはかなり嬉しいものです。

よせばいいのに今月もあれこれと予定を入れていて、山積した宿題を片付けていかないとどうにもならなくなりそうなので、いよいよ今週から取り掛かろうと思っています。
個人的にずうううっっとお待たせしている皆様、いましばらくお待ち下さいませ。

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2005-04-09 初夏のようなお天気

いやあ、今日は暑かったですね。
今年初めてです。夜までずっとクーラーをかけて運転したのは。
今日は最近月一恒例となっている鹿児島行きだったんだけど、昼間は汗ばむほど。
ほんとにいい天気でしたね。
沢山の宿題を残したまま早や2ヶ月経ってしまいました。
4月からはテキパキやっていこうと心に決めたのに、その4月ももう9日。
今日は帰宅が遅くなってしまったし、明日は朝から仕事と撮影でまたまた宿題が溜まりそうな予感です。
金を貯めるのは全くダメなのに仕事を溜めるのは得意という性格がいかんですね。
いかん、いかんと思いながら齢52歳になってしまった自分が情けない。
とりあえず今夜はもう寝ます(それがいかんのですが・・)
明日もいい日でありますように。

サカイさん、見てるぅ?!(^^)v

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2005-03-30 諸方面の皆様、昨今の失礼をお詫びいたします。

本当に時間が取れません。
色んな方からご連絡やら沢山頂いているのに、今まで即レスしていた僕にとってとても心苦しいことなのですが、ゆっくりレスを返す時間がありません。
明日も早朝から仕事が入っているし、今夜撮ってきたホテルの室内外のレタッチもする時間もなくそのまま生データをお渡しすることになっているのですが、その取捨選択する時間すらありません。
いえ、単なる言い訳なんですけど、こんな自分がとてももどかしく苛立ちさえ覚えます。

そういうわけで、いろんな方から嬉しいお便りなど頂いているのにお返事が遅れている実情をお知らせしたく、今夜は言い訳三昧の書き込みでした。

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2005-03-28 嬉しいため息ひとりごと。

忙しくて腰が危険信号を発しています。
土曜日、そして昨日と何とかしのぎつつ仕事をやったけど、ちょっとヤバそうなので今日はマッサージをお願いしてきました。マッサージより運動するとか、それが無理ならせめて朝晩ストレッチをやるとか、自分で何とかしろよっって話なんですけどね。分かっちゃいるけど止められないというか分かっちゃいるけどやりたくない(やるのが面倒←相当横着もん)という不精もんです。

カラダは日々老朽化していきますが、写真の方は微妙に新境地、というか新たな局面を(望むと望まざるとにかかわらず)迎えているようで、近日、僕にはまったく似合わない合同撮影会を企画実行するハメになるし、明日は建物の夜景外観撮影と室内の撮影を依頼されるしということで、微妙に仕事をやらされています。
このところ、アブナイ腰痛と仕事が過密スケジュールなので、断ろうかとも思ったけど、ここでそれなりの成果を挙げることができれば、自分の自信にもつながるし、何か目に見えない力になるような気がして引き受けました。
本当は明日の午後くらいは家でゆっくりのんびりした気分でパソに向かって、たまりにたまっているレタッチ作業をやりたかったんだけど・・・。

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2005-03-26 M氏からのメール。その1(下の書き込みに続く)

お付き合いが30年近くになるという某カメラ店店長のM氏から嬉しいメールを頂いた。
内容は、僕の日記を読んでのレスで、文章の中に、「30年近く昔に見たセーヌ川のほとりの風景写真の中に写っている街灯の色が、自分の心象的に「赤」だったに違いない。」というものだった。続けて「黒白写真には、そういう見る者に想像(創造)する余地を与えてくれる魅力がある。」とあった。
氏にとってはその街灯の「赤い色」が、ことさら美しい色に見えたに違いない。

そのメールがとても嬉しくて、氏に宛てたメールを今日の独り言として、ここにそのまま掲載させていただく。
(以下M氏に宛てた返信メールです。)←その2に続く

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2005-03-26 M氏からのメール。(その2)

こんばんは、あかふじ(ひらがなです:笑)こと溝口です。

書き込みと直接メールを頂き、ありがとうございました。
ネット上の作業と言うのは一人ぽっちの世界であり、作った写真に対する批評、感想などを
いただけないので、一方通行のようでとても寂しい思いをすることがよくあります。
D1Xを買って4年近くになりますが、面と向かって会えた方から、最近やっと、あかふじさんの写真が
好きです、という嬉しいコメントをいただけるようになりました。でもまだ、批評というには程遠く、
耳に嬉しい褒め言葉ではあっても、自分の写真を向上させてくれる言葉をいただけないというのが実情です。
そんな中で、昔から写真をやっておられる方の一言というのはとても有難く嬉しいものです。

フィルムから遠ざかり、今はデジタルオンリーの作業をやっていますが、「写真=真の姿を写す」
という意味あいからいうとデジタルで撮られた写真を「写真と呼んでいいのだろうか」という想いは
常にあります。
写真=黒白=撮影からフィニッシュまで自分の手でやる、という想いは今も変わっていませんし
実際に自分でフィニッシュまで一貫して行っています。
ただ、デジタルでやっていて、昔のように、定着液の匂いがカラダにしみこむような暗室で、自分で焼いた
黒白プリントの出来に涙するという感激はいまだ得られていないように思えてなりません。

親しいカメラ仲間にいつも言っていることですが、「僕はもうフィルムで撮ることは恐らく一生ないだろう。」と
いう言葉が、今日Mさんから頂いたメールで微妙に揺らいでいます。
もう一度フィルムで撮りたい、という想いが心のどこかに芽生えたような気がします。
ただ、デジタル(明室)での作業に甘えきっている僕にとっては、昔のようにフィニッシュまで一貫して暗室で
行うということは、恐らくないような気がします。

ああ、黒白で撮りたい。撮るならライカ?いや、それは経済的に無理でしょう。
デジタルがメインだということに変わりはないので、デジタル一眼も買い換えていかねばならないし、
両方を一級品でそろえると言うのは貧乏カメラ道楽人にとってはとても出来ない相談です。
カメラはベッサあたりの中古を掘り出し、レンズは最近発売されたツァイスのMレンズでまかなうという
手もありかも知れませんね。

でも先ほど言ったように暗室作業は無理です。
となると、フィルム現像までアナログでやって、後はフィルムスキャナで取り込み、フィニッシュは
デジタルに任せる、というのもアリかな?などと考えています。
これなら、ツァイスの描写やフィルムの粒子までなんとか表現できるのではないでしょうか?

となると、ベッサの中古ボディとツァイスの新品レンズ(まずは35mm一本)を買い求め、同時にNikonの
高級フィルムスキャナを買い求め・・・
あああ、D2Xも買わないといけないのにどうすればいいんだ・・・・
まずはロト6でも買いに行きましょうか。(笑)

また店に顔を出させて頂きます。

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2005-03-24 写真はブラック アンド ホワイト。

今日も相変わらず先日買ったカメラ雑誌をみている。
佐藤秀明さんの「路地」とタイトルされた写真が美しい。じんとくるな、と思いながら最後の解説をみると写真集からの抜粋とある。
忘れられた日本の生活美というようなものを感じさせられた。きっちりと切り取られた構図を綺麗な色で写してある。次にある中国先鋒撮影と名づけられた一連の写真はそのタイトルから想像できるように中国の新鋭写真家達の写真である。
日本の写真学校の生徒さん達の習作を見せられているようで、何だか微妙な感じを受ける。

深く魅入ったのはいづれも黒白で撮られた写真であった。
まず、宇井眞紀子さんの「イヤイライケレ」。語感から感じられる通り、アイヌの方を取材した写真である。写真の中心となる人物であるアシリ・レラさんは言う。
「大地のものは、命ある全てのもののためにある。人間だけのもの、国のものはない。」という言葉が写真を際立たせる。アイヌの生活には祈りや感謝が常にある、という言葉にも深い感銘を受けた。人類全てがいつもこういう静かな生活を送っていられたら、きっと戦争なんて起こらないのだろうな、と思わせられた。
 次にみた「老いの風景」という写真には思わず「ううむ・・・」と声にならない声で唸らせられた。撮影は山本宗輔さん。
島で生きる静かな老人達の生活を淡々と撮っているのだが、最後のページにあった、神式の死に装束姿となった老人の姿に息を呑んだ。神々しいという言葉がぴったり当てはまるようなその死者の表情を美しいと感じた。これがカラーだったら生々しい悲しみとか死に対する恐れとかが先立ったかも知れない。
改めて黒白写真の持つ力の大きさを感じると同時に、今自分が撮る事ができないもどかしさを少し感じさせられた。

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モノコロームの世界。本当に印象的な世界ですよネ。黒白なのに / れいチャン ( 2005-03-26 00:32 )

2005-03-23 酔っ払いの独り言。

この記事画面は夜になると極端に重くなるので、出来るだけ回線が空いている夕方早めの時間帯に書くようにしている。
そういった理由から、食事前に日記を書き、晩酌を済ませて久しぶりにのんびりとした気分で、昨日買ってきたカメラ雑誌を見ていた。昨日パラパラっとみていたので、今日は少しじっくりと記事なども読み進んでいったのだけど、いつも読む写真評論家・赤城耕一さんの「ワタクシ的名機」の冒頭に僕の大好きな森山大道さんと荒木経惟さんが最近発表した「森山 新宿 荒木」という写真展のことが書いてあった。
嬉しくて読み進んでいくと、かつて20年ほど活動休止した森山さんが活動再開したときに使用したカメラがペンタックスSVというカメラであった。というところから始まり、このカメラの素晴らしさを紹介していくというものであった。
僕も今のNikonを使う前はペンタックスを使っていた。
もっとも、SVではなくSVにTTL露出計を組み込んだペンタックスSPというカメラであったが、その優しい描写と持ち歩くのに疲れないコンパクト性が好きだった。小型の普及期でありながら、昔のカメラは当然真ちゅう製であり、精密機械だということをボディ全体で主張しているような雰囲気がいい。

記事の中に記された一節が、一旦置いたグラスに再び酒を注いだくらい妙に嬉しかったので、ここに転載させていただく。興味ない人はスルーして下さい。

「森山さんは淡々とリコーGR21で撮影してゆくというスタイル。荒木さんはプラウベルマキナでアグレッシブに撮りまくるという、お馴染みの光景で、見ていて楽しいが、私が気になっているのは両機ともすでに製造中止になっていることだ。
ふたりが今後使うカメラは何か?ということに興味を持つのは不真面目なのかもしれないが、つまらないメカニズムの薀蓄から最も遠いところにいる写真家が使用するカメラの背景には、思想が必ず潜んでいると信じている私は、少なからず興味をそそられるのである。」

そしてこのコーナーは次のような言葉で締めくくられていた。

「シャープさと優しさを併せ持ったようなSVに触れていると、よりモノを見つめてゆく行為を再確認したくなるのである。」

僕が使っているNikon D1Xを始めとして、現在メーカーが作り出しているカメラの中でこういう気にさせてくれるカメラが果たしてあるだろうか、としみじみ思ってしまった。ごく最近Nikonがデジタル全盛の世に送り出したフィルム一眼レフのフラッグシップ機であるF6が真ちゅう製であったならばあるいはその一つになれたかも知れないと思うのは僕だけだろうか。

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