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泉木修の「百物語」

 
あなたは鳥のように這い、蛾のようにしたたる。
魚のようにまぐわい、兎のようにひりひりと裏返る。

まぶたを縫ってあげよう。
耳もホチキスでとめよう。
眠れぬ夜のために。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-08-17 第二十一夜。 「爪」
2000-08-16 第二十夜。 「刺 客」
2000-08-15 第十九夜。 「地下街」
2000-08-14 第十八夜。 「狐」
2000-08-13 第十七夜。 「誤 差」
2000-08-12 第十六夜。 「白 光」
2000-08-11 第十五夜。 「船酔い」
2000-08-11 第十四夜。 「井 守」
2000-08-10 第十三夜。 「母子像」
2000-08-10 第十ニ夜。 「妻 隠」


2000-08-17 第二十一夜。 「爪」

 
 月曜日のことだった。
 その前日、日曜日には家族三人で県境の伯母を訪ね、伯母に勧められるまま県庁近くの百貨店の地下食品街で少しばかり贅沢な生ハムと押し鮨を買った。帰途、バイパスへの右折路を間違え、小学三年生の秀夫は毎週見ているテレビ番組に間に合わないと後部座席で少しふくれた。絵に描いたように平凡な、そして幸福な午後。
 その翌日。

 午後三時前に校舎の端で何人かのクラスメートに目撃された後、秀夫がその日どこを通り、誰に遭い、何をされたのか。警察を含む懸命の捜査にもかかわらず、今でも何もわからない。
 「ただいま」の声はなかった。秀夫が玄関のドアを開けてズック靴を脱ぎ、ダイニングキッチンに入ってきたのは午後六時過ぎ。彼はランドセルを背負ったまま、まるで道に迷った犬のように膝を曲げてとぼとぼと歩み、たまたま早く帰宅してネクタイを外すところだった私と、何か揚げ物をしていた妻の顔を───その姿をのちに私は何度思い返しただろう───不思議そうに、いや、途方に暮れながら何か思い出そうとするように見比べ、それから何かを訴えるかのように口を開き、だがその開いた口から言葉が漏れることはなく、彼は突然反り返るように倒れ、ほんの数秒痙攣しただけで冷たくなった。
 私たち、私と妻は、何度話し合ったことだろう。秀夫は何を伝えようとしたのか。彼は私と妻の顔を見比べるように、何か思いがけない出来事に遭遇し、それを伝えようにもそれを的確に表す言葉を知らず、いや、それ以前に目の前にいる私たち二人が誰なのかわからず、自分がなぜそこにいるのかわからず……。そしてなすすべもない私たちのすぐ目の前で秀夫は白く目を剥き、まっすぐ後ろに倒れ、がづんと後頭部を打つ、思いがけず大きな音がキッチンに響き。

 秀夫の死は不審死として行政解剖にかけられ、警察からの担当者の厳しい表情がさらに私たちを途方に暮れさせた。
 倒れた際のものと思われる後頭部の打撲の跡を除き、一切の外傷がなかったにもかかわらず、秀夫の脳髄は何者かがむしり取ったかのようにおよそ左半分が喪われ、代わりに純度の高い水が頭蓋骨の内側を満たしていたのだ。これは、秀夫が玄関のドアを開け、キッチンに入り、何かを語ろうとしたことと矛盾する。もし、何者かによってこのように脳髄をむしり取られたなら、彼はその時点で絶命していなければならなかった。
 その事実は───事実などというものがこの世にあるとしてだが───その何者かが、私と妻の目の前で、あの、何か語ろうとした瞬間の秀夫から左の脳髄をえぐり取っていったことを意味する。「言いにくいことですが」と警察の使いの声が耳に残る。「その、つまり、まるで爪で掻き出したような跡が」、そしてその声は自らの言葉を否定する。「もちろん、そんなわけはないんですが」

 その通りだ。そんなわけはない。あり得ないことだ。だが、事実、秀夫は喪われてしまった。誰に?
 それからの幾十、幾百の夜、私はその爪が何者のものであるかを考え、自分に、妻に、問い続けた。どの時点だかは記憶にないが、すでに、妻は私の元を去り、私は一人、夜毎、グラスを片手に考える。一人で寝起きする家は無闇に広く、ノートや玩具など、思いがけないところから秀夫に結びつくものが現れる。そして私は、無理を言って得た、秀夫の頭蓋骨を満たしていた水の納まった小さな瓶を前に考え、考え、考え、考え続ける。誰かが私をむしり取り、代わりに水を満たしてくれる、そのときまで。
 

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2000-08-16 第二十夜。 「刺 客」

 
 崎川橋を渡り、仙台堀に沿って歩き始めたところで刺客は現れた。
 顔色の青白い、やっしゃりした体つきだが、すうっと二人の行く道をふさぐ足さばきには余念がない。見れば腕も帯がねを練り合わせたように締まっている。
「おお。おいでなすったね。上州屋め、いよいよ足元に火がついたとみえる」
 刺客は剣先を低くおろし、地ずり青眼くずしの構え。下段に抜き合わせた真吾と平一郎のどちらに切りかかるでもなく静かに対峙する。
「おっと。こいつ、なまなかな用心棒の腕じゃなさそうだぜ、平さん」
「し、真吾さん、構えだけでそこまでわかりますか」
「ああ、地ずりってなあ、本来受けの構えなんだ。人斬りにきて受けの構えをとるってことは、まるきり剣を知らないか、よほど攻めにも自信があるか、そのどっちかだ」
「そ、そういうものですか」
 刺客は真吾の講釈を聞くでもさえぎるでもなく、一歩足を踏み出した。
「こうっと。なるほど。切りかかると下から手首をはねられる。ウーム、強い」
「し、真吾さん、それで、どうすれば」
「平さん、右へ回れ」
「み、右」
「そうだ、二歩、もう二歩」
「こうですね」
 刺客は淡々とした構えのまま一歩、また一歩、右に回った平一郎に向かう。
「それで、真吾さん、それで」
 平一郎の声が裏返る。
「いやあ、剣もある程度腕があがると、相手の格が見えるようになる。平さん、こりゃ駄目だ。俺たち二人のかなう相手じゃねえ。俺がひとっぱしり人を呼んでくるから、それまでなんとか頑張っておくれな」
「え、ええ? じゃ、右へ回ってこう前うしろに並んだのは」
「そうよ。とりあえず平さんに盾になってもらってだな」
 脱兎の如く走り出す真吾。背後で布袋を裂くような音がしたが振り向く暇はない。この先は伊達家下屋敷、そこの番屋にまで駆け込めば。
 だがこの刺客、剣の腕が立つばかりでなく、追う脚もまた抜群に速かった。
 

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2000-08-15 第十九夜。 「地下街」

 
 会議に向かう途上、「廃棄物」とスチールの板を貼ったドアが目につく。きっちり閉じていない杜撰さに覗いてみれば、なるほど古い机や書類ファイル、捨てられた社員などが無造作に積み上げられ、足元にはじくじくと錆臭い液体が染み出している。私が整理した若手の手足や、古株の干からびた首も見られる。口ばかり達者で、役に立たなかった者たち。
 いずれにせよこれでは不衛生極まりない。処分を命じたのだが、何千、何万とあるフロアのどのあたりであったのか特定できず、こめかみを震わせて私は管理責任者を罵倒する。
 

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2000-08-14 第十八夜。 「狐」

 
 地蔵峠の下の竹林に狐が出る。狐は若い女に化け、道ゆく者をたぶらかす。
 弥吉は婆からその話を聞き、恐れつつもその狐を見たいと思った。用のあるなしによらず峠に向かう道を行きつ戻りつし、ある夜とうとうそれを覗き見た。狐は名主のところの有三にあやかしのわざを使おうとし、見破った有三がそれを撃ち殺したのだ。狐は撃たれると元の姿に戻れないらしい。白い腹と盛り上がった縮れ毛が揺れ、乳房の下から赤く血が流れるのを、弥吉は確かに見た、と思った。

 十年の後。大きな役場のある町で、弥吉は駆けつけた警官の問いにこう答えた。
 これは人間の女に見えるが狐だ。山の狐が昔、有三さんにしたのとおんなじことをしようとした。だから撃ったのだ。嫁になりたいと言うのでうっかり上げてしまったが、騙されなくて、ああ、よかった。
 

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2000-08-13 第十七夜。 「誤 差」

 
 魔法使いはぞっとするような高い声で笑い、人魚姫にこう言いました。
「そのかわいい声とひきかえに、飲みぐすりをこしらえてやろう。あした、おてんとうさまが上がる前に岸に上がって、それをお飲み。そうすれば、おまえのしっぽはちぢんで、足ってものになるよ。でもね、その足で歩けば、ひとあしごとに、それはもう、痛いのなんの。まるでするどい剣でさされるようだよ。そのかわり、どんな人間でも、おまえを見れば、ああ、今までに見たこともないきれいな娘だ、と言うだろうよ」

 翌日の明け方。
 波打ち際で発見されたそれは、全長およそ3メートル。海底を這うためか胸ビレが発達し、深海圧に耐える胴はウロコが変じた黒くざらざらした皮膚で覆われている。左右に突き出したまぶたのない目は丸く、口は大きく裂けて小さな尖った歯が並んでいる。地元の漁師の言葉によると、白い肉は水っぽく、およそ美味とはいいがたかったという。
 

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後半だけだったら何も感じないと思うけど前半を読んだ後に後半を読むと夢の世界から突然突き放されてしまったような気がしてなんとも気持ちが悪い(誉めです) / イナホ ( 2000-08-14 01:56 )

2000-08-12 第十六夜。 「白 光」

 
 ドム、ドム、ドム、ドムと、心音をエミュレートした重低音のサイレンが、今夜は週末、狩りの夜だと町中に告知して走る。
 少年は音と光に導かれて狩り場へと急いだ。今夜の狩り場、昼はオフィス街として車やサラリーマンであふれる大通りは、左右からライトを浴びて真昼のような明るさ。
 警備隊がロープで囲った中、クラスメートの顔を見つけて少年は走り寄る。来たね。ああ、来たさぁ。今夜はどのくらい、狩られるだろうね。やあ、もう、地下ではいぶし出しが始まってるみたいだ、ほら。
 クラスメートが指差す向こう、いくつかのマンホールから紫の煙が漏れ上がる。
 そのうちの一つ、思いがけず目と鼻の先のマンホールの蓋がごりごりと音を立てて開き、中から灰色のモノがよろめきながら這い出してきた。ごうごうと歓声が沸く。撃て! 燃やせ! 市民の期待に応えるように四方から赤い炎が走り、そのモノを撃ち倒す。パチパチと火の粉が散り、オレンジ色の渦の中で痙攣(けいれん)する指、足。顎(あご)ががくがくと揺れるのは悲鳴を上げているのだろうか。
 ぐるりと倒れ、油をしたたらせて痙攣するそれに目をこらし、少年は、あ、と晴れやかな声を上げる。あれ、去年死んだお祖母ちゃんだ。
 え、ほんと? そうかあ。クラスメートは悔しそうに目を吊り上げて言う。俺のお祖父ちゃん、まだ狩られてないんだ。次こそ、ぜったい。
 耐火服の役人たちは、ファイアシュートを手に勇壮な狩りの歌を轟かせる。燃やせよ滅っせ、地の虫を。少年たちはなおも続く狩りの炎に頬を染め、新たな獲物の断末魔に腕を振り、歓声を上げる。
 

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2000-08-11 第十五夜。 「船酔い」

 
 侍は長州の浪人で、わけあって旅する者だと応えた。くたびれた装束の割りに、腰に下げただんびらは素性只ならぬものとうかがわせるに足るもので、私は退屈な公務の道行きに格好の供を得たと喜んだが、彼にとっても果たしてそうであったかどうか。
 時候の浦賀の有り様や藩に残した許嫁のことなど、半時もすると軽口を叩くは己ばかりで、さすがに恥を覚えて黙り込んだが、口が重くなったのはそのせいばかりでないことにやがて気がついた。凪(なぎ)の頃とて波はなかったが、生来船に乗り慣れているわけではない。だらしなくもやがて船べりにへたり込み、口を押さえて青ざめていると、件の侍が迷った気配のあげく、船酔いにも効くやも知れぬとかなんとか口ごもりながら私の首筋に何か冷たいものを両の手で押しつける。膏薬か何かと思い込み、またそれが実に気持ちよく効くものであるから手を伸ばし、その手を引いてアッと驚いた。指の間でふるふると揺れたのは丸々と太った蛭(ひる)である。一体この男はどこにそのようなものを持ち歩いているのか。しかし蛭を私の手から静かにもぎ取って懐に納める男には、もはやそのようなことを尋ねる隙とてない。
 以後固く口を閉ざした侍と船付き場で袂を分かち、私は先を急いだが、のちに同僚から妙なことを聞かされた。私が公務で訪ねた小藩の家老が少しく前に死んだのだが、その死に様がすさまじい。寝所いっぱいに蛭がのたくり、しかも老人は槍を構えて蛭と争って死んだとしか見えなかったというのだ。
 侍の噂は聞かない。私はそれを幸いに思う。船からの降り際に風に煽られて見えた如く、腹から背中にかけていっぱいに蛭を飼う暗殺者の噂など、誰が聞きたいものか。
 

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2000-08-11 第十四夜。 「井 守」

 
 アスファルトの道端にしゃがみ込んで、幼女は困ったような顔でマンホールを覗き込んでいる。何か言ったようだが、じあじあとうるさい壁の蝉にさえぎられ、聞きとることができない。突き出す小さな指につられてマンホールの中を覗くと、そこには赤黒い内臓のようなものがいっぱいにぬめぬめとのたくっている。ぴちぴち、ぎぃぎぃと、そのモノは小さな白い歯を互いに突き立て、浮き、沈む。

「暗いわ。狭くて、息がつまりそうだわ」

 意図してかどうか、短いチェックのスカートの膝を開き、幼女は白い下着を垣間見せる。小さな手で自らの頚を締め上げ、舌を吐き、白目を剥く。

 どうやって逃れよう。
 塩を持ち歩いてさえいれば。

 絵のような空の下、私は自らの真っ黒い影に汗を落とし続ける。
 

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2000-08-10 第十三夜。 「母子像」

 
 アア。何するの。やめて。汚い手でアタシの子に触らないで。
 そこをどいて。ヘンなこと言うのね、そりゃオイシャは想像妊娠なんてバカなこと言ってたけど、想像妊娠で子供ができるはずないでショ。アッ、アッ、アー、ひどい。やめて、どいて、アタシの息子を踏まないで。あの人の子なのよ。アア。アア。早くその足上げて。泣いてるでしょ。マア、怪我をしたのね。かわいそうに産着が泥まみれ。なんてひどい人達。アア。アタシがいけないのね。泣かないで。こんな日に外へ連れて出たママがいけないんだわ。きっと暑さのせいなのね。どこもかしこもヘンな人ばかり。赤ん坊を平気で踏みつけにして。ヘンね。あの人はどこかしら。ここどこ? アア。頭が少し痛い。でもこの娘の三ヶ月検診なんだから。早く行かなきゃ。通してくださいな。何よ、アンタ達。やめて。アタシを通してったら。
 

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2000-08-10 第十ニ夜。 「妻 隠」

 
 Sの故郷は島国で、僕達は長い船旅の末ようやくそこにたどり着く。南国のその小さな島には港があり街並があり、彼女の実家は少し歩いた島の奥にある旧家である。
 初夏の陽光のもと、旅の直前に髪を切ったSの横顔は幼く見え、僕の内奥では旅の目的が次第に醗酵してゆくのがわかる。
 足場を探りながら進む谷川にそった小径は枯草にまみれ滑りやすく、うつ向いて先に立つSの声は幽かな震えを帯びている。
 ―――わたしの母はここから落ちて亡くなったの。まだ赤ん坊だったわたしは木の枝に掛かって助かったのだけれどそのために左手はだめになったのだわ。
 その声が途絶え、振りあおいだ僕はSが灌木の茂みから現れた男達の野卑な声に囲まれうずくまっている様を認める。
 ―――やめろ。
 つぶやくように言いながら指を突き出してにじり寄る僕の目が彼等の映像をブレさせる。
 ―――いね。
 男達の消えた小径でSは細く高い悲鳴をあげはじめる。
 軽い発作を起こしたSを抱きかかえるようにしてたどり着く旧家では一族の老人達がひからびた指をはしゃがせ僕を迎え入れる。
 ―――ま、え、よう来しゃった。よう来しゃった。
 ―――よう来しゃった。上がりなされ、上がりなされ。酒がええかな、風呂がええかな。
 夜ふけに僕は身を起こし、きしきしと鳴る回廊を忍んでSの寝所を窺い見る。彼女は定められた白い装束で床を取っているが眠っているわけではない。
 天井を見つめて身を硬くするSの左腕を慈しむ僕の耳には障子の隙から八ミリを構えて覗き込む老人達のひそめきが聞こえて来る。
 ―――ま、え、御立派な男振りのことじゃて。
 ―――ほんに、まあ。
 ―――あっぱれ、あっぱれの男振りのことじゃて。
 ―――ホヒ、ホヒ、ホヒ、ホヒ。
 ―――ホヒ、ホヒ、ホヒ。
 

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