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Love sick

私はそれ(ばらの花束)を、じかに、正確に写生しようとして、細部に熱中し、ばらの花をありのままに描くことに没頭した。その結果、私はもたもたとつまずき、どこへも到達できず、最初にもっていた観念(イデー)、私を魅了したヴィジョン、つまり出発点を見失い、二度と取り戻すことができなくなってしまった。私はもう一度それを取り戻したいと思う。―うまく最初の魅惑を取り返すことができれば。
ピエール・ボナール
アンジェール・ラモットとの対話より 1943年

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2002-10-30 ノルウェー・アイランド
2002-10-29 「二枚貝のクロニクル」
2002-10-27 ボーイフレンド
2002-10-25 赤く染まる谷。


2002-10-30 ノルウェー・アイランド

カナダへ移住したい。とジルは言った。
「何年か先に、向こうへ行きたいと思っている。一緒に行こう。」
突然のことで驚いた。
「仕事はどうするの?」運転する彼の方を向いて尋ねた。
「甥に任せてもいいし。商権の譲渡も考えている。」

「バンクーバーに別荘を買って、年に2、3回行くのならいいかも。」
「大丈夫だよ、住めばすぐに慣れるから。」
「毎朝パンケーキにメイプルシロップをかけて食べ、出窓にはティディベアを飾るのね。」
私の冗談を無視して、ジルは話しを続けた。
そして、一緒に行こう。と、もう一度言った。

「バンクーバーの小島を買って、別荘を建てた日本の小説家がいたわ。バカンスを家族とそこで過ごすのよ。浜でバケツ一杯のアサリを獲り、庭で野生のブルーベリーを採るの。ディナーは、アサリのワイン蒸しと、泡立てた生クリームをたっぷりかけたベリーのデザート。」

    彼女は島に家を建て、プールを作り、テニスコートを作った。
    人工を雇い、彼等を水上飛行機で往復させた。何日も何日も。
    資材も水も孤島には無かった。
    砂やセメントや水を、重機と一緒に運搬船で運んだ。何回も船は往復した。

「結局、家族は訪れることをやめて、彼女だけがそこで夏を過ごすの。書斎にこもって、原稿を書くのよ。」
ジルは、黙って運転を続けた。
「好きだった小説家なの。胃がんで死んだけど。」
そこまで話して、私も黙った。

ノルウェー・アイランド。余りにも遠すぎる島。


ジルは左のウインカーを点滅させ、ゆっくりと減速して、サービス・エリアへの進入路へ入っていった。
車が止まるまで、私たちは黙ったままだった。


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2002-10-29 「二枚貝のクロニクル」

その日の昼食、ジルと私はムール貝を食べていた。
楕円型のグリーンの中深の皿から、それをひとつずつ取り出し、殻から剥がして食べる。
肉厚の身は柔らかく、噛むと口の中に濃い旨みが広がった。

「ゴルフは散々だった。」と、ジルが言う。
「雨が降って寒かったでしょう?」
「寒かった。」
「スコア、いくつだったか当てようか?」

思いついた数字を言うと、ジルは、「信じられない。」という顔をして、私を見た。
初めてのデートの時、ジルの歳と血液型をぴたりと当てたら、同じような顔をしていたっけ。

「映画「フラッシュダンス」の二人が、レストランでロブスターを食べるシーン、覚えている?」
「いつの映画?」
「20年くらい前。」
「古いね。」
「音楽もよく覚えてる。
 あのね、ボーイフレンドの前で、トレーナーを着たまま、中の下着を脱いじゃうの。するするするって。それ、私も真似できるわ。
 アレックスが嫉妬して、彼の家に石を投げて窓を割るの。そのシーンが大好きだった。」
「僕の家には投げないでくれよ。」 ジルはそう言って、殻をつまんで皿に移した。
ジルには答えず、私はグラスの水を黙って飲んだ。

ふと、まだそこに残っている墨色の艶を見つける。
皿に移された二枚貝の残骸は、ひどく滑稽な形で重なり合い、横たわっていた。
「二枚貝のクロニクル。」
そんなタイトルがぴったりだと思った。

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2002-10-27 ボーイフレンド

17時以降の予定を取り止め、彼に会いに行った。
18時半。久しぶりに会った彼は、疲れた顔をしていた。
充血した右目を、子どものように手で擦る。
「掻いちゃだめ。余計腫れるから。」
「うん。さっきより良くなった。」

こうしてじっと彼の顔を見ていると、胸が少し泡立った。
伸びかかった髪の、その巻毛の奥に指を挿し入れ、彼の顔を引き寄せたかった。

約束のシルバーを手渡し、軽い冗談を言い、二人で笑った。
夏に聴くはずだった曲が、初回プレス盤から流れる。
彼女の、乾いたつぶやくような声。彼がヴォリュームを少し上げた。
「夏は終わっちゃったけど。」
私のブーツは、夜中に二人で行った、デキシーダイナーの時と同じ。
店を出る頃、まだ外で並ぶ若者たちは、ストーブにあたりながら、みんな白い息を吐いていたっけ。


19時半。灯りを落とし、鍵を閉めて外へ出る。
「駅まで送れないけれど。」仕事へ戻る彼が、優しく言った。
「いい。」と私。
「それじゃあ。」
「じゃあね。」
手を軽く振って別れた。



「唇で終わらないから。」キスをしなかった彼が、後でそう言った。
こんな彼のことを、大好きだと思う。

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2002-10-25 赤く染まる谷。

ジルから電話が来ない。

週明けの午後、国道と並行する道路の信号待ちの交差点で、ジルの車とすれ違った。
彼は気がつき、こちらを見た。助手席には、彼の仕事のパートナーが同乗していた。二人がこちらを見た。
私は、助手席の不躾な視線の男に、ふんと軽くつぶやき、加速してそのまま交差点を右折した。


先週はジルと会った。
ジルは、「紅葉を見にいこう。」と言い、車で北へ向かった。
標高1750メートル。10月にしては陽射しが強く、車を降りて首に回したストールを、やはり外して手に持った。
風が吹いて、髪を崩していった。
目の前に広がる渓谷の紅葉。空とのコントラスト。
私は何度も、「きれい。」と言った。
言いながらも、色彩の感覚に飢えを感じていくのがわかった。
赤く染まる谷。
季節は既に変わっていた。


ジルは、「来年も来よう。」と、私を見てそう言った。









Love sick  ニナ


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