フリーライターになる前はそこそこ名の知れた会社に務めていたおかげで、明日をも知れぬこの職についてからも多少の無理は利く。その日、俺は大手新聞社の資料庫にこもり、ある雑誌社から依頼された次回のコラムのネタを捜していた。
「マイクロフィルムの扱いはけっこううるさいんだ、あんまり無茶は言わないでくれよ」
「そういってちゃんと古い事実を調べもせず、ずさんな記事書いてられるのがあんたらだろ」
「耳が痛いね。ま、お手やわらかに頼むさ」
大手新聞の記事の「小学生の自殺が増えている」という表記の嘘を暴いたのが、最近の俺の手柄の一つだ。哀れな子供、愚かな大人の数や比率というものは、洋の東西、時代の古今を問わず、そう変わらないものらしい。俺の仕事は、統計値を元に社会の常識に巣くう嘘を暴くものとして、読者にそこそこ人気を博しているらしい。人様に自慢できる仕事じゃない・・・・しかし、世間は常に人が犬を噛む話を求めているのだ。
大正八年一月の新聞に目を通していたとき、他愛ない記事がふと気にかかった。
中村千代という十二の娘が、列車から転落死したとある。神奈川の農家の次女である彼女は、新橋へ奉公に赴くために横須賀発上り二等客車に乗り、県境の隧道を抜けて踏切に達したあたりで窓から墜落している。線路わきの柵に追突後、車輪に巻き込まれ、即死であった。
それだけならどうということはない。私が妙に気になったのは、彼女の墜落の折に居合わせた三人の弟の言である。彼らは奉公に出る姉を見送るためその踏切のところに立っていたのだ。千代は、その踏切の手前で、餞別のつもりか弟たちに蜜柑を投げた。
上の二人の弟たちは蜜柑を追ったが、足の利かぬ末の松吉は姉の墜落を目撃した。松吉によれば、姉は蜜柑を投げた後乗り出した身を客車に戻そうとし、急に身をよじらせるようにして客車内を振り返り、それから抗うように墜落したというのである。松吉は怖い顔の細面の男が姉を突き落としたと主張したが、何分幼少のこともあり相手にされなかったことが新聞の文面からも伺える。また、騒ぎが起こった後、その車両にほかの乗客の姿がなかったことも車掌によって確認されている。
しかし・・・・すると。
大正八年四月に発表された作家Aの掌編の末尾にある、
「私はこの時始めて、伝ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである」
という一節ははたしていかなる意味をもつのか。偶然かも知れないが、Aはこの記事が載った二か月後には海軍機関学校嘱託を辞し、今私がこうしてマイクロフィルムをあさっている新聞社の社員としてほぼ専業作家生活に入っている。この事件の記録が彼をして作品にしたためさせたのか、あるいは逆に松吉の証言したところの・・・・。
無論今となっては、誰にも確認のしようのないことだ。
Aがベロナアルを服毒して自殺したのは、その事件から八年後、昭和二年七月のことである。
|