himajin top
青い角砂糖


目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-07-04 楽園の砂
2002-06-30 青とあをのあいだ
2002-06-16 ジャム人間
2002-05-13 オムレツ
2002-05-10 左手の思い出
2002-05-10 銃痕(了)
2002-05-10 銃痕(12)
2002-05-09 銃痕(11)
2002-05-08 銃痕(10)
2002-05-03 銃痕(9)


2002-07-04 楽園の砂

楽園の白い砂を噛んで
僕は大人に成ったよ。

砂に混じった薄い貝殻の欠片が
折れたカッターの刃のように
唇を裂いたけれど

赤く濡れたその口で
笑ってみせたのさ、

ぱっくり、ぱっくり。

もうやめろって誰かが呟いている。

先頭 表紙

wahahahaha. / M ( 2002-08-18 01:48 )
それでも僕は笑い続けた・・・ / みかりん ( 2002-07-06 09:22 )

2002-06-30 青とあをのあいだ

 
 
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 
 
 若山牧水のそのうたを、カッターナイフで机に刻みつけたのは、暑い夏の放課後のことだった。グラウンドからは、県大会を間近に控えた野球部の連中の掛け声と、金属バットがボールを弾く、澄んだ音が、響いていた。
 以来、机に刻みこまれたこのうたが、退屈な授業中の、僕の慰めとなった。教師たちが黒板に向かって板書をしている間、その三十一文字(みそひともじ)の感触を指先で確かめ、呪文のように何度も心の中で繰り返し、僕は人知れず、厭くことのない陶酔を味わった。

 しかし、夏休みが過ぎてしばらくが経ち、体育祭の準備でクラスが浮き足立つころ、登校した僕は、自分の机の、大切な呪文の隣に、見覚えのない落書きがあることに気づいた。
 

鳥は、飛んでいるとき、自分の体を見ることはできない。だから哀しくはないと思う。
 

 かわいらしく、丁寧で几帳面な文字。あきらかに女子のものと思われる筆跡だった。僕は、思わず顔が火照るのを感じた。そして、少し迷った後、周囲を見渡して、誰も自分に注目していないのを確かめてから、急いで消しゴムで消した。

 それから僕は、ことあるごとに、それとなくその筆跡の持ち主を探した。結論から言えば、それは見つからなかった。いったい誰があの言葉を記したのか、可能性は同じ学校に通っている女子生徒すべてにあったけれども、全員の筆跡を調べるには、さすがに限界がある。少なくとも、同じクラスの女子の中には見当らなかった。

 それから数ヶ月が流れ、僕は卒業式の日を迎えた。もしかすると、僕の探していた誰かが名乗りをあげてくれるのではないかという淡い期待をしていたが、結局、何もなかった。
 僕は、別れを惜しみあうクラスメイトたちの声で心地よくにぎわう教室の中、自分の机をまじまじと眺めた。今日を境に、二度とこの机を使うことはない。そう思うと妙に感慨深いものがあった。そして、最後にもう一度だけ、机にカッターナイフの刃先を食い込ませて、僕は、高校を卒業した。
 沈丁花の蕾がふくらみ始める、晴れた風の強い日のことだった。
 

白鳥は何を思っているか
ただ僕は僕の思うところを知る ――― 19**.3.1.

先頭 表紙

成程! 美しい詩をありがとうございました。おいしい葡萄酒を飲みたくなりました。 / M ( 2002-08-18 01:48 )
私にも真似させてください。五色の鳥は何をおもっているか  / アナイス ( 2002-07-07 02:18 )
鳥の視野は人間のそれより広いはず。もしかすると飛びながらでもきちんと自分の体のいろは見えるのかもしれません。あしからず。 / M ( 2002-06-30 04:28 )

2002-06-16 ジャム人間

べっとりしたジャムを
からだじゅうに塗って出掛けるよ
ペクチンのキラキラですべてを覆って
あまい匂いをふりまいて

黄金のママレード
鬱血のストロベリー

ただ おいしいジャムが欲しくって
みんな後をついてくるんだ

朝焼けのアプリコット
すみれ草のブルーベリー

鮮やかに塗りわけられたぼくの
からだのどこにも 希望なんてない

なのに おいしいジャムが欲しいって
みんな後をついてくるんだ

先頭 表紙

Ishmaelさま、私はジャム人間ではありません。私は嬉しくなりましたが、ジャム人間は張りつめているかもしれません。コピーについては、事後でかまいませんので、どこでどのようにお使いになったか教えていただければ嬉しいです。(教えるのはちょっと……と思われるようでしたら、教えていただかなくてもかまいません) / M ( 2002-07-03 01:42 )
・・そうですか。落涙寸前の張りつめた空気、を感じましたが。そういう時に限って幸せそうだと言われたりするものだ。   鬱血のストロベリー、朝焼けのアプリコット。美味そうですね。この一節、コピーしておいて別の場所で使わせていただいてもよろしいですか。(詩など創作物に流用したりはしません) / Ishmael ( 2002-07-02 07:00 )
みかりんさま、初めまして! 私も嬉しいです。 / M ( 2002-06-30 04:15 )
変なところは舐めないでくださいね、アナイスさま。 / M ( 2002-06-30 04:13 )
なんだか嬉しくなってきました。。 / みかりん@初めまして^^ ( 2002-06-16 22:30 )
舐めちゃうもん。ペロリ / お待ちしてました! ( 2002-06-16 01:16 )

2002-05-13 オムレツ

「何、作るの、」
「そうだな、オムレツとサラダにするかな、」
「何のサラダ?」
「キュウリとアボガド。」
「アボガドなんて食べるの。」
「食べるさ。」
「そういえば昔、ケチャップでオムレツに好きな人の名前書いたりしなかった?」
「したよ。小学生くらいの時にね。」

 ぽってりと健康的な手応えをもって卵が落ちる。
 透き通った粘液がいささかエロティックに糸を引く。
それに包まれてつややかに光る卵黄の、そのさながら完璧な、完成された丸みに箸が突き立てられる時、サディスティックな快感が微弱な電流のように私の体内を走った。
 そして二つの卵は混ぜ合わされ恋をするように一つになる。
 温められたフライパンの上では、細かく刻まれたガーリックとバターが良い匂いをたてている。
 バジルも振るといいかもしれない。
 焦さないように、ふっくらと焼けるように、火は弱めにするのだ。
「私も誰かと、残酷な調理人の手で一緒にされて、フライパンの上で焼かれてしまえればいいのに。」
 私は切実にそう願った。

先頭 表紙

2002-05-10 左手の思い出

彼は私の左手を、オーディオ・セットの棚の、いちばん上のガラス戸の中に飾っている。彼がブルガリアの合唱曲を聴くとき、私の左手は、異国情緒溢れる、その繊細な不協和音に合わせて、かすかに身悶えをする。彼がボサノヴァを聴くとき、私の左手は、そのけだるいリズムに乗って、ちいさく飛び跳ねる。
 いずれにせよ、彼が私の左手に興味を向けることはほとんどなく、それは夕暮れの公園に置き去りにされた子供の玩具のように、ただそこに在るのみである。朝になり、母親が玩具を探しに現れて、片付けるよう促したとしても、子供はふくれっつらをして、ことさら冷淡な態度を取るのかもしれない。「もういらないよ」と。とはいえ、私の左手は玩具ではないし、彼も子供ではない。ましてや、母親役を演ずる第三者もいない。私の左手と彼の間にあるのは、”音楽”という、特別な価値を与えられた、空気の振動だけである。
 彼はアナログ・プレイヤーを持っていて、ときどき古いレコードをそれにかける。小鳥を指に乗せるように、ゆっくりと針を持ち上げる。ターンテーブルの上にレコードを載せる時は、誤って軸でレコードを傷つけないように、指紋をつけないように、息をつめ、真剣な面持ちで。ターンテーブルは優雅に回りはじめる。小さな灯りが、なめらかに回転するレコードを照らしている。漆黒のレコードはつやつやと輝いてとても美しい。まるで、長く豊かな女の髪のようでもある。レコードの音は、ときおり、ぷつ、ぷつ、というわずかな雑音を含んで、なおかつ柔らかい。私の左手は、その音に包まれながら、夢見るように記憶の彼方を彷徨いはじめる。

 私の左手の薬指には、古い銀の指輪が嵌まっている。この指輪は遠い遠い昔、一人の男の人が嵌めてくれたのである。しかし、私はもう、その人の名前さえ思い出すことができない。ただ、指輪を嵌めてくれたあと、その人はめずらしい、大切なものでも扱うように、私の左手をそっと取った。そして、ごつごつした自分の手と見比べて、どこかはにかむような笑顔を浮かべていたのだ。その笑顔はもはやぼんやりとしたイメージの集合体に過ぎないが、その手のひらのあたたかさは今でも思い出せる。
 あれから永遠とも思える歳月が流れ、私は幾多もの旅を重ねて、このアナログ・プレイヤーのある部屋に辿りついた。すでに還る場所は何処にもない。

 滅多にないことだけれど、彼はごくたまに、棚のいちばん上にある私の左手に注意を向ける。子供が、箱の奥底に入れっぱなしにしてあった玩具を思い出すように。そういう時、彼は私の左手にふっと息をふきかけて、白くつもった埃を飛ばす。そして、こわれものを触るようにゆっくりと触れる。その指先は雪花石膏のようにひんやりと冷たく心地がよい。
 けれども、彼はなぜだか、輝きを失った古い銀の指輪には決して触れない。だから私の左手は、彼にすべてを委ね、その指の感触だけを楽しんでいれば良い。
 彼はまた、私の左手を棚の中に戻し、カチリと音を立ててガラス戸を閉める。やがて、古い異国の民謡がゆるやかに響き出し、彼はソファーに身を沈めて、まどろむように目を閉じる。いつの日か、その静かな愛撫のあとで、ほかでもない故郷の音楽が流れる日を、私の左手は待ち焦がれているのかもしれない。もしそうなったとしても、私の左手は、左手であるがゆえ、懐かしさに涙を流すことすら叶わないのだけれども。

先頭 表紙

メールありがとうございました。またお返事書きます。筆不精で申し訳ございません。メールアドレスの入ったつっこみ返しは削除しました。 / M ( 2002-09-27 01:57 )
どうやら本当に勘違いをしていたようです、いろいろとどうも申し訳ございませんでした。遅くなってしまいましたがメールを送りましたので、どうぞご確認ください。 / Ishmael ( 2002-09-04 21:39 )
リクエストしてもいいですか。幸せな話が読みたい。「羊羹の夜」のような。 / Ishmael ( 2002-08-24 23:28 )
下のつっこみ、いかにももったいぶっていて嫌な調子ですね。自分で見直して苦笑してしまいました、失礼しました。どうぞ気を悪くされませんよう。 / Ishmael ( 2002-08-12 21:40 )
お知らせしたいので色々考えましたが、ここではやはり結果的に迷惑をかけることになるでしょう。そのため別の場所にお誘いしたのですが。M様は制約の多いこちらでのやりとりを愛しておられるのですね・・。所詮、とは申しますまい。悲しいとも。これからも黙ってあなたの意志を尊重しましょう。 / Ishmael ( 2002-08-12 05:41 )
それから、前回のつっこみ返しで、お名前をタイプミスしていました。失礼しました。 / M ( 2002-07-05 23:04 )
お返事ありがとうございます。もしかしたらとは感じていたのですが、鈍いもので、今になって漸く点と点がつながりました。嬉しい。クリムトの欠片、印象的でした。ところで、転用の件、了解致しました。光栄です。宣伝みたいだなんて、気を使っていただく必要はありませんよ。どうしたって悪いようには取りませんもの。 / M ( 2002-07-05 23:03 )
不親切で申し訳ありませんが、察して下さっていると確信していたので。勝手な思い込みだったかな。転用の件、コーナータイトルに使わせて頂きたく・・お知らせしたいところですが、M様の場所で自分の宣伝をするようで気が引けます。困りましたね / Ishmael ( 2002-07-05 07:45 )
了解いたしました と申し上げておきながら私は詮索をしてしまいました。ごめんなさい。でもどうやら、木陰に隠れていらっしゃるIsmaelさまの姿を見つけることができたみたい。まだすこし外れない知恵の輪もあるけれど。 / M ( 2002-07-05 00:44 )
了解いたしました。 / M ( 2002-07-03 01:38 )
申し訳ありません、勘違いでした。お忘れ下さい。 / Ishmael ( 2002-07-02 06:57 )
素早い反応……鳩の血の時……、私はまだIshmaelさまがどこにいらっしゃるのかわからないのです。こちらこそ野暮でごめんなさい。でも知りたいのです、教えてもらえませんか? / M ( 2002-05-29 01:02 )
説明不足で失礼致しました。過日に素早い反応を頂戴した物がそれです。本当に嬉しかったですね、鳩の血の時と同じく。ただし、あの旧作はM様にとって特別な作品群の一つとお察し致しますので・・。自分の立場は心得ております。先日あれを書いたきっかけは、こちらの作品の美しさに惹かれてつい、といったところでしょうか。つなげてみたくなったのですよ。遠い昔の、宝石のついた指輪を嵌めた白い手(の持ち主)とその故郷の音楽・・この世ならぬ旋律の由来もさりげなく添えて。(野暮なつっこみ、消していただいて構いません。) / Ishmael ( 2002-05-27 00:44 )
Ishmaelさま、申し訳ありません。あなたがどこにいらっしゃるのかわかりません。もしかしてもしかするとこれはわたしのかいたものを指しているのかしら??? と思えるものは見つけたのですが、それは左手に関するものではなかったし。もう少しヒントをいただけませんか? / M ( 2002-05-26 02:10 )
こちらと旧作との中継ぎを作ったのでした。美しい左手の由来。気づいていただけていたら嬉しいのですが。 / Ishmael ( 2002-05-24 06:49 )

2002-05-10 銃痕(了)

 

* * * 9 * * *

 
 一時間半ほどのミーティングを経て、「震星」の廃刊が正式に決定された。話し合いが多少長引いたとはいえ、別にたいした悶着があったわけではなく、その決定自体は実にあっさりとしたものだった。ただ、大量に残っている在庫をどう処分するかということで少し揉めた。
 話し合いを終えて外に出ると、夜はすでにその濃密さを増していた。それでも、蒸し暑い空気の中にときおり乾いた風が吹く。着々と季節は移り変わっているのかもしれない。
「……これからも詩、書く?」
 並んで歩きながら、私は小西に訊ねた。
「さあ、書きたくなったら書くし、そうでなかったら書かない。それだけだな。――もう書かないとか言うつもりは、無いよ」
 小西は澱みなく答える。まるで何かを吹っ切ったように。
「……おまえは?」
「まあ、ぼちぼち考える」
「また何か書いたら見せろよ」
「うん。そうする」
 そのまましばらく会話が途切れた。それを再開させたのは小西だった。
「……そういえば、話は変わるけど、おまえ、いつか、中学校の同級生が、猟銃のさ――あの事件の犯人だって話、しただろ」
「うん」
「時々、思わねえか? そいつが今、何をしてるのかって」
「――それは――思うよ」
 私は頭の片隅であの少年の笑顔を思い浮かべた。授業中に彼が言ってみんなを笑わせたジョーク。掃除の時、棚の上に手が届かなくて苦労していたのを、手伝って拭いてくれたこと。席が隣だった時、よく一緒にバカ話をして笑った。
「俺、たまに考えるんだ。俺の人生を通りすぎてった奴らはみんな今どこで何をしてるんだろう。本当に今もちゃんとこの世に存在しているんだろうかって。特に俺、勉強ばっかりしてたからさ。昔の思い出に、実体というか、実感がねえんだよ。まあ、そんなこと、別にどうでもいいんだけど」
 小西はジーンズのポケットに手を突っ込み、上を見ながら歩く。傘を、柄とは反対の方で握り、ときおり野球の素振りをするように振り回す。私はそれとは反対に下を向いて歩く。街灯の光を受けて、濡れたアスファルトが光っている。街路樹の陰が黒く歩道に落ちる。
 ――訊くべきかどうか迷った末、結局私は訊ねた。
「彼女は、あれ以来、どうしてるの」
 小西は少し驚いた表情をした。一呼吸を置き、眼鏡を外して胸ポケットに入れた。そして答えた。
「たまに電話する」
 ――でも、と言葉を続ける。
「向こうからは来ない」
 それは静かで落ちついた声だった。
 私は小さくため息をつき、右手に下げている紙袋――中には十何冊かの「震星」が入っている――の紐を思わずきつく握った。なぜか胸の底のあたりがつよく疼いた。その時、そのずっしりと重い袋の中に、彼女が最後に詩を載せた号が入っているのを思い出した。家に着いたら、自分はきっとそれを開かずにはいられないだろう、と思った。それはすでに確信であり、暗示だった。
 私は考える。
 いつかまた、小西が彼女に会う日はあるのだろうか。――そして私がふたたび小西の詩を読み、小西が私の詩を読むことはあるのだろうか、と。

 翌々日、気象庁が全国の梅雨明けを発表した。

(了)

先頭 表紙

2002-05-10 銃痕(12)

 

* * * 8 * * *

 
 再び小西に会ったのは、あの喫茶店ではなく、学校でだった。それはまったくの偶然だった。考えてみれば、大学の構内で小西と偶然顔を合わせたのは、この三年間でほんの二、三回しかなかったような気がする。それは、学科が違うということもあるし、それ以前にキャンパスそのものが不必要に広すぎるということもあるが、日々、いかにそれぞれが互いに偏った行動をとっているか、ということの証でもあるかもしれない。
 小西は、ベンチの上に寝転がって目を閉じていた。よく見ると、髪の間からのぞくその耳からは、細く黒いコードが流れ出ている。それはまるで点滴のチューブのように思えた。コードがチューブで、イヤホンは針。そうやって常に養分を送りこんでやらなければ、呆気なくこと切れてしまう、瀕死の病人。そんな不吉なイメージが私の心に浮かぶ。
 私は、そのイメージを振り払うかのごとく、ずかずかとそのそばに近寄ると、イヤホンを一気に引き抜いてやった。
「うわっ」
 本気で驚いたらしい。
「……何だ、有子か。驚かすなよ」
「久しぶり。……授業?」
「ああ、さっき、ちょっと早めに終わったんだ。今日はこれで終わり」
 その時、授業時間の終わりを告げるチャイムが鳴って、大勢の学生が、賑やかに喋りながら階段を降りてきた。その手には色とりどりの傘が握られている。私はそれを見て、子供のころ、従姉がアメリカ旅行のお土産に買ってきてくれた着色料過多のキャンディを思い出す。
 私と小西は、ぶらぶらと駅の近くまで一緒に歩いた。他愛のない世間話に紛らせて、小西は、来週の金曜日に会合を開くから出席しろ、と言った。淡々とした口調だった。そして私たちは本屋の前で別れた。
 そのまま、私は何とはなしにあの喫茶店に行った。いつものようにそこは少し薄暗く、空気は冷たく澱んでいて、しかしそれが心地よい。その中で熱いコーヒーを飲むとほっとする。この喫茶店はまるで繭のような場所だ。ここに居れば外界から逃れることもできる。
 喫茶店のテレビではまたワイドショウを流していて、そこにはあの乱射事件の犯人のビデオ映像が映っていた。体格こそ多少大人びてはいるものの、犯人の額にはその年齢にふさわしい幼さがあり、やわらかそうな前髪がそこにふわりと落ちかかっている。
 彼はゆっくりと法廷の被告人席に就く。なめるようにテレビカメラがそれを追う。瞳は、すべてを拒絶するように、無表情に前方を見つめていた。
 それを見ていて、私はふいに自分が二十一歳であることを痛感した。今、この古びた地下の喫茶店に――広い世界の片隅に、たった一人でぽつねんと座っている自分が、刻一刻と完成された大人へと近づきつつあるのを感じた。
 見る者に頼りなさげな印象を与える、その年若い大量殺人者の前で、私は、かつて十四歳であったという、ただそれだけの人間でしかありえないのだと思った。

先頭 表紙

2002-05-09 銃痕(11)

 

* * * 7 * * *

 
 彼女が今年度いっぱい休学してアパートを引き払ったらしいという噂を、彼女と同じ学科の友達から聞いた。娘の自殺未遂という事件に面して、彼女の両親がむりやりにでも手元に連れ戻すことにしたのだろう。当然といえば当然の成り行き。もっとも、前にも言ったように、彼女はすでに一年近く学校に来ていない。彼女の家族はそんなことはもちろん知らなかったと思うが。
 あの雨の朝以来、私は小西と連絡を取っていなかった。
 「震星」の廃刊――あるいは存続――も宙ぶらりんのまま、自分をとりまくいろいろなことが、静かな、劇的さのかけらすらない終末に向かって、のろのろと進んでいるような気がした。それは梅雨の不快さとあいまって、とてもけだるい、うすぼんやりとした日々だった。
 どこへゆく当ても無く、とりたてて何をする必要も無い。誰に強制されている訳でもない、しかし味気のない日常を繰り返し消化するだけ。毎日、学校に行って講義を受け、ルーズリーフの罫線と罫線の間を、シャープペンシルの細かい字で半分自棄のようにクソ丹念に埋め、講義がひけたら食堂で暇を潰し、長いだらだらとした坂を下ってアパートへ帰る。
 ある日の帰り道、その坂の途中で、ガードレールの端に一匹の小さな蛾が止まっているのを見つけた。蛾は、ゆっくり、ゆっくりと、羽を震わせていた。
 私は直感的に、その蛾が「ああ、疲れた」と思っているのだと、悟った
 ――地球上の生き物はみんな、どんな理由なのかは判らないが、生きて子孫を残すためにそれぞれの知恵を振り絞ってきた。その中のある者は蛾という形をとり、あるいは人間という形を選んで。
 あの蛾が蛾であり、私が人間として生まれた必然性とは一体何だろう。必然性も理由も本当は無いんだろうし、要らないのかもしれないけれど、それでも、私たちは何に向かってそれぞれの手段を選んだのだろう? 姿は違っても行きつくところは同じなのだろうか? 何が目的で自分たちの血を残そうとするのだろう?
 私はただ、自分に与えられた生命で、与えられたこの場所で、自分に可能な限りの進化を遂げるだけ。ふと、そんな考えが頭をよぎる。どんなに長く生きても、どんなに子供を残しても、私は生命の進化という化け物からしてみれば鎖の輪の一つでしかなく、鎖の先にあるものを見ることは絶対に不可能なのだ。

 今年の梅雨は例年に増して長く、街は、そして私は、常に憂鬱な雨に支配されていた。

先頭 表紙

2002-05-08 銃痕(10)

「でも俺も、それと似たような経験をしたことがある。
 あいつと初めて会った時だった。学校の屋上でさ。あいつ、手摺にぼんやりともたれて景色を見てて……それを見て、こいつはやばい、って俺は思った。はっきりした理由があったわけじゃない。そのうしろ姿が何か、他の一切のものを拒絶しているような、そんな感じがして、ひょっとしたら飛び降りて自殺でもする気なんじゃねえかと思った。
 その時、急に、強い風が吹いて、あいつが持っていたプリントが飛んだ。かもめみたいにね。俺はそれを拾った。拾い上げた時、まるで映画を見ているように、映像が見えた。明るいダイニングキッチンで、あいつの父親と、母親と、子供のあいつが飯を食ってる映像……。
 そして、後になってそのことを聞いたら、全部、つじつまが合ってたんだよ。部屋の中も、その時あいつが着てた幼稚園のスモックやなんかも、父親や母親の様子も……俺が見たヴィジョンは、現実とぴったり一致していた」
 薄く目を開き、そこで大きく溜め息をつく。すこし掠れてしまった声。
 私は訊く。
「……その時、彼女は……何を考えてたの? 本当に、小西が思ったみたいに、自殺しようとしてたのかな」
「聞いてみたけど、はぐらかされた。教えてくれなかったよ」
 小西はふたたび目を閉じて、胸の上にその手を組んだ。

先頭 表紙

2002-05-03 銃痕(9)

 

* * * 5 * * *


 アルコールの残滓が身体じゅうを這いずりまわっている。
 私たちは並んで壁に背中を凭せ、とりとめもなく煙草を吸った。けむりが、ざらついた咽喉を愛撫する。目に沁みる。
 夜明け前の部屋は、淡い水色に染め上げられている。ベネックス・ブルー。そんな言葉が浮かぶ。ジャン・ジャック・ベネックスというフランスの映画監督が、好んで使った色だ。
 静かな青。
 早朝のパリ。
 私がいまだかつて足を踏み入れたことのない土地。そしてこれからも一生訪れることのないかもしれない街の朝。――その空気の匂い。
 私は、ゆっくりと目を閉じて、それらを思い浮かべてみる。
 外では、いつのまにか小雨が降りはじめたらしく、小さく絞ったラジオの雑音のような、やわらかな音がする。心が落ち着く音。そう、この部屋は雨に閉ざされた小さな王国。帰りの傘の心配なんかしなくてもいい。濡れて歩けばいいだけの話だから。
「――ねえ、……何か面白い話してよ」
「……何で俺がおまえを面白がらせなきゃなんねえんだよ」
 いかにも面倒くさそうな声。
「いいから。お願い」
 壁に凭れて、きつく膝を抱く。その上にこめかみを乗せる。二日酔いが訪れはじめた頭の、その感覚が、まるで自分のものではないような気がする。今は、自分以外の人の声を聞いていたいと思う。
「じゃあ、俺の爺さんの話だけど」
 そうして小西は話し出す。床に両足を投げ出し、目を閉じたまま。流れだす、聞きなれた低い声。

「俺の爺さんは、戦争中、軍需工場で働いていた。
 家のすぐ近くに工場があったから、昼休みは弁当を持たずに、家に帰って飯を食っていたんだ。
 その日も、昼どきになって工場を出た。うだるように暑い日でね、真昼だから自分の影さえもなかった。家に帰るための道は川の土手沿いにあって、そこを爺さんは歩いていた。その時、急に空襲警報が鳴り始めた。
 なにしろ土手だから、隠れる場所なんてどこにもない。とりあえず走った。走って防空壕へ行こうとしたんだ。でもその時、一機のグラマンが機銃掃射をしながらさあっと頭上に降りてきた。
 爺さんは走りに走った。でも、戦闘機が相手じゃ、逃げきれるわけがない。死を覚悟して、――そして、もうどうとでもなれとやけくそになって、土手に大の字になった。
 その瞬間さ。
 操縦席の男と目が合った
 刹那、世界のすべては静止したようになり――爺さんには、その男の表情や、服に刻まれた皺のひとつひとつに至るまでが、鮮明に見えた。瞳は透き通るような水色。その時の爺さんとたいして年の変わらない、若い男だった。
 爺さんは今でもその男の顔をはっきり憶えてるって言ってる。きっと死ぬまで忘れないだろう、相手もそうに違いないって。
 それに加えて言うにはだよ……その時、爺さんは叫びのようなものを聞いたんだ。自然を貫く叫びのようなものを。
 それをを聞いたとたん、爺さんは一瞬にしてその男のことを理解した。その男がどういう町で生まれ、どういう子供時代を送り、どういう家族に囲まれて育ったのか。どういう性格の持ち主で、どういう声を立てて笑い、どういう時に怒るのか。ガールフレンドとどういういきさつで知り合い、結婚したのか。そういうことをみんな知ってしまったって言うんだ。まるで古い友人みたいに。
 ……どう思う? 死に追いつめられた人間の錯乱か? それとも老人の妄想か? ……長い年月のうちに、記憶が都合のいいように変形されてしまったのか?

先頭 表紙

綺羅さま、つっこみありがとうございます。気が向いた時にでも読んでいただければうれしく思います。 / M ( 2002-05-08 11:39 )
青い角砂糖、というお名前が好きです。がんばって過去のものも読んで見ますね。 / 綺羅 ( 2002-05-03 07:22 )

[次の10件を表示] (総目次)