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泉木修の「百物語」

 
あなたは鳥のように這い、蛾のようにしたたる。
魚のようにまぐわい、兎のようにひりひりと裏返る。

まぶたを縫ってあげよう。
耳もホチキスでとめよう。
眠れぬ夜のために。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-09-05 第四十一夜。 「コレクター その一」
2000-09-04 第四十夜。 「静 謐」
2000-09-03 第三十九夜。 「怨 嗟」
2000-09-02 第三十八夜。 「ペーネロペー!」
2000-09-01 第三十七夜。 「地獄変 その一」
2000-08-31 第三十六夜。 「重 力」
2000-08-30 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (4/4回)
2000-08-30 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (3/4回)
2000-08-30 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (2/4回)
2000-08-29 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (1/4回)


2000-09-05 第四十一夜。 「コレクター その一」

 
 夫である私の、そして本人の意識にすらそぐわないことに、私の妻はかつて都会で暮らしたころ、その美貌で広く知られる立場にあった。
 すなわち、演技力よりはキネマのスクリーン中央やや右寄りで静かに微笑んでいることに評価が集まるような女優、その一人として。
 秀でた額、揺れる蒼い瞳、かすかに約束をほのめかす唇。もっとも、その都会の片隅で十何年ぶりかに再会した彼女は、私にはあの頃のままの小さなサミーであり、私たちはその日からごくありきたりな恋に落ち、ありきたりなキスを交わし、郷里のガーデンでは凡庸な宴が催され、白いテーブルクロスが風に揺れた。

 おだやかな数年ののち、ある日、私は地元の名士の集う小さなパーティに招かれる。その日、妻を同伴しさえしなければ。後悔の幾千万の針が、今も私の胸を刺す。
 名前だけ耳にしたことのある、黒い長い衣服、何か妙に背の低い、鳥のように口の尖った男が私たちの前に現れた。彼は舐めるように妻を見つめ、若いころの妻の仕事の一々を誉め、今も変わらぬ美貌を称え、それからひょいと爪先立って左手の薬指で宙に長方形を描き、それから右手でその空間をぺりぺりと引き剥がした。あたかも、彼の視野にかたどられた妻の肖像を切り取るように。

 妻はそれからの数年間を白い抜き絵として暮らし、ある朝、悲鳴も上げないまま、上半身を黒焦げにして死んだ。
 あの男が、妻の肖像に飽きて燃やしたのだろう。
 

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2000-09-04 第四十夜。 「静 謐」

 
 その気になれば歴史のあちらこちらに彼の痕跡を認めることができる。

 彼は長ずるに百年を要し、老いるためにはさらに千年を要した。

 人並みに食べ、歩き、あるときは愛し、やがては疎まれた。ときおり若い女を殺すことはあったが、癒されることはなかった。

 彼の墓は残っていない。千年を生きようとも、何事もなさず、何物にも巡り合えなかった男の墓など、誰も振り向きはしないものだ。
 

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2000-09-03 第三十九夜。 「怨 嗟」

 
 梅雨明けやらぬ空は低く、田舎駅でも夕暮れ時はさすがに改札口が慌ただしい。右肘に違和感を覚え、ふといぶかしく思う。いくら混み合っているといって、定期、切符を持つ手が、前の者の半袖の手に触れるものか。
 すり、おきびきと言う言葉も脳裏をよぎるが、もとより取られて困るほどのものを持ち合わせているわけでもない。
 それはほんの一瞬で、駅から十数分の新興住宅街、土産物の紙袋をキッチンのテーブルに投げ置き、居間に踏み入りながらネクタイを外す。キッチンから妻の高い悲鳴が聞こえた。

「蛇が」
 

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2000-09-02 第三十八夜。 「ペーネロペー!」

 
 中央の帆柱に括り付けられた老人は、ときどき思い出したように頭(こうべ)を振り、力なく声を上げた。
 おい。セイレーンの危機はもうとうに過ぎ去ったのだ。安心してわしをここから放してくれ。
 しかし、耳に蜜蝋を詰めた漕ぎ手たちは、どんなに叫んでも、どんなに暴れても、決して綱を解くなという主人の命を固く守り、黙々と櫓を漕ぎ続けた。
 

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2000-09-01 第三十七夜。 「地獄変 その一」

 
 南国のある地にて。

 いつの頃からか、しゃふしゃふと溶岩より吹きいずる蒸気が、人の顔のように見えると、近隣の者、口々に申す。
 朝まだき早い頃、北の権現より見下ろすに、子供や年寄りや男や女があたかもひしめき、苦悶するがごとし。恐れおののきてそれを指差し、騒ぐ者、後を絶たず。

 僧のなりしたる者、たまさか通りかかり、愚かしや、それは目の迷いなり、と断ず。人々がされど確かに、と説伏せんとするも、僧のなりしたり者いわく。この地にいずれあらわるる地獄は、そのような他愛なきものではないわ。人々これに驚き、さらに法を請わんとするも、僧の姿とうになく、ただびょうびょうたる斜面に蒸気吹き上ぐる風の音ばかり。
 

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2000-08-31 第三十六夜。 「重 力」

 
 まばゆさに目を上げれば、ケシに似た、三かかえほどの赤い花弁の上にいる。

 なぜ、いつからそこにいるのか、わからない。
 ただ、花弁の組み合わさったところ、茎の真上にあたる蘂(しべ)の束の中に座り、じいっとしていられればよいが、少しでもバランスが失われると、花弁ごと数十メートル下に倒れてしまいそうでひどく恐ろしい。

 目を遠方にやって気を散じようとしても虚しく、かすかな風にも細い茎は大きく揺れ、たわむ。生来、高いところには弱い性質(たち)なのだが、それが実はこうして高いところから落ちて死ぬ予感であったかとさえ思われ、心乱れ、大きな揺らぎが訪れれば、頭上に固い地が迫るような思いがする。それが繰り返されるうち、ついにはバランスを取るためにかたわらの妻の首を引き抜いて背に投げ、乳をむしり取って横に捨て、あげく自らの指を噛み切り、肘を抜き、足をもぎ、目をむしる。
 

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2000-08-30 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (4/4回)

 
「あっ、そこは」
 小さく悲鳴が上がる。彼のものが少し下に滑り降り、やがてぐいと内奥を突き上げた時、彼女は左の腕を宙に浮かせ、掌を握り、それから開いた。福山の指がその指にからむ。顔が左右に振られ、声にならない喘ぎがほとばしる。当人の意志と関わりなく、彼の動きに合わせて濡れ、まとわりつく襞の感触は、彼女が初めてでないこと、しかしどこか未開発なぎこちなさ、硬さを感じさせ、さらに彼を高ぶらせる。
 福山は、そのまま女の胸に手を巡らせ、彼女自身の手で乳房をもみしだかせるようにする。こらえ切れず、鳴咽のような声が女の口から漏れる。
(非道いことをしてやったほうが、彼女のためなんだ)
 わけもなく、そんな身勝手な思いが繰り返し湧いた。つながったまま背中から両手を回し、女の上体を強引に引き起こす。そして、ソファに腰を沈め、白い両の太股を膝の裏から支え、広げ、後ろから激しく突き上げた。切れ切れの悲鳴が飛び散る。その声は、彼女の日頃の地味で大人びた印象と噛み合わない、痩せぎすで淡い少女を思わせる。
 何かのはずみで束ねていた髪留めが解け、予想外に長い彼女の髪の毛が彼の肩から体を覆うようにばさりと垂れた。何千何万本という髪の穂先が彼の体中をさらさらと走り、刺し、その一本一本の刺激が血管を通して彼の頭に集まり、それは花火のように音を立てて炸裂した。

「どうも、僕が伺っていい話ではないような感じですね。若輩者にはちょっと刺激が強すぎます」
 福山の真意を測れず、祐介は息を詰めた。どうすれば笑い話にできるかと二、三考えたが、手に負いかねた。
「いや。この話にはまだ続きがある。気がついたら、佐原律子という女の姿はなかった(フルネームは後で分かった)。俺はなんだかほっとくと自分がどんどん本気でその女の方に落ち込んでいくような気がして、その夜は車で家に帰った」
「はあ」
「そうしたら、次の日の朝刊に、佐原律子といううちのOLの死体が富士の裾野で見つかったとあるじゃないか。不審な点もあるが、自殺らしい、と、そんな記事だった」
「え」
「今でも、実はよく分からない。後で分かったことだが、彼女の失恋の相手というのが、俺が主任になる前に、その机に座っていた男らしい。それにしても、朝刊に載るということは、少なくとも前日のうちに発見されているはずだ。すると、あれは、全部夢だったのか。それとも、日付については俺の勘違いで、佐原律子が死ぬ前に俺の前に現れたのか。あるいは……」
 福山は、最後まで言葉を継がず、飯をかき込んだ。

「……いや、凄い話ですね」
 福山の返事はない。祐介は弁当の折を傍らに寄せ、椅子を滑らせて自分のマシンのキーボードを叩く。社内メールが一通届いているというメッセージが四角い窓に表示されている。開いた。斜め読みして、祐介は声を荒げた。
「非道いなあ。誰のいたずらだろう。福山さん、人事報で、福山さんが出張先のホテルで心不全で倒れてそのまま亡くなった、なんて書かれてますよ。通夜は明日、喪主は奥さんの……」
 祐介は、どういう表情をしてよいのか途方に暮れながら振り向いた。しかし、そこに人の気配はなく、福山が口にしたはずの弁当の折詰は包みを解かれた気配もなく静かにそこに置かれている。祐介が随分前に注ぎ足した湯飲みの烏龍茶だけが、まるでたった今注がれたかのように湯気を立てている。

(「白い蜉蝣」了)

 

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2000-08-30 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (3/4回)

 
「お疲れのようですね」
 振り向くと、確か、佐原という中堅の女子社員である。いつも髪を後ろにまとめ、隅の席で電卓を叩いている。暗いとまではいわないまでも、どこか地味な印象で、同じ課にいながら福山は彼女のフルネームすら知らなかった。
「ああ、ありがとう」
 今夜残ったのは自分一人だと思っていたが……。彼の怪訝そうな表情を読んだのか、彼女は、白いブラウスの袖で口を隠すようにしながらすいと頭を下げた。
「あの、長い間お世話になりましたけど、私、今週一杯で退社することになりました。今日は、机の片づけとか」
「え、それは知らなかった。非道いな、部長も。ちゃんと言ってくれないんだから。そう、今週一杯。永久就職?」
 目の辺りになんともいえない曖昧な笑みを浮かべて、彼女は首を振った。
「それならいいんですけど……。その反対。お話しちゃっていいのかな。私、以前、割合最近まで、お付き合いしてた方がいたんですけど、その人が今度、同じ社内の他の人と結婚することになって。それで、ちょっと……」
 福山は、つかの間、結婚間もないという噂のある男子社員の顔を頭の中にいくつか並べ、それからそうした自分を微かに恥じた。彼女にとって、事はそういうスキャンダラスな楽しみとは別の次元にあるに違いない。
「そう、それは……」
 福山は中途半端に腰を浮かせたまま言葉を途切れさせた。彼を困惑させたことに、彼女は、喋ってしまったことで自らの悲運を追体験してしまったらしい。目頭が赤く染まり、口に押し当てたブラウスの袖が震えている。
「……すみません」
(こんなに、目の大きい娘だったか)
 決して女のあしらいに長けた方ではない。子供の頃から相手に泣かれると手も足も出なかった。このところなんとなくしっくりしない妻も含めて。
 自分の中で急速に膨れ上がる赤い思いを福山は持て余す。涙の溢れる目に必死に笑みを浮かべようとする彼女の震える肩にゆっくりと伸びる自らの手が、他人の手のように遠く見えた。
(いけない)
 意志に反して、彼の手はぐいとその肩を掴み、引き寄せる。胸に、脅えたように目を見開いて福山を見上げる小さな女の顔があった。ワイシャツに口紅が付くことをどこかで気にしている自分がいる。意識のどこかで、妻が冷たく顔を背けた。
(いけない)
 彼の机から程近いところにパーテーションを切って設えられた小さな応接室があった。そこへ倒れ込むように女を引き入れる。後ろ手にドアの鍵を掛ける冷静さは残っている。悲鳴を上げようとする菱形の唇を左手で塞ぐ。レイプ、セクシャルハラスメントといったカタカナの活字が脳裏に浮かぶ。
(だが。無茶苦茶にしてやることがこの娘への供養のような気がする)
 福山は、そこでなぜ「供養」という言葉が出てきたのか、自分でも気がつかなかった。右手が女の肩から胸をまさぐる。抗って首を振る彼女のブラウスが割れて視野に広がった。強引にスカートの中に手を押し入れた時、突き放そうとする女の両の手の力が抜けた。

 入り際に灯かりを叩き消した応接室の窓にはブラインドが掛かっていたが、近隣のビールの看板のネオンが明滅し、女の肩が青く赤く照らされた。ソファの上ではつながることは難しい。福山が目で促すと、素裸の女は目を伏せてテーブルに手をつき、尻をかかげた。ドアノブの鍵が掛かっていることをもう一度横目に確認しながら、静かに彼は腰を沈めた。

(つづく)

 

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2000-08-30 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (2/4回)

 
「十一階に出る理由が何にしても、死んでからもう何百年も経っているだろうに、いまだに鎧姿で往生できないというのは、考えてみりゃあ、怖いより、酷というか、哀れな話だね」
「サラリーマンが幽霊になったら、やっぱり背広にネクタイ姿で現れるんでしょうかね」
「そりゃ、そうだろう。それも、今時の男だからな。恨みとか復讐のためじゃなくて、何か、やり残したちょっとした仕事が気になって、会社の自分の机の辺りにへろへろ出続けるんだな、これが」
「福山さんなら、夜な夜なファックスの前に現れて、海外からのメモリチップの底値の報告を待っている」
「いや、もっと馬鹿げたこと、例えばだな、残業弁当食べるのが実はそいつの人生最大の手応えで、もう一度食うまではどうしても成仏できないとか、経理に出し忘れたタクシー代の領収書が机の引き出しに溜まっていて、気になって気になって化けて出るとか」
「領収書を一枚、二枚……侘びしいですね、それは」
「番町サラリーマン屋敷、か。わははは。そういや、株の売買やってた、兜町の東京証券取引所か。あそこなんか、もしかしたら、ごった返して手を上げて指折ってるのを上から写真に撮って、一人ひとり素性調べていったら、実は何割かは幽霊だったりしてな」
「自分を過労死に追いやった銘柄を買い続ける幽霊。ちょっと壮絶ですね」
 笑いながら祐介は白身魚のフライに箸を入れる。サクリと割れる魚肉は話題の内実が重い分、白い色が際立つように思われる。
「壮絶、ねえ。……そうか。そういえば、俺は、以前、壮絶な幽霊に会ったのかもしれないんだな」
「え、鎧武者の?」
「いや、それとは別の話だ」
「やはり会社関係、ですか」
 祐介は軽く眉をひそめた。気のおけぬ仲とはいえ、先輩は先輩である。話題が微妙になると、応対に慎重にならざるを得ない。そんな祐介の心持ちを知ってか知らずか、福山は箸の先で梅干しを転がしながら、目線を右手のガラス窓に送る。正面の官庁ビルの窓灯かりが幾何学模様に並んでいる。
「資材部が一時、恵比寿の古いビルに移っていたことがあったろう。ちょうど大手新聞が十万円代の海外製パソコンを一面で紹介して、国内でも価格競争が始まりかけた頃だ。それまで自社内や国内の関連会社から調達していた部品を、海外、特に台湾やシンガポール経由で安く調達して、パソコンの定価を抜本的に見直そうということになった。安くすればそれ相応に品質が落ちるのは目に見えている。部品の問題だけじゃなく、出荷時のチェックに人と金をかけられるかどうかも大きいんだが、ともかく社の方針がどっちに転ぶか、資材部全体がぴりぴりしていた」
 祐介は急須から福山の湯飲みに烏龍茶を注ぎ足した。以下、福山の話。

 主任になったばかりの福山は、張り切る気持ちと、体の芯に澱のように溜り続ける疲れとの間で体が揺れるような思いに捕われていた。週の頭に台湾から帰って以来、まだ神奈川の自宅にも帰っていない。とりあえず妻に電話は入れたが、回り続けていないと倒れてしまう独楽にでもなったような気分だった。
 別に、徹夜を続けねば片付かない程の実務があるわけではない。社の方針も、会議会議でしばらくは定まらないだろう。いや、よしんば決まったとしても、それが二転三転して無闇に日数が過ぎていくのは分かっていた。
「要するに、俺は、『伏せ』を命じられた犬のようなものか」
 目を閉じて多少自虐的な言葉を頭の中で転がしていた時、人の気配がして、すっと左から白い手が伸び、湯気の立つ煎茶が散らかった机の書類の隙間に置かれた。

(つづく)

 

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2000-08-29 第三十五夜。 「白い蜉蝣(カゲロウ)」 (1/4回)

 
「蒸すねえ」
「蒸しますね。七時過ぎてますから、フロアの空調、止められてるんじゃないでしょうか」
 メタルフレームの眼鏡を外し、ハンカチで額をぬぐう福山。残業食の仕出し弁当の割り箸をくわえ折りながら、祐介は天井を仰いだ。
「こう暑くなってくると、時まさに怪談の季節、って感じだな。……そういやあ、このビルの十一階に幽霊が出るって話、聞いたことあるかい」
 その噂なら、祐介も給湯室の雲雀達から小耳に挟んだことがある。
「例の、鎧武者の幽霊ですか」
 福山は割り箸の袋の先を祐介に向けて振りながら、それそれ、と肯いた。
「そうらしい。直接見たというのじゃないが、年に一度か二度は、また出たという話がこの辺まで届いてくる」
「僕が聞いたところでは、エレベーターに乗ろうとしたら背中をドンと押されて、驚いて振り向くと鎧武者が立っていたとか、一人で仕事をしていて他に誰もいないはずなのに、ガラス窓に刀を振り仰いで走る影が映ったとか、そういう話ですが」
「はっきり実害があるわけじゃないから、かえって対処のしようがない。だいたい、なんで十一階なんだろうな」
 届いたばかりでまだ温かい弁当の蓋を開けながら、祐介も首を傾げた。
「確かに不思議ですね。もしこの辺りで戦があって、そこで死んで怨念が残ったというなら、十一階に限らず、他のフロアにも出ておかしくない」
「案外、鎌倉かどこか、小高い所で死んだ武士の魂で、東国の故郷に帰りたくて迷っていたのが、うちのビルが建ってひょいと引っ掛かり、離れるに離れられなくなったのかもしれんな」
「それは、なんだか可哀相ですね」

 ここは、都心に位置する大手家電メーカー、NF電産の二十四階建て本社ビルの一角。二十九歳の真田祐介は広報、総務を経て、パーソナルコンピュータ販売支援部に配属されて間がない。
 NF電産では、バブル経済崩壊期以来、経費節減のために、全社をあげて火曜、金曜を『ノー残業デー』と定めている。残業手当、光熱費を節約したい経営と、勤務時間を削減したい労組側双方の思惑が一致し、当初はこの二つの曜日には残業はおろか、六時を過ぎると社内に残ることさえ許されなかった。なにしろ、冷暖房はもちろん屋内の照明すら消されてしまうのである。
 しかし、残業できる曜日が減ったからといって、業務の絶対量が減るはずもない。まず近辺の喫茶店に仕事を持ち込む者が現れ、やがてタイムカードを退社にした上で社屋で業務を続ける風潮が広まり、最近ではなしくずしに「やむを得ない場合に限って残業も可」ということになってしまっている。
 今日はその火曜日。翌週明けにノートパソコンの新製品発表を控え、配布資料を担当する祐介は帰るに帰れない。一方、福山茂宗は、祐介より数年先輩にあたり、既に資材部課長代理の地位にある。祐介が総務に配属されて以来仕事の場で顔を合わすことが多く、直属の上司部下ではないものの漫然と親しい付き合いが続いている。今夜も同じ電話を掛けるのならと、祐介が福山の分まで弁当を手配したのだ。

(つづく)

 

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