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2002-11-30 傷(2) |
2002-11-30 傷(2) | |
次の記憶の中で、彼は私の恋人だった。とても気持ち良く晴れた初夏の午(ひる)、私たちはレストランのテラスで食事をしていた。木々の緑と、生成りの帆布のパラソルの作る影の下、彼はクリームスパゲティ、私は魚介のアラビアータを注文した。まっ白で、つるりと円い皿の縁には、グリーンの縁どりが入っていた。彼の開襟シャツの胸元には、プラチナの太い鎖がかすかに見えていたが、それはちっとも嫌みではなく、実によく彼に似合っていた。 「これ、おいしいよ」 私は、大きなほたてを一つ、フォークで掬って彼の皿へ移した。 緑色の壜から薄い琥珀色のアップルタイザーを注ぐと、細かい空気の粒がキラキラと光りながらグラスの中を昇った。その泡がはじける、チチ、チチ……という小さな音を聞きながら、私は幸せだと思った。心の底から。そして、彼の口唇がアラビアータのソースで紅く染まるのを、確かに私は見た。 ぐずぐずに熟れ切った果実のような、真っ赤な夕日が沈む。私はサンダルを右手に下げて、裸足で道路を歩いていた。昼のうちに鉄板のように太陽に焼かれて、まだその余熱を蓄えたままのアスファルトは、温かく、ざらざらと心地が良かった。 そして私は、道路脇の側溝の中にうつ伏せに寝そべっている彼を見つけた。 「どうしたんですか」 思わず傍へかがみ込むと、彼は、大型の鳥を思わせるようなまっすぐな瞳で私の目を射た。そして、差し伸べた腕を掴んだ。助け起こそうと、ぐっと力を入れると、彼の腕にもまた力が入り、私の掌の中で、その筋肉が張った。 彼は立ち上がって、服についた汚れを払った。夕陽の光を受けて、シャツの襟元に銀色の鎖がきらりと光った。アスファルトに擦れたのか、口唇の端が切れていて、そこから紅い血が滲んでいた。 「あの、怪我を……」 彼は手の甲で傷をぬぐって、言った。「ありがとう」 そして彼は、背を向けて歩いて行った。 その時から、なにかわけのわからない、チチ、チチ……という小さな電子音のようなものが、私の後頭部で鳴り始めた。そして、その日からずっと、音は止むことなく、今も私の頭の中で鳴り続けている。病院に行っても、原因は一向にわからないままだ。 |
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2002-11-17 手(1) | |
わたしは、今、裏通りの喫茶店の二階で、この文章を古びたノートにしたためています。今、午後の3時17分。こうして思い出話を書き留めることに、特に深い意味はありません。ただ、わたしは6時までここで時間を潰さなければならないのです。 わたしが生まれてはじめて男の人を異性として意識したのは16歳。高校2年生のときでした。今でもはっきり覚えています。当時、わたしの斜め前は、緒方君という、剣道部の男の子の席でした。緒方君はクラス委員を務めていましたが、授業中はしょっちゅう居眠りをしていました。その席は教卓のすぐ正面だったので、わたしは、「先生の真ん前でよくあんなに眠れるなあ」とおかしな感心をしていたくらいです。 それは数学の時間でした。わたしは数学が嫌いでした。その時のわたしには、そもそも数学を学ぶこと自体に何の意味があるのか、まったく理解できていませんでした。数学の時間はほとんど先生の話も聞かずにぼんやりしているのが常でした。そして、退屈まぎれに周囲を見渡していたわたしは、そのとき突然、本当になぜか突然、斜め後ろから見える緒方君の手に釘付けになってしまったのです。 |
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2002-11-17 手(2) | |
それは、ごつごつとした、骨ばった手でした。それはどこか、波打ち際で長いこと潮に洗われて、すこし角がとれた、白い動物の骨を連想させました。わたしは思わず、自分の両手を机の上に並べてみずにはいられませんでした。するとわたしの手は、黄色くて不恰好とはいえ、緒方君の直線的な手に比べたらやはりずっと流線的で、やわらかく、華奢だったのです。同じ人間の手には違いないのに、彼の手とわたしの手はなんて違うんだろう。 |
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2002-11-17 手(3) | |
けれどもわたしは、千夏ちゃんに対して「へえ、なかなか人を見る目があるなあ」と感心したくらいで、焦りやショックといったものはまったく感じませんでした。私が緒方君に感じていたのはあまりに漠とした好意のようなものだったがゆえに、「なんだ、千夏ちゃんもなの。わたしもそう思ってた」などと、同意することさえもできなかったのですが。 |
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2002-11-17 手(4) | |
大学でのわたしの専攻は史学でしたが、入学してからほんの一か月もしないうちに、自分が進路の選択を誤ったことをはっきりと思い知らされました。歴史の暗記が得意だということだけで史学科に入ってしまったことが、わたしの、最大にして根本的な間違いでした。始まったばかりのわたしの大学生活は、幻滅と後悔、そして強烈な自己嫌悪に彩られていました。 |
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2002-11-17 手(5) | |
今、珈琲の香りと煙草の煙の中にこうして並べてみる自分の手は、あのとき教室の机の上に並べてみた手よりもずっと歳を重ねてしまいました。けれども、わたしが「手」といって思い浮かべるのは、やはりあのころの手ではなく、今この瞬間の自分の手に違いありません。 わたしは今でもたまにふと緒方君を思い出します。昔と変わらぬままに、黒い学ランを着て、机で居眠りをしている、わたしの中の緒方君。ろくに話をしたことさえないとしても、緒方君はわたしにたくさんのものをくれました。大人になるための、たくさんのものを。もし今、緒方君に会うことができたら、わたしはその手に触れてみたいと思うのでしょうか? あの、波打ち際で長いこと潮に洗われた、白い、骨のような、手に。……それとも、緒方君の手は、長い年月を経て、もっと美しく変わっているのかしら。 |
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2002-10-12 言葉を綴る愉しみ | |
どうせ自由にものを書くならば、できるだけ自分の好きなこと、思い入れのあることについて書くべきだ。そういったものは、そうでないものより、豊かで複雑な、より言葉にするのに困難な感覚を私にもたらしてくれる。 |
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2002-10-03 稲穂の海 | |
今、わたしの周りには稲穂の海が広がっている。手を上げてバランスを取りながら細いほそい畦道を辿る、後ろからは年老いた愛犬がついてくる。ふと足を止めて見渡せば、黄金色に色付き始めたその海に、秋の匂いのする風が渡ってゆく。さあっ、さあっと、ゆるやかに稲を薙いでゆく。まるでほんものの波のよう。そしてその波の向かう先には、筑波の紫峰がおだやかな稜線を描いている。どうということのない風景なのに、その何と美しいことか。わたしは言葉を失って、ただそれを見つめる。自然と涙がこぼれそうになる。 |
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2002-09-29 想い | |
おだやかに |
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2002-09-27 金木犀 | |
千鳥格子のスカート |
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