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口車大王「旅のおもひで」

 
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外から見ると、まことに不思議な台湾の政治
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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-11-23 [Czech]外務省など
2005-11-19 [Czech]塔の街
2005-11-12 [Czech]インターネットカフェ
2005-11-06 [Czech]トラムに乗って
2005-11-03 [Czech]芸術家の家
2005-11-02 [Czech]ユダヤ人街
2005-10-31 [Czech]ソビエト連邦の頸木
2005-10-30 [Czech]秋の広場とヤン・フスの銅像
2005-10-29 [Czech]ガイド氏登場
2005-10-29 [Czech]宇宙時計−ああ、やはり


2005-11-23 [Czech]外務省など


 骨董品屋さんがあるあたりから坂を下ってきて、塔が見渡せる場所の左手に、今は外務省として使われている建物がある。これも由緒ある宮殿だそうだ。その向かい側にも宮殿がある。とにかく、宮殿だらけである。そして、プラハの街が一望できる。

 一番下の写真は、熱弁を振るうガイド氏。ほんとになまりのないきれいな英語をしゃべる。

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2005-11-19 [Czech]塔の街


 プラハは「塔の街」と言われるくらい、街の中に塔が多い。プラハ城がある丘の上からだと、ことさら塔が目立つ。写真の塔、ガイド氏にいろいろ説明してもらったのだが、どのような由緒であったか忘れた。

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2005-11-12 [Czech]インターネットカフェ


 トラムで丘を登り、プラハ上の裏手に出る。停留所からは一番上の写真のような家並が続いている。この写真の広場に面して、インターネットカフェがあった。うーん、入り口のドアが渋い。こんなに街の風景になじんでいるインターネットカフェ、初めて見た。すぐ隣には骨董品屋があるのだが、デザインがそろっている。ITと骨董品が調和している。

 この一角は骨董品屋さんが集まっているようで、楽器専門の骨董品屋さんもあった。時間があれば覗いてみたい一軒だった。

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2005-11-06 [Czech]トラムに乗って


 芸術家の家はブルタバ川に面していて、対岸への橋が続いている。この橋を渡って対岸に渡り、トラムに乗ってプラハ城に向かう。この橋はカレル橋の隣である。一番上の写真はそのカレル橋である。

 橋を渡りながらガイド氏に、チェコではすでに闇ドル市場は消滅してしまったはずなのに、路上で両替しないかと寄ってくる男がいることを質問してみた。ガイド氏によると彼らは詐欺師なんだそうである。お客をだましてちゃんと交換の紙幣を渡さなかったり、お客の紙幣を抜き取ったりするそうである。いかにもうさんくさそうな連中であったが、説明を聞いてなるほどと思った。

 プラハのトラムは古い車両も走っているが、かなり設備は近代化されていて、停留所には行き先が電光掲示板で表示されるようになっている。ちょっと驚きである。日本でこのようなサービスをやっている路面電車はなかったような気がする。

 この辺りまで来ると雲行きはさらに怪しくなり、冷たい風も吹き出した。かなり寒い。トラムがやって来るまで10分と待たなかったのだが、結構冷えた。一番下の写真はツアーの同行者のイギリス人の皆さんだが、彼らのコートの感じで寒さが伝わるだろうか。

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2005-11-03 [Czech]芸術家の家


 朝から曇天で気温も肌寒い日であり、今にも雨が降りそうな雲行きである。しかしながら、何とか持ちこたえている。

 ユダヤ人街を抜けてブルダバ川の河畔まで出てくると、「芸術家の家」がある。この建物は1884年に建てられ、ドボルザークホールもある。チェコ・フィルハーモニー等がコンサートを行うホールでもある。

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2005-11-02 [Czech]ユダヤ人街


 30分以上秋の広場の真ん中で説明を聞き、ようやく聖ミクラーシュ教会の方へ向かって歩く。そこから西へブルダバ川へ向かって伸びている通りへと入った。

 ガイド氏によると、ここはユダヤ人街なんだそうである。広場に接してユダヤ人街があるのは、昔広場でユダヤ人が奴隷市場を開いていたことに関係するのだろう。広場で見たチェコ独特の建物とは雰囲気が異なる。ナチスドイツによってユダヤ人は一掃されてしまったが、今、ここには誰が住んでいるのだろうか。

 記憶では、左下の写真がカフカの住居があった建物のはずである。

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2005-10-31 [Czech]ソビエト連邦の頸木


 ひとしきり広場に面した建物等の説明が終わると、ガイド氏は広場の北に延びる道路の方向を指さし、その方向の写真を見せてくれた。写真の中には巨大なモニュメントが映っている。いったい高さはどれくらいあるのだろうか。ヘルメットを被って銃を持った兵士が突撃して行く構図である。旧共産圏には、こんな感じの像がやたら建っていた。それが、現実にはきれいさっぱり目の前から無くなっている。

 ガイドし曰く、途中まで作りかけたところで共産主義政権が崩壊し、その後全部取り壊してしまったそうだ。そりゃそうだろう。あんな巨大な像があったら、鬱陶しい以外の何者でも内。ポーランドのワルシャワには、やはりスターリンが作った文化と科学の宮殿という鬱陶しい建物があるが、一応こちらは実用的であり、実際現在も使われている。

 本当に、変わったもんである。

 そんな説明を聞いていたら、目の前に老婦人が運転するオープンカーがやってきて駐車した。かなりの年季ものである。それにしても運転姿がさまになっている。

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2005-10-30 [Czech]秋の広場とヤン・フスの銅像


 ツアー参加者の自己紹介後、ツアー開始。宇宙時計の前から広場のど真ん中に移動。写真は、旧市役所から時計回りに広場に面した建物を撮り、最後は広場の真ん中にあるヤン・フスの銅像である。

 旧市庁舎の建物の右端の辺りに、柱状のカトリックのモニュメントがあった。1918年、オーストリア・ハンガリー帝国が第一次世界大戦に敗れると、民衆はこの柱にロープをかけ、引き倒してしまった。ハプスブルグ家支配の象徴だったのである。こうして、1437年から500年近く続いたハプスブルグ家の支配は終焉を迎えた。

 ガイド氏は当時の写真を見せてくれた。しかし、背後の建物の写真は今目の前に見える建物と形が違う。旧市庁舎の建物が、写真の中ではもっとずっと右の方まで続いているのだ。これは第二次大戦中、戦局不利になってプラハを占領していたナチスドイツが撤退するとき、旧市庁舎の建物に爆薬をしかけ、破壊して行ったからだ。1338年に作られた建物(宇宙時計の塔は1364年、時計は1490年)をである。幸い、宇宙時計のある塔の部分は破壊を免れた。プラハの町並は戦争の傷跡がないと聞いていたが、例外ではなかった。

 上段右の写真は聖ミクラーシュ教会。12世紀に創建され、18世紀にはバロック様式に改築されて現在はフス派の教会になっている。この日の夜、ここでコンサートを聴く。

 中段左の写真の建物は、13世紀末に建てられたゴシック様式の「石の鐘の家」である。建物の右の角に、鐘がぶら下がっている。その左隣にちょっと見えているのがゴルツ・キンスキー宮殿で、国立美術館となっている。

 中段右の写真はテイーン聖母教会。夜はライトアップされて、ものすごく目立つ。正式には「ティーン(税関)の前にある聖母教会」と言う。1135年に建てられたが、1365年にゴシック様式に改築され15世紀前半にはフス派の拠点となった。しかしながら、現在はカトリックの教会である。ここで、イギリス人の一人から「教会税はどうなっていたか。」という質問が出た。日本人だけで見学していたら、絶対出てこない質問である。

 写真下段左の建物群は、チェコの典型的な建物の様式である。ガイド氏は街の真ん中になぜこのような広場があるか説明してくれたが、これは奴隷市場のためにあったのである。広場の真ん中に奴隷を集めた。ヨーロッパ各地にこのような広場が見られるが、機能としては同じであろう。ガイドしによれば、奴隷市場はスペインからやってきたユダヤ人が始めたという。レ・コンキスタ(国土回復運動)の結果、イスラム教徒に支配されていたスペインはキリスト教徒がとり戻したが、同時に、ユダヤ人への圧迫が強くなった。その圧迫を逃れたユダヤ人が、プラハにまでやってきたと思われる。

 下段右の写真は、広場の真ん中にあるヤン・フスの銅像である。チェコの人口の60%はカトリックであるという国で、いかにヤン・フスはチェコの人とは言え、プロテスタントの先駆者である。そんな人の銅像がなぜあるのかガイド氏に質問すると、これは第一次世界大戦後に作られたという。当時、ほとんどがフス派のプロテスタントとなったチェコ人であるが、ハプスブルグ家の支配によってカトリックに改宗することを半ば強要された。結果として現在もカトリック教徒が多いが、オーストリア支配への抵抗のモニュメントとして、またチェコが生んだ偉人として、チェコのアイデンティティとして銅像が作られたようである。

 非常に面白かったのだが、この広場ですでに30分以上を経過した。本当に4時間で終わるのだろうか。

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2005-10-29 [Czech]ガイド氏登場


 宇宙時計の時報が終わると、周囲の観光客はあっという間にいなくなった。気がつくと、ここはミーティングポイントとして最適なのだろう、何人か手にプラカードを持ってツアーの客を待っているガイド会社のスタッフがいる。その中で、私が見つけたツアーのスタッフの女性を見つける。予約はなくて飛び込みだったが即座にOK。ガイドが来るのを待っていてくれと言われる。

 5分ほどしてガイド氏登場。写真左側が集合場所で待っていた女性スタッフ、右側がガイド氏である。非常にわかりやすい、きれいな英語を話す。このツアーの客は総勢7人。6人は全員イギリス人で、日本人は私一人。後でわかったが、イギリス人は4人と夫婦2人の2グループであった。

 ガイド氏はプラハの出身。歴史など実に詳しく調べている。幸いだったのは、参加者全員興味がいっしょで、ストレスなく市内観光ができたことである。しかし、4時間コースのはずがすごいことになってしまった。

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2005-10-29 [Czech]宇宙時計−ああ、やはり


 2002年10月18日金曜日、この日は会議も終わり、1日自由である。前日、ホテルに置いてあったチラシの中から、プラハ市内を4時間歩いて見て回る市内観光のコースを見つけた。英語でのガイドである。ヨーロッパでの日本人の日本語によるガイドは、こう言ってはなんだがちゃんと勉強している人はあまり見かけない。だから、日本人のガイドには突っ込んだ説明というのを期待できない。そこで、現地人の英語によるガイドを選択することになる。集合場所は宇宙時計の下である。安いホテルで電話がホテル内にないので、予約せずに直接行ってみることにする。集合時間は午前10時。多分、この時間だと宇宙時計が動くのも見ることができるだろう。

 ホテルから宇宙時計のある秋の広場まで、歩いて10分とかからない。路面電車のある通りから路地を抜けると、いきなりだだっ広い広場に出る。その向こう側の正面に見えるのが旧市役所の庁舎で、その干鱈側の面に宇宙時計はある。途中の路地裏に屋台の土産物屋とかあるが、プラハで困るのは、土産物にちょうどいいような小物に、これはと思うものが見つからないことである。広場からカレル橋への路地の両側に土産物屋がずらっと並んでいたが、中途半端である。チェコグラスなんか、ここで買うより日本で買ったほうが良いものが手に入る。

 宇宙時計の前には10時5分前に到着。まだチラシの観光ガイドのスタッフとおぼしき人は見えない。時計の前にはすでに観光客が大勢集まっている。日本でも、東京の有楽町マリオンにもからくり時計が合ったりするが、日本の街頭のからくり時計の原形がこの宇宙時計である。有楽町マリオンの時計をイメージして、時報とともに聖人の行進が続くのを期待して待った。

 10時の鐘が鳴った。そして、宇宙時計の聖人が出てくる窓が開いた。あれ?え?もうおしまい?

 窓から聖人が見えたと思ったら、あっという間に窓が閉まってしまった。開いていた時間は1分となかったであろう。世界的に有名な観光地とか名所は、実際に行ったり見たりするとものすごくがっかりすることが多いが、宇宙時計もまさにそのひとつであろう。日本の時計の技術のすごさが改めてわかる。

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