男爵の色々な出来事をフィクションをまじえながらつづる気まぐれ日記でしゅら。主に「新選組」とか「山南敬助」とか「井上源三郎・松五郎」とか「木村継次(芹沢鴨)」
アニヲタなので「アニメ」とか「漫画」とか 「海外ドラマ」とか 「京都」とか「木曽義仲」とか「巴」とか にゃんこ好きなので「ねこ」とか・・・嘘ばっかり・・・ |
目次 | (総目次) [次の10件を表示] 表紙 |
2004-04-24 弘法筆を選ぶ。 |
2004-04-24 弘法筆を選ぶ。 | |
「弘法筆を選ばず」というが弘法は筆を選んでいたのだ。ある時「書を一筆書いてください」と整えた筆をずらりと弘法の前に出す。「では」と言って弘法はmy筆を出してすらすらと書いたのだ。ようするに用意してあった筆を選ばなかったわけ。 |
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2004-04-23 お花見 | |
昔は梅を見ていたんだけど平安中期から桜を愛でるようになっていったお花見。 |
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2004-04-23 木曽義仲のことを山猿とか呼ぶな!! | |
来年のNHK大河ドラマの「義経」にも出てくるであろう木曽義仲!おいらは新選組の山南さんや源さんと同じくらい好きな歴史の人。先日歴史研究家が義仲のことを山猿なんだよ。奴は!と言っておった。おいおい・・・そりゃないぜ!あんたらみたいな人が言うと、知らない人は本当に思うじゃないかよ!見てて腹が立った。この人、只単に「平家物語」を語っているだけじゃんか。調べてねーよ・・・。平家物語の中の「物を知らない義仲」っていうのはアリかもしれないけど。義仲が田舎者っていうのは違うだろ?元服や諸々の儀式の時京都にちゃんと来ているし、義仲を育てた中原兼遠だって京都から来た貴族だぞ。京都での立ち振る舞いなんて教えてるだろ。平家物語の中で牛車の乗り降りを知らなかったとかは平家物語を書いた人が面白おかしく書いただけって何故分らん。むっきーーー。部下の今井四郎兼平だって名将であり名軍師や。そしてなんと言っても巴御前やでーーー。まるで竜馬の乙女姉さんみたいに強い人!!静御前なんか只しずしずしてる腑抜け女ぢゃねーかよ! |
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2004-04-07 家紋・666と999 | |
歳三の家紋は三つ巴の右回りなんだけどこれってよく神社とかで使われている定番の家紋のひとつ。で、左回りの三つ巴ってのもあるんだけど・・・これがよくない。右回りは天国って意味で左回りは6に似ていて悪魔のマークだそうです。ヨハネの黙示録の666=動物・悪魔・人間の数。日本でも6はあまり好かれていない数なので左回りの巴は余り見ないけどたまに間違えている所もあるらしい。 |
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2004-03-31 アニメ・特撮・バライティ | |
ハガレン・・・ヒューズがついに(T∇T) ウウウ。いいキャラなのに死んでしまいました。明るいキャラが死ぬとギャップで悲しさ倍増効果やー。アームストロングが死ぬ時はもっと悲しいのかも・・・。いや・・・奴は死なないだろうなぁ。多分。大総統が又悪の方のいいキャラになりつつあるな。七巻はなんかページが薄い・・・。人気があるから早く出したいのはわかるけどさー・・・買うほうとしてはなんか嫌。 |
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2004-03-30 新選組! 十一話「母上行ってきます」 ヌッツオ〜。♪ | |
あらすじ |
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2004-03-30 新選組! 十話「いよいよ浪士組」 | |
あらすじ |
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2004-03-17 「会津藩お預かり」A粕谷新五郎(かすやしんごろう) | |
粕谷(糟谷)新五郎(新五良)(かすやしんごろう)・・・文政3年(1830)〜文久4年(1864)常陸国水戸生まれ。水戸藩士粕谷忠兵衛の子供。水戸浪人。安政6年(1859)幕府の大老、井伊直弼が尊王攘夷の志士を弾圧した「安政の大獄」が行われ朝廷は水戸藩へ勅書を送るが、それを渡せと幕府が水戸藩へ言って来た。誰が返すかバカ野郎!と水戸では下級武士・郷士・神官ら300名程度の人が長岡に屯集し、返還阻止行動をした。その中に粕谷新五郎も居た。(継次もいたらしい。) |
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2004-03-17 新選組! 九話「すべてはこの手紙」 | |
あらすじ。 |
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2004-03-16 「会津藩お預かり」@ 殿内義雄(とのうちよしお) | |
殿内(戸野内)義雄(とのうちよしお)・・・天保元年(1830)〜文久3年(1863)上総国武射郡森村生まれ。と、伝わっていたが実は森村殿内に広大な屋敷をもつ名主土屋忠右衛門の末っ子。家の屋号が「殿内」なので、苗字はそこから拝借したらしい。(土屋家は大名貸しを営んでいた。大金持ちやんか)元は第二郎・大二郎(だいじろう)と名乗っていた。結城藩に仕える。結城藩に多額の貸しがあったために義雄は江戸藩邸に勤める。昌平黌(しょうへいこう)で学び(昌平黌は幕府立大学学問所。ペーパーテストとかもやってたらしい。)幕府の学問所へ行っていたので学はあっただろう。安政3年と文久2年の二回学んでいる。)文久三年浪士組の募集に参加し道中目付役になるが、道中罷免されて一根岸友山(ねぎしゆうざん)の一番組に入れられ壬生まで行く。宿として更雀寺に泊まるが新徳寺から遠いために一日で中村小藤太(なかむらことうた)方へ移る。 |
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