ここで猿鬼伝説を整理しよう。猿鬼は元々は大西山に棲んでいた。その姿は、人間でもなく猿でもなく鬼でもない事から「猿鬼」と呼ばれていた。そして、猿鬼は部下の猿を率い田畑を荒らすなど悪事を働いた。そこで大西山近隣の住民が、太鼓を打ち鳴らし、大声・奇声をあげて猿鬼を追い出した。この時、猿鬼はほとほとまいったらしく
「ほとほとと行くや当目の岩屋堂へ、二度と帰らぬ釜ん谷」
と歌を刻んで逃走したという。
その後、猿鬼一派は、柳田村に本拠をはる。だが相変わらず近隣で悪事を働いたので、出雲で神々の会議が行われ、気多大社を大将、大幡神杉姫を副将にして神軍が結成された。神軍は柳田村まで進軍し、現在で言うと「駒寄」という場所に馬をつないだ。一方 猿鬼は今がチャンスとばかり、配下の猿を使い迎撃した。不意をつかれた神軍は撤退を余儀なくされ、「神和住(かみわすみ)」と今も呼ばれる場所まで逃げのびた。、
ここで思わぬ問題が浮上する。猿鬼に弓矢効かないのである。実は猿鬼たちは柳田村に移住した後、全身をうるしに塗り固める事を覚え、弓矢を跳ね返す体をつくりあげていたのだ。
(いったい、どうすべきなのだ)
神軍が後退した場所で神杉姫が猿鬼の撃退を考えていると、突如お告げがおりた。
「猿鬼を倒すには、筒矢で射よ」
とお告げであった。筒矢とは筒の中に矢が入ったものである。これで射ると貫通する可能性が高くなるらしい。ちなみにお告げの降りたこの浜を「歌波の浜」という。早速、神杉姫は筒矢をつくり、弓の先には毒を塗った。この毒を塗った場所が「千毒」(現在は千徳)となったのである。
そして、再び両軍が交戦した。まず猿鬼が不意打ちで、気多大明神に襲いかかった。
(危うし、気多大明神!!)
だが、その刹那 神杉姫の放った矢が猿鬼の左目に刺さった。
「ぎゃーっ」
猿鬼の絶叫がこだました。今度は筒矢で、しかも毒が塗ってある。
見事、弓矢は猿鬼に突き刺さり、毒で苦しみながら猿鬼は退却した。
千毒川を渡り、野原へ猿鬼は逃走。途中、その左目から黒い血が流れ出た事から「黒川」という地名が生まれた。(異説では神杉姫の刀で斬られた猿鬼の傷から出た血が黒く川を染めたからとも言われている)
また猿鬼が薬草の車前草(おおばこ)で目の傷の手当てをした場所が「大箱」という地名になったと言われている。結局、逃げまくった猿鬼だったが、最後は追いつめられ、首をはねられてしまった。そして、その首を埋めたところが現在の「鬼塚」となったのだ。その後、村人たちは、猿鬼をあわれと思い、その霊を奉ったのが岩井戸神社(猿鬼の宮)である。 |