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口車版「雑学の泉」

 
なんで,こんなにいろいろなどーでもよいこと,知っているのでしょうかねぇ。



口車筆無精乃介、IT業界を語る  口車大王「旅のおもひで」

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-09-09 [昔話]口車、闇ドルについて語る 後編
2000-09-09 [昔話]口車、闇ドルについて語る 前編
2000-09-08 [書評]『日本語練習帳』大野 晋 / 岩波新書/岩波書店
2000-09-07 [書評]『ポーランド』ジェイムズ・A.ミッチェナー/ 工藤幸雄訳/ 文藝春秋
2000-09-06 [昔話]口車、「そこ」について語る その8 完結編
2000-09-05 [昔話]口車、「そこ」について語る その7 口車、訪れる 後編
2000-09-04 [昔話]口車、「そこ」について語る その6 口車、訪れる 前編
2000-08-30 [昔話]口車、「そこ」について語る その5 口車、訪れる 予告編
2000-08-29 [昔話]口車、「そこ」について語る その4 博物館
2000-08-28 [昔話]口車、「そこ」について語る その3 建設から解放まで


2000-09-09 [昔話]口車、闇ドルについて語る 後編

 さて、後編ではどうやって闇ドルレートで交換し、普段使っていたかについて説明しましょう。

 当時、ポーランドに入国すると、強制的に現地通貨に両替しなければならなくなっていました。一般で 1日15ドル、学生で1日7ドルということになっていました。また、日数分の両替を行ったという証明がないと出国できず、現地通貨持ちだし禁止ですから、必ず正規レートで両替し、使わなければならなかった、というのが一般の人 & 学生です。

 ところが、我々はポーランドでの労働許可証を持っていたので、その必要なし。ホテルの支払いなど、本来両替証明書を見せて、正規のレートで両替したズウォチであることを証明しなければならないか、ドルで支払うしかないのですが、労働許可証を見せればOK。がんがん闇で交換したズウォチを使えたのでした。

 さて、闇レートとの交換ですが、もう時効ですから書きますが、口車が勤めていた会社のアドミニストレーション、すなわち「総務」でやっていました。アドミがポーランド人とコネをつけ、両替してくれました。これが大変レートが良く、最高で120ズウォチ、後半だんだん悪くなってきても112ズウォチでした。たいてい、これで両替していました。

 時々ワルシャワで、手持ちのズウォチがなくなります。そんなときは、宿泊しているホテルで両替していました。食事中にウェイターに、「両替したいんだけれど。」と小声で言い、短く言葉を交わしてレートの交渉。「お盆の上に乗っけてね。」と言われたらドル紙幣を出し、ウェイター君はナプキンで隠して厨房に下がっていきます。5分もするとズウォチをを持ってきてくれて、交換終了。レートは、だいたい110ズウォチでした。どんな高級なホテルでも、やってくれました。なんたって、キャビアを横流しするくらいですから。

 ワルシャワの街頭で Change money? と言い寄ってくる奴等もいます。しかし、こいつらはレートが悪いし、騙そうとするし、警察のおとりの可能性もあるので、無視しておりました。ほんとに取り締まっているところを、一回も見たことないのですが、だからと言って、危険に自ら飛び込むこともありません。

 ドルに関しては、もうひとつ面白いものがありました。

 ドルショップでお買い物すると、小銭の代りにおつりに渡されるのはドル紙幣ではなく、ボンと呼ばれていた、子供銀行のお金ようなちゃちでよれよれの紙幣のようなものでした。ポーランドでしか使えないから、「ずるい!」と思ったものです。

 それから当時、ワルシャワのドルショップで、唯一使えたクレジットカードがありました。なんと、ダイナースクラブ。まわりの日本人から注文取ってワルシャワに買い出しに行き、カードで買い物して現金でもらい、随分「ジェローネ」をかき集めたものです。

(参考文献)Japoland 掲示板「ワルサワ・クラコの80年代のポーランド 」

先頭 表紙

そう、あれは驚きました。インターコンチネンタル系列のビクトリアホテルにあったドルショップで、ダイナースカードのみが使えました。たまたま父親名義のカードの家族カードを作って持っていたので、大変助かりました。当時ジェローネ持っていると、大名旅行ができましたね。 / 口車大王 ( 2000-09-11 00:13 )
闇ドルの話、すごく興味深いです。ポーランドでもそういうことがあったんですね。唯一使えたクレジットカードが、ダイナースクラブ!というのも面白いです。。 / こっこ ( 2000-09-10 23:47 )

2000-09-09 [昔話]口車、闇ドルについて語る 前編

 読者の皆さま、「そこ」についてのお話におつき合いいただき、ありがとうございました。

 さて、「そこ」についてのお話の中で、口車、ポーランド国内をタクシーで旅行しているのにお気づきになったと思います。口車のいたプォーツクからクラコフまで、300キロほどあるのですが、ずっとタクシーで旅行したわけです。日本の常識で言うと、これはとんでもない贅沢なのですが、当時のポーランドでは、決して贅沢ではなかったのですね、我々日本人には。

 そのからくりについて、今回は説明いたしましょう。

 弟が遊びに来ることになって、クラコフおよび「そこ」への旅行を計画しました。そこで、まず、レンタカーを借りることを考え、費用を調べてみました。そうすると、約250USDかかることがわかりました。

 一方、その1か月前に、お仕事仲間の日本人同士で、タクシーを2台チャーターして、グダンスクまで一泊二日の旅行をしていました。このタクシー1台のチャーター費用が、100USDでした。

 なんと、レンタカー借りるより、タクシーチャーターした方が、全然安いのです。ガイド兼運転手付きでレンタカーより安い!どっちにするか、考えることもないですね。

 なんでこういうことになるかというと、闇ドルの存在があります。当時、1USDはポーランド通貨に対して、公式レートで32ズウォチでした。ところが、非合法の闇レートというのが存在していて、これが最高で120ズウォチでした。すなわち、約4倍の差がありました。

 この闇ドルの存在に対して、当時、ドル紙幣のことをジェローネ(緑)と呼んでいました。

 レンタカーは外国人用に、ドルの支払いで正規レートが適用されています。ところが、実際の経済では闇ドルレートで流通しています。すなわち、タクシーのチャーター代は個人同士の取引であり、闇ドルレートでいきます。それで、レンタカーよりタクシーの方が安くなってしまうのですね。

 すごいことです。

 この闇ドルレートは当然非合法ですが、ふざけたことに、ポーランド政府はこの存在を暗に認めていて、クラコフでホテルに泊まったとき、ポーランド人の宿泊費は外国人の1/4なんですね。それから、ワルシャワで、外国人用ホテルのコーヒーショップでコーヒー飲むのと、街中の「旧市街」の喫茶店でコーヒー飲むのとで、やはり価格の差が4倍。「敵も、やるのぉ。」と思ってしまいました。

 タクシーは、家族帯同でポーランドに来ていた人の、下宿先のおっちゃんがタクシードライバーで、このおっちゃんにお願いしました。おっちゃん、キャッシュで100ドルもの臨時収入。もう、にっこにこでした。

 一般の、外国旅行もしないポーランド人に、なんでドルが必要なのかというとですね、本来外国人用ののドルショップ、ソ連や他の共産圏諸国では、きびしくパスポートチェックされて、現地人は買い物できないのに、なんとポーランド国内ではポーランド人も買い物できてしまうのですね。特に、ポーランド人にとって必需品のヴォトカは、一般のスーパーマーケットで買うより、ドルショップの方が安い。口車が宿泊していたホテルの向かいのドルショップは、いつもポーランド人で長蛇の列ができていました。

 それと、いざというときに備えて、ドルの「タンス預金」も、皆さんやっていたと想像されます。また、ズウォチに交換してしまえば、かなりの高額です。

 「この国、こんなんでは、長続きしないな。」と、当時思ったものです。そしてその予感は、すぐ的中することになります。

続く

先頭 表紙

2000-09-08 [書評]『日本語練習帳』大野 晋 / 岩波新書/岩波書店

 目から鱗

 ご存知、大ベストセラーである。なぜ大ベストセラーになったか、読んでみるとわかるような気がする。普段我々が接している日本語の、素朴な疑問に対して、単純明快、実に分かりやすく解説している。文章を書いている私たちが、一度は目を通すべき書であろう。

 助詞の「は」と「が」の違いなんて、目から鱗である。それから、日本は欧米に比べて「契約」の概念が希薄であると言われているが、「契約書」の文体は、英語より日本語の方が洗練されているなんて解説も、それこそ目から鱗が落ちまくりなのである。言われてみれば、「甲」と「乙」なんていう表現、英語にないですわ。

 さらに、「ら」抜き表現に対して、なぜそうなっていくのか、「当然の成り行き」としてあっさり説明し、敬語の乱れについても「階級が日本から消えてしまったのだから、あたりまえでしょ。」と実に明快。そして「ら」抜き表現に対して、「私は使わないけれどね。」と矜持をさらっとお保ちになられる。さすが江戸っ子でございます。

 大野先生、つい最近も日本語とスリランカ語の関連についての大著を著し、御歳80にしてなんとお元気なのでしょう。私の父も同い年であるが、この世代、太平洋戦争真っ盛りの頃に大学を卒業し、「学徒出陣」とか「特攻隊」なんてものも経験している。何にもないところから、戦後高度経済成長をひっぱったのもこの世代である。そして今も、落ち込んでいる日本に、いろいろな面から喝を入れているのである。というか、死線を乗り越えた分、人生を楽しんでいて、それが結果的に私たち若いもんに、元気を与えているということでしょうか。

 書評の最後に、「筆をとる前に」という、本書の中で大野先生が触れられている心構えについて記しておく。

1. まず頭の中にある事柄を、思いつくまま秩序なしにばらばらに白紙に書きつけてみる。

2. それをできるだけ細かく書く。雑多なその項目表を眺めて、どれを最初に、次に何をと見定め、項目に番号を打っていく。

3. その途中で、ある項目についての準備の不足・知識の不足が、ここかしこに見えてくる。それの手当てとして、不足な材料を集める、調べる、考える。

4. 書き上げた内容のまずいところを修正する。次に、自分で内容の要点を項目として順に書き上げて並べてみる。すると、順序が逆になっている、あるいは錯綜していることに気づく。それを整える。

4の作業は、作品を書き上げて、半月ぐらい箱に入れておいた後でするといい。


国会図書館 Web-OPAC データ

日本語練習帳  大野晋‖著
出版地 :東京
出版者 :岩波書店
出版年月:1999.1
資料形態:215p  18cm  660円
シリーズ名: 岩波新書  
件名  : 日本語―研究・指導
ISBN:4004305969
NDLC: KF31
NDC : 810.7
請求記号:KF31−G88

先頭 表紙

最大限の賛辞、恐縮でございます。外国語を覚える基本、わかっていらっしゃいますから、大丈夫でございますよ。 / 口車大王 ( 2000-09-09 09:19 )
口車大王 さま 「日本語練習帳」を手に取ってみたくなるような書評に感動!! こっこもこんな書評を書けるようになりたいです。 / こっこ ( 2000-09-09 01:55 )
最近、どういうときにヒット数が延びるか、読めませんなぁ。「日本語練習帳」でベストテン入りするとは、思わなんだ。 / 口車大王 ( 2000-09-08 23:50 )
おとじろうさま、書評を書いた甲斐があるというものですわ。 / 口車大王 ( 2000-09-08 12:58 )
「い、痛い!」痛いところを衝かれた。日記を書き始めた私に今一番必要なものは、まさにこれ。PCはその次だわ。ありがとうございます。さっそく入手します。 / おとじろう ( 2000-09-08 11:07 )
それにしても、14時間で日記一覧から消えてなくなるようになるとは。 / 口車大王 ( 2000-09-08 03:24 )

2000-09-07 [書評]『ポーランド』ジェイムズ・A.ミッチェナー/ 工藤幸雄訳/ 文藝春秋

 長々と「そこ」の話にお付き合いいただき、ありがとうございました。「完結編」と書きましたら、急にヒット数もあがったようで。

 さて、本日は時間もございませんので、簡単に「そこ」の話の参考資料にした本を紹介しておきたいと思います。

 本書は、小説仕立てで、ポーランドの歴史をずっと追っかけたもので、10世紀頃から1980年代半ばまでのことを書いております。著者はアメリカのジャーナリスト、訳者はポーランド在留日本人の間では、非常に知られた文学者です。

 本書のあとがきでも書かれていますが、共産党政権ができてからの内容は、当然執筆に当たっての協力者がいるのですが、匿名で協力しています。名前がばれたら、どのような危害が及ぶかわからないからです。今では信じられないようなことですが、ほんの10年少々前までの社会情勢が、本書にも現れています。

 ポーランドのこと知るなら、この二冊。ただし、どうも絶版となってしまっているようで、図書館に行ってみて下され。


国会図書館OPAC情報

ポーランド  上巻  ジェイムズ・A.ミッチェナー‖著  工藤幸雄‖訳
出版地 :東京
出版者 :文芸春秋
出版年月:1989.12
資料形態:520p  20cm  2000円
原書名 :Poland.
ISBN:4163114602
NDLC: KS164
NDC : 933
請求記号:KS164−E247

ポーランド  下巻  ジェイムズ・A.ミッチェナー‖著  工藤幸雄‖訳
出版地 :東京
出版者 :文芸春秋
出版年月:1989.12
資料形態:482p  20cm  2000円
原書名 :Poland.
ISBN:416311470X
NDLC: KS164
NDC : 933
請求記号:KS164−E247

先頭 表紙

をを、読者がいた。こんなかたい本、読む人まずいないだろなと思っておりました。 / 口車大王 ( 2000-09-08 23:02 )
これ結構感動モンですよね、僕も一応読んで見ました。 / mishika ( 2000-09-08 13:33 )

2000-09-06 [昔話]口車、「そこ」について語る その8 完結編


 さて、こうしてアウシュビッツ・ビルケナウ博物館の訪問は終わりました。その日の夜はクラコフに泊まりましたが、その晩どこで食事をし、何を食べたか、全く覚えていないのです。3人でひたすら押し黙っていたような記憶が残っています。

 ヒトラーの若いころの人生を見てみると、それは挫折の連続です。それがなぜ、強大な権力を手にすることができたのか、私にはどうしてもわからないのですが、彼が、強い劣等感をかかえて権力者になったことはたしかです。そして、彼が考える理想の世界を作ろうとし、そこからはずれるものは、すべて抹殺しようとした。ですから、ナチスドイツが抹殺しようとしたのはユダヤ人ばかりでなく、自国民も含まれています。敵対者はもちろん、身体障害者や知的障害者、同性愛者も殺しています。いずれは、年寄りも殺していたのではないでしょうか。

 結果として、いたわりも思いやりもない、そんな社会を目指していたのがナチスドイツです。いたわりも思いやりもない社会では、いつ自分がやられるかという、恐怖の社会に変容していきます。劣等感を抱えた人間が権力を持ったらいかに恐ろしいか、ヒトラーがその典型です。

 歴史上、あそこまで徹底的に「殺人工場」を作り上げ、ジェノサイドを行ったのは、ナチスドイツのみです。アウシュビッツだけで、じつに一日に千人は、ガス室で殺しています。一気に千人も殺すということはどれだけ大変か、添付した写真でもわかります。しかし、程度の差こそあれ、虐殺は日本人もやっていることなのです。

 劣等感を抱えて思い上がった人間ほど、とんでもないことをする。アウシュビッツは、その明確な、歴史の証人でもあります。

先頭 表紙

親衛隊は精神的にもひどいことをしまして、「協力したらおまえの命を助けてやる。」なんてことをやっています。ですから生きるために親衛隊に協力的だった者ばかりか、密告者もいたはずなのです。口車思うに、ここでのそのようなノウハウが、戦後の東ドイツの密告制度に反映されたのではないかと、思っています。 / 口車大王 ( 2000-09-07 10:47 )
救出された生存者の中には,ナチに協力的だった者(通訳,死体運搬など)がいるわけで,その人物の解放後の心理を小学館の少女マンガ誌で(それも何度も)描いたのが「くるくる」で紹介した樹村みのりです。今なら企画段階で没だろうなぁ。……いずれにしても,お疲れさまでした。ありがとうございました。 > 大王様 / 烏丸 ( 2000-09-06 17:12 )
連載ありがとうございました。さすが大王様。 / ぽたりん ( 2000-09-06 14:29 )
後編の写真、ひとつ付け加えました。選別されてこれから殺される人達の不安な表情と、憔悴しきってはいるが、安堵感漂う生存者の表情の違いが、はっきりわかります。特に子供の表情が。 / 口車大王 ( 2000-09-06 11:54 )

2000-09-05 [昔話]口車、「そこ」について語る その7 口車、訪れる 後編


●口車、訪れる 後編

 ビルケナウから取って返し、我々はアウシュビッツ I に向かいました。ここには展示室があるせいか、ビルケナウよりは訪問者が多いようです。ビルケナウでは見かけなかった、観光バスが何台か止まっており、駐車場の先には、HOTELの文字も見えます。いったいだれが宿泊するのでしょうか。私は、願い下げです。

 記憶では、駐車場で車を降りて、すぐ建物に入ります。駐車場から展示室に向かっている人達は、しゃべりながら向かっていきます。ところが、すれ違う人達は、例外なくだれも無口で、うつむいて沈欝な表情です。

 最初の建物に入ると、解放後救出された人達のやせさらばえた裸体の写真パネルが、ずらっと並んでいます。先ほどまでいた、ビルケナウの「現実」を見せつけられます。そして、解放されたときの映画の上映。言葉を失います。

 続いて中庭を通り抜け、"Arbeit Macht Frei."(働けば、自由になる)と書かれた門に向かって歩いていきます。その先には、現在展示室となっているレンガ作りの建物が続いています。ここで、我々はさらに息を飲むことになります。

 順路にしたがって歩いて行き、ある部屋の左手を見た瞬間、幅5メートル、奥行き3メートルはあろうかという、大きなガラスケースが目に飛び込みます。そこには、何と、数千人分はあるかという女性の髪が、三つ編みのリボンもそのままに、ガラスケースに展示してあります。

 ビルケナウ収容所に送られたユダヤ人は、「シャワーを浴びさせる。」と言われ、ガス室に入れられます。そして水の代りに毒ガスを浴び、クレマトリア(焼却炉)で焼却されます。死体から着衣をはがす手間を省いたのです。また、当初クレマトリアの建設が間に合わず、死体はバンカーで野焼きされていました。そのために、ビルケナウでは遺骨を踏みしめることになります。これらの髪の毛は、その殺された死体から刈り取ったのでしょうか。

 しかし、この髪の毛の山は、単なる序章でした。ガラスケースの展示から振り返った瞬間、さらに言葉を失うことになります。

 ガラスケースの反対側には、その髪の毛で編んだ絨毯が置いてあります。その隣には、死体を焼却したときに出る油から作った、石鹸が展示してあります。さらにその脇には、毒ガスシクロンBの缶が。さらに次の部屋へ進むと、死体からはぎ取られためがねと義足が、山のようになっています。

 ユダヤ人を殺して、使える「資材」は何でも使う。それはもう、家畜といっしょです。いや、家畜以下でしょう。家畜はちゃんと食事も与えられるのですから。ユダヤ人を筆頭に、ここで殺された人達は、単なる「物」でしかなかったのです。

 その直前までの、明白な生きていた証と死んだ後の姿を対比してこれでもかというくらいに見せつけられ、何を語れば良いのでしょうか。後ろから頭をひっぱたかれたような衝撃です。

 なぜ、展示を見終わった人達が、押し黙り、うつむいて戻ってくるのか、良くわかりました。我々も、その例外ではありません。

 ここが、ヒトラーの作り出した特別のものではないことは、その後の歴史が証明しています。我々日本人も、他人事ではないのです。

 合掌  完結編へ

先頭 表紙

博物館で上映している、解放当時の映画を見ると、妙に収容者が少ないのですね。自分で歩ける人達は、第三帝国領内奥地へ連れていったのです。すでに書きましたが「死の行進」というやつです。厳冬の1月に移動していますから、ばたばた移動中に収容者は死んだようです。ただ、親衛隊も相当あせっていたようで、撤収から逃れて収容所に残った人もいますし、建物もすべて壊しきっていません。 / 口車大王 ( 2000-09-06 08:55 )
烏丸が「ここ」について知ったのは,中学のときに担任に薦められて本を読んで,でした。当時と比べても,「ここ」や「広島」「長崎」をきちんと語る本があまりに少ないように思います。あるいは少年コミック誌などに「ここ」や「広島」「長崎」「水俣」等について掲載されることがすっかりなくなったことも非常に気になります。実は広島の記念館さえ,むちゃくちゃヌルいわけで。 / 烏丸 ( 2000-09-06 00:56 )
刈り取られた髪の毛がドイツ内に送られ,クッションの詰め物の材料にされた,という話を読んだことがあります。すると,物持ちのよいドイツの家では,何も知らずにそのクッションを大切に使っている,ということもあるのでしょうか。ルフトハンザに感じられる勤勉,清潔とのあまりのギャップにくらくらしてしまいます。 / 烏丸 ( 2000-09-06 00:50 )
ドイツの敗戦が決まって、アウシュビッツは証拠隠滅ラッシュだったそうですね。近年「ホロコーストはなかった」という主張を展開する人がいます。そういうウソで歴史捻じ曲げをさせないよう、アウシュビッツービルケナウは永久保存されなければならないのですね。 / ドイツ語会話を挫折した私 ( 2000-09-05 22:45 )

2000-09-04 [昔話]口車、「そこ」について語る その6 口車、訪れる 前編


●口車、訪れる ビルケナウの巻

 皆さま、永らくお待たせいたしました。いよいよ、本編です。

 19XX年8月のある日の午後、口車はポーランドに遊びに来た弟とともに、口車の居住地のプォーツクでチャーターしたタクシーのおぢさんの車で、宿泊先のクラコフからオシフィエンチムへ向かいます。天気は快晴、東独製トラバントの空冷エンジンは、独特のエンジン音を軽やかに響かせます。緑豊かな盛夏のポーランドの平原の中を、ああ、なんと気持ちの良いドライブでしょう。

 1時間少々走ったころでしょうか、鉄道の陸橋を越えると、眼前に刑務所の監視塔のような建物が飛び込んできました。そうです、ビルケナウです。タクシーは、監視塔の下のゲートから、構内に滑り込みます。そして、駐車場に静かに止まります。おもむろに、3人は車を降りました。するとどうでしょう、今まで雲ひとつなく快晴だったのが、一転にわかにかき曇り、突然突風が吹きつけ始めました。まるで、ここで理不尽に殺された人達の怨念の声を届かせようとするかのように、その風は膚にちりちりします。

 我々3人は、展示コースになっているバラックへと向かって歩きます。建物に入った途端、鼻孔に異臭が飛び込んできます。もう何十年も経つのに、仄かに異臭が残っているのです。粗末な建物の中の粗末な二段ベッド。冬場には、氷点下摂氏20度にもなろうかというこの地で暖房もなく、ろくな食事もなく、いつ殺されるかわからない、いつのたれ死ぬかわからない、絶望的な状況の中で、ここに押し込められた人達は、如何にして生きる希望を持ち続けたのでしょうか。年月を越えてなお残る異臭の中に、ここに暮らした人達の、情念が伝わってきます。ただ、そこに立っているだけで、気持ちが重たくなっていきます。

 バラックを通り抜けると、目の前にモニュメントが広がります。今はもう覚えていないのですが、鎮魂の文言が数カ国語で石碑に刻まれています。その奥には、ナチスドイツが証拠隠滅のために爆破し、廃虚となった死体焼却場クレマトリアが見えます。ここで行われたことに思いが至るとき、口をついて出る言葉はありません。相変わらず空はどんよりと灰色、風が止むことはありません。

 それにしても、寒いわけでもないのに、なぜこんなにぞくぞくするのでしょうか。

 後年、イギリスのグラナダテレビ製作のドキュメンタリーを見て、戦慄を覚えました。このドキュメンタリーは、ビルケナウの生存者が再びこの地を訪れるというもので、彼女は我々が歩いたのと同じ道を歩きながら、過去をなぞっていきます。そしてあるところで立ち止まり、そこの土を掘り返します。すると、犠牲となった人の人骨が、ぞくぞくと出てくるのです。

 我々は、犠牲者の遺骨を踏みしめて、歩いていたのでした。

続く

先頭 表紙

でも,掘ったらいたるところから出てきそう。 / 烏丸 ( 2000-09-07 16:13 )
をを、明るくなった。 / ぽた公 ( 2000-09-07 15:34 )
シリーズ終了で、この暗くなったバックも元に戻るのだろうか? / ぽた公 ( 2000-09-06 16:20 )
く、暗くなった。 / ぽた公 ( 2000-09-04 11:11 )
うーむむむ。 / 烏丸 ( 2000-09-04 00:57 )
をを… / ぽた公 ( 2000-09-04 00:16 )

2000-08-30 [昔話]口車、「そこ」について語る その5 口車、訪れる 予告編


 これまで、「そこ」について、どのような背景で設置され、現在はどのようになっているのかについて、長々と説明してまいりました。しかし、客観的な事実のみに記述をとどめ、ちくちくと膚を刺すような「こわさ」については、語ってまいりませんでした。いよいよ、口車が訪れたときの、こわい体験について語りたいと思います。

 しかしながら、残念なことに本日は時間がございません。ということで、本日は予告ということで、これまでとさせていただきたいと思います。せっかく「桟敷席」に置いていただいたにも関わらず、恐縮です。

 ああ、この文章を書いているだけで、ちりちり、ぞくぞく来ています。アウシュビッツ・ビルケナウ博物館のホームページにアクセスしてしまったことによって、どうも呼び寄せてしまったようです。

 ひまじんネットにリンク張ってしまいましたから、ほら、皆さんのところにも。。。

続く

先頭 表紙

ドイツ語会話学校を脱落した私様、私の日記にもその写真を貼り付けましたが、入口の文言は"Arbeit Macht Frei."です。訳すと「働けば自由になる。」と言ったところですか。とんでもないうそっぱちですね。ワルシャワの戦争博物館は、ワルシャワ蜂起の時の武器も展示されています。中でも目を引くのが、ドイツ軍が使ったリモコン式の戦車「ゴリアテ」。全長1メートルくらいのちっこいこのですが、こいつに爆弾を積んで爆発させたわけです。 / おフランス語挫折した口車大王 ( 2000-09-02 22:55 )
7年前、私は軍事フリークの主人とアウシュビッツ・ビルケナウに行きました(ワルシャワの武器ゴロゴロ軍事博物館も)。入り口のドイツ語Arbeit Machat...(働けばナントカ)の標語、ド迫力でした。訪れた人みんな言葉にならないんですね。ここでその昔現実に起きた残虐シーンを考えると。子連れではまだ行きたくないな。でも、ポーランドとハンガリーはまた行きたい。 / ドイツ語会話学校を脱落した私 ( 2000-08-30 22:47 )

2000-08-29 [昔話]口車、「そこ」について語る その4 博物館


博物館

 1947年、ポーランド議会は収容所のうち、アウシュビッツIとアウシュビッツII(ビルケナウ)を「アウシュビッツ・ビルケナウ博物館」として永久保存することを決めます。そして、1979年、「アウシュビッツ・ビルケナウ博物館」は、ユネスコ世界遺産として登録されます。後年、広島の原爆ドームも世界遺産として登録され、第二次世界大戦の大量虐殺の「遺跡」は、こうして人類の負の遺産として、保存されることとなりました。

 アウシュビッツIのレンガ作りの建物は、展示室として利用されています。また、ここに、訪問者のための受付施設があります。

 ビルケナウ収容所は、入り口の監視所、バラックの一部、そしてSSによって爆破破壊されたガス室とクレマトリアが、そのまま保存されています。古い写真には入り口のところに鉄道が走っていますが、現在、鉄道はなくなっています。

 アウシュビッツの元々のポーランドの地名はオシフィエンチムであり、現在のポーランドの地図を見ても、アウシュビッツという地名は見当たりません。アウシュビッツIは、オシフィエンチムの市街中心から約3キロ、アウシュビッツII(ビルケナウ)は約5キロの位置にあります。それぞれの距離は、約3キロです。落ち着いて見て回るには、半日は考えておいたほうが良いでしょう。

続く

先頭 表紙

2000-08-28 [昔話]口車、「そこ」について語る その3 建設から解放まで


●建設から解放まで

 ポーランド占領の翌年、1940年の半ばに、ナチスドイツはポーランドの古都、クラコフ西方60kmのオシフィェンチムをアウシュビッツと改名し、当地のポーランド陸軍の兵舎を、収容所として転用します。これが、後世絶滅収容所と呼ばれる施設の始まりです。アウシュビッツの収容所には、まずポーランド人の知識階級、政治犯が収監され、殺されました。続いてソビエト軍の捕虜、ジプシー(Roma)、その他の国の囚人が収監され、殺されていきます。劣悪な環境と拷問、そして人体実験によってです。さらにヒトラーは、1942年の初頭、アウシュビッツを「ユダヤ人問題の最終解決」の場とします。ここにアウシュビッツ収容所は、歴史上最大の、ユダヤ人に対する大量虐殺の場へと、変容していきます。

 アウシュビッツはヨーロッパの真ん中に位置し、「貨物」の輸送が容易であったことで、どんどん拡張されます。アウシュビッツ絶滅収容所は、ポーランド陸軍の兵舎を転用したアウシュビッツI、1941年に、3キロ郊外に作ったアウシュビッツII(ビルケナウ)、1942年に6キロ郊外の工場に隣接して作ったアウシュビッツIII(モノヴィッツ)から成ります。アウシュビッツII(ビルケナウ)は最大のキャンプで、木造のバラックが建ち並んでいます。ここにガス室や焼却場(クレマトリア)といった、虐殺のための主な施設が作られました。ヨーロッパ各地から送られたユダヤ人は、ただちにビルケナウに送られて殺されました。また働ける者は、モノヴィッツの収容所に送られました。そして結局はビルケナウで、殺されます。そして、1945年1月27日、ソビエト赤軍が解放するまで、大量虐殺は続けられました。

 この4年半ほどの間に、110万から150万の人々が、この地で虐殺されました。

 戦争の終盤、ナチスドイツの敗色濃厚となると、収容所を管理していたナチスドイツ親衛隊(SS)は、証拠隠滅のため収容所を破壊し、歩ける囚人をドイツ第三帝国本国の奥へと、連れ去ります。「死の行進」と呼ばれているものです。ソビエト赤軍には、「死の行進」から逃れ、収容所の中に隠れていた人達が救出されました。ビルケナウ収容所には、現在爆破されたガス室とクレマトリアが、そのまま保存されています。

続く

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あ、すいません、余計なちゃちゃ入れちゃって。 / こすもぽたりん ( 2000-08-28 12:11 )
その答えは、もうちょっと待って下され。 / 口車大王 ( 2000-08-28 10:45 )
私はいわゆるアウシュビッツについて、これまで「アウシュビッツ-ビルケナウ」と呼んできましたが、「アウシュビッツII」が正しかったわけですね。ふむふむ。 / こすもぽたりん ( 2000-08-28 08:45 )

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