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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-07-06 『新耳袋 現代百物語 第十夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー
2005-07-03 『赤瀬川原平の名画読本 鑑賞のポイントはどこか』 赤瀬川原平 / 光文社 知恵の森文庫
2005-06-26 正統派?除霊コミック 『MAIL』(現在3巻まで) 山崎峰水 / 角川コミックス・エース
2005-06-15 悪を倒せと友が呼ぶ!! 合い言葉は正義!! 『チェンジング・ナウ』 UMA(ユーマ) / 講談社コミックス
2005-06-10 ライト新書の佳作 『水族館の通になる』 中村 元 / 祥伝社新書
2005-06-06 ライトといえば最近の新書 『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』 山田真哉 / 光文社新書
2005-06-01 ライトが身上 『なぞ食探偵』 泉 麻人 / 中公文庫
2005-05-27 最近の新刊から 『のだめカンタービレ(12)』『OL進化論(23)』
2005-05-22 続・コミック誌における「戦い」の諸相について
2005-05-20 コミック誌における「戦い」の諸相について


2005-07-06 『新耳袋 現代百物語 第十夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー


【「あっ,驚かれませんように。驚かれませんように。」】

 独特な怪異譚を蒐集して人気の高い『新耳袋』,ちょっと寂しいシリーズ最終巻。

 「独特な」というのは,要は
   友達の友達が聞いたという,よく出来た話
よりは,
   自分や自分の家族が直接見聞きした,奇妙な体験
のほうを優先する──そう言えばさほど遠くはないだろうか(ただし,当節多発のサイコな話,ストーカーな話は注意深く避けられている。怪異は怪異でなければならない)。

 そのため,怪談集でありながら,「実はその場所ではかつて○○ということがあったのだった(怪現象はその際に死んだ者の霊のせいだった)」というオーソドックスな因縁話は割合少なく,「自分も家族もちょっと信じられないのだが,実際にあったこと(もの)で,その理由・原因もいまだによくわからない」といった一種突き放した怪奇現象の記述が少なくない。

 たとえば,初期の名作(?),坂道を前転しながらおりていくスーツ姿の紳士や,地下の出入り口のない日の丸を貼った部屋,などがその代表といえる。それらは正体を明らかにされることもなく,また通常の意味での幽霊や妖怪とも結びつかない。
 つまり,よくある怪談の一つと安心してかまえていたら,なんともいえない日常のすきまに落とされて薄ひんやり途方に暮れる,そんな話が少なくないのだ。

 しかし,四巻巻末の「山の牧場にまつわる10の話」を頂点に,『新耳袋』の特異性はやがて目に見えにくい袋小路にはまり込んでしまう。

 『新耳袋』は,木原,中山の二人が知人をつてにインタビューを重ねて怪異譚を蒐集したものだが,おそらく『新耳袋』が(映像,文庫化も含めて)知名度が上がったせいだろう,取材に答える側が「いかにも『新耳袋』に載りそうな」話を語るようになってしまう。「オーソドックスな怪談ではない,自分や家族の見聞きした説明のつかないユニークな経験」が拡大再生産されるようになってしまうのだ。
 となると,怪談としての「落ち」の明晰でないそれらの経験談はにわかに緊張感を喪い,第六,七,八夜あたりとなるとほとんど記憶に残る話がない。第九夜,そして最終巻の第十夜にいたっては,とうとうそういう「ユニークな経験」のコピーにも行き詰った語り手たちが,結局はオーソドックスな怪談,都市伝説の類でお茶を濁しにかかった,そんな印象である。
 今回掲載された新撰組にかかわる話などおよそ『新耳袋』らしからぬ内容で,なぜ最終巻巻頭にこんなものが選ばれたのか理解に苦しむ。

 たとえばこういうことだ。
 第十夜には「手」にまつわる話がいくつか登場する。「黄色い水槽」をかきまぜる手や,「天井」に跡を残す手だ。しかし……『新耳袋』なら,これらの「手」は語り手の目に見えるべきではなかったのではないか。

 「それまでの表情を変えて,それは聞かないで下さい,と黙ってしまった。」(「寺に預けられた理由」)
 「いくら聞いても,知らない方がいいと何も言ってくれない。」(「河原の子」)

 本当に怖いものは,現れて暴れるものより,上の二話のように,語られないものにひっそりとひそむ。そして「中へ入られてもあまり驚きませんように」(「賽銭箱」)と申し訳なさそうに断ったりする。

 それでも悲鳴は漏れるものだ。

先頭 表紙

永島慎二まで亡くなってしまったねえ。朝日ソノラマ版『漫画家残酷物語』は青春のある時期,心のバイブルだった。逆にいえばバイブルらしくお説教臭の強いそれや『フーテン』より,著者とおぼしき漫画家とその友人たちの生活をとほほに描いた『若者たち』のほうが今は好もしい。合掌。 / 烏丸 ( 2005-07-08 17:38 )

2005-07-03 『赤瀬川原平の名画読本 鑑賞のポイントはどこか』 赤瀬川原平 / 光文社 知恵の森文庫


【下手な絵である。色が汚くて,筆先が説明ばかりしている。】

 かつて,ギュスターブ・モローの作品の解説文に「モローの絵は『文学的』ということで非難され続けてきた」という一節があり,若干動揺した記憶がある(新潮美術文庫35『モロー』,竹本忠雄解説)。昭和50年とあるから,少しばかり昔のことだ。
 今なら「それのどこが悪いねん」とけろっと反応できようが,当時はモネやルノワールがわからないと口にすることに後ろめたさを覚えるような,そんな紅顔の美少年だったのである。……誰の話だっけ。

 同じ画集によれば,モローは「私は自分の目に見えないものしか信じない」と断言したとある。その言葉だけで十分だったのだ。

 絵画を見る際に,その意味や物語性を重視したってかまやしないだろう。その結果,ほかの鑑賞者と多少,あるいは多々,作家や作品の評価が変わろうが,それがなにほどのものだ。批評家で食っていくわけでもなし。
 自分の目に見えない,永遠で絶対的なサロメを得るために,ワイルドがあり,ビアズレーがあり,モローがある。それでいいじゃない。いや,もっといい加減に,「あのあたり」「このへん」の意味や物語を写した影として絵画にふれたって,別にいいでしょう。

 だが,困ったことに,この「かまわない」というスタンスに立った名画評は必ずしも多くない。ある画家あるいはその一派を持ち上げるために他をこきおろすことはあっても,トータルしてみれば世間をいくつかに割ったそのいずれかの多数派におもねるテキストが大半である。

 たとえば僕はモナリザを美人とは思えない。
 ルーベンスの脂肪はねとついてかなわないし,フェルメールはほこりっぽい。
 レンブラントは暗いばかりでさっぱりわからないし,印象派の大半は……。

 ようやく今回紹介の『名画読本』に少し近づいてきたかな。

 『名画読本』は,赤瀬川原平が古今の名画を取り上げて紹介するというものである。
 取り上げられた画家は,モネ,マネ,シスレー,セザンヌ,ゴッホ,ゴーギャン,ブリューゲル,レオナルド,フェルメール,コロー,ロートレック,ユトリロ,マチス,ルノワール,アングル,の15人。まことにどうも“日本的”な顔ぶれで,これでそれぞれの代表作をざっとほめたたえれば予定調和な『名画読本』の出来上がり……となってないのはさすが。

 著者は絵画作品を見るにあたって肩書きを信じるな,自分の目で鑑賞しようと主張する。そのために,展覧会でわざと足早に作品を見ることを奨めたり,自分が絵を描いた経験をふまえて名画を語ったりする。
 だから,実は先にあげた15人のうち何人かは,なんと名画家であることを否定するために持ち出しているのである。あのレオナルドすら,全否定はされていないものの,ルネッサンスがなぜダメかを主張するために持ち出されているのだ。

 残念ながら著者の趣味,主義,主張と僕の趣味では相容れない面が少なくない。冒頭のモネから,濁った池の水を飲まされるような気分になる。だが,それは望むところだ。一番いけないのは,ただ過去の評価や周辺の声に迎合することだ。既存の評価を繰り返すだけなら念仏でも唱えてもらったほうがまだありがたい(か?)。

 そして,著者は最後に,この国で名画中の名画としてあつかわれているいくつかの作品を切って捨てる。なにしろその各章のサブタイトルが「「名画」という名のヤラセ産物」に「儀礼的に描かれた絵に魂はない」である。よほど虫の居所でも悪かったのか。いや,その主張は一行一行ごもっともで,ただ感情的に書かれたわけでもないらしい。この2章を得ただけでも本書を購入した甲斐があったというものである。

 というわけで,原平さんに500点,ドン。

 ちなみに,これが「原平さんに全部」とならないのは,僕が苦手な印象派の評価が高いこと,もう一点,肩書きを信用するなと主張する書物のタイトルに「赤瀬川原平の」はないでしょう。

先頭 表紙

2005-06-26 正統派?除霊コミック 『MAIL』(現在3巻まで) 山崎峰水 / 角川コミックス・エース


【なら……コレ コレはどうやって撮ったの…!?】

 「○○のように頭がよい」というとき,人は不思議と「天使のように」とは言わない。大概,○○にはまるのは「悪魔」であり,その伝でいうならamazon.co.jpの仕業こそは悪魔の所業に等しい。
 このサイトは顧客が購入した商品をデータ化し,それにひもづくあれこれの商品を「おすすめ」してくるのだ。その選択がまた巧緻かつ絶妙で,「おっ,この作家の新刊が出たなら買わねばねばねば」「やや,このようなCDがあったなら聞かずしてどうしよどうしよ」と速攻で注文ボタンをクリックしてしまったこと庭のダンゴムシの数ではきかない。

 『MAIL(メイル)』は怖い小説やコミックをちょくちょく注文するIDで以前からその「おすすめ」にあがっていたもので,最近まとめて購入したのだが……残念ながらこれはAmazonのおすすめにしては久しぶりにハズレだった。

 本作は,霊能探偵・秋葉零児を主人公とする連作短編集。
 物語の大半は,彼のもとに霊的な事件の相談がもたらされ,現れた邪悪な霊を霊銃・迦具土(カグツチ)を用いて黄泉に送る──つまりは除霊する──というものである。

 山崎峰水(なかなか風光明媚な名前ではある)のペンタッチはやや太めでシンプル,背景は白っぽくクリア,といかにもカドカワしていて悪くない。事件の一つひとつは様々な工夫をこらしてありきたりの怪談噺に新味を加えている。登場する霊たちも,天井を這ったり,血とともにトイレから現れたり,携帯電話のメールとともにだんだん近づいてきたり,となかなかに……ところが,これがあまり怖くない。

 なぜあまり怖くないのか。その理由は明確で,中山昌亮(『オフィス北極星』の作画者だ)のホラーショート『不安の種』などもそうなのだが,霊の描き方が直接的にすぎるのだ。出るぞ,出るぞ……と盛り上げておいて,そこでぐわわっとゆがんだ顔が本当にコマの中に描かれてしまう。
 それをああ怖い,もう一人でトイレに行けない,という読み手も少なからずおられるだろうし,その方々が怖がるのを否定するつもりもないのだが,残念ながらそういったぬちゃっとした悪霊のアップはある程度年齢を経てホラー映画やコミックの経験を積むほどにさほど怖くなくなってしまう。

 本当に怖い作品は,血まみれの悪霊が見開きの大ゴマにアップで襲い掛かるようなものではない(映画の『エイリアン』の1と2のどちらがより「怖い」かを比較して考えていただきたい)。
 ましてや,その悪霊が世の中や特定の人物を恨んでそれに復讐をしようという物語でもない。それならあなたの背中であなたを恨んでいる高校生の息子さんのほうがよほど剣呑かもしれない。

 本当に怖いのは

先頭 表紙

2005-06-15 悪を倒せと友が呼ぶ!! 合い言葉は正義!! 『チェンジング・ナウ』 UMA(ユーマ) / 講談社コミックス


【でも── もし 次に 戦闘で会ったら…… 私は キミを本気で倒さなければならない──】

 新刊紹介を旨としていない当「くるくる回転図書館」では,したがって小説やマンガを人様より早く紹介することに重きをおいていない(単に時流に乗り遅れている,とも言う)。しかし,一昨日の朝日新聞書評欄で石川雅之『もやしもん』が紹介された件については,さすがに悔しい思いをしたことを認めるにやぶさかでない。古今未曾有の農大細菌マンガ,単行本が出るより前に取り上げておくのだった……。

 というわけで,朝日新聞が取り上げる前に,せめてこちらは急いで紹介しておこう。少年マガジン連載中,UMA(ユーマ)の『チェンジング・ナウ』である。

 少年マガジンをお読みの方は,巻末間近のモノクロページに,ごちゃごちゃ,ギスギスした絵柄のギャグだかシリアスだかよくわからない変身モノのマンガが毎号数ページ,ひっそりと掲載されていることにお気づきかもしれない。気づくだけでなく,パラパラと目を通しておられる方も少なくないだろう。たいていはほのぼの,もしくはベタなギャグで終わっているのだが,ごくまれに思いがけない展開に息が止まるような思いをされた方もおられるかもしれない。……けれど結局のところ「まさか」「そんなはずは」といった気分で素通りしているのが実情ではないだろうか。

 『チェンジング・ナウ』は,変身ヒーローモノを本歌取りした,パロディ作品である。
 ストーリーは,冴えないフジオカ係長(3人の子持ち)がある日正義のヒーローとして変身能力を身につけてしまうが,変身後の「ドッグファイターゼロワン」はお世辞にもかっこよいとはいえず,おまけに必殺技は世にも卑怯でセコイ「目つぶしチョップ」に「スネキック」。そのため,父親の変身能力を知る娘にまで嫌われて一緒に歩いてもらえない。それでも次々と現れる怪しげな怪人(同語反復)に,今日もドッグファイターゼロワンは立ち向かっていく……。

 だが,進んでパロディを描けるということは,言うまでもなくそこに変身モノに対する愛情が,そして愛情もってなされる観察があるということだ。それは──ごくまれにだが──対象を凌駕する。
 だから,『チェンジング・ナウ』はときに,閃光のように凡百の変身ヒーローモノを越えた輝きを示す。そこに顕現するギャグの,あるいはシリアスな魅力は,マンガならではのものだ。細分化され,産業として整備されたマンガがときに見失ってしまいそうな,マンガの,マンガならではの危うい魅力。

 連載打ち切りが近いのか,少年マガジン誌上の連載は唐突にシリアスなストーリー展開を示している。ギャグマンガがシリアスに飛翔して輝きを失わないとしたら,それは『GS美神極楽大作戦!!』のアシュタロス篇以来かもしれない。乗り遅れたくない方はすぐ単行本1,2巻をゲットだ。爆装!! イグニッション! チェンジング・ナウ!

先頭 表紙

というわけで,私評の最初の【  】内,差し替えです。 / 烏丸 ( 2005-06-16 01:26 )
今朝発売の今週号なんか,じゅーぶん予想できた展開なのに,電車の中で涙腺うるうるでした。うう。クリムゾン・バニー。 / 烏丸 ( 2005-06-16 01:26 )

2005-06-10 ライト新書の佳作 『水族館の通になる』 中村 元 / 祥伝社新書


【この業界が,お互いの真似やいいとこ取りを容認する社会だからである】

 なにゆえ俺は──水族館ではこれほどまでに深く心が落ち着くのか。
 ときおり,矢も楯もたまらず,何もかも振り捨てて水族館に向かう──それはどちらかといえば肉体がビタミンを求めるのに似た生理的な欲望だ。冷たく分厚いアクリルガラスの向こう,静かにうごめく魚や両生類は姿が異様なほどよい。ごぽごぽと裏で働く濾過装置の振動と館内にこもる静かな歓声を受けて俺の奥のどこかが修復され,満たされていく。俺はどこから来たのか。どこへ行くのか。


 とかなんとかいう水族館フリークのつぶやきはあんまり重いからちょっと君あっちね。本書『水族館の通になる ──年間3千万人を魅了する楽園の謎』はそんなんじゃなくてライトでこざっぱりしていてシリアルスナックみたいな読み応え。

   「巨大なジンベエザメを運ぶ方法は?」
   「ピラニアの水槽掃除は怖くないの?」
   「死んだ魚は食べちゃうの?」
   「誰の食費が一番高い?」
   「なぜ写真撮影は禁止なの?」

 などなど,言われてみればどうなってるのかしらのソボクな水族館の疑問あれこれ,それを,元アシカトレーナーにして現在巨大水族館やTV番組のプロデュースを手がけている著者が水族館のウラオモテを答えてくれる。「まさか!」とウロコがポロポロ落ちるほどではないが,知っていたかといえばパクパクとエラを開け閉じせざるを得ないような興味深い情報満載。
 全編通して,役に立つんだか立たないんだかよくわからない,いや,だからこそ「通」な知識がたくさん。水槽の中の巨大な岩はニセモノだとか。南極に住んでいるペンギンは18種のうち4種だけだとか。

 個人的には,水族館にウミウシがいないのは,彼らがエサにしている微細な生物が不明なため,という情報にピシと背びれを立てる気分。ぜひとも全国の飼育マニアの皆さんの奮起を期待したい。もしもお台場だの汐留だのに世界最大のウミウシ専門水族館がオープンなんてことになったら必ず行く。お土産にはウミウシクッキー,ウミウシTシャツ,ウミウシストラップ,必ず買う,買ってしまう。

 なお,本書は水族館本によくある,どこにいけば何が見られるとかいったガイドブックの類ではない。巻末には本書に登場する水族館の住所が載ってはいるが,それだけ。全国の水族館の中ではホタルイカの卵にすぎない。
 まぁ,水族館好きならまずは自分の住まいから近い水族館から順にあたっていくのがよいだろう。ただ,「朝の開館直後に訪れるのは,水族館通の常套手段だ」と言われても,なぁ。会社休んで,おまけに早起きか。うー。

先頭 表紙

倉橋由美子死去。1977年か78年,ひと夏をひたすら倉橋由美子の作品を読んで過ごした記憶あり。今は大半が絶版となった新潮文庫の「読みやすい前衛」作品群を,不思議かつ豪快かつ爽快に思ったものだ。振り返れば観念的すぎると評されそうな初期の作品が好きだ。理念で岩をも削る女剣士,のイメージあり。合掌。 / 烏丸 ( 2005-06-14 00:45 )

2005-06-06 ライトといえば最近の新書 『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』 山田真哉 / 光文社新書


【利益を出すためにはふたつの方法しかなく】

 ライトといえば,最近の新書が軽い。

 従来,新書といえば
   岩波新書 (1938年〜)
   中公新書 (1962年〜)
   講談社現代新書 (1964年〜)
の3シリーズが代表的で,ビール業界に近い寡占状態だった。ところが1994年のちくま新書発刊を嚆矢として,主だった出版社がこぞって参入にいたり,現在までにPHP新書,KAWADE夢新書,文春新書,平凡社新書,集英社新書,新潮新書など20数シリーズが市場に投入されている。いわゆる平成の「新書戦争」である。

 その新書戦争勃発後の新書だが,乱暴にまとめればその特徴は「軽さ」につきる。
 かつて,ケインズだの唐詩だの構造主義だのヒロシマだのといった社会学,経済学,哲学等,重厚かつ学究的なテーマを競った新書の姿は今はなく,執筆陣は変わらず各界の専門家ではあるものの,ライトでスマートな読み応えがいかにも現代ふうである。
 過去の著書ですでに何度も主張した内容を口述筆記で読みやすく採録し,空前のベストセラーとなった養老孟司『バカの壁』などはその典型といえるだろう。

 大学の教養課程の教科書に使われたような初期の岩波新書などに比べて,最近の新書は集中すれば30分もあれば読み切れるものが少なくない。だが,それをただ中身が薄いと見下すのはあたらないだろう。むしろ,ほんの数十分で貴重な知識やモノの考え方のサワリを賞味できることを喜ぶべきである。
 小説において「ライトノベル」が一ジャンルをなしているように,「ライト新書」とも言うべきカテゴリーがすでに起ち上がっているとするのが妥当と思うのだがどうだろうか。

 さて,そんな最近の新書のベストセラーの1冊『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』は,身近な疑問を検討することによって読者を「会計」にいざなうものである。
 「いざなう」という言葉を選ぶには少しばかり検討に時間をかけた。少なくとも「入門」ではない。「入門」にはいたらないのだから。
 本書に目を通しても財務諸表の見方がわかるわけではない。「機会損失」,「キャッシュ・フロー」,「連結経営」といった言葉は説明されるが,公認会計士の資格をとるための勉強になるかといえばまず無理だろう。

 だが,町を走るさおだけ屋はなぜ潰れないのか,ベッドタウンの高級フランス料理店の経営はどうなりたっているのか,ワリカンの支払い役はなぜ有利なのか,といった身近な例をいくつもたてて経営を語る著者の語り口は十二分に興味深く,「会計の世界もなかなか面白く,また役に立ちそうだぞ」と思わせてくれる。
 「入門」以前の,ハッピを羽織っての「呼び込み」本とでもいうべきか。

 また,本書に紹介された事例の多くは会社や店舗の経営の基本中の基本であり,経営者はもちろん,サラリーマンや学生にしてもここに書かれた内容を把握しておいて決して損はしないだろう。
(もちろん,仕事や学業で何か判断が必要になった際に本書に書かれていたことを思い出そう,というほどのことであって,間違ってもこの程度の知識を直接ひけらかしてはいけない。生兵法は禁物である。)

 軽妙にしてバランス感覚にあふれた著者の山田真哉氏は『女子大生会計士の事件簿』の著者でもある。「会計」の世界は少なくとも稀有な広報担当者を得たようだ。

先頭 表紙

2005-06-01 ライトが身上 『なぞ食探偵』 泉 麻人 / 中公文庫


【はい,ラジウム一丁】

 「町角でふと目にとまった,ちょっと不思議な料理を紹介していきたい。」
 巻頭の挨拶はそれだけである。ほんとうに? とクラリスのつぶらな瞳で尋ねられても万国旗も出てこない。
 各料理の紹介は,それぞれ2ページ。著者手描き(フリーハンド)のカラーイラストが添えられている。

 取り上げられた店は,浅草の定食屋や駅の立ち食いソバ屋など,いずれも高級とは縁遠い。
 「ず丼」「ソイ丼」「あ玉ヶ池」「ラジウムそば」など,どのような食べ物かおよそ見当もつかない。ちなみに「ず丼」はナマズの天丼,「あ玉ヶ池」はウナギの頭を唐揚げにしてタレをつけたもの。
 「とんかつ茶づけ」「天サンド」「おでんきしめん」「焼き寿司」などは材料・調理法こそ見当がつくが,味のほうが少し想像を超えている。「いかにんじん」と言われても,なあ。
 かと思えば「ソース焼そば」「印度風カリーライス」「マカロニグラタン」「コロッケそば」等々,どこがなぞなんだか,取り上げられていること自体がなぞなものもある。

 読み応えは,ともかく軽い。
 読売新聞木曜日の夕刊に連載されたものだそうだが,最初から最後まで,味や人生について深まることも究むこともない。含みのないタイトルといい,たださくさくと軽い。

 泉麻人については,何年か前の朝日新聞,レコード会社や映画館がタイアップ出稿した年末の広告の印象が強い(調べてみると,1996年11月のようだ)。その見開き広告では,語り手の泉麻人の写真とともに,大きな文字で「今年のクリスマスは、自分らしく」と主張されていた。
 それはつまり,(バブル華やかなりしころののように)カップルはレストランを予約せねば,とか,その際には当然ファッショナブルでなければ,とか,そんなふうに周囲のブームに身を任せることなく,今年は自分らしく,たとえばアットホームにしみじみとビデオを鑑賞したり,あるいはしっぽり二人で映画館を訪ねて,と,そういうクリスマスがブームになりそうですよ,という内容なのである。
 言うまでもないが,どこかおかしい。そのおかしな主張を,てらいもなくさらっと語ってしまえる,泉麻人にはそんな印象が強い。

 なので,「不思議な料理」と言いながら,品川駅の立ち食いソバ屋の「品川丼」を気負いもなく取り上げる。それはよくあるカキアゲ丼に過ぎないのだが,それを連載の2回めに取り上げることに迷いも見せず,

   先にカウンターにいた常連風の男が「シナドン」と縮め言葉で券を差し出している様がカッチョいい。

だの,

   調べてみると他に鉄火丼やシャコを使った丼に品川丼の名を付けている店が界隈にあるらしい。しかし,なんといっても,「品川駅ホームの品川丼」という環境が旅情を誘う。

だのということを平気で書いてしまうのである。

 本書では全編そのような(曇天の貯水池のように)波風立たないライトな料理紹介が続く。

 よくはわからないが,だからこそ彼はプロのコラムニストとして生きていけるのだろう。
 実際,一定の軽さ,深さ(浅さ)をキープしたまま100編近い料理紹介を継続するというのは,想像するにおよそ簡単ではない。凡百の徒ならついついそのうち料理の味についてひとくさり説教したくなったり,料理にかこつけて人生のどろどろにふれたくなったりするものだが,泉麻人に限ってはそのような心配は一切ない。

 深いものを求めたいときや,重いものを流したいときにはどうかとも思うが,「ごま味銀座ホールメンってどんなものだろう,そうかこの銀座ってのは江東区北砂の砂町銀座のことなんだ」とライトに時間をつぶしたいときにはオススメだ。
 ちなみに,カラスがこれを読んだのは,半日絶食ののちの人間ドックの結果待ちの待合室だった。そのあと,どこに何を食べに行ったかは,家人とお医者にはナイショである。

先頭 表紙

2005-05-27 最近の新刊から 『のだめカンタービレ(12)』『OL進化論(23)』


 定番2本。いずれも毎回楽しみにしている作品である。
 だが,連載初期と違って「読むのがツラい」面があるのは確かだ。なぜだろう。少し考えてみよう。

『のだめカンタービレ(12)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 舞台はフランスはパリに移り,千秋とのだめは相変わらず愉快で素っ頓狂な……。

 そうか? 書評サイトなどでは「やっぱり笑える」「のだめの奇行,ますます」といった評価が少なくないが,本当にそうなのだろうか?

 連載当初を思い起こしてほしい。

 千秋,のだめは言うにおよばず,すべての登場人物が見当違いな,片恋には罵倒,技術には嘲笑,世界への道には飛行機恐怖症と,あらゆる事象があらゆる方角にすれ違い合い,ディスコミュニケーションが満ちあふれ,そのくせそれら登場人物が狭くるしいオモチャ箱のような音楽大学の日常にひしめいていたあのホットさ,あのクールさを。

 今回,25ページ左下,のだめのアップが象徴的だ。背伸びして技巧に走るのだめの演奏を止めようとする千秋に向けたのだめの目は言うなれば「正気」の目だ。連載開始当初の,どこからどこまで浮世離れした“あの”のだめの目は,ここには,ない。

 なぜだろう。27ページ中段ののだめのセリフがそれを説明している。
 「千秋先輩ひとりが(わたしの演奏を)好きだって仕方ないんですよ!」
 「もおっ 的はずれなことばっかり!!」

 彼らは,コンクール,留学を経て,音楽の世界,もしくは世界の音楽と正面から向かわざるを得なくなった。世界的な指揮者が訪れるとはいえ,日本の音楽大学,所詮それはヒヨコたちの「巣箱」でしかない。しかし,だからこそ成り立つストーリーがある。リズムがあり,ファッションがあり,魅力がある。

 音楽の世界,世界の音楽──つまりは「巣箱」から「社会」──に立ち向かうとき,あののだめさえが「的はずれ」,つまりディスコミュニケーションにあえぐ。
 あれほどホットかつクールにバラバラだった登場人物たちが,それぞれ自分を見つめざるを得なくなったとき(今回はそんなテーマばかりだ),そこに展開するのは百年前も千年前も繰り返されたおなじみの若者たちの物語だ。

 パリに舞台を移した『のだめカンタービレ』は変わらず稀有な作品ではある。ではあるのだが,もはやあの『のだめカンタービレ』ではない。

『OL進化論(23)』 秋月りす / 講談社ワイドKCモーニング

 クオリティが落ちたようにも見えないのにここ数冊妙に重いなと思ったら,どうやら「35歳で独身で」ネタに比重がかかっているためのようだ。

 前回『OL進化論(21)』を取り上げたときは,美奈子やジュンちゃんたちが働くオフィスのシーン(コマ)が連載開始当初に比べて大幅に減っていることを指摘したが,やはり連載開始から15年も経つと,どうしても作者のオフィス観,OL像は古いものとならざるを得ない。

 たとえば──現在中堅どころの企業のオフィスやそのアフターファイブを描いて,これほど携帯電話や電子メール,パソコンが現れないのは一種異様ですらある。携帯電話やメールを介さない美奈子やジュンちゃんたちの距離感は,「お客様のおみやげ」「社封筒手にしてのおつかい」という古風な風物の中でサザエさん的無限ループを繰り返す。

 こうして,時代に即した変貌がとげられない以上,自然,素材として古色ゆかしき「結婚」「未婚」ネタが多くなるのはやむを得ないのかもしれないが……。

 それにしても昨今の35歳は,この作品で描かれるほどに「結婚」にばかりとらわれているのだろうか。35歳で独身であることの生むペーソスを否定するわけではないが,これほどまでに「結婚」が人生の至上命題であるかのように繰り返されるとさすがに息が詰まる。笑えない。

先頭 表紙

↓の「じゅでーん」は「じゅーでーん」の間違い。 / 烏丸 ( 2005-05-28 16:40 )
まあしかし,ハグして「じゅでーん」てのは,いいことではあるな。 / モキャー ( 2005-05-28 00:50 )

2005-05-22 続・コミック誌における「戦い」の諸相について

 
 同じ講談社のモーニングが,最近少しつまらない。

 理由は明白で,『青春の門』,『亡国のイージス』という,別のメディアですでに大ヒットした作品を原作とした作品を表に打ち出し,しかもそれがいずれもとくにマンガならではの新しい味付けもなく──はっきり言えばつまらないからである。
(ちなみにこの感想は一人筆者のものではないようで,鳴り物入りで連載が開始された割に,二作ともあっという間に巻末モノクロページの常連となってしまった。)

 いわしげ孝,横山仁の力量とは別の問題ではないか。

 コミック誌にパワーがあるときには,よそのメディアから原作をもってくる必要などなく,むしろ連載コミックがアニメ,TVドラマ,映画,ゲームなど他のメディアに浸透し,歴史をかたどっていくものだ。モーニングでいえば『沈黙の艦隊』しかり,『ああ播磨灘』しかり,『ナニワ金融道』しかり,『天才柳沢教授の生活』しかり,『ショムニ』しかり,最近では『ドラゴン桜』しかり。

 原作付きが,だから即ちいけないとは言いたくない。映画化,ゲーム化されるから名作ということもないだろう。
 だが。著名作品を翻案すればよし,というだけでは安直すぎる。井上雄彦『バガボンド』のヒットに味をしめたというのなら,それは,コミックとしての戦いを放棄することだ。
 いかに原作が優れていようと,それだけで人の心を揺らし続けられるほど甘い世界ではないはずである。

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そのモーニング,No.25からの『バガボンド』連載再開をうたう雑誌広告のキャッチが「退屈は終わりだ。」……ほかの連載陣では退屈だったでしょう,ということなのかしらん。 / 烏丸 ( 2005-05-24 01:33 )

2005-05-20 コミック誌における「戦い」の諸相について

 
 先週,2005年24号の少年マガジンの巻末目次の欄外に,以下のような告知があった。

    「トッキュー!!」,「トト!」,「伝説の頭 翔」は作者取材のため,
    「あひるの空」は事情のため,休載させていただきます。ご了承ください。
    なお、「あひるの空」は次号より再開いたします。

 よくある連載マンガの休載のお知らせに見えて,どこかおかしい。
 「事情のため」?

 この手のお知らせが本当のことを言っているわけではなさそうということなら素人にもすぐわかる。「取材」「急病」と言いつつ,結局は「落ちた」「落とした」ということだろう。
 なかには本当の「急病」もあるだろうが(そのまま亡くなった漫画家もいるとは聞いている),取材旅行が前もってわかっているなら前号に「次号は取材のため休載,続きは○号から!」等と掲載するのが普通である。

 いずれにせよ「事情のため」という表記は珍しい。ましてわざわざ「取材のため」と「事情のため」とを分ける理由が想像できない。

 今週,25号の少年マガジンを開いてみると、再開された「あひるの空」の扉ページに、

    編集に事情説明をきちんと記載して下さいとお願いしたのですが,
    休載理由は「事情により〜」の一言が載っているだけでした。
    ・・・うん,まぁ仕方ない。
    そーゆうところだからこそ俺は戦っているのだ。(以下略)

となにやら意味深なコメントが手書き文字で書かれている。
 「詳細は単行本に書こうと思いますが」ともある。何だろう。

 なお,「あひるの空」は若手の日向武史によるバスケット漫画。熱心に読んでいる作品ではないため確証はないが,とくに際立って特殊な……「戦い」に立脚しているようには,思えない。

 同じ少年マガジンに「魔法先生ネギま!」を掲載している赤松健は,堀田純司『萌え萌えジャパン』という書籍に掲載されたインタビューで

    この世界は,固定ファンは存在せず,いわゆる作家性などが必要ないという。
    自分の好きなものより,読者のすきなものを探すのが勝負。

といったことを答えているらしい(週刊現代5月28日号,青山栄評より)。
 マンガを,拡大再生産の可能な工業製品ととらえるようなこの姿勢は好みではないが,だからいいとかいけないとか,即断することは避けたい。赤松健の姿勢を否定することは,ハリウッド映画を映像作家のリビドーの発露と結びついてないからよろしくないと断ずるに等しい。

 詳細は不明だがなにやら怒りのこもった個人的な戦いであれ,シェアとマスをコントロールしようとする戦いであれ,あるいは書けなくなってビニール袋にくるまって眠るにいたる戦いであれ,そこには余人にはうかがい知れぬ作品,描くこととの戦いがある。

 日向武史,赤松健,二人の立つところはおよそ違う次元にあるかもしれないが,その作家たちが同じ時代の同じ人気コミック誌に連載をかまえているところが面白い。だから雑誌はいい,と,ここではそれだけを記しておきたい。

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