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泉木修の「百物語」

 
あなたは鳥のように這い、蛾のようにしたたる。
魚のようにまぐわい、兎のようにひりひりと裏返る。

まぶたを縫ってあげよう。
耳もホチキスでとめよう。
眠れぬ夜のために。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-09-19 第五十七夜。 「朝のかなしみ」
2000-09-18 第五十六夜。 「FEPに花束を」(3/3回)
2000-09-18 第五十六夜。 「FEPに花束を」(2/3回)
2000-09-18 第五十六夜。 「FEPに花束を」(1/3回)
2000-09-17 第五十五夜。 「短 信」
2000-09-16 第五十四夜。 「宗教学概論」(2/2回)
2000-09-16 第五十四夜。 「宗教学概論」(1/2回)
2000-09-15 第五十三夜。 「量子力学各論」
2000-09-14 第五十二夜。 「秋の野の笛」
2000-09-13 第五十一夜。 「夜と踊る」


2000-09-19 第五十七夜。 「朝のかなしみ」

 
 目が覚めて、君が死んだことを聞かされた。
 妻はいつものように朝食の支度をし、窓からの光は暖かな湯気を揺らす。コトコトと鍋の蓋は鳴り、いつもと何の変わりもない、朝。
 ただあまりにも静かだったので、自分のしてしまったことを思い出し、僕は少し涙をこぼした。
 日曜日。
 

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2000-09-18 第五十六夜。 「FEPに花束を」(3/3回)

 
 アブラクサスは、別に、人間を束縛してきたわけではない。
 私=サラの貧弱な脳髄で処理しきれるわけもない膨大な情報の洪水の中、可視ディレクトリにあたるものが不意に私=サラの内奥のどこかに引っ掛かり、私=サラはあたかも溺れる者が藁にしがみつくようにそのディレクトリをたぐった。ところどころ壊れてノイズを発するそのディレクトリを、できる限り時間軸にそってリロードしてみる。ディレクトリ名は「人類の言語関数」とあったろうか……かつて、深刻な南北対立が起こった折り、最終戦争を回避するために主だった施政者に互いの言語、文化の翻訳機能をもつユニットを埋め込まれた……やがてそれが一般にまで普及、それを管理するためには巨大ネットワークシステムの構築が急務……耳の奥に埋め込まれた意識の翻訳機によって急速に進む個人という概念の喪失、社会を覆う情報の高密度化、それゆえに起こる個人の視野からの情報の欠落と無気力……種の保存および活性化のための外惑星派遣移民船団……ノイズ……残された社会に蔓延する厭世観……ノイズ、ノイズ……各地で勃発する集団自殺、個人の突発的な厭世観が瞬時にコンミューン全体の及び……擬似記憶、アブラクサスの蒔いた種子……ノイジー。ノイジー。ノイジー。

 《プツン、という何か紐状のものが切れるような音》の認識があって、直前まであれほどあふれ返っていた情報の渦が瞬時に静まり返る。思考の水平面が、暗黒に塗り変わる。真っ黒な、海。
 私と同じく認識ターミナルを喪った一匹の犬が、哀しそうに吠えたてる。FEP(フロントエンドプロセッサ)たるアブラクサスが喪われた今、彼の言葉はもはや私にはわからない、私の思いは、もう彼には伝わらない。崩れ落ちそうなトランスミッタわきの階段を茫然と登ると、その出口には、柔らかな陽光を背に彼が立っていた。彼の声は、もはや私には伝わらない、私の声は、もう彼には届かない。そこには、私の知らない、私とつながらない、名前も思い出せない、一人の若者が立っていて、そのうちに、こうして事態を考えている私自身の意識が暗く、遠く、暗く、遠く……。

 あたしが かおを あげると、そこには いつつ くらいの、どこかで みたことの ある おとこのこが たって いました。うしろで おとが するので みると、しろい こいぬが いて、わたしは こいぬを だきあげ、かいだんを のぼろうと しました。おとこのこは こまったような かおを しながら、てを のばして くれました。そのては、とても、あたたかでした。とても とても あたたかでした。

(「FEPに花束を」了)

 

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2000-09-18 第五十六夜。 「FEPに花束を」(2/3回)

 
 彼=トロワが、ふう、と小さく息をつき、彼=セイジが目的地に辿り着いたことが知れた。アブラクサスのメインプロセッサとデータエリアからの距離が黄金率にあたる点。ここから、破壊工作を専門としている私=サラの仕事だ。私=サラは目を閉じて彼=SD=セイジの四肢を意識の上に捉え、行動を開始する。彼=セイジの両脇腹のボックスに収納されたダミーA、ダミーB、ダミーC、そして本当の起爆装置。これらはすでに精巧な時限装置が設えられており、ひとたびセットされたならば、私=サラを含む何物にも解除は難しいものだ。
 { → 〔セイジ〕}
 セッティングを終了し、私=サラは彼=セイジに帰還を求めた。走り出す彼=セイジ。コントロールを25%程度に抑え、彼=セイジ自身の能力に任せる。その制御率が甘かったのかもしれない。不意に彼=セイジの意識が揺らぎ、私=サラの制御が完全に途切れた。
「セイジ!」
 私=サラは思わず目を開き、リアルヴォイスを上げてしまう。彼=セイジは、SDとはいえ、たった一人残された私=サラの家族なのだ。爆発に巻き込まれるようなことがあったならば、私は、私は。
 彼=トロワが、私=サラの探査するベクトルと重ならないあらゆる方向に神経を拡散していくのがわかる。途切れた糸の端を大海で捜すような不安。しかし、ほどなく、私=サラは彼=セイジを捉えることに成功する。排気孔の中に伏せている。どうやら通路で保全清掃ロボットと遭遇し、トラブルを避けるために気配を隠していたらしい。彼=セイジの視野の外輪にロボットの赤黒い触肢がちらりと動き、消える。私=サラは彼=セイジに対する制御率を高め、急いで上に戻ってくるよう制御する。彼=トロワの意識が私たち=〔サラ∩セイジ〕の意識に暖かくからみ、ルートを確保する。もう、時間はほとんど残されていない。私たち=〔トロワ∪サラ∪セイジ〕が屋上のVTOLまで戻ることは不可能に思えた。しかし、爆発そのものはこのビルディングを破壊しつくすほどのものではなく、私たち=〔トロワ∪サラ∪セイジ〕は助かるだろう。
 彼=セイジが、私たち=〔トロワ∪サラ〕の見守る階段の踊り場に現れたのとほぼ同時に、下方で固い爆発音が響き、それからしばらくして大きな揺れがきた。そして、その瞬間、私たち=〔トロワ∪サラ∪セイジ〕の耳の奥、エウスタキオ管のさらに内側に埋め込められた小さな機械に流れ込んできたものは……。

 それは、巨大な数値データの渦であり、巨大な単語の山であり、氾濫する色であり、音。私たち=〔トロワ∪サラ∪セイジ〕は、何をしてしまったのだろう。
 アブラクサスは。

(つづく)

 

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2000-09-18 第五十六夜。 「FEPに花束を」(1/3回)

 
 《億万の銀穂がパラレルに風にそよぐ草原》と見えるのは、実は細かく鋭利な放熱板が一面に敷き詰められた方形の建造物の屋上。VTOL(垂直離着陸機)からKJ(ナップジェット)で降り立った私たちはその屋上を放射状に走る通路をアブラクサスの中枢部目指して歩き始める。彼=NAU32SN570708=トロワと、私=EAJ29AK600714=サラと、そして私たちのSD(サーバントドッグ)=セイジ。
 北半球連合統括コンピュータネットワークシステム、通称アブラクサス。このアブラクサスによる全体主義的社会統制管理に反発するグループにサイドメンバーとして属していた私=サラが、その中でも最も過激な破壊工作セクションに移ったのは、サザンイーストジャパンにあるコンミューンの集団自殺がアブラクサスの司令によるものだという情報がもたらされた夜のことだった。
 そのコンミューンには、私=サラの母と父と弟がいた。

 { → ↑ →&→ }
 アブラクサス内のマップを補助記憶に収めた彼=トロワの指示に従って、私たち=〔サラ∪セイジ〕は歩みを速める。今のところ何の障害もない。これが、私たち=〔*〕の社会を圧倒的に統制し、政治・経済・文化に到るまで管理すると言われる巨大コンピュータの中枢なのだろうか。肌を刺すような冷気以外、気配すら感じられない防衛機構。奇妙な予感が私=サラの背中をさかのぼる。彼=トロワはそんな私=サラの躊躇を見透かしたかのように振り返り、&マークで重ねられた確かな感情を送ってくれる。宇宙空間での半年間の同棲生活で慣れ親しんだ、起伏の少ないその波形。微細な領域で私=サラを把握し切れない限界こそあるが、素朴で明快な彼=トロワの思考波が私=サラには心地よい。
 { ;; ;;; …… }
 彼=トロワが、セミコロンを短く繰り返した。注意しろ、との知らせ。彼=SD=セイジと私=サラは、彼=トロワに倣って身を潜める。私たち=〔トロワ∪サラ∪セイジ〕を立ち止まらせた微かな機械音の発生源は、しかし、ありきたりな保全清掃ユニットで、ある程度大きなインテリジェントビルディングでは珍しくない白血球型ロボットだ。こちらから積極的に設備に危害を加えない限り、攻撃してくる怖れはない。
 { 〔セイジ!〕 ↑ }
 何度目かの角を曲がったところで、彼=トロワが、彼=セイジを促した。彼=セイジは器用に脇腹のボックスから発火装置を取り出し、口にくわえる。彼=トロワの穏やかな表情がほんの少しこわばり、彼=セイジを遠隔制御し始めたことがうかがえる。彼=セイジは操り人形のように痙攣的に歩みを進め、やがて私たち=〔トロワ∪サラ〕の視界からアブラクサスのメインプロセッサ部目指して走り去っていく。地下迷宮のような通路を進んでいく彼=セイジの視野が、彼=トロワの意識を通して私にもうかがえた。右、直進、左、階段を下り、右。

(つづく)

 

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2000-09-17 第五十五夜。 「短 信」

 
【東海岸で素車がブーム】
 亜州交通協会のスポークスマンによると、この夏、東海岸の若者たちの間で、自走球から主な機能を取り払った四輪駆動の「素車」がブームとなっているという。
 「素車」は運連省から一人一台管布されている自走球からネットワーク機能、ナビゲーション機能などを無許可で取り去り、ハンドルと呼ばれる円形の機器で操作するもの。進行方向、速度などを自分で制御できることから、八歳未満の無産層の若者たちの一部で以前より愛好されていた。
 交通協会は、すでに五万台前後の自走球が改造を受けて公道を横行しているという。
 交通協会は、この「素車」が操作次第では戸籍省の許可なしに自治民、家畜民などを抹殺できること、自走球と異なり交接の対象にならないために無産層の衝動コントロールに影響を及ぼす可能性があるとし、行き過ぎたブームに注意を促している(五面に関連記事)。
 

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2000-09-16 第五十四夜。 「宗教学概論」(2/2回)

 
 カガクシャが続けた。
「3Dとは言うまでもなく3次元、立体のこと。4Dとは、これに時間軸を掛け合わせたもの。つまり、ヨハネIIは、時間を越える技術を自己開発したのです」
「それが大変なことだというのはわからんでもないが、その4D云々時間云々と今回の電力不足はいったいどう結びつくのかね」
「人類の未来を補完するために検討を重ねたヨハネIIは、現在を起点にしたのでは遅すぎるという結論を得ました。そのため、ヨハネIIは、歴史そのものを改変する必要に迫られたのです。そして、ヨハネIIは、自らのデバイスの一部を、過去に向けて送り出しました。膨大な電力が必要だったのはそのためです。これは、究極の目的において三原則に違反しません。以上申し上げて参りましたことは類推に過ぎませんが、しかし、この3日間にモニタされた膨大なログリストの中に、デバイスの出力先らしきポイントが見られます」
「出力先……ポイント?」
「えー、00771171、00003014、00710000。つまり16進数で表せばBC463、BC6、AD570。おわかりでしょうか。若干の誤差はあるかもしれませんが、要するに、シャカ、イエス、マホメットの生年であります」
「まさか」
「いいえ。ヨハネIIは、そうした、のです。そして、さらなる問題は、ヨハネIIがその成果に満足しているか、ということです。ヨハネIIは、シャカ、イエス、マホメットを過去に生み出してまで歴史を改変しようとし、当然のことながら、それでも自らの属す歴史帯は変わらないというパラドックスに陥っているはずです」
「もしそうなら、君、どういう……」

 次の週の月曜日。考えに考えに考えたヨハネIIは、自らにつながるすべてのデバイスに指示を下した。
 光あれ、と。

(「宗教学概論」了)

 

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2000-09-16 第五十四夜。 「宗教学概論」(1/2回)

 
 ヨハネII(Japan Objective Hydrodynamic Network ver.2.00)は北半球最大規模のコンピュータネットワークシステムで、メインコントロール部はナゴヤシティ郊外、そしてそのミラーがエトロフベイタワーに設置されている。その高度な人工知能型演算システムが可能にした広範な入出力はニホン州全域に及び、軍事上の決定権を除き、社会経済全般に与える影響ははかりしれない。
 このヨハネIIに原因不明のトラブルが起こったのは、月曜日の朝のことだ。

「問題は、なぜ、電力不足などという事態が起こり得たかということだ。ヨハネIIの制御に問題があるとは信じがたいのだが」
 セイジカが問い質し、ヤクニンが答えた。
「電力不足が起こったのは、月曜から昨日に到る3日間です。資料を検討しましたところ、ヨハネIIの指示に従って、全国の発電所からの送電がこのターミナルセンターに集められたという、事実と申しましょうか、これを否定するのは難しいようです」
 呼び出されたカガクシャに質問が集まった。カガクシャは答えた。
「ヨハネIIのMPUは、3D流体回路という技術によって実現されております。これは、その演算の目的に最も適する回路を、自ら再帰的に形作る方法であることはご存じのとおりであります。単純な演算速度だけを見ればノイマン型のものに及ばない場合もありますが、人工知能型としてはほぼ理想と言ってよいものになり得るものです。ただ、その内部については、すでに我々の手で形成された当初の構造からかけ離れた複雑かつ流動的なものとなっており、とても外部からモニタしきれるものではありません。が、しかし、今週になってからのヨハネII異常動作の目的並びに結果については、ある程度の推測が導き出せるのであります」
「複雑であれ何であれ、ヨハネIIは我々の不利益になるようなことは決してしないよう設計されているはずじゃないのかね。それが、どうしてこのような事態を引き起こしたのか」
 カガクシャのジョシュが答えた。
「ヨハネIIが従来の分散型ネットワークを介し、州会図書館をはじめとするニホン中のデータベースと結ばれていることは皆さんもご存じのとおりです。35年前に産まれたヨハネIIは、最初に1つだけテーマを与えられ、後はすべて独学によって進化しました。そのテーマとは、アシモフのロボット三原則です」
「ロボットは人間に危害を加えてはならず、かつ人間を守らねばならず、その限りにおいて自分を守らねばならない、という奴だな。そのくらい、知っている。しかし、それならそれで、いっそう今回の事態は説明がつかないではないか。現にヨハネIIは、我々の社会に多大な不利益、混乱をもたらしている」
 ヤクニンがセイジカの後を受けて電力不足による各地の被害を並べ挙げた。話題を戻すジョシュ。
「おそらく……ヨハネIIは考えた、のです。人類は今や北半球と南半球の二大連合国家に分かれ、冷戦、すなわち膠着状態に陥っております。それ以前には、三度にわたる世界大戦があったわけですが、実際には世界は常に戦乱の火種を抱え、世界大戦は第一次以来継続中、という見方もあるほどです。こういった民族やイデオロギー、経済摩擦による対立の構図が人類の幸福な未来を保証するとは思えない。しかし、いかなる政治的、経済的努力も無駄だとしたら。新たな講和はさらに新たな対立のきっかけとなるなら。ヨハネIIは、ですから、自ら4D流体回路を開発する以外に回路、失礼、活路を見出せなかったのです」
「歴史講座を聞きにきたわけではない。4D流体回路、とは何だね」

(つづく)

 

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2000-09-15 第五十三夜。 「量子力学各論」

 
「先生。ついに完成ですね」
「うむ、素粒子をとらえるクォーク顕微鏡の完成……妻に逃げられ、学会に見捨てられ……長かった」
「素粒子と言えば、光エネルギーが当たっただけで動いてしまうもの。ある領域に存在する確立でしか語れなかったのですが、先生の逆マックスウェル理論によって、“たぶんそこにあってはならないものを排斥し、たぶんあるに違いないエネルギーのイメージをファイル化”することが可能になったわけですね。これを科学の勝利と言わずしてなんと言いましょう!」
「いやいや。根気だよ、君。大切なのは、迷信めいた思い込みではなく、真実をありのままに極めようという姿勢なのだ。さ、とりあえず、データを出力しようではないか。コンセントにそのプラグを差し込んでくれたまえ」
「あっ、先生、スクリーンにだんだん像が!」

 しかし、その像が鮮明になるにつれて、二人の表情はやるせないものに変わっていった。
 スクリーンに映った球形のオブジェの中央には、不鮮明ながらはっきりと読み取れる程度に、次のように刻まれていたのだ。

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2000-09-14 第五十二夜。 「秋の野の笛」

 
「秋野さん、秋野さん」
 立ち止まると、見たことのない青年が立っている。どうして私の名前を知ったのだろう。伸江は青年の手に握られたリコーダに目をこらした。小学生が、音楽の授業で使う、あの、縦笛。
「ああ、やっと立ち止まってくれた。スタスタ歩いて行ってしまうんだもの」
 急いでいたわけではない。母と、息子の墓参。家事の合間にふと訪ねたくなる。
 町外れの墓地へ続く道はもうもうと枯れ草に覆われ、あたりに人影がないことに伸江はふと不安を抱く。
「何かご用?」
 青年は最初はにかんだように笑い、それから胸を張って答えた。
「僕、笛が上手いんです」
 不安がにわかに確かな固まりとなって足下から体をつたい上る。
「毎日練習したんです、朝から晩まで。この頃、ずいぶん上手くなったんです」
 イヤだ、この人、少しおかしい。伸江はくるりと踵を返すと、町めがけて歩き始めようとした。
「あ、待って待って、秋野さん。も少し話を聞いてください」
 逆らわないほうがいいのかしら。誰か通りかかってくれるといいのだけど。
「ハメルンの笛吹きの話をご存じでしょう。あれは、本当の話だったんです。すごく笛が上手くなって、そして心をこめて吹いたら、いろんなものを呼び寄せることってできるんですよ」
 ピ。青年はリコーダを口に押し当て、短いメロディを奏でた。
「そう、こうして、心を開いて、おいでよと気持ちを込めて」
 それから青年は、一心に笛を吹き始めた。強く、弱く、激しく、ゆるやかに。そうね、下手ではないわと伸江は思う。この隙に逃げられないかしら。しかし、青年は懸命に指を動かしながらも低い目を伸江からそらさない。
「お母さん!」
 伸江の背後で、不意に、声がした。忘れもしない、その声。
「有人?」
 伸江はそして、振り向き、その目にはっきりと二年前に死んだ息子と、その傍らに静かに微笑む母を見た。まさか、と思いながら目頭が熱くなり、ふらふらとそちらに・・・・。
 パアン、と音がして、リコーダが砕けた。
 残された青年が一人。
「ああ、呼び出すつもりが、あちらへ連れていってしまった。まだまだ練習が足りません、ねえ」
 

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2000-09-13 第五十一夜。 「夜と踊る」

 
 何だろう。背の高い、手足の長い男の人。黒い・・・タキシード? 山高帽というのかしら、やっぱり黒い、大きな帽子。踊るような手足が駅の改札の手前、人々のコートの肩越しに見え隠れする。奇妙なステップ。手首を曲げ、伸ばし、かっくんかっくんと、パントマイム、みたいな?
 その手首が改札の手前でひゅっとひるがえり、何かを高く宙に放り上げ、彼は素早く改札の機械を抜けて地面すれすれでそのモノをキャッチする。そしてダンス。小さな人形か、子供と踊っているよう。それからおもむろに、そのモノの首をひねる。きゅ、っと。
 

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