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み・ぽぽぽぽぽ

ときどきおもったことをかいています

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2006-07-31 googlezonについて
2006-07-30 じぶんさがし
2006-07-30 考える何か
2006-07-24 ワーキングプア
2006-07-21 三谷幸喜
2006-07-18 雨の渋谷
2006-07-06 占い
2006-06-17 文化人類学とか
2006-06-17 お米
2006-06-15 主張するべきもの


2006-07-31 googlezonについて

ところでこのところ夜型生活でしたが、今日はなぜか6時半におきて、さっぱりさわやか夏の朝を体感中です。

ところでその2、googlezonについて2日前彼氏と激論(げきろん・・・?)してみました。googlezonというのはその名の通り(私はその名からすぐには想像できなかった)googleとamazonが連携!なんてカッコイイことが起こるんじゃないのっていうアメリカのどっかの誰かが作ったフラッシュなんだけど、本当にgooglezonは将来できてしまうのか!という話を朝まで生テレビよろしく朝まで続けてしまったとさ

そもそもgooglezonということは、google機能とamazon機能が有機的に(有機的・・・?)結合〜新しいコンテンツができちゃうんじゃない、とかいう激しく空想的なことは(googleとamazonの規模からして)ありえないんじゃないか、と思うんすよ・・・

だから、きっとgooglezonというのは新しいコンテンツ名、ではなくて、amazonが消費市場を持ち、googleが情報検索機能を持っているってことはgoogleにamazonが取り込まれるというコトなのか?か?例えばgoogle検索にamazonが絶対上にくるとか?

でもこういう形態ってamazonは得しても(だって世界のgoogle様の検索ワード上位になるわけだし)googleは得しないよね・・・。googleがどこで金もうけてるかって、広告だし・・・amazonとはどうしても収入源がかみあわないきがする・・・

googleが「世界の情報を組織化する」することを理念としてるんだったら,今のgoogleのプログラムが持つアルゴリズムで入手しえない情報って消費者行動とか、消費者特性とかもあると思うな、って時にamazonは事細かにそれを提供できる環境が整ってるよね。アメリカのamazonは既にもう何でもやだし、日本のamazonも仮想ショッピングモールみたいな、楽天つぶし(言い方悪いけど)を仕掛けようと、市場の拡大に積極的だよね・・・。

それで、googleはユーザーの行動特性を検索ワードからだけじゃなくて、消費行動からも分析できることになって、そんな感じで広告収入アップですか?結局ネットビジネスというものは、「広告収入がなんぼ」で収斂される気がするから、googleのもてるgooglezonでの収入が上がる方向って、それしかないと思うよ

それとも。googleはあのあり得ない量のウェブ情報から、情報提供を新しく始めるのもいいかも知れなくないですか。今だってtoyotaは車を購入した人の行動特性を躍起になって集めようとして、それを新しいビジネス化してる動きはあるよね(それが日本の少子化によって車の販売数が減るからという理由であっても)どの時代であっても情報を他者よりより多く得るものはどの場面であっても有利であり、冨を得る確率が高いですよね。「情報のパッケージ化」、googleがBtoBな収益モデルを得てるんだから、そこでまた新たなお仕事始めてもいいかもしれない、かもしれないですよね。

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2006-07-30 じぶんさがし

昔はやっていた「自分探し」という言葉。自分探しというのは全くよくわからなくて、一体何を探すのかといつも思い悩む。というのも、NZにいたときは、よく「自分探し」をうたって旅している日本人が多かったから。イイカンジにホームスティして、イイカンジに語学留学して、イイカンジにNZの自然と戯れて、開放的になって「ああ、これって自分なのね!」と思ってみてるのかもしれない。でも、そこでいう「自分」とはナンなのだろう。わざわざ外国でちょっとの間滞在して得た経験から引き出される「開放感みたいなもの」が「自分」なんだろうか

それは、そのNZという環境でしか得ることができない一時的な自分の姿であって、それはあくまでNZの環境に順応した姿を「開放されている」と思っているほかならない。こんなところで、「だから日本の環境は人を疲弊させるんだ」とか言うつもりとかって全くなくて。自分は自分でしかないということのどこが不満で「自分探し」をするんだろう。

外部的要因からもたらされる「新しい自分」なんて結局一時的なものでしかない。それを「本当の自分」と思うには飛躍しすぎ。

でもね、このごろ、自分探しって実はよかったんじゃないかと思うところが時々ある。それがたとえ虚構にまみれているかもしれなくても、良かったんじゃないかと。自分探しをやってた私が見た日本人の殆どは、NZに行く前は「軽い鬱」だった。自分が何をすればいいのかわからない、自分は何をしたいのかわからない、何もできないで一日がすごして、これって「自分」なんだろうか?と思い立ったが吉日、ちょっと前は旅行代理店に行った。

今はそれが心療内科だ。こんな症状がでたら「うつ病ですよ」と、チェック項目に自分を当てはめては心療内科を勧める。私だってそりゃ前の恋人と別れた時は、心療内科、一緒に行こうか、と友人に勧められてるほどウツ的な人間で、実際心療内科に頼ろうとしたので心療内科とかが悪いとはいってなくてさ。でも、軽度のウツは薬に頼ってしまうと結局クセになってしまう。

昔の自分探しって、実は「軽度のウツな人の自然治癒能力を上げる」ことだったんじゃないかと思う。「今までにない自分」とかじゃなくてさ、「本来の自分」を立て直すための刺激を自発的に享受するための行為が「自分探し」。

かぜの時に薬を飲むといけないって言われるのは治癒能力が下がるから。自分をあっためるために毛布にくるんで寝てればなおってしまう。「自分探し」はかるーい心の病の毛布の役割だったのかもしれないな、とフと思った、NHK(女性の)ウツ特集
でした。

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2006-07-30 考える何か

考える空間というのは存在する。

適度に孤独で、適度にフラストレーションがたまっていて、適度に拘束されている時だ。



そんな時間、NYでしか出来ない

自分を追い詰めることで初めて私は考え始めるのだときづいた。何かを得るときは、胃痛に倒れそうになったり、睡眠不足でふらふらしたり、そうやって達成した後が多い。

何か、価値観を形作るなにか




このごろメモみたいなエントリが多い。でも、こういう本音をメモれる空間は、結局ここであると気づく

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2006-07-24 ワーキングプア

NHKでやってた特番、「ワーキングプア」を見る。


「大学、いけるものなら行きたいけど・・・」という子には、
私が行ってるような私立大学でも奨学金制度は超充実してるんだぞ!実際奨学金申請しようとして調べてびっくりしたよ!と言いたかった。

イチゴ農家で苦しんでる人には、
今安全なタベモノ市場がブームなんだから、農薬に金かけないで、寧ろ農薬少ない安全な栽培方法研究して、楽天市場で売れよ!といいたかった。

情報格差じゃないか。



でも、テーラーのおじいちゃんには、泣きそうになった・・・
妻のお葬式代は、本当に、尊厳だ、と思った・・・。
なんて話だ・・・とつぶやいてしまいそうになった。

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2006-07-21 三谷幸喜

みたにこうき
の作品を見ては喜んでいる毎日です。

・有頂天ホテル
・みんなのいえ
・笑の大学
・ラヂオの時間

を見ては、かれしと一緒に深夜に爆笑したりしてほほえましい日々を送っています。

でも、
このアパート何分壁が超・薄いのでれっきとした近所迷惑になっている疑い。



あと一ヶ月もしないでニューヨークです。
部屋は見つかりました。ルームシェア。
セントラルパークの近く!わーい。

幹事をやってる研究会で、9月卒業生の追い出しコンパのついでに私の
壮行会までやってくれるそうな・・・。

ううう
これは、なんだ、帰ってきたら、この研究会で論文書きなさいね、という微妙なプレッシャー?

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2006-07-18 雨の渋谷

「今日はうちにきてくれない?」

雨の渋谷、夜半でもせいぜい薄暗い。

「仕事があるんだ」
「ユカの家に行くと、疲れて明日の仕事に支障がでるから・・・」

ユカは傘を忘れた。よわよわしいビニール傘を持っているユウジに腕をよせられる。

「ほら寄って」

こんな小さなビニ傘では到底ユカの右半分の腕とバックを濡れさせないようにできない。

「ねえ」
「どこいくの」
「スタバ」
「やっぱりうちにきてほしい」
「ムリだよ」
「お茶飲んで帰ろう」

ユウジはマンゴーフラペチーノをトールで頼む。ユカはスターバックスラテを豆乳で頼む。途中ATMでお金をおろしてきたユウジがサイフからお札を出す。ユカは何も言わない。

「そんなふくれっつらにならないで」
「その顔は可愛くないよ」

ユカは黙ってラテを吸っている。イスにバックを半分投げるようにしておく。

「ユカ」
「このイス濡れてるからこっちに置きなよ」
「バックだって結局濡れてるんだから、同じことだよ」
「ねえ」
「行けないんだって」
「分かってね」

イスに座って、ユウジはユカを見る。ユカは黙ってユウジの手からマンゴーフラペチーノを取る。一口吸って返す。

「そっちに行く気は無いからね」
「わかった」
「わかったってば」
「もう来る気が無いのは分かったからこっちもフテくされて気を引くのはやめる事にした」
「今からは建設的な会話をする」

ユウジは笑った。お互いの飲み物を交換して飲む。「建設的な」仕事の話をする。

「仕事が思うとおりにいかない」
「なんで?」
「さあ」
「効率的に仕事をしないからだよ」
「いつもユウジは仕事が遅い」
「そうだね」
「なんでだろう」
「そんなモチベーションないならやめたら」

ユカは窓の外を見た。雨足が強くなっている。向かいに座っているユウジの表情を読み取ることができない。

「やりたいことをしていない気がする」
「自分でそうさせているんじゃないの」
「そうかもね」

席から離れるとき、ユカはユウジのせなかを見る。彼は何も言わずに二つの空のプラスチックカップを手にとり、そして所定の場でそれらを丁寧に捨てる。残った氷とプラスチックを分別していた。「せつない」ユカは思った。

「ねえ」
「渋谷駅まで送って」

ユカはまたこの小さなビニール傘に収まって、ユウジの腕につかまる。

「俺はさ」
「職人になりたいのかもね」
「ふうん」
「細かいことを、こつこつ作り上げてくの」
「合ってそうでさ」

駅までの地下通路まで来る。階段を数段下りて、ユカは地上で立ち止まっているユウジを見上げる。

「分かったよ」
「改札まで送るよ」

ユウジの腕につかまるために、ユカは手を伸ばす。雨の日の通路は、ホームレスがむらがっている。

「俺がホームレスにならざるをえなくなったら」
「潔く死んじゃおう」

ユカはユウジの目を見た。

「わたしがいても?」
「ユカが助けてくれなかったらだよ」
「俺は、いつもユカが助けてくれると思ってる」
「でも、それがかなわなかったら、生きなくてもいいんだよ」
「心残りもないしね」

二人は腕を組みながら階段を降りる。空気が生臭い。

「唯一の心残りがあるとすれば」
「ユカともっと一緒に生きられないということかな」

改札に着いた。二人はわかれる。ユカはホームに出る。人だかりの中で胸が締め付けられる。
帰ったら、ユウジに電話して謝ろうと思った。

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2006-07-06 占い

ほへと数秘占い〜。
http://www.geocities.jp/standing_art/hoheto/kazu.html?input1=19790223&output=%0D%0A


・基本性格
好きな事しかしない、純粋な人。
興味のある事、好きな事意外は非常にストレスを感じます。好きな事を仕事にするか、。好きな趣味を持って下さい。
集中と怠惰の差が激しく、集中したときのタイミングの良さは神懸かりですが、モチベーションの低いときは時間を無駄にしがちです。

・人間関係
人間関係は飾り気を嫌い、素朴で素直な関係を求めます。一見クールな部分はありますが、これと思えば面倒見はいい方です。
性格的に利己的な部分もありますが、基本的にまず自分ありきな性格なので自分を否定する人に対しては非情な部分があります
恋愛は純粋な部分と秘めた衝動。基本的には純真なので大人のドロドロした恋愛は無理ですね。意外と恋愛が苦手な人も多いです。衝動を抑え込みすぎると無感情になる場合があります、感情の解放も大切です。

・生活
仕事はわずらわしい人間関係が絡むと効率が著しく低下します。あとは好きな仕事か否かが問題です。

・金運
趣味には消えていきます。先にも出てましたが仕事に自分の能力が生かされてるかが大切です。




いつもあたってると思う占いは同じことしかかいてません。(当たり前か)
好きなことしかしたくない、というのは、もう、ああ!(笑)
その点では今期はよく金融の勉強とか、研究会の幹事(飲み会幹事、合宿幹事とか・・・)やったよな〜・・・。それでよくストレスで倒れなかったよな〜。
あたってると思われる占いをここに貼り付けるとほぼ同じ結果に・・・。

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2006-06-17 文化人類学とか

先日、MITの助教授の方がこっちにきて講演をしてくれた。日本文化人類学が専門のお若い先生。

なんとその人は日本のアニメについてとうとうと語ってくださったので、とてもシンパシーを(勝手に)感じた私は講演後図々しく名刺まで頂いて、今は楽しくアニメ文化の人類学についてメール交換をしている。彼はあっちの夏休みが終わるまで、日本に滞在してウェブ上での日本のオタク文化についてフィールドワークをするらしい。

やはり、その現地に行かないと、何がはやりで、ドレくらい認知されているかを肌で感じることはできない。例えば、「2ちゃんねる」がどのような層によって構成されて、ここから派生する色々な「祭り」といわれる文化は認識することはできない。私達が当たり前のように接する文化という認識を、他の文化圏の人は容易に見過ごすか誤認をする。

日本では、「2ちゃんねる」的な人々はオタク層のもはや必要十分条件になっているといっても過言ではないかもしれない。そんな人々が、あの巨大な匿名掲示板を使っていまや日本全体にインパクトを与えているという事実(電車男とかノマネコとか)をMITの先生は知らなかったというらしい。

彼が2ちゃんねるに関わる研究をするかどうかは分からないが、アメリカにいたままであったらやはり日本についての文化人類学は難しいと思う。

文化人類学は、一度そのような研究会にいたことがあるが、自分の研究分野に関わる特定人物や特定団体を近くから観察し続けることで特定分野に関するなんらかの方程式を導く研究手法をとる。ミクロを徹底的に分析することでマクロに還元するやり方だ。アメリカからじゃやっぱりそういうことはできない。

ってかどのような学問でも、外国についての研究をするならその外国に足を運んで研究するしかないのだろう。またもや先日、研究会のゲストレクチャーで、ジェラルド・カーティス先生という超有名な日本政治学者にお会いしたんだけれども、彼は一年のうち半分は日本にいて、実際日本の政治家から色々な話を聞くらしい。

・・・というかその先生は私が夏から一年間留学する大学の先生で、学部生にも「日本外交史」みたいな講義を行っているらしい。ぺろっと「受講するかもしれません・・・」とか言ってみたけれども、本当に受講するかも・・・。超ためになったレクチャーだったしなあ〜

やはり外国のことについて研究するのは、色々手間隙かかるもんなんだな・・・。

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2006-06-17 お米

玄米半分、白米半分のおこめをといで、水を入れて、炊飯器に一日ねかせてから炊いたら驚くほどおいしかった。玄米って実は本当ーに香ばしい穀物なので、白米よりも好き。一口食べたら幸せになれる。でも上手く炊かないとパサパサしてしまうので、玄米で幸せを感じるのはちょっと手間がかかる。

ちょっと手間をかけて幸せを得る。

幸福感を得るには、やはり手間がいる。しかも、正しい手間がいる。見当違いな手間は幸福どころか結果として人を落ち込ませてしまう。玄米を水にずっと浸してたらおいしくなるのはいいが、水の分量を間違えたらそれこそぬっぺりしたモノになってしまう。

正しい手間をかけるためのちょっとした注意力。

みちをあるいていたら綺麗なバラがさいていたとするが、それを見て幸せと思えるかどうかは、「それを見て幸せになれるだけの余裕」が必要だ。落ち込んでいる時に、花をみて幸せになれたとするが、なんてボタモチ的な幸福なんだろう!というわけではない。落ち込んでいても、「余裕」という感受性を働かせるまで「正しく回復」しているから幸せになれる。

おいしい玄米を食べて、綺麗な音楽を聴きながらこうやってひまじんの記事入力画面の前でキーボードをかたかた動かしていることは、私にとって幸福だ。こんな梅雨中のちょっとした晴れ間を使って外にでてもいいのだろう。だけど、何かを残しておきたい時に、充足した満腹感をもちつつ、音楽きいてリラックスしてるときに、おもったことを文章にすることができるなんて、多分、このごろなかった幸福だ。

今まで課題やら研究会の発表やらで、自分が何考えてるか妄想するよりも、自分の研究のリサーチばかりしていた。私にとって妄想をちゃんと言葉にするって案外な嬉しさを伴うのだけれども、忙しかったりすると、そういう嬉しさを感じる余裕が出来上がらない。

時間を楽しむだけの「正しい余裕」。

こんなことをして幸せになるだけの条件である正しい余裕とは、多分私にとっては、このような余裕が貴重であるという認識から始まる。余裕というものを望んだときにそれは価値があるものになる。それは当たり前のようなことだけれども、研究会の発表やらで忙しかったときに渇望していた余裕を今得ることができる、そしてそれはあと一週間もしたら無くなってしまう(次は研究会個人発表が待っている)と分かっているから貴重であると認識できる。

ここで幸せになるための下地を作らなければ、それこそ玄米おいしくたけた、とかひまじんでいろいろかきこめるとかいうファンデーションやらチークやらルースパウダー塗っても崩れるだけだ。

だから、正しい手間が必要。

あ、あとふとんも干せるのって幸せ。

家庭的なこと、家事とかで身の回りをととのえることって、余裕があるときにやると本当にいい気分になれますね。といいつつ家事は料理以外苦手なわけですが・・・

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2006-06-15 主張するべきもの

主張するべきことなんて人間そんなに多くないとおもう。
研究会でどれほど議論をしていっても、結局主張し続けることは良くないときが多い。いかに自分の主張を論理つけて話しても、それを最後まで押し通す、そこまでする価値のある場合なんてそうそうないのだ。

論破する価値がある議論なんて本当にそんなに存在しない。ひとりだけで研究をしているのではなく、「グループで」研究をしているときは、尚更だ。自分が正しいという事はそんなに難しくない。でも、それにどんなに理由をつけても、根拠を見せても、自分の意見のみが通る価値がある議論なんて、少なくとも勉強の中では存在しない。

主張するべきところがある話なんて、本当に私が一年に発する会話のうちに、何回かある位だ。

自分の命に関わること、自分が守るべき人間に関わること、ソレくらいしか存在しないんじゃないかと思う。確固とした価値観は時に人を傷つけることがある。でも、人を傷つけてまで守るべき価値観なんて、「演技」するときにしか存在しない時がおおい。だから、結局私の中で価値観を持つこと自体を重要だと思っていない。

確固とした価値観を持ちなさいとよく言われる。でも、それが目的ではない。信じるものが存在している、それが目的になると人は自分自身に対して固まってしまう。価値観というものは、それを持つことが重要なのではなく、どうやって価値観と接するかで違いが生じる。信じるものが自分自身と照らしあわすことができるなら、どういわれても動じないから人はフレキシブルになれる。自分自身を価値観と向き合わせれば、自分の決定には自信がもてる。「他者を受け入れる自分」に自信がもてる。

人間は多分もともとフレキシブルだ。自分を信じていれば。


・・・と思った今日の研究会飲み会。

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むずかしいですけど、いつも心にとめておきたいことっす。けめ子ちゃんも、自分を信じることができる強いオンナニナッテホシイデスヨ!! / みほ ( 2006-06-16 20:53 )
これとっても素敵。そして実践的! 参考にします。 / みなみ ( 2006-06-15 23:38 )

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