玄米半分、白米半分のおこめをといで、水を入れて、炊飯器に一日ねかせてから炊いたら驚くほどおいしかった。玄米って実は本当ーに香ばしい穀物なので、白米よりも好き。一口食べたら幸せになれる。でも上手く炊かないとパサパサしてしまうので、玄米で幸せを感じるのはちょっと手間がかかる。
ちょっと手間をかけて幸せを得る。
幸福感を得るには、やはり手間がいる。しかも、正しい手間がいる。見当違いな手間は幸福どころか結果として人を落ち込ませてしまう。玄米を水にずっと浸してたらおいしくなるのはいいが、水の分量を間違えたらそれこそぬっぺりしたモノになってしまう。
正しい手間をかけるためのちょっとした注意力。
みちをあるいていたら綺麗なバラがさいていたとするが、それを見て幸せと思えるかどうかは、「それを見て幸せになれるだけの余裕」が必要だ。落ち込んでいる時に、花をみて幸せになれたとするが、なんてボタモチ的な幸福なんだろう!というわけではない。落ち込んでいても、「余裕」という感受性を働かせるまで「正しく回復」しているから幸せになれる。
おいしい玄米を食べて、綺麗な音楽を聴きながらこうやってひまじんの記事入力画面の前でキーボードをかたかた動かしていることは、私にとって幸福だ。こんな梅雨中のちょっとした晴れ間を使って外にでてもいいのだろう。だけど、何かを残しておきたい時に、充足した満腹感をもちつつ、音楽きいてリラックスしてるときに、おもったことを文章にすることができるなんて、多分、このごろなかった幸福だ。
今まで課題やら研究会の発表やらで、自分が何考えてるか妄想するよりも、自分の研究のリサーチばかりしていた。私にとって妄想をちゃんと言葉にするって案外な嬉しさを伴うのだけれども、忙しかったりすると、そういう嬉しさを感じる余裕が出来上がらない。
時間を楽しむだけの「正しい余裕」。
こんなことをして幸せになるだけの条件である正しい余裕とは、多分私にとっては、このような余裕が貴重であるという認識から始まる。余裕というものを望んだときにそれは価値があるものになる。それは当たり前のようなことだけれども、研究会の発表やらで忙しかったときに渇望していた余裕を今得ることができる、そしてそれはあと一週間もしたら無くなってしまう(次は研究会個人発表が待っている)と分かっているから貴重であると認識できる。
ここで幸せになるための下地を作らなければ、それこそ玄米おいしくたけた、とかひまじんでいろいろかきこめるとかいうファンデーションやらチークやらルースパウダー塗っても崩れるだけだ。
だから、正しい手間が必要。
あ、あとふとんも干せるのって幸せ。
家庭的なこと、家事とかで身の回りをととのえることって、余裕があるときにやると本当にいい気分になれますね。といいつつ家事は料理以外苦手なわけですが・・・ |