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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2006-06-10 とまれ,お前は美しい 『図説 絶版自動車 昭和の名車46台、イッキ乗り!』 下野康史 / 講談社+α文庫
2006-06-05 〔非書評〕重箱の隅つつき その6 『阿寒湖殺人事件』 中町 信 / 徳間文庫
2006-06-02 〔短評〕最近の新刊から 『夏の嘘つき』『大問題 '06』
2006-05-31 〔短評〕最近の新刊から 『艶捕物噺 唐紅花の章』『ドラゴン桜(13)』
2006-05-25 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』 小池壮彦 / 宝島社文庫
2006-05-17 大人のマンガ,を考える 『誰も寝てはならぬ』(現在5巻まで) サラ イネス / 講談社ワイドKCモーニング
2006-05-12 大人のマンガ,を考える 『沈夫人の料理人』(全4巻) 深巳琳子 / 小学館ビッグコミックス
2006-05-04 〔非書評〕重箱の隅つつき その5 『となりの山田くん(5)』 いしいひさいち / 創元ライブラリ
2006-05-01 〔非書評〕重箱の隅つつき その4 『花の下にて春死なむ』 北森 鴻 / 講談社文庫
2006-04-26 〔非書評〕重箱の隅つつき その3 『ダ・ヴィンチ・コード』 ダン・ブラウン,越前敏弥 訳 / 角川文庫


2006-06-10 とまれ,お前は美しい 『図説 絶版自動車 昭和の名車46台、イッキ乗り!』 下野康史 / 講談社+α文庫


【同じことをやろうにも,いまのクルマに,確固たる意義や意味なんかないものなあ。】

 クルマ雑誌の編集者を経て現在はフリーライターの筆者が,古いクルマに乗って乗って乗りまくる本である。そのラインナップがすごい。

  いすゞベレット1600GT !!
  日野コンテッサ1300クーペ !!
  ホンダS800 !!!
  トヨタ200GT !!!
  日産ブルーバード1600SSS !!!!
  スバル360スタンダード !!!!
  ダイハツ・ミゼット !!!!
  三菱デボネア・エグゼクティブ !!!!
  マツダ・コスモ・スポーツ !!!!
   :   :   :

 ……実は,こう見えてクルマオタクだった。
 だった,とは読んで字の通り過去形。それもかなり期間限定である。そのため,クルマの歴史に詳しい兄ちゃんや峠の走り屋さんと知り合っても話が盛り上がることはあまりない。

 クルマにどっぷり入れ込んだのは1968年から1970年までの3年あまり。
 はじまりは小学校高学年だった当事,親がスバル360デラックスを買い,週末には家族で出かけるようになったことから。もとより自分で走る投げるよりマブチ15モーター,単二乾電池好きでハンダゴテと糸ノコばかりいじっていたメカ好き子ども心に火がついた。

 なかなか徹底的だった。クルマに関するカタログや広告など,身近なあらゆる資料をかき集める(本書の著者も書いているが,1960年代には新聞の広告も子どもには貴重な資料だった)。路上のクルマは前後左右から見る,触る,覗き込む。当事は鍵も窓も開けっぱなしで放置しているクルマが少なくなかった。垣根の栞戸を開けて,隣近所が縁側まで遠慮なく出入りしていた時代である。
 当時の新車,たとえば三菱コルト何々というクルマは何cc何馬力でディスクブレーキを採用していて,とか,今度のファミリアはスタンダード,デラックス,スーパーデラックス……等々のモデルがあってそれぞれの違いは,とか,そういったカタログスペックをまるごと食べるように頭に入れた。

 ドアノブが,丸いポッチを外から押すタイプ中心だったのが接触事故の際にドアが開いてしまうからと引き手タイプに変わり始めたころである。フェンダーミラーが小学生のランドセルをひっかけて死傷事故が相次ぎ,可動式フェンダーミラーが採用され始めた時代でもある(現在はさらにパタンと閉まるドアミラーに置き換わっている)。
 トヨタがコロナの新ラインナップとしてマークII 2ドアハードトップを発表(当時としては画期的だった新聞2ページの見開き広告が今でも目に浮かぶ!),サニーにはサニークーペ,カローラにはスプリンターが登場してオシャレな若者の人気を競い合った。♪マイサニー,マイサニー,サニークーペ,♪わたしのスプリンタ,と,クルマのCMソングのセンスも格段に進歩した。テレビドラマでいえば「キーハンター」の時代である。

 町中のクルマオーナーから見たら,毎日うろうろしてはクルマを覗き込む怪しい小学生だったに違いない。珍しいクルマ,たとえばロータリークーペに出会ったら,しばらくそのまわりから離れなかった。たいがいの国産車なら,ヘッドライト,テールライト,もしくはドアノブを見るだけで,車種を当てられた。ダイハツ コンパーノのトラックタイプのドアノブの形状をラフで説明できるというのは相当に不気味な子供だったに違いない。もちろん,小学生のことだから,運転できるわけでもない。エンジンや足まわりの知識はカタログによるしかなかったし,どんなあこがれのクルマもただ見つめるだけだった(なので,HONDA1300のシャーシがエンジンに追いついていない,とかいう話題にはついていけないし,タコメーターという概念も当事はなかなか理解できなかった)。

 当時,一番好きだったのは117(丸目4灯ハンドメイドモデル)だったろうか。HONDA1300,ロータリークーペなどはカタログスペックだけでも天地がひっくり返るほどショックだったし,当時現役にしてすでに伝説の域に入りつつあったプリンススカイラン,日野コンテッサ,いすゞベレットは妖しい魅力で駐車場にあるだけで空気が揺らぐようだった(ちなみにキャロルはどこでも見られる軽の大衆車でありながら,不思議なことにコンテッサやベレットにつながる妖しさを感じさせた)。
 一方,日産縦ライトセドリック,プリンスグロリア,三菱デボネアなどの重厚感も好きだった。今,カタログスペックを見ると,それらが実は案外小さく,またエンジンパワーも最新のボックスワゴンに比べてもたいしたものではないことがわかる。だが,これら往年の名車が身にまとっていた分厚い空気は,現在,いかなる高級車も漂わせてはいない。

 あこがれは尖がったスポーツタイプ,黒塗りの高級車だけではなかった。トヨタのパブリカ(珍しい800ccカー。36万円はちょうど当時の1000$)はいつ見てもいかにも平凡でつまらない,と思いつつそれでもついつい中を覗き込む。酒屋のスバルサンバーを見ると,自分なら荷台に何を積んで,と夢が転がる。早い話が,クルマなら何でもよかったのだ(プラモデル好きがパンサー戦車,大和にロータスヨーロッパ,ガメラにサンダーバード,はては姫路城まで,何でも作りたがるのと似ているといえば似ている)。

 現在のボックスワゴンにつながる自分のための空間感覚……,いや,それ以上に,子どもにとって,当時のクルマは軽トラ含めてすべて夢の底のほうで「秘密基地」につながっていたのではないか。
 だから,雨の日曜日には,よく,父親のスバルにこっそり一人乗り込んでは日が暮れるまで探偵小説に読みくれたものだ。シートの匂い,ガソリンの匂い。117やコスモなど当時あこがれだったクルマが現役で走っているのを見かけると,思わず目が追いかける。手が伸び,声が出そうになる。初恋の少女が,当時のままの姿で夕日の中を駆け去っていくようなものだ。

 クルマ趣味に浸ったのは1970年まで,と明確に言えるのは,最後に近所の試乗会場を覗きに行ったのが日産最初のFF車,チェリーが発売されたときだったからだ。薄いビニールのコースターをもらって帰ってペン立ての敷物にしたのを記憶している。なんとなく憑き物が落ちたような感じで,そのあたりから新聞記事を集めたり路上のクルマを眺めたりということがなくなってしまった。
 中学に入って通学,勉強に時間をとられるようになったこともある。が,それ以上に,興味の中心が別のメカ,つまり「言葉」に移ったためである。

 クルマについてはさっぱりすっきりそれっきりで,免許を取るのも大学卒業年の夏だったし,数年は親のクルマを借りて走らせていたものの,それ以降20年以上無事故無違反の立派なペーパードライバーだ。なので,本書も,後半の,シティ,ソアラ,MR2,スターレットなど,1980年以降のクルマについてはほとんど何もわからない。もちろん車名やデザイン程度は知っているが,テレビCMで耳に入った,友人が乗っていた,程度の知識しかない。炊飯器や蛍光灯の機種名に興味がないのと変わらない。

 一つ思うのは,マーケティングというのは,やればやるほど製品の個性が丸まってしまうことだ。どのクルマ会社も,丁寧にアンケートを繰り返した結果,最もマスのニーズに応えることになった。ずんぐりした背の高いボックスワゴン,セダン,スポーツタイプ……外車も含めてどれもこれも似たような丸いシルエットだらけになった現在のクルマに,往年の「ツラがまえ」「ツラ魂」はない。ウソだというなら,1960年代のクルマのフロントビューと比べてみるとよい。

 だから,本書の次のような一節を読むと,電車の中で人目はばからずぼたぼた泣いてしまう。バカだ。

 いすゞの乗用車開発チームは,このあと,117クーペをつくり,フローリアンをつくり,ジェミニをつくり,ピアッツァをつくり,アスカをつくり,そしてもう,なにもつくらなくなった。

先頭 表紙

男子もラファエル・ナダルが連覇。まだ20歳。クレーコートで60連勝ってのがすごい。逆に,ピート・サンプラスに憧れてプロになったロジャー・フェデラー,グランドスラムに全仏を残すことまでサンプラスに似ているのが不思議。ウィンブルドンで勝てなかったレンドル,全米で勝てなかったボルグ……。合掌。 / 烏丸 ( 2006-06-12 17:35 )
エナン・アーデンが全仏連覇。いいなー,この人のすいっと両手広げて踊るようなバックハンド。でっかいプレイヤーがパワーにまかせて打ちっぱなしても勝てないところがフレンチオープンの魅力かと。ずざざーっ。 / 烏丸 ( 2006-06-11 02:29 )

2006-06-05 〔非書評〕重箱の隅つつき その6 『阿寒湖殺人事件』 中町 信 / 徳間文庫


 70年代に活躍した推理作家は? と問われてすぐ思い浮かぶのは誰だろう。森村誠一。西村京太郎。山村美紗。夏樹静子。あるいは赤川次郎。作風は千差万別だが,いずれどう取り繕ってもおよそ古式ゆかしい「探偵小説」「本格推理」のともがらとは言いがたい。
 当時,本格推理の論理ゲームに餓(かつ)えた一部のミステリファンにとって,都筑道夫,泡坂妻夫,栗本薫らの新作や中井英夫『虚無への供物』の文庫化は,砂漠で巡り会う皮の水袋のようなものだった。それ以外の時間は駱駝にしがみついてSFと海外ミステリの古典ばかり読んでいた記憶がある(ここでいうSFには安部公房や倉橋由美子も含まれる。それはそれで楽しい思い出だ)。

 そんな本格推理不毛の70年代,ぽつりぽつりとトリッキーな叙述ミステリを発表し続けた作家の一人が中町信だ。もとい──知ったかぶりはいけませんね──中町信だった,のだそうです。
 不勉強にして当時はその著作を知らず,ここ数年,初期の作品が創元から文庫化されて初めてそのあたりの経緯を知った。

 ただ……自分の無知蒙昧を冷凍庫に投げ込んで鍵かけて思いっ切り勝手なことを言わせていただくなら,この作者名はあんまりといやぁあんまりだ。「中町信」で本格,それもクリスティの例のアレやアレ,あるいはアレと張り合うようなぶっ飛びアクロバティックな叙述ミステリの作者だなんて想像できっこないじゃないか。
 こなた乱歩,かなた不木,しからば綾辻,よしんば有栖川,あえて京極,はては殊能。本格をうたうなら「ペンネームからして一種奇天烈,古典ひいたか意外なアナグラムか」と紫にけぶる妖しい看板立ててくれなくっちゃ。

 さらに,苦言を呈したいのが作品タイトル。
 創元推理文庫から再刊された『模倣の殺意』『天啓の殺意』『空白の殺意』の3作,最初に単行本化されたときはそれぞれ『新人賞殺人事件』『散歩する死者』『高校野球殺人事件』だったという。
 ……なんというか,こう,緊迫感に欠けるのである。

 ここしばらく,大半が絶版状態の文庫やノベルスを探しては読んでいるのだが,その他の作品タイトルも,
  『「心の旅路」連続殺人事件』
  『女性編集者殺人事件』
  『自動車教習所殺人事件』
  『奥只見温泉郷殺人事件』
  『四国周遊殺人連鎖』
  『山陰路ツアー殺人事件』
  『草津・冬景色の女客』
  『人事課長殺し』
  『信州・小諸殺人行』
  『浅草殺人風景』
などなど,などなどなど。
 トラベルミステリ,ユーモアミステリ全盛の時代に,しかめつらしく本格叙述モノをうたっても売れなかったのだろうが,それにしても……。

 実はこの中町作品,文体もいたってのんびりしたもので,目撃者が連続して殺されても,サスペンスに手に汗握るとか,怜悧な犯行トリックが心胆寒からしめるとか,そんなふうにはならない。どちらかといえば売れっ子とは言いがたかった作者を反映してか,移動交通費や有給,食事代を気にしつつのつましい推理活動,関係者の口さがないお喋りを証拠に重ねてのストーリーが毎回ゆっくり展開されていく(そんな呑気な文体,展開にもかかわらず,各作とも「プロローグ」で始まり「エピローグ」で終わる構成にあっと驚きの叙述トリックが隠されていると思うと,それはそれで凄い)。

 ただ,この一連のタイトルについては,作者当人も納得していたわけではないようだ。
 道東めぐりのツアー客が次々と殺されながら,ツアーが中止になるでもなく,作者がモデルとおぼしき推理作家が(細君の尻にしかれつつ)湖めぐりのバスツアーを楽しんだりカニ料理に舌鼓を打ったりしながら推理の試行錯誤を重ねていく『阿寒湖殺人事件』では,ツアーで知り合った初対面の人物に次のようなセリフを口にさせている。

 「この春先にお出しになった『佐渡金山殺人事件』を読ませてもらいましたよ。ストーリーが,それなりに凝っていて,おもしろかったんですが,例によって,題名がちょっと無神経なのが気になりましたがね」

 このあたりの「人の食い具合」がいかにも中町信らしいと言えば言えるかもしれない。

先頭 表紙

2006-06-02 〔短評〕最近の新刊から 『夏の嘘つき』『大問題 '06』


『夏の嘘つき』 もりたじゅん / あおばCOMICS

 『化けくらべ』『嘘をつく女』に続く,あおばCOMICS版第3弾。もりたじゅんはもともと集英社畑のマンガ家だが,年に1,2冊しか出さない作家の場合,雑誌や出版社が散るとこぼさないようチェックするのが大変だ。ふう。
 収録作は短編2作,いずれもちょっとした過去のある気の強い主人公が職業人としてのキャリアを踏みつつ年上の男性の魅力に知らぬうちに……ん? この二十年,同じ枠組みばかり読まされているような気がしないでもないが,それがもりたじゅんを読むことなのだからしょうがない。
 ざっくり読み終えて表紙(添付画像)を見直し,さすがに笑ってしまった。タンクトップのうら若い女性,肩から二の腕の線が十代はないとしてどう見てもせいぜい二十代,ところが作中の主人公は実は……。四十代の女性はそれはそれで魅力的なものだが,その年齢を当人が暴露するまで読めないなんて,サバとマグロを取り違えるような男ばかりで大丈夫か。

『大問題 '06』 いしいひさいち+峯正澄 / 創元ライブラリ

 言うことなし。
 何も言うことがない,のではない。何も言うことができないのだ。
 ギャグ作家が,壊れもせずにここまで苛烈な仕事を続けられるというのはとんでもないことではないのか。家というものを描いて自動記述,至高点の域にいたる『ののちゃん』をデイリーで発表しながら一方で政治,経済については対象の臓腑をさくさく裏返すようなメスさばき。
 気になるのは,ぽつぽつと挿入される峯正澄の回顧文が4コマ作品と対照的に感傷的でありきたりなこと。このようなものでもはさんでおかないと辛すぎてのどが渇くのではという編集者の節介もわからないではないが……不要。
 タブチくんやヒロオカ監督がかつてそうであったように,最近,小泉首相,渡辺会長,ブッシュ大統領らは,いしい作品に描かれたものこそが本来の姿に思われてならない。錯覚でも誤解でも不思議でもなく,単なるリアリズムと言ってしまえばそれまでなのだがどんな問題こんな問題。

先頭 表紙

2006-05-31 〔短評〕最近の新刊から 『艶捕物噺 唐紅花の章』『ドラゴン桜(13)』


『艶捕物噺 唐紅花の章』 深谷 陽 / リイド社 SPコミックス

 深谷陽の新作は,生き別れた双子の兄弟が「兄は切れ者 奉行所与力 弟は美貌の花形女形」に長じ,二人揃ってお江戸の悪を暴くという捕物帳仕立て。
 設定,展開は趣向に満ちてなかなか面白い。ただ,深谷作品に慣れたファンにはともかく,初めての読み手にはこのこってりした目鼻立ちや背景の描き込みが少し濃すぎるかも。アクションシーンもやや重め,「あですがたとりものばなし からくれないのしょう」のタイトルも少しくどい。要するにマンガのマンガたる所以のマンガ度が低いのだ。
 山手樹一郎や池波正太郎など,広く読まれた時代小説では,よい意味での手抜きが作品を軽くしている。深谷得意の食べ物シーンが少ないのも,まだ余裕がない表れではないか。

『ドラゴン桜(13)』 三田紀房 / 講談社モーニングKC

 新キャラの家庭教師 本田が受験生の矢島に語る人生訓が連載開始当時の桜木の台詞と相似形の軌跡を描くのはとてもいい。作者の受験勉強や社会に対するピッチングフォームが一定しているということだ。
 今回の第13巻は,世界史の勉強のしかた,数学,国語のセンター試験対策など,受験に縁のない者とうに済ませた者にも凝り固まった固定観念を砕いてくれるツボへの刺激満載だ。要は,ことにあたって問題を認識し,解決の手法を探るフォームなのである。
 本書に問題があるとしたら,人生のどの時点でこれと出会うかということだろう。多分,早すぎてはいけない。手遅れでも,もちろんいけない。

先頭 表紙

かたや少年マガジンの『さよなら絶望先生』が最近絶好調(絶望先生って糸色望(いとしき のぞむ)さんなのね)。今週の「逆流」の山も素晴らしい。ようやくキャラになじみ『かってに改蔵』の域まで戻った印象。単行本も揃えたいが週刊連載はきりがなくて……どうする? どうすんのよオレ! つづく! / 烏丸 ( 2006-06-01 00:37 )
その後は話が複雑すぎて,読み続けているのについていけない感じが続いていた。終わり方だけで評価するのもどうかとは思うが,なんだか壮大な失敗作になっちゃった印象。絶望した! / 烏丸 ( 2006-06-01 00:37 )
少年サンデー『からくりサーカス』が終わった。ここ数週ばたばたとひどい展開だったが最終回も「打ち切り食らったの?」と言いたくなるような無残な締め方。振り向けば,勝が勇気をふりしぼって敵に対抗し,鳴海の片腕を抱えたプロローグが最高だったような気がする。 / 烏丸 ( 2006-06-01 00:36 )

2006-05-25 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』 小池壮彦 / 宝島社文庫


【要は写真を「見る側」の問題である。】

◆読了前

 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』なる本を読んでいます。
 タイトルだけ見ると,夏になるとどこの本屋にも平積みになる「あっ,こんなところに顔が」本の一種のように思われますが,これがお立ち会い,実は日本における心霊写真報道とそれに対する反証の世相史をとことん資料を立てて語り尽くそうとする,上に「バカ」を付けたいほど生真面目なドキュメントなのでした。

 なぜこの本を手に取ったかと言えば,「もしやこの国の心霊写真史は今,大きな曲がり角にきているのではないか」という思いにかられたためです。
 最近,久しぶりにいわゆる「カメラ屋」に赴き,家電量販店でデジタルカメラが売れているのは知っていたものの,カメラ専門店においても従来のフィルムカメラがほとんど販売されていないことを知って驚く,ということがありました。
 レンズ付きフィルム(いわゆる使い捨てカメラ)や趣味の高級一眼レフなど,一部には(たとえばアナログレコードプレイヤーのように)フィルムカメラも残っていくのでしょうが,家庭用フィルムカメラがデジカメにすっかり置き換わってしまうのはもはや時間の問題のようです。
 さて,そうなったとき,「顔が,手が,光が」の心霊写真はどうなっていくのでしょうか。

 もちろん,今後も,誰かが自殺した崖のデコボコが人の顔に見えるといったことはデジカメで撮影したJPEGファイルでも同じように起こることでしょう。

 しかし,デジタル画像の場合,ネガフィルムに比べればその修正は格段に簡単です。岩の影がちょっと人の顔っぽく見えたなら,それをお絵描きソフトで強調したり,特定の人物に似せたりといったことはすぐにも誰にでもできそうです。
 「専門家」(何の?)が見ると,データに手を加えたことがバレることもあるでしょうが,逆にその「専門家」が腕をふるえば,修正の判明しづらい画像を作成することもまた可能でしょう。
 しょせんデジタルデータですからね。ドット単位で微調整するなら何でもありです。

 つまり,デジカメの普及によって,心霊写真はその信憑性を失い,怪しい顔が手がと主張しても鼻で笑われて終わる,そんな時代が訪れつつあるのではないでしょうか。

◆読了後

 そんなこんなを考えつつ,読了。
 思ったより格段に,「硬派」なレポートでした。

 著者は徹底的に「幽霊が写真に写る,念がフィルムに写る」ことを否定しています。心霊写真の原因は,焼付けミス,もしくは意図的な二重焼き,偶然,目の錯覚などのいずれかにすぎないという判断のもとにすべての例にあたります。
 本の帯の「写ったのは 本物か? 否か?」などというキワモノキャッチは,これだけ過去の資料を網羅して論旨を展開する作者に対し,失礼というものでしょう。むしろ,これほど実証主義な著者がテーマとして心霊写真を選んだことのほうが不思議に思えるほどです。
 口裂け女や女性客の消えるブティック,ハンバーガーミミズ肉説などの都市伝説を扱うに,扇情的な怪談とする本と社会学として収集,検証する本があるなら,この本は明らかに後者に属すわけです。

 本書によれば,写真技術が導入されたころは,乾板をきちんと綺麗にしなかったために人物が二重写しになるということが多発していたようです。その一部がのちに幽霊の写真と騒ぎを招くようになり,その後も世相や技術の変遷に応じて心霊写真はさまざまな形で巷をにぎわすことになります。
 たとえば「心霊写真」という言葉が最初に使われたのはいつ,誰によるのか,とか,初期の心霊写真はむしろお守りのように大切にされたのに,「霊障」や「御祓い」が話題とされるようになったのはなぜか,など,著者の指摘は心霊写真を中心に縦横に展開します。
 それにしても,興味本位の雑誌などならまだしも,大手新聞が心霊写真を再三にわたって(トピック扱いとはいえ)けっこう大きく扱ってきたことには驚かされます。

 本書では,この国で最初に心霊写真が話題になった当時から,(妖怪博士 井上円了らによって)論理的,科学的にはそれが否定されてきたこと,それにもかかわらず,心霊写真が再三再四大きなブームとなったのは,心霊や念の存在を意図的に語りたい者がいたからであるとし,各時代のさまざまな写真,事件,主張を細かく取り上げていきます。
 さらには,おそまつな(たとえば誰が見てもカメラの下げ紐が写り込んでいるにすぎないなど)心霊写真を否定しても否定してもブームが去らないのは,結局のところそこに「何かを見たい」者がいるため,と作者は指摘します。
 自殺した岡田有希子の幽霊騒動の際には,幽霊が映ったとされるビデオテープが視聴者からマスコミに届けられ,その結果として「幽霊は映っていない」のではなく,「見える人には見える」という声が残ったのがその顕著な例と言えるでしょう(その当時の若者間のオカルトブームがのちのオウム真理教事件に影響を及ぼしたという指摘は,検証を必要とはするものの,重いものを感じます)。

 つまるところ,著者も最後に簡単に触れているように,デジカメの時代になっても,何も写ってないところに何かを見たい者がいる以上,心霊写真は存続し続け,夏になれば書店の棚で暗い顔や白い手がうごめき続けることになるのでしょう。

先頭 表紙

2006-05-17 大人のマンガ,を考える 『誰も寝てはならぬ』(現在5巻まで) サラ イネス / 講談社ワイドKCモーニング


【さあー 俺もイキオイでもろてんけど 何かにできるか? コレ  できません】

 サラ イネス作品の魅力を直截簡明に語るのは難しい。
 以前(やー,もう6年も前のことだ)『大阪豆ゴハン』を取り上げた際も瑣末事ばかり話題にして番茶を濁した覚えがある。まだ,若かったのだ。違うって。

 『誰も寝てはならぬ』に登場するのは,赤坂のデザインオフィス「寺」に出入りする,少し浮世離れしたデザイナー,イラストレーターとその周辺の人々。個々のキャラが前作『大阪豆ゴハン』の脇役たちと少しかぶっていて懐かしい。

 この作者の一連の作品によく貼られるレッテルが「脱力系」だが,それだけでは瓶からこぼれるものが少なくない。作品全体を覆うかなり濃密な「大人」テイストの源はどこにあるのだろうか。
 登場人物たちは太平楽に◇と口を開いた高等遊民(死語かな)に見えるが,実はいずれもけっこうビジネス手腕にたけ,とくにバブル経済華やかなりしころにはそれぞれ忙しくも美味しいめに遭っている。業種もデザイン,イラスト,報道,オシャレな飲食店経営など,いずれもカタカナ自由業ないしその近隣,ランクも自営社長レベルである。安く手に入れたブランド品をさらりと着こなし,車はマニアックな外車,住まいも通勤の便利さなどより趣味嗜好を優先している。要するにヘンな生活を営めるだけの経済的余裕があるのだ。
 そういったいわゆる「ハイソ」感が強く表に出ないのは,太いペンでラフに描かれた温帯性能天気な絵柄にもよるが,基本的に誰もが金勘定に頓着ない風を示していることも大きい。早い話,いずれもええとこのボンボン,ご令嬢様なのである。その育ちのよさ,鷹揚さは,上目遣いと見下ろし目線の交錯するモーニングの読者層を考えればイヤミすれすれ,かなりアクロバティックなバランスのうえに成り立っている作品ともみなせる(人気があるようにみえて過去の単行本がいずれも絶版であったり,文庫も『大阪豆ゴハン』の抜粋3冊分しか発刊されなかったりというのは,そのあたりと無関係ではないかもしれない)。

 わかりにくいのは,どこまでが作者の実体験で,どこまでが作り事か,ということ。
 前作『大阪豆ゴハン』連載中には,「梅田近辺で安村家を発見した」という投書が相次いだという。デビュー連載『水玉生活』から新作『誰も寝てはならぬ』まで,同じ設定のキャラクターがあたかも作者の年来の知己であるかのように登場することから,作者周辺の実在人物がモデルと推察されるコマが少なくない。だが,一方で作者の企画力はかなりしたたかで,すべてまったく見事なコシラエゴトらしきフシもある(『大阪豆ゴハン』の登場人物の数人が名称もしくは容貌においてラリードライバーを模したものだった,など)。
 このあたりの虚実の皮膜,どちらとも断定できない底知れなさが,単に「脱力系」ギャグなどという言葉では蔽い切れないほろ苦さにつながっているのは間違いない。

 もう一点,「大人度」のポイントが,登場人物の多くがバツイチ(以上)だったという設定だ。
 『誰も寝てはならぬ』の主人公,ハルキちゃんはバツイチ,ヤーマダくんもバツイチ,ゴロちゃんにいたってはバツ3である。オフィス「寺」にわけなく出入りする魅力的な女性陣も,せんじつめればなにやらアンニュイな過去がなきにしもあらず。ただ,それなりにそれなりの経験を背負った彼ら彼女らは,同時に作品中では常にサバサバして引きずらない。このサバサバ度合いが大人なのである。
 ただし,サラ イネスの描く登場人物が「大人っぽい」かといえば,そういうわけでは全然ない。むしろ年齢からすれば子ども子どもしているといってもよい。それが,あのペンタッチに乗るとそこらのマンガよりよほど「大人」感を示す不思議。……結局,よくわからない。

 こんなややっこしいことなど考えず,ただノンシャランな世界を楽しめばよい,という親切なご指摘も当然あるだろう。だが,心のどこかに,それはちょっともったいないことじゃないかと囁く声がする。それがサラ イネス作品の奥行きなのである。

先頭 表紙

ぴなさま,オシャレ度という点では,ストーリーマンガでない最初の単行本『水玉生活』が抜群でした……などなど,今夜はばらばら過去の単行本を読み返してますが,『誰も寝ては』の1巻はこゆいですね。これに比べると5巻などずいぶん薄味です。 / 烏丸 ( 2006-05-20 01:35 )
大阪豆ごはん!いやーん、懐かしい。三姉妹のファッション、だーいすきでした。 / ぴな ( 2006-05-18 16:49 )

2006-05-12 大人のマンガ,を考える 『沈夫人の料理人』(全4巻) 深巳琳子 / 小学館ビッグコミックス


【美味しい物が 私には ふさわしいんだよ。】

 大人のマンガなどというとすぐエロとか18禁とかに意識の指が伸びそうだが,そうだろうか。
 要は大人と子供をどう区別するか,だ。18歳,20歳の経度にある赤い点々の日付変更線などどうでもよろしい。子供のくせに大人っぽい,大人のくせに子供っぽい,この「大人っぽい」の「ぽい」のあたりから漂うアヤシゲな気配こそがよくも悪しくも「大人」の領分なのだ。むしろエロに過剰に反応するのこそ実のところ子供のしるしであって……いや,いや。エロならエロに,大人らしく書いたもの,子供が書いたものがあり,大人向けに書かれたもの,子供向けに書かれたものがあって。
 など,など,など,など。

 こういう議論はそれはそれで楽しそうだが,今日はパス。もうちょっと単純に「大人でも楽しめる」「大人ならではの楽しみが得られる」,そういうマンガをいくつか紹介したい……今回はその程度の試みである。
 ちなみに,1960年代以降,文芸誌,週刊誌等に掲載されたいわゆる「大人マンガ」はここでは対象としない。個人的に好みではないため。

 さて。なにはさておき,最近4巻で完結したばかりの『沈夫人の料理人』だ。

 『沈夫人の料理人』は料理マンガである。
 ……と,たとえば『美味しんぼ』『ミスター味っ子』『クッキング・パパ』,最近なら『喰いタン』『焼きたて!!ジャぱん』あたりと比較できるなら話はケンタッキーフライドチキンなのだが,ことはそれほど吉野家,マクドナルドでない。
 確かに,『沈夫人の料理人』の各話とも,旨そうな中華料理のレシピは描かれている。中華というよりラーメン屋のメニューを並べた『中華一番』などに比べても格段に本格的だ。だが,個々の料理はいうなればボードゲームのカードに過ぎない。
 この作品は明代の江南の都市を舞台に,「主人」である有閑夫人が「主人」であることをかさに,料理人を思うさまもてあそぶ(←ここ太字)物語である。料理人の李三は無骨で馬鹿正直で料理の腕は抜群,沈夫人を優しい高貴な女性と崇拝しているが,沈夫人はその李三に婉曲に(←ここも太字ね)無理難題を吹きかけ,困り果てた李三が饗する料理こそが最高に美味と知っている。

 沈夫人の手腕は,「いじめ」などという子供の領域にはなく,2巻にいたるや思いつく限りの心理テクニックを駆使して「暴虐」「非道」「人非」の域に達する。李三はただおろおろとはいつくばり,身もだえ,涙して許しをこい,肩をふるわせながら呆然と料理を具するばかり。そして,毎話,沈夫人の「あら美味しい!」の美麗な顔をもってあたかもことの顛末が天真爛漫な「いたずら」にすぎなかったかのように描かれてさわやかに(!)幕を閉じる。

 ……およそ舞台も状況もキャラクターも異なるが,この構造は数人の男たちが一人の淑女を調教する『O嬢の物語』に近しいような気がする。
 絵柄,ストーリーは古臭い「艶笑」という言葉をうかがわせながら1巻から2巻へと崖を転がり落ちんばかりにエスカレートしていく。だが3巻,4巻にいたって結局は一話読み切りの「シチュエーションコメディ」として予定調和の平穏のうちに第一部が終わる。ああ,よかった。
 もし。もしも,3巻以降,2巻の勢いそのままに暴走していったなら,果たしてこの国のマンガの歴史はどうなってしまっていたのか。平成元禄のぬるま湯に首までつかった読者はそれに耐えられただろうか。

 少しでもグレーな用語を片っ端から変換候補からはずしてしまったWindowsの日本語変換システム(MS-IME)も,なぜか「奴隷」は平気で変換してしまう。現在では奴隷制度は存在しないため,差別用語たり得ないので,という説があるが,この『沈夫人の料理人』は,「隷属」すること「隷属」させることにこそエロティシズムがあるという一つの例証となっている。
 裸体だとか男女のからみだとか,およそ凡夫がエロティックな行為を想起させるコマは何一つないにもかかわらず,この作品はそこらのアダルト雑誌などよりよほど淫蕩だ。大人のたしなみとして,ぜひ本棚の最上段にこっそり忍ばせたい逸品である。夢に見るぞ。

先頭 表紙

最近,山田風太郎『妖異金瓶梅』を読みました。『金瓶梅』に想を得た,というより西門慶や潘金蓮を主人公とする猟奇殺人ミステリで,これがもう,凄い。とくに後半の怒涛の展開には山田風太郎の底知れぬスケールにただ暗然とするばかり。……この『金瓶梅』と『沈夫人』,時代が近いのですね。風俗等のテイストにも(ほんの一部)似たところが。 / 烏丸 ( 2006-05-13 02:18 )
『沈夫人の料理人』の弱点は……いかに美味な料理とて三食続ければ倦むように,単行本2冊も続けて読むと飽きてしまうんだよね。たまーに取り出してどれか1冊,程度がよろしいようです。 / 烏丸 ( 2006-05-13 02:10 )

2006-05-04 〔非書評〕重箱の隅つつき その5 『となりの山田くん(5)』 いしいひさいち / 創元ライブラリ


 いしいひさいちの作品はもちろん「推理小説」ではないが,作者の稀有なミステリ批評眼,ならびにホームズものをはじめとする痛烈なミステリパロディに敬意を表して,あら探しをさせていただくこととしよう。

 作者自身認めているとおり,いしいひさいちの4コママンガには,オチの意味の不明なものが世界の紛争の数ほどある(とくに政治経済モノに多いようだ)。「不条理」を狙ったわけでもなく,2コマめか3コマめでロバのたずなを放してしまって,そのままどこかわからないところにたどり着いてしまったような感じだ。その手の作品の場合,ちゃんとオチているのかどうかさえわからないので,隅つつきのしようがない。

 別の角度,たとえば双葉社の『ドーナツブックス(いしいひさいち選集)』第27巻の作品番号3455と第28巻の3514が,展開もオチもほぼそっくり同じなのに各コマのカットやセリフがよく見ると微妙に違う(本当),とか,同じく第27巻の3407の4コマが,編集工程上のミスによるものか,本来1,2,3,4のコマ順になるべきものが3,4,1,2の順になっている(これも本当)とか……。
 いや,今回取り上げる重箱の隅は,そういったものでもない。

   あの〜〜 コート買うても ええですか?

 これは『となりの山田くん』の創元ライブラリ版第5巻,朝日新聞では1993年12月10日朝刊掲載分の1コマめで,山田家の主婦まつ子がたかしに話しかけるセリフ。
 この言葉遣いは山田家としては異様である。普段のまつ子のぶつ切りな大阪弁に比べても妙に丁寧ですわりが悪く……早い話が,気持ち悪い。

 このコマ以来,まつ子がたかしに話しかけるシーンに注目しているのだが,少なくともこのような言葉遣いはあまり記憶がない。そもそも,この夫婦にはまともな会話がない。ほとんどが,メシやフロや服装,雨傘についてのやり取りであって,会話という言葉を持ち出すほどのものではないのだ。まつ子は主婦としてはかいがいしいし,無神経なだけで夫婦仲が悪いわけでもないのだが……。
 などなど,山田家について余計なことを考えさせられてしまうという意味でも,先に引用したセリフはまことにキショク悪いシロモノなのである。

 ちなみに,山田家の二人の子供,のぼるとのの子は,祖母,山野しげに直接話しかけるときに「おばあさん」と呼ぶ。
 「おばあさん」には「お祖母さん」「お婆さん」の2つの意味があり,正しい正しくない,は別にして,このようにフランクな家庭で小中学生の孫が祖母に話しかけるなら「おばあちゃん」のほうが自然な気がする。「おばあさん」には,「お婆さん」,つまりヨソの老婆に声をかけるニュアンスが強く,つまり同居している祖母に対して用いるにはヨソヨソしさがこもっているように思われてならないのだが,この感覚は少数派なのだろうか。

先頭 表紙

バケラッターのクールクル、さらばオバQの初代声優、曽我町子さん逝去。 / 烏丸 ( 2006-05-08 00:31 )

2006-05-01 〔非書評〕重箱の隅つつき その4 『花の下にて春死なむ』 北森 鴻 / 講談社文庫


 北森鴻のミステリは,平均して面白い。
 新本格派の若手のように不可能犯罪のトリックに拘泥し,ハナから「小説」を書く努力を放棄したものを読まされる心配はない。その種のパズラーに比べれば,格段に苦味のトッピングが効いている。
 その一方,テレビのサスペンスドラマなどに比べれば,格段にミステリとしての骨格が尊重されている。だから,論理ゲームとしても感情移入抜きに楽しめる。

 裏返せば,さじ加減の難しい長編では,ときに人間ドラマの臭味が強すぎることがある。登場人物の感情反応が強すぎるのだ。香辛料も鼻につくと鬱陶しい,そんな感じ。

 したがって,北森作品では,バランスを調整しやすい連作短編集が安心して楽しめることになる。論理ゲーム的にも1冊で何度も楽しめてお得だ。実際,世評の高い作品には,『メイン・ディッシュ』『孔雀狂想曲』など連作短編集が少なくない。
(個人的には,『凶笑面』『触身仏』など,偏屈な美貌の民俗学者,蓮丈那智のシリーズが好もしい。那智が寡黙であることが先に述べたバランスにつきうまく機能するためだ。那智が全編通して一言も口をきかず,ただ口の端をゆがめて無愛想に証拠と犯人を指差して終わる,そんな作品があってもよい。)

 さて,添付画像の『花の下にて春死なむ』も連作短編集。第52回日本推理作家協会賞の短編および連作短編集部門の受賞作で,作者の代表作の1つとされている。ビアバー「香菜里屋」のマスター工藤が,ちょっとしたやり取りや態度から,登場人物の過去を解き明かしていくというもの。いわゆるアームチェアディテクティブものだが,「香菜里屋」というバーの名称からすでに濃厚に過ぎて……。

 もとい。全体の感想はさておき,お約束の重箱の隅つつきとしよう。今回は次の一節だ。

「片岡さんの故郷は,山口県ですか」
 声の端に確信がのぞいていた。反対に七緒は,あやうくグラスを取り落としそうになった。
「どうして! それを……」

 (中略)
「サニーレタスとムール貝を,酢みそで和えたものをお出ししたんです。片岡さんずいぶんと懐かしそうに小鉢を眺めて,こう仰言いました。『チシャもみ,か』と。『チシャ』はサニーレタスに良く似た野菜だそうです。山口では道端に生えたチシャを摘み取り,酢みそで和えて食べるそうです。古い家庭料理のひとつだと聞きましたが」

 これは……いくらなんでも無理スジ。
 「チシャもみ」あるいは「ちしゃもみ」をググってみよう。ヒットしたページのタイトルをざっと眺めてみると,「チシャもみ」が主に香川,広島,山口の郷土料理として知られていることがわかる。当然,その近隣でも「チシャもみ」を食す家庭は少なくないに違いない。
 ところが,本作では,冒頭に近いところでこの「チシャもみ」を懐かしんだというほぼその一点だけで登場人物の出身地を山口県と特定,しかもそれが物語のその後の展開をかなり決定づけてしまっているのである。
 山口県出身ゆえの思い入れもあったのだろうが,北森鴻の場合,『屋上物語』の凝りすぎたヘンなさぬきうどんといい,こういった(たとえば料理に関する)小ネタにおいてやや無理強いの傾向があるのは否めない。

 平面上で点を特定するためには,少なくとも2つの座標軸を必要とする。アームチェアディテクティブにおいても,小ネタにまつわる推理を確定させるためにはいわゆる「裏をとる」ことでその凄みが格段に増すように思われるのだが,どうだろう。

先頭 表紙

『花の下』に続く「香菜里屋」シリーズの2冊め,『桜宵』が文庫化されたばかりですが,そちらの,たとえば「犬のお告げ」という短編に同じことを感じます。同作には2つの推理が描かれているのですが,どちらも,別の結論でもかまわないように読めてしまうのです。とくに前振りの自転車の鍵の話が……。 / 烏丸 ( 2006-05-03 01:03 )

2006-04-26 〔非書評〕重箱の隅つつき その3 『ダ・ヴィンチ・コード』 ダン・ブラウン,越前敏弥 訳 / 角川文庫


 さすがに文庫化までしていただいて,いつまでも読まずにすましているのは失礼というものだろう。というわけで遅ればせながら拝読させていただいたが,なるほど噂にたがわず突っ込みどころ満載。持ち寄っての読書会など楽しそうだ。

 キリスト教をめぐる謎解きの主旋律はさておき,コンピュータをまったく利用しようとしない暗号解読のプロや,理屈はこねるが結局何をしたいのかわからない黒幕など,登場人物たちの(ストーリーを複雑にするためとしか思えない)奇妙な振る舞いは枚挙にいとまがない。
 もうひとつ,レオナルドの作品の出番が思ったよりずっと少ないのも予想外だった。その方面ではこちらの本などのほうがはるかに詳密だし執念深い。

 ところで,本作の大ヒットについて世界中の誰より悔しがっているのは,もしかしたら『悪魔の涙』『ボーン・コレクター』のジェフリー・ディーヴァーではないか。
 「じ,自分ならもっと緻密に調べてみせるのに」
 「自分のほうがもっとはらはらさせられるのに」
 夜毎髪をかきむしって煩悶する声が聞こえてきそうだ。実際,本作に登場する「善玉」「悪玉」たちのステロタイプぶりときたら……。
 いや,残念ながらそのあたりは詳しくは触れられないため(これからトム・ハンクスを見ようという方にお気の毒),今回も重箱の隅をつついておしまいにしよう。お題は次の一節。

「あれよ」ソフィーが言って,獅子っ鼻を持つ赤いふたり乗りの車を指さした。
 冗談を言ってるのか? ラングドンはこんな小さな車をいままで見たことがなかった。
「スマートカーよ」ソフィーは言った。「リッターあたり百キロ走るわ」


 スマートカー,はないよね。原作のダン・ブラウンはもちろんわかったうえで書いているようだが,これはsmart fortwoという小型車のこと。翻訳の越前氏はご存知なかったのだろうか。メルセデスのエンジンやシャーシ技術にスウォッチのデザイン,フランスの工場で組み立てられてダイムラー・クライスラーが販売しているという,フランス,イギリス間の一往復だけで終わる『ダ・ヴィンチ・コード』に比べても桁違いにコスモポリタンな車である。

 が,今回つつきたかった重箱の隅は,そこではない。リッターあたり百キロ,のほう。
 いくら2人乗り小型車と言っても,リッター百キロは無茶だろう(スペック表参照)。原付じゃないんだから……。

先頭 表紙

smartについていくつかウソ書いてしまっていました。本文は修正済みですが,fortwoはオランダでなくフランスでの製造(forfourがオランダ)です。また↓のつっこみの「4人乗り」は「5人乗り」の誤り(大人5人には狭いけど)。 / 烏丸 ( 2006-04-28 12:04 )
作品が大ヒットしたという点では悔しがっているかもしれませんが,トマス・ハリスが書いたらまるきり違う作品になってしまいそうですね。「最後の晩餐」に隠された暗号をもとにモサドがテロリストと諜報戦する話とか,「洗礼者ヨハネ」と自分とを重ねあわせた連続猟奇殺人鬼をヒロインの暗号解読官がプロファイルするとか。 / 烏丸 ( 2006-04-28 11:59 )
「ハンニバル」のトマス・ハリスもくやしがってるかも? / ぴな ( 2006-04-26 10:19 )
fortwoにしなかった理由の1つは,駆動半径が小さすぎて,助手席どころか運転席まで車酔いすると聞いたため……。ほんとかな。 / 烏丸 ( 2006-04-26 01:50 )
ちなみに烏丸家の愛車は,同じsmartシリーズだが4人乗りのsmart forfour。オートマのくせに坂道で後ろに下がるファニーで可愛い奴だ。生産中止も近く,まだ市内で同じ車種を見かけたことがないのも自慢の1つ。 / 烏丸 ( 2006-04-26 01:48 )

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