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Love sick

私はそれ(ばらの花束)を、じかに、正確に写生しようとして、細部に熱中し、ばらの花をありのままに描くことに没頭した。その結果、私はもたもたとつまずき、どこへも到達できず、最初にもっていた観念(イデー)、私を魅了したヴィジョン、つまり出発点を見失い、二度と取り戻すことができなくなってしまった。私はもう一度それを取り戻したいと思う。―うまく最初の魅惑を取り返すことができれば。
ピエール・ボナール
アンジェール・ラモットとの対話より 1943年

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2002-10-31 下がる太陽、月と星。
2002-10-30 ノルウェー・アイランド
2002-10-29 「二枚貝のクロニクル」
2002-10-27 ボーイフレンド
2002-10-25 赤く染まる谷。


2002-10-31 下がる太陽、月と星。

あっという間に太陽は高度を落とし、西側の建物の外壁に隠れてしまった。
唯一、陽が当っていた席も日陰となり、気温がぐんと下がって感じられる。
3週間前の同じ時間、この席の二つ右隣に座った私たちに、陽射しは十分届いていたはずなのに。

紅茶の残りが入ったカップを持って、店の中へ戻る。
午後2時。店内の客は私の他に、遅めのランチをとる二人連れの若い女性だけだった。
窓側の中央のテーブルにカップを置き、席につく。
奥から店主が出てきて、外に残されたポットを片付けた。
店主はこちらへ戻り、「温めなおしましょう。」と言ってカップに触れたが、
私は、「いい、代わりにコーヒーを。」と頼んだ。

ジルのことを考える。
ジルは私をどうしたいんだろう。
ジルの恋人は、ジルをどうしたいんだろう。




「10月30日。東の空、月が昇ってまもなく木星も昇り、両者のならぶようすを明け方まで見ることができます。」
その夜、午前3時の東の空(東京)という星座表を手に、午前2時半すぎにベランダへ出た。
東の空。低い位置に、かなり傾いた下弦の月を見つける。
その右下にあるはずの木星を探すが、見つからない。
もう一度、暗い闇で目をならし、そして東の空を見る。木星は見つからない。
諦めて部屋に戻った。寒すぎる。

秋の夜空は、古代エチオピア王家の神話の星座が並ぶ。
空の中央に、アンドロメダ、ペルセウス、ペガスス、カシオペヤ、くじら座。
いけにえとなり、鎖に繋がれたアンドロメダ王女。天馬に乗り、アンドロメダを救い出すペルセウス。両手を高くかかげた姿の王妃カシオペヤ。メドゥサの首をつきつけられ、石に変わったくじら座。

     ペルセウスの母、ダナエをクリムトが描いている。
     青銅の塔に閉じ込められたダナエ。
     黄金の雨となり、ダナエと交わるゼウス。
     そしてペルセウスが産まれる。
     クリムトの「ダナエ」は、私の大好きな画。
     これもひとつの繋がり。

アンドロメダ座のM31は、この銀河系の中の天体ではなく、となりの銀河の二千億個の恒星の大集団。およそ230万光年も離れている。
230万年昔の姿を、両眼で見つけることの不思議には、もうすっかり慣れてしまった。


ドアを閉め、寝室へ戻り、毛布の中へ潜り込む。
もう11月よ。そう呟いて、目を閉じて眠った。


                                                                            
                                         
                                          


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2002-10-30 ノルウェー・アイランド

カナダへ移住したい。とジルは言った。
「何年か先に、向こうへ行きたいと思っている。一緒に行こう。」
突然のことで驚いた。
「仕事はどうするの?」運転する彼の方を向いて尋ねた。
「甥に任せてもいいし。商権の譲渡も考えている。」

「バンクーバーに別荘を買って、年に2、3回行くのならいいかも。」
「大丈夫だよ、住めばすぐに慣れるから。」
「毎朝パンケーキにメイプルシロップをかけて食べ、出窓にはティディベアを飾るのね。」
私の冗談を無視して、ジルは話しを続けた。
そして、一緒に行こう。と、もう一度言った。

「バンクーバーの小島を買って、別荘を建てた日本の小説家がいたわ。バカンスを家族とそこで過ごすのよ。浜でバケツ一杯のアサリを獲り、庭で野生のブルーベリーを採るの。ディナーは、アサリのワイン蒸しと、泡立てた生クリームをたっぷりかけたベリーのデザート。」

    彼女は島に家を建て、プールを作り、テニスコートを作った。
    人工を雇い、彼等を水上飛行機で往復させた。何日も何日も。
    資材も水も孤島には無かった。
    砂やセメントや水を、重機と一緒に運搬船で運んだ。何回も船は往復した。

「結局、家族は訪れることをやめて、彼女だけがそこで夏を過ごすの。書斎にこもって、原稿を書くのよ。」
ジルは、黙って運転を続けた。
「好きだった小説家なの。胃がんで死んだけど。」
そこまで話して、私も黙った。

ノルウェー・アイランド。余りにも遠すぎる島。


ジルは左のウインカーを点滅させ、ゆっくりと減速して、サービス・エリアへの進入路へ入っていった。
車が止まるまで、私たちは黙ったままだった。


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2002-10-29 「二枚貝のクロニクル」

その日の昼食、ジルと私はムール貝を食べていた。
楕円型のグリーンの中深の皿から、それをひとつずつ取り出し、殻から剥がして食べる。
肉厚の身は柔らかく、噛むと口の中に濃い旨みが広がった。

「ゴルフは散々だった。」と、ジルが言う。
「雨が降って寒かったでしょう?」
「寒かった。」
「スコア、いくつだったか当てようか?」

思いついた数字を言うと、ジルは、「信じられない。」という顔をして、私を見た。
初めてのデートの時、ジルの歳と血液型をぴたりと当てたら、同じような顔をしていたっけ。

「映画「フラッシュダンス」の二人が、レストランでロブスターを食べるシーン、覚えている?」
「いつの映画?」
「20年くらい前。」
「古いね。」
「音楽もよく覚えてる。
 あのね、ボーイフレンドの前で、トレーナーを着たまま、中の下着を脱いじゃうの。するするするって。それ、私も真似できるわ。
 アレックスが嫉妬して、彼の家に石を投げて窓を割るの。そのシーンが大好きだった。」
「僕の家には投げないでくれよ。」 ジルはそう言って、殻をつまんで皿に移した。
ジルには答えず、私はグラスの水を黙って飲んだ。

ふと、まだそこに残っている墨色の艶を見つける。
皿に移された二枚貝の残骸は、ひどく滑稽な形で重なり合い、横たわっていた。
「二枚貝のクロニクル。」
そんなタイトルがぴったりだと思った。

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2002-10-27 ボーイフレンド

17時以降の予定を取り止め、彼に会いに行った。
18時半。久しぶりに会った彼は、疲れた顔をしていた。
充血した右目を、子どものように手で擦る。
「掻いちゃだめ。余計腫れるから。」
「うん。さっきより良くなった。」

こうしてじっと彼の顔を見ていると、胸が少し泡立った。
伸びかかった髪の、その巻毛の奥に指を挿し入れ、彼の顔を引き寄せたかった。

約束のシルバーを手渡し、軽い冗談を言い、二人で笑った。
夏に聴くはずだった曲が、初回プレス盤から流れる。
彼女の、乾いたつぶやくような声。彼がヴォリュームを少し上げた。
「夏は終わっちゃったけど。」
私のブーツは、夜中に二人で行った、デキシーダイナーの時と同じ。
店を出る頃、まだ外で並ぶ若者たちは、ストーブにあたりながら、みんな白い息を吐いていたっけ。


19時半。灯りを落とし、鍵を閉めて外へ出る。
「駅まで送れないけれど。」仕事へ戻る彼が、優しく言った。
「いい。」と私。
「それじゃあ。」
「じゃあね。」
手を軽く振って別れた。



「唇で終わらないから。」キスをしなかった彼が、後でそう言った。
こんな彼のことを、大好きだと思う。

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2002-10-25 赤く染まる谷。

ジルから電話が来ない。

週明けの午後、国道と並行する道路の信号待ちの交差点で、ジルの車とすれ違った。
彼は気がつき、こちらを見た。助手席には、彼の仕事のパートナーが同乗していた。二人がこちらを見た。
私は、助手席の不躾な視線の男に、ふんと軽くつぶやき、加速してそのまま交差点を右折した。


先週はジルと会った。
ジルは、「紅葉を見にいこう。」と言い、車で北へ向かった。
標高1750メートル。10月にしては陽射しが強く、車を降りて首に回したストールを、やはり外して手に持った。
風が吹いて、髪を崩していった。
目の前に広がる渓谷の紅葉。空とのコントラスト。
私は何度も、「きれい。」と言った。
言いながらも、色彩の感覚に飢えを感じていくのがわかった。
赤く染まる谷。
季節は既に変わっていた。


ジルは、「来年も来よう。」と、私を見てそう言った。









Love sick  ニナ


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