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泉木修の「百物語」

 
あなたは鳥のように這い、蛾のようにしたたる。
魚のようにまぐわい、兎のようにひりひりと裏返る。

まぶたを縫ってあげよう。
耳もホチキスでとめよう。
眠れぬ夜のために。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-08-22 第二十七夜。 「虫めずり そのニ」
2000-08-21 第二十六夜。 「凪(なぎ)」
2000-08-21 第二十五夜。 「サニーサイドアップ」
2000-08-20 第二十四夜。 「トマト」
2000-08-19 第ニ十三夜。 「虫めずり その一」
2000-08-18 第二十ニ夜。 「時 計」
2000-08-17 第二十一夜。 「爪」
2000-08-16 第二十夜。 「刺 客」
2000-08-15 第十九夜。 「地下街」
2000-08-14 第十八夜。 「狐」


2000-08-22 第二十七夜。 「虫めずり そのニ」

 
 今は昔、風の強い晴れた日に、都大路をどんどんと太鼓のような大きな音を立てて走るものがあった。先の戦で無念な死に方をした侍が鬼となったものだとも、地上に落ちた雷神が雲の登り道を探して走るのだとも言われ、その音の聞こえる間は誰一人として門を開けようとしなかった。
 高山から訪れていた陶林人がこの音を耳にするなり、大路に出て腰を低くし、ふところから出した扇を広げて何かをすばやく掬い上げ、「これがあの音を立てるタツミバシリだ」と言って見せたが、集まった人々が顔を寄せる間もなくその扇は何かとてつもなく重いものを乗せたかのようにわきわきと折れてしまった。
 それからしばらくして、豪胆で近在に知られる五位の者が、陶林人の真似をしようとしたのであろうか、扇を手に音の響く大路に出てみたが、恐ろしいものなど何も見えなかったと言って戻ってきた。男はその夜から寝込み、やがて死んでしまった。鬼神はその姿を見たときだけでなく、見ることができないときにも恐ろしい目にあうものだ、とこう語り伝えられているということである。
 

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2000-08-21 第二十六夜。 「凪(なぎ)」

 
 風が止む。
 甘く湿った潮の匂いが鼻腔を満たす。
 上背のある妻の加也子が大きなフォルムで波を掻き分け、掻き分けするのを、私は嬉しく遠望する。

 夏の盛りを過ぎても、この南国では陽光は力を失わない。だが今はさすがに夕刻近く、バタフライの似合う日に焼けた背筋が海獣のように踊り、吼える波の色も淡い。
 余人の立ち寄らぬ、この外海に向いて荒れた岩場を加也子はことのほか好み、ときにはその豊かな肺活量を生かし、驚くほど長く水に潜り、滋養に満ちた魚介類を両手に戻ったりもする。

 やがて。
 ざばり、と加也子が思いもかけない近場に姿を現した。首を右に振って耳孔に入り込んだ水を切る。長い髪が乱れ、メデューサのように私を石に変える。身、動き、ならない私は、ようよう肺に空気を補充し、陸(おか)から加也子に声をかける。

「今日は、なかなか、よい、調子ですね。クラゲはいませんか」
「クラゲは大丈夫。だけどあの岩の陰で、こんなもの、見つけたわ」
 加也子はそう言って、水から引きずってきたらしいものを両腕で抱き上げ、私に見えるようにする。腐乱して膨張し、下半身のちぎれた老婆。
 激しい吐き気に襲われ、私はその水死体が身にまとっている旅館の浴衣らしきものをそれ以上目に捉えることができない。

「あの岩のね、向こうっ側。多分、西のとんがりから落ちたんだな。流されるかもしれないし、放っておくわけにはいかないから持ってきた」
「け、警察に、連絡、しなくてはね」
「そうだね。自分で飛び込んだんだか、誰かに突き落とされたのか。第一、どこの誰だかもわからないし」
 加也子はそう言うや、すでに人間の顔とは思われない、腐敗に溶け、魚や蟹どもについばまれた老婆の顔を覗き込む。
「ああ、加也子さん、あなたはどうして、どうして、そういうことが平気なのだろう。去年の夏の、あのときといい」
「そうか。普通の女はこんなときはきゃあきゃあと悲鳴を上げるんだな。でもまあ、いいじゃないか。こんなあたしだから、そんな、あんたと、結婚したのだし」

 くひひと唇のはしで笑う加也子の言葉が、尖った海胆(うに)の針のように私の心臓をぶすりぶすりと刺しては折れ、刺しては折れる。そう。それは全くその通り。加也子だから。加也子でなければ。この私のごとき。

 唐突に、夕凪の中で私は加也子の過剰な肉体を思う。今は黒く小さな水着がきつく締めつけている、ほの白い、私だけが知る固い下腹部の筋肉を、そしてそれが私の納められた瓶の上でほぐれてしなる夜を思う。

「ね、早く、それ片付けて、加也子さん」
「早く片付けて? どうするんだい、昭一さん」
 波打ち際まで上がって胸を張り、女神のようにそそり立ち、彼女の膝までしかない私をまっすぐに見下ろした加也子が、唇ゆがめてさらに笑うのが見える。ぱんと張った両の腕(かいな)や太腿が自信満々たけり、黄金色の産毛が水をはじくのが見える。加也子には、私の声がうわずっていることがわかったのだ。それが、水死体を迎えて狼狽したせいでないことも、わかってしまったのだ。だがもう、私は瓶からはみ出しそうな赤黒い自分を抑えることができない。わ。私は。私を。早く。か、加也子さん。
 

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2000-08-21 第二十五夜。 「サニーサイドアップ」

 
 彼は偉大なマジシャンだった。彼が指をパチンと鳴らすとライオンの檻には美女が頬笑み、スペードのジャックはくるくる回って白ネズミに変身した。ブラボー。彼自身は小さなステージを好み、巧みな話術でボウルやリングを心から楽しんだものだが、一方、大掛かりなショウも辞さなかった。ことに彼の函抜けの術は図抜けており、世界中のマジシャンたちが彼の勇気と技術にはシャッポを脱いだ。彼はそして世界中の子供たちと、それから子供の心を持ったままの大人たちに愛されながら死んだ。もちろん死ぬ間際には過去の著名な魔術師や発明家が繰り返した件の約束を忘れなかった、「大丈夫、私はきっとあの世から抜け出して見せるさ」 。

 ある朝、彼の妻が目を覚ましてみると、隣のベッドには腐乱した彼の死体があった。
 彼の妻は「まあまあ、律儀な方。本当に約束を守ってくださったのね」と歌うように言い、彼に口づけし、それから朝食の支度に取り掛かった。けれど、さしもの彼も抜け出すのが精一杯だったせいか、せっかくの朝食に手をつけることはできなかった。
 

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2000-08-20 第二十四夜。 「トマト」

 
 喉の奥がごぼごぼと鳴って、アイボリーのサニタリーが朱に染まる。
 妻は彼の背中をさすりながら「トマトを食べ過ぎたのね」と言った。トマト。
 いつ食べたのだろう。覚えがなかった。だが妻が言うのならそれに違いない。
 そうして彼はトマトを吐き続けた。翌日も、その翌日も。
 

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怖いよー。でも大好物なので今日も2,3個食べてやるー、ごぼごぼ。 / イナホ ( 2000-08-20 14:49 )

2000-08-19 第ニ十三夜。 「虫めずり その一」

 
 今は昔、高山の旧家に、タタミウズという虫が出ることがあった。
 タタミウズは畳表のすぐ裏、藺草(いぐさ)と藁(わら)の隙間を食らうと言われていた。幅ニ、三寸、長さ三尺あまりのこの大きな虫には厚みというものがなく、平たい大百足のような形をしていた。新しい青畳や、逆に摩り減った古畳の裏に出ると、まるでこぼれた水が這うようにゆっくりと影が流れ、敷居に当たってはゆき戻った。
 タタミウズの進む道に太めの網針を刺すと、布が裂けるようにこの虫は二つに分かれ、てんでんに這い、やがて出遭っては子をもうけた。陶林人はこの虫あそびが好きで、彼の庵は往々にして乱れ舞うタタミウズでいっぱいに彩られていた、とこう語り伝えられているということである。
 

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最近テレビでやっている「顔ダニ」の話も怖いです。 / イナホ ( 2000-08-19 17:52 )
ちょうど666ヒットでした。 / こすもぽたりん ( 2000-08-19 17:11 )

2000-08-18 第二十ニ夜。 「時 計」

 
 夜半。何か気配があって目を覚ました。

 布団の足元の方にある押し入れの襖が開き、その上の段に一段と濃い陰がある。目をこらすと、だらしなく丹前をはだけた義父が正座し、こちらをねっとりと見おろしているのだ。

 義父の眼孔は窪み、尖った舌は胸のあたりまで垂れている。その舌がひゅうひゅうと左右に大きく二回揺れて、あたしは今、午前二時を回ったところだと知る。
 

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なんとも不思議な・・・。 / イナホ ( 2000-08-18 22:45 )
なんとも不気味な・・。 / ねむり猫 ( 2000-08-18 13:00 )

2000-08-17 第二十一夜。 「爪」

 
 月曜日のことだった。
 その前日、日曜日には家族三人で県境の伯母を訪ね、伯母に勧められるまま県庁近くの百貨店の地下食品街で少しばかり贅沢な生ハムと押し鮨を買った。帰途、バイパスへの右折路を間違え、小学三年生の秀夫は毎週見ているテレビ番組に間に合わないと後部座席で少しふくれた。絵に描いたように平凡な、そして幸福な午後。
 その翌日。

 午後三時前に校舎の端で何人かのクラスメートに目撃された後、秀夫がその日どこを通り、誰に遭い、何をされたのか。警察を含む懸命の捜査にもかかわらず、今でも何もわからない。
 「ただいま」の声はなかった。秀夫が玄関のドアを開けてズック靴を脱ぎ、ダイニングキッチンに入ってきたのは午後六時過ぎ。彼はランドセルを背負ったまま、まるで道に迷った犬のように膝を曲げてとぼとぼと歩み、たまたま早く帰宅してネクタイを外すところだった私と、何か揚げ物をしていた妻の顔を───その姿をのちに私は何度思い返しただろう───不思議そうに、いや、途方に暮れながら何か思い出そうとするように見比べ、それから何かを訴えるかのように口を開き、だがその開いた口から言葉が漏れることはなく、彼は突然反り返るように倒れ、ほんの数秒痙攣しただけで冷たくなった。
 私たち、私と妻は、何度話し合ったことだろう。秀夫は何を伝えようとしたのか。彼は私と妻の顔を見比べるように、何か思いがけない出来事に遭遇し、それを伝えようにもそれを的確に表す言葉を知らず、いや、それ以前に目の前にいる私たち二人が誰なのかわからず、自分がなぜそこにいるのかわからず……。そしてなすすべもない私たちのすぐ目の前で秀夫は白く目を剥き、まっすぐ後ろに倒れ、がづんと後頭部を打つ、思いがけず大きな音がキッチンに響き。

 秀夫の死は不審死として行政解剖にかけられ、警察からの担当者の厳しい表情がさらに私たちを途方に暮れさせた。
 倒れた際のものと思われる後頭部の打撲の跡を除き、一切の外傷がなかったにもかかわらず、秀夫の脳髄は何者かがむしり取ったかのようにおよそ左半分が喪われ、代わりに純度の高い水が頭蓋骨の内側を満たしていたのだ。これは、秀夫が玄関のドアを開け、キッチンに入り、何かを語ろうとしたことと矛盾する。もし、何者かによってこのように脳髄をむしり取られたなら、彼はその時点で絶命していなければならなかった。
 その事実は───事実などというものがこの世にあるとしてだが───その何者かが、私と妻の目の前で、あの、何か語ろうとした瞬間の秀夫から左の脳髄をえぐり取っていったことを意味する。「言いにくいことですが」と警察の使いの声が耳に残る。「その、つまり、まるで爪で掻き出したような跡が」、そしてその声は自らの言葉を否定する。「もちろん、そんなわけはないんですが」

 その通りだ。そんなわけはない。あり得ないことだ。だが、事実、秀夫は喪われてしまった。誰に?
 それからの幾十、幾百の夜、私はその爪が何者のものであるかを考え、自分に、妻に、問い続けた。どの時点だかは記憶にないが、すでに、妻は私の元を去り、私は一人、夜毎、グラスを片手に考える。一人で寝起きする家は無闇に広く、ノートや玩具など、思いがけないところから秀夫に結びつくものが現れる。そして私は、無理を言って得た、秀夫の頭蓋骨を満たしていた水の納まった小さな瓶を前に考え、考え、考え、考え続ける。誰かが私をむしり取り、代わりに水を満たしてくれる、そのときまで。
 

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2000-08-16 第二十夜。 「刺 客」

 
 崎川橋を渡り、仙台堀に沿って歩き始めたところで刺客は現れた。
 顔色の青白い、やっしゃりした体つきだが、すうっと二人の行く道をふさぐ足さばきには余念がない。見れば腕も帯がねを練り合わせたように締まっている。
「おお。おいでなすったね。上州屋め、いよいよ足元に火がついたとみえる」
 刺客は剣先を低くおろし、地ずり青眼くずしの構え。下段に抜き合わせた真吾と平一郎のどちらに切りかかるでもなく静かに対峙する。
「おっと。こいつ、なまなかな用心棒の腕じゃなさそうだぜ、平さん」
「し、真吾さん、構えだけでそこまでわかりますか」
「ああ、地ずりってなあ、本来受けの構えなんだ。人斬りにきて受けの構えをとるってことは、まるきり剣を知らないか、よほど攻めにも自信があるか、そのどっちかだ」
「そ、そういうものですか」
 刺客は真吾の講釈を聞くでもさえぎるでもなく、一歩足を踏み出した。
「こうっと。なるほど。切りかかると下から手首をはねられる。ウーム、強い」
「し、真吾さん、それで、どうすれば」
「平さん、右へ回れ」
「み、右」
「そうだ、二歩、もう二歩」
「こうですね」
 刺客は淡々とした構えのまま一歩、また一歩、右に回った平一郎に向かう。
「それで、真吾さん、それで」
 平一郎の声が裏返る。
「いやあ、剣もある程度腕があがると、相手の格が見えるようになる。平さん、こりゃ駄目だ。俺たち二人のかなう相手じゃねえ。俺がひとっぱしり人を呼んでくるから、それまでなんとか頑張っておくれな」
「え、ええ? じゃ、右へ回ってこう前うしろに並んだのは」
「そうよ。とりあえず平さんに盾になってもらってだな」
 脱兎の如く走り出す真吾。背後で布袋を裂くような音がしたが振り向く暇はない。この先は伊達家下屋敷、そこの番屋にまで駆け込めば。
 だがこの刺客、剣の腕が立つばかりでなく、追う脚もまた抜群に速かった。
 

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2000-08-15 第十九夜。 「地下街」

 
 会議に向かう途上、「廃棄物」とスチールの板を貼ったドアが目につく。きっちり閉じていない杜撰さに覗いてみれば、なるほど古い机や書類ファイル、捨てられた社員などが無造作に積み上げられ、足元にはじくじくと錆臭い液体が染み出している。私が整理した若手の手足や、古株の干からびた首も見られる。口ばかり達者で、役に立たなかった者たち。
 いずれにせよこれでは不衛生極まりない。処分を命じたのだが、何千、何万とあるフロアのどのあたりであったのか特定できず、こめかみを震わせて私は管理責任者を罵倒する。
 

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2000-08-14 第十八夜。 「狐」

 
 地蔵峠の下の竹林に狐が出る。狐は若い女に化け、道ゆく者をたぶらかす。
 弥吉は婆からその話を聞き、恐れつつもその狐を見たいと思った。用のあるなしによらず峠に向かう道を行きつ戻りつし、ある夜とうとうそれを覗き見た。狐は名主のところの有三にあやかしのわざを使おうとし、見破った有三がそれを撃ち殺したのだ。狐は撃たれると元の姿に戻れないらしい。白い腹と盛り上がった縮れ毛が揺れ、乳房の下から赤く血が流れるのを、弥吉は確かに見た、と思った。

 十年の後。大きな役場のある町で、弥吉は駆けつけた警官の問いにこう答えた。
 これは人間の女に見えるが狐だ。山の狐が昔、有三さんにしたのとおんなじことをしようとした。だから撃ったのだ。嫁になりたいと言うのでうっかり上げてしまったが、騙されなくて、ああ、よかった。
 

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