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せんきちの「日々是口実」


24時間、現実逃避!

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目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-08-10 香港の花のことなど
2003-08-08 樂蒂と幻の合作映画(おまけ)
2003-08-07 樂蒂と幻の合作映画(5)
2003-08-06 樂蒂と幻の合作映画(4)
2003-08-05 樂蒂と幻の合作映画(3)
2003-08-04 樂蒂と幻の合作映画(2)
2003-08-03 樂蒂と幻の合作映画(1)
2003-08-02 尤敏を買いに
2003-08-01 怖いもの食べたさ
2003-07-31 けもののかほり


2003-08-10 香港の花のことなど


8日、都内某所(って、図書館ですけどね)で尤敏が出した日本語の歌(『香港の花』。岩谷時子作詞、松井八郎作曲)のシングルレコードを発見、聴いてきました。

著作権の関係があるので歌詞は載せられないのですが、ちょっと舌足らずな日本語がなかなかよかったです。
アグネス・チャンの日本語よりも、きれいな発音です。

メロディー自体は、映画の中でさんざん流れて(ここでは中国語で歌っています)いたため、すっかり覚えていました。
そんなわけで、もうばっちり歌えますよん。

そして9日、伊勢丹の「大古本市」で、『近代映画』1962年5月号、7月号等をゲットしてきました。
岩下志麻が表紙の7月号の写真、載せておきます。
お楽しみ下さい。
ひばりと旭の婚約で大騒ぎでしたわ、その頃。

そういえば、会場で映画ポスターを漁っていたら、『ボルネオ大将 赤道に賭ける』(1969)という映画(なんてタイトルなんだか)のポスターに、『香港の夜』(1961)や『香港の白い薔薇』(1965)に出ていた香港の俳優・馬力の名前があるのを見つけました。

で、帰宅後、『キネマ旬報』のデータベースでさらに調べていったら、ブルース・リーやジャッキー・チャンの映画を手がけた監督・羅維(1918〜96)が、『アンコールワット物語 美しき哀愁』(1958)なんていう東宝映画にカンボジア国王の役で出演しているのを発見しました。

いろいろ働いていたのね、皆さん。


付記:8日の日記に引用した『日刊スポーツ』の記事中、「陳厚の日本公開作品はない」とありましたが、実際には『海棠紅』(1955)が、1957年に日本で公開されています。
この映画、香港の新華と日本の東和映画との合作で、日本の連合映画のスタジオで撮影された作品です。

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2003-08-08 樂蒂と幻の合作映画(おまけ)


5回に亘って執筆してきました『樂蒂と幻の合作映画』、昨日いったん「おわり」にいたしましたが、今日『日刊スポーツ』(1962年2月7日付け 「スチール撮影もなごやかに 東映、香港合作『香港旅情』」)を調査した結果、いろいろ新しいことがわかりましたので、もう1回だけ執筆することにいたします。

まず、映画の内容についてですが、記事によると、

・・・・日本の遊覧飛行機のパイロットになる陳厚を追って香港から日本へやって来たのが許婚者の樂蒂で、その時はもう陳厚の気持ちは彼女をはなれ、三田に傾いている。彼女に同情する同じパイロットの高倉は同情がいつしか恋ごころとなり、やがて高倉は樂蒂と、陳厚は三田と結ばれるといった甘いメロドラマ。

とのことだそうです。

なるほど、こうすれば丸く収まりますからね。

この記事、なかなか面白いですので、ほかの部分からも、もう少し引用しておきましょう。

・・・・樂蒂と陳厚の映画は日本では未公開だが樂蒂は香港映画の昨年(1961年・せんきち注)の人気投票で李麗華、林黛とベテランにつぐ第三位、第四位が尤敏だった。一方、陳厚は五八年度アジア映画祭で最優秀男優主演賞を得た人気スターで、二人は上海生まれの同郷人。香港で結婚式を挙げてまっすぐ日本へ新婚旅行をかねてやってきたもので新婚六日目のおあついカップルである。
記者会見が終わって夜は築地の某スタジオで宣伝スチール撮影。樂蒂と高倉の甘い場面を写す段になって高倉がだん那さまに「エキスキューズミー」といえば、陳厚はにっこり笑ってカタコトの日本語で「ドウゾ ドウゾ エンリョナク」といい返したりして大笑いだった。(後略)

これを読んで、お蔵入りになったことが、ますます惜しく感じられました。

観たかったなあ。。。。


(今度こそおわり)

先頭 表紙

ぷるぷる様:健さんは、甘い二枚目だったのですね。この少し後に任侠路線が始まって、今我々が思い浮かべる健さんのイメージになるようです。 / せんきち ( 2003-08-10 21:18 )
ほんと、惜しいですよねぇ。それにしても健さん、カワイイわ〜(*^。^*) そうして撮ったのが8/5のスチールなのですね。 / ぷるぷる@おつかれサマ( ^-)_旦~~ ( 2003-08-09 14:03 )

2003-08-07 樂蒂と幻の合作映画(5)


(前回の続き)

東映と邵氏は、この作品がお蔵入りになったせいなのかどうか、ほかの合作映画を製作することもないまま、やがて提携自体も解消されたようです。
もっとも、1964年に石井輝男監督が東映で『ならず者』を撮影したさいには、邵氏所属の役者が出演していますが、これは合作ではなく、単なる協力と考えた方がよいでしょう。

邵氏は、この後合作という形態を諦め、日本のスタッフを直接香港に招いて映画を撮ってもらうシステムに転換(すでに1950年代末、カメラマンの西本正〔中国名・賀蘭山〕を招き、大成功を収めていました)、井上梅次や島耕二、中平康といった監督が香港へ渡り、作品を製作しています。
これらの作品が日本で上映されることはありませんでしたが、井上の『香江花月夜(香港ノクターン)』(1966年。服部良一音楽)は昨年の東京国際映画祭で初上映され、好評を博しました。
服部の音楽と、鄭佩佩のダンスが素晴らしいミュージカルです(DVDあります)。

考えてみれば、尤敏があれだけ日本で人気を博しながら、彼女の香港での作品が日本で全く上映されなかったのも、なんだか不思議な話です。
尤敏が日本で活躍していた1962年、邵氏の『江山美人』(1959年。李翰祥監督。林黛主演。アジア映画祭グランプリ受賞。DVDあります)が日本で公開されましたが、興行的には惨敗しました。
それから30年以上経った今でも、日本の市場において中華圏の映画は、ごく一部の例外を除いて、なかなか一般的にはなりにくいようです。

最後に、もう一つ述べておきたいのは、1960年代初め、まだまだ日本が軍政を布いていた頃の傷跡が生々しく残っている香港で、日本との合作映画に出演した尤敏のことを「漢奸」(売国奴)よばわりする人が、香港の一部には存在したということです。
これは尤敏には何の罪もない話で、とても胸が痛むのですが、この上樂蒂までもが合作映画に出演していたら、果たしてどうなっていただろうか、とも思います。
『香港旅情』が製作されなかったことを心から惜しいと思う反面、もしも順調に撮影が進み、完成していたとしたら樂蒂は何と言われただろうか、まして日本軍の爆撃で父を失っているのに、と、そんなことも非常に気にかかってしまうのです。


(おわり)

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ぷるぷる様:やっぱり、個人に対する感情と国家に対する感情とは別のものなのでしょう。あの時代のカンフー映画の日本人って、すごいですよね。今の北朝鮮映画も真っ青です。台湾の抗日戦争映画の日本人もすごいですよ。人間扱いしてません。 / せんきち ( 2003-08-10 21:17 )
ブルース・リーは「ニシモトサン、ニシモトサン」ととても慕っていたと聞きます。彼も日本人嫌いだと噂がありましたが(『ドラゴン怒りの鉄拳』の日本人はヒドイですからね。真実に近いものも含まれているのでしょうけれども。)西本さんのインタヴューを読むとけっしてそうではないことがわかり安心します。 / ぷるぷる ( 2003-08-09 14:10 )
西本正は、『ドラゴンへの道』の撮影も担当しています。 / せんきち ( 2003-08-07 21:51 )

2003-08-06 樂蒂と幻の合作映画(4)


(前回の続き)

当初、『香港旅情』の公開時期は1962年7月(尤敏の『香港の星』と同時期)の予定でしたが、製作開始が延期になったせいで、急遽別の映画に差し替えられることになりました。
『近代映画』1962年7月号掲載の「早くも出そろったお盆映画の企画」によると、7月の東映は「大川橋蔵作品と、高倉、佐久間(良子・せんきち注)の青春もの」で、このうちの「高倉、佐久間の青春もの」が、『香港旅情』の代わりに企画された作品と考えられます。

一方、『明星』1962年7月号の千葉真一と三田佳子への取材記事(「新婚旅行なら海外へ・・・」)には、

・・・・二人の次回作は映画『香港旅情』。したがって香港ロケが予定されています。
「千葉ちゃんは海外旅行は初めてでしょ。私(三田佳子・せんきち注)はハワイからブラジルまで行ってきたけど・・・・いいものよ。(略)知らない土地や風俗を見るだけでも勉強になるし・・・・」(後略)

との記述があり、千葉真一も『香港旅情』に出演予定だったことがわかります。

これが、高倉健と三田佳子の他に千葉真一も出演するという意味なのか、あるいは、製作延期になったために高倉健のスケジュールの都合がつかなくなり、高倉の役を千葉が演じることになったという意味なのか、定かではありませんが、この雑誌が出た段階(5月下旬〜6月上旬頃)ではまだ、いずれは製作するつもりだったようです。

しかし、結局、『香港旅情』は製作されないままお蔵入りとなりました。
製作中止に関して正式な発表があったのか否か、そのあたりの報道はまだ確認していませんが、もしもきちんと製作されて公開されていたならと思うと、非常に残念でなりません。
しかも、日本と香港の合作映画史研究においても、この『香港旅情』に関しては、全く陽の目を見ていない、つまり埋もれた作品のままになっているのです。


(つづく)


写真は、製作発表記者会見での陳厚と樂蒂。

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ぷるぷる様:これに出ていれば、『風雲』に出るはるか前に「国際派スター・千葉ちゃん」が、誕生していたかもしれません。 / せんきち ( 2003-08-10 21:14 )
ええっ、千葉ちゃんが!! / ぷるぷる ( 2003-08-09 14:11 )

2003-08-05 樂蒂と幻の合作映画(3)


(前回の続き)

『香港旅情』の内容に関しては、当時の報道から類推するよりほか方法がないのですが、『朝日新聞』(1962年3月14日付け夕刊)と『近代映画』(1962年5月号)に少し詳しい情報がありますので、それを引用してみます。

・・・・東宝がキャセイと組めば、東映はやはり香港の製作会社、ショー・ブラザーズとの合作で「香港旅情」を計画している。渡辺邦男監督、主演者には、日本のパイロット(高倉健)と親友の香港の富豪のムスコ(陳厚−チェンホー)、彼のイイナヅケの楽蒂(ローティ)、それにデザイナーになる三田佳子。ローティは尤敏同様、香港で人気のある女優で、彼女を使う合作映画は大川社長らが二年前から考えていたそうだ。たまたま四月(原文ママ)にチェンホー、ローティ夫妻が新婚旅行で来日するので、話がバタバタ本決まりになり、四月の花のころ日本ロケで撮影開始と決った。
香港には五月すぎ、スタッフ十四、五人が渡り、約二週間ロケする。渡辺監督やプロデューサーは三月末、下見に行くそうだが、渡辺氏は戦前、長谷川一夫らと現地ロケしたこともあり、いわば合作映画の元祖。一方、ローティらもショー・ブラザーズ制作の「紅楼夢」で日本に来たことがあり、話が合うだろうと一行は張切っている。(後略)
(「香港ロケ大ばやり」より)

「香港旅情」クランク・イン−東映−
東映と香港のショウ・ブラザーズの合作作品「香港旅情」は、先に東映本社で記者会見を行ったが、ショウ・ブラザーズの都合で、撮影は延期されていたが、いよいよクランク・インのはこびとなった。ヒーローに高倉健のパイロット、ヒロインには東宝の「香港の星」に出演の尤敏と共に、彼の地で人気最高の楽蒂(ろうてい)が薄幸な斜陽族の娘として登場する。彼女は香港の自宅に、日本の庭園をつくった程の日本びいきになり、いっしょうけんめいやりたいと抱負をのべている。なおメガホンは渡辺邦男監督の予定。

これらの記事にあるキャスティングから見て、高倉健が親友のフィアンセである樂蒂と恋に落ちてしまい、三角関係に・・・・というパターンではないかと考えられます。
東宝の作品が、一人の男性(宝田明)に二人の女性(尤敏と日本人女優)というパターンなのに対して、東映は一人の女性(樂蒂)を二人の男性(高倉健、陳厚)が愛するという、全く逆のパターン(裏返しなだけか)で対抗する図式が、そこには見られます。
ただ、東映の場合、もう1人三田佳子が絡みますから、一気に四角関係(?)になる可能性も捨て切れません。

詳しい内容の検討はここまでにするとして、「四月の花のころ」、すなわち桜の咲く頃にクランクインするはずだった『香港旅情』は、なかなか製作開始にはなりませんでした。
その理由を、筆者(せんきち)は『元祖ユーミン』で「樂蒂のおめでたが発覚したため」と推測し、実際そうだったと思うのですが、これまでのところ、樂蒂の妊娠に関して触れている報道は未確認です。
今と違って、芸能人の私生活に関わる事項(特に結婚や妊娠に関して)が外部に漏れることに対して、皆驚くほど神経質でしたから、敢えて公表せずに済ませようとしたのかも知れません。


(つづく)

付記:先述した通り、樂蒂は日本軍の爆撃で父を失ったのですが、その点を考慮した上で「彼女(樂蒂)は香港の自宅に、日本の庭園をつくった程の日本びいきになり・・・・」という件を読むと、なにやら複雑な思いに駆られます。
写真は、『香港旅情』の宣伝用スチール(高倉健と樂蒂)。

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2003-08-04 樂蒂と幻の合作映画(2)


(前回の続き)

では、いよいよ本題に入りましょう。

邵氏との提携を決めた東映は、1961年8月29日、東映会館に邵氏の社長である邵逸夫(ランラン・ショウ)を招き、合作映画に関する会議を行いました。
その模様を報じた『日刊スポーツ』の記事(1961年8月30日付け)によると、「1、年間2本以上の映画を合作。2、粗製濫造は避ける。3、時代劇は準備期間を長く必要とするので、初めは現代劇を製作。4、製作費は、日本で撮影の場合は東映、香港の場合は邵氏が負担。5、配給権は、日本国内は東映、東南アジア各地は邵氏が有するが、その他は両社で二分」との基本事項がまず定められ、その後に具体的な作品の検討に入ったようです。

作品の内容としては、

邵氏からの提案:
『桜都長恨』(太平洋戦争中の東京を舞台にした、香港人青年と日本人女性の悲恋物)。
『紅鬚子』(満州を舞台にしたアクション物)。
『シンガポール、香港、東京』(パイロットとスチュワーデスが、日本や東南アジア各地で繰り広げる騒動を描いた喜劇。←でもこれ、まんま電懋の『空中小姐』〔1959〕のパクリだと思うんですが:せんきち注)。
東映からの提案:
喜劇(東京で開催されたアジア大会で知り合った香港選手〔女性〕と日本選手〔男性〕。その後日本選手は香港に移住して、彼女と再会する)。
喜劇(香港のカメラマン〔女性〕と日本のカメラマン〔男性〕が、国際コンテスト入選を競い合う。そこへプレイボーイのカメラマンが現れて一悶着。2人の作品は落選、プレイボーイの作品が入選するが、入選写真は2人の写真だった)。
その他、恋愛物と社会派ドラマ。

が、挙がりましたが、邵氏の提案が具体的なのに比べて、東映のそれはなんだか漠然としているのが気になります。今見ても、「本当にやる気があるのかなあ」と思ってしまいます。

結局、これらの作品案は採用されず、第1回作品として選ばれたのは、樂蒂と高倉健が共演する『香港旅情』になりましたが、そのあたりの経緯は詳らかではありません。
ともあれ、1962年2月6日、新婚旅行で日本を訪れていた樂蒂と陳厚も出席して、東映本社で『香港旅情』の製作発表記者会見が行われました。


(つづく)


写真は、記者会見の模様。向かって左から陳厚、樂蒂、三田佳子、高倉健の各出演者。

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ぷるぷる様:なるほど、樂蒂の方ですね。明明ちゃんだ。 / せんきち ( 2003-08-05 20:32 )
おにぎり様:健さんと三田佳子ですか、それとも樂蒂と陳厚の方ですか? / せんきち ( 2003-08-05 20:32 )
そっか〜、このときには既にお腹の中におにぎりさんが…(^_^)3 / ぷるぷる ( 2003-08-04 23:32 )
あらっ!!私の両親の結婚記者会見じゃないですか!!! / おにぎり ( 2003-08-04 22:21 )

2003-08-03 樂蒂と幻の合作映画(1)


尤敏に関する連載(「元祖ユーミン」)でちらりと触れましたが、東宝が香港から尤敏を連れてきて大当りをとったことに触発されて、東映は尤敏が所属する電懋(MP&GI。キャセイ・オーガニゼーション)のライバル会社・邵氏兄弟(香港)電影有限公司(ショウブラザーズ。以下、邵氏と表記)と提携、邵氏の人気女優である樂蒂(ろう・でぃ)を招いて『香港旅情』という映画を撮ろうとしました。
が、製作発表記者会見まで行いながら、残念なことにこの映画は未製作のまま終わり、邵氏との提携自体も解消されてしまいました。
そこで今回から、幻に終った合作映画『香港旅情』について、少し詳しく考察してみたいと思います。

その前に、樂蒂のプロフィールをご紹介しましょう。

樂蒂(本名・奚重儀。英文名:Betty)は、1937年8月29日、上海で生まれました。6人兄弟の末っ子でした(兄3人・姉2人)。今も男優として活躍する雷震(1933〜)は、彼女の3番目の兄にあたります。
生まれる前に日本軍の爆撃によって父が亡くなり、1948年には母も死去、兄弟は母方の祖父母に引き取られました。
1949年、祖父母、兄、姉たちとともに香港に移住、1953年、長城電影製片公司に所属して女優としてのスタートを切ります。
1958年、邵氏に移籍、彼女の美貌は「古典美人」と称えられるまでになりました。
ちなみにこの当時、邵氏には電懋に移籍する以前の尤敏もいて、2人は大変仲のよい友人だったようです。
1960年、主演映画『倩女幽魂』がカンヌ映画祭に出品され、残念ながら受賞は逃しますが、彼女は「中国で最も美しい女優」と賞賛されました。
1962年1月、男優の陳厚(1931〜70)と結婚、9月には女児(明明)を出産、この頃が彼女にとって幸せの絶頂でした。
1963年、『梁山伯與祝英台』で第2回台湾金馬奨主演女優賞を受賞したものの、観衆の人気は共演者の凌波(1939〜)に集中、大きな挫折を味わいます。
1964年、邵氏から電懋に移籍しますが、その頃から電懋は邵氏に押されて凋落の一途を辿り始め、樂蒂のキャリアにも暗い影が差し始めます。
1967年、兄の雷震らとともに金鷹電影有限公司を設立、新天地での巻き返しを図ります。
しかし、同じ年に陳厚と離婚(子供は樂蒂が引き取りました)、翌1968年12月27日、仕事と私生活、二重の試練に耐え切れなくなった彼女は、睡眠薬自殺を遂げました。
31歳の若さでした。


(つづく)

先頭 表紙

tomohiko様:樂蒂は、もともと憂鬱体質の人だったようで、亡くなる前にも5回自殺未遂を繰り返しています。 / せんきち ( 2003-08-05 20:29 )
華の命は短かいですなぁ…。タメイキが出ちゃいます。 / tomohiko ( 2003-08-04 22:44 )
樂蒂のプロフィール、「樂蒂紀念網頁」(http://come.to/ledi)を参考にしました。尤敏網頁の姉妹サイトです。 / せんきち ( 2003-08-03 22:07 )

2003-08-02 尤敏を買いに


と言っても、「川を渡って女買いに行く」(BY:山頭火。うろ覚えなので、間違っているかも)の世界ではございません。
新宿・京王百貨店で開催中の「大古書市」に、行ってきたのでございます。

来週、伊勢丹で開催の「大古本市」は、目録が家に届いたので既に注文済みなのですが(抽選があるけど)、京王の方は目録が来なかったので、現場でいちいち確認せにゃなりません。

まずは、同時開催の「切手・コイン展」会場(お隣)に立ち寄り(というか、引っかかり)、奉天(瀋陽)の絵はがきセット(瀋陽の故宮。記念スタンプ付)と、インド人が書いた香港仔の水上レストラン(シーパレス)絵はがき(香港からボンベイ〔ムンバイ〕宛。何語の文字なんでしょう、不思議な文字が)を購入。
それから、一軒一軒丹念(てきとーかも)にブツを見て廻りました。

本業の方で「買っておいたほうがいいかな」という本(昔の山田流筝曲の唄本)もありましたが、今日は敢えて止めにして、尤敏モノに的を絞ります。

結果、『明星』1963年9月号(記事が1頁)、『映画情報』1962年5月号(グラビア1頁、写真入記事少々)、『アサヒグラフ』1962年6月8日号(表紙。特集記事2頁。写真)をゲット。
これに高橋英樹の映画ポスター(母親へのお土産)をプラスして、〆て4830円でした。
思ったよりも安かったです。

この中では、明星が一番高かった(2500円)ですね。状態はあまり良くなかったですが。これで状態が良ければ、5000円位にはなるのでしょう。

さて、来週は伊勢丹です。金欠だわ。。。。

先頭 表紙

おにぎり様:なんでもとって置く方がいいですよ。邪魔になりますが。。。。 / せんきち ( 2003-08-03 21:21 )
数年前まで、中山美穂が「モデル時代」の明星ヘアカタログが実家にありました。 / おにぎり ( 2003-08-03 12:56 )
『社長洋行記』と『続社長洋行記』、「東宝通販倶楽部」で扱っていました。『香港の星』は、廃盤でした。 / せんきち ( 2003-08-02 21:40 )

2003-08-01 怖いもの食べたさ


おかげさまで無事でした。元気でピンピンしております。

以前、カビの生えた大福を食ったときもなんともありませんでしたし、物理的な圧力に対しては強いようです、私の胃腸は。
ところが、心理的な圧力になると、からっきしダメなのですねえ。
すぐにシクシク痛み始めます。

さて、今日も行ってきました、W大学。
学内のE博物館でちょっくら調べ物をしておりまして、7日から夏季休館になってしまうため、今のうちにまとめて調べておかなければならないのです。

本業の方と趣味の方、目下2本立てで調べておりますが、昭和40年代に香港の邵氏兄弟(ショウ・ブラザーズ)が、日本の映画監督を招いて撮影した映画のシナリオ(日本語版)なんかを見つけてしまい、ついつい本業の方を忘れがちになっております。
今日は、『恋泥棒』なんていうシナリオがあったので、そいつを読んでみたところ、井上梅次監督の『鑽石艶盗』(1970)のシナリオでした。
ちなみにこの映画、井上監督が大映で撮った『宝石泥棒』(山本富士子主演)のリメイクです。

でなわけで、用事が片付いたのが午後3時45分過ぎ。
またしても昼飯抜きでしたので、昨日の確認(本当に山羊肉だったのか。あるいは羊か)をするため、再度くだんのお蕎麦屋さんへ行きました。
で、ハンバーグ定食を注文して食べてみたところ、

おいしいのですよ、これが。

お肉がジューシーでね。

月曜日も行こう。。。。



写真は、イメージです。

先頭 表紙

ビバビ様:お帰りなさい。ボリュームありましたよ、ハンバーグ定食。今日も食べました。 / せんきち ( 2003-08-04 20:33 )
やっぱり学生街の食堂って、ボリューム命だったりしますよね。で、おいしいとこが多かったりもしますよね。 / ビバビ ( 2003-08-03 22:31 )
↓あらら。。。。支店の方から切り替えするのを忘れてました。とほほ。。。。 / せんきち ( 2003-08-03 21:21 )
aika様:学生街のお蕎麦屋さんなので、定食メニューが豊富です。体育会系の店かも。。。。 / せんきち ( 2003-08-03 21:19 )
お蕎麦やさんにハンバーグ定食があるのが不思議な感じです。でも、おいしければいいですね♪ / aika ( 2003-08-03 07:01 )
しんちゃん様:私、中華圏にいるときはストレス無しなんですよ。なぜでしょう? / せんきち ( 2003-08-02 20:46 )
ぷるぷる様:鰐淵晴子様も美しかったですわ。お直ししすぎで大変なことになっていますが。。。。あ、そういえば、この間逮捕された土屋前埼玉県知事の娘(ピーチ桃子)、すごい美少女でしたわ。フライデーに載ってたけど、写真が。 / せんきち ( 2003-08-02 20:45 )
tomohiko様:どっちが先に胃を壊すかのチキンレース。。。。ちなみに、胆嚢は取ってしまってありません。 / せんきち ( 2003-08-02 20:41 )
めらこ様:私の友人にも、つねにビオフェルミンを持ち歩いているやつがおります。実は私も、下しやすいんですがね。。。。 / せんきち ( 2003-08-02 20:40 )
日本にいた頃は心理的にヨワヨワだったとおもうのですが、こっちにきてからは何と言うか気にしなくなりました、あんまり深く。(だめじゃん) / しんちゃん ( 2003-08-02 01:01 )
頑丈な胃袋に乾杯 ( ^_^)/▼☆▼\(^_^ ) チン♪ イチ時期大映の時代映画に凝っていて見まくりましたが、山本富士子と富士真奈美のべっぴんさにはビビリました。今は怖いくらいの美人女優って居ないような気が。 / ぷるぷる ( 2003-08-02 00:37 )
私も心理的な圧力には弱い方ですが、さらに強い圧力ではね返します。だからお客様(伝票の上位会社)のウケが悪いの(笑) / tomohiko ( 2003-08-01 23:37 )
ご無事でなによりです^^☆ それにしても羨ましいなぁ。。私なんかビフィズス菌の粒が手放せません。腸だけはデリケートなんです・・ / めらこ ( 2003-08-01 21:30 )

2003-07-31 けもののかほり


今日、ヤボ用があって、W大学へ行ってきました。
さいきん、美人局やスーパーフリーで話題になった、あそこです。

いろいろあって、用事がすんだのが午後3時半過ぎ。
昼食をとっていなかったので、近くのお蕎麦屋さんに入りました。

大学は夏休みですし、こんな中途半端な時間帯なので、他に客のいるはずもなく、店内にはわたくしがただ一人。
「カツ丼を下さい」と注文を告げて、席に着きます。

10分ほどして、できたてほやほやのカツ丼が出てきました。
味噌汁、香の物の他に、小皿も一品ついています。

まずは味噌汁を一口。ちょっと味は濃い目ですが、なかなかいけます。
「よしよし」と思いつつカツを口に含むと、なにやらいやーな風味が口の中いっぱいに広がりました。

それはまるで、豚肉のものではない、何か別の獣の肉のようなかほり。。。。
(もちろん、鳥や牛ではなくてね)

「やぎかな?なんかちょっとくさいな。肉の色も変だし」と、一瞬躊躇しましたが、空腹には勝てず、全てきれいに平らげました。

明日が楽しみだ。。。。



写真は、イメージです。

先頭 表紙

aika様:思わぬところで「びっくり人間大集合」になってしまいました。 / せんきち ( 2003-08-01 19:13 )
tomohiko様:「出されたものはすべて食い尽くす」という、貧乏人の悲しい性もありますです。。。。 / せんきち ( 2003-08-01 19:12 )
チャレンジャーですね。ご無事をお祈りしておりますです。。。 / aika ( 2003-08-01 00:56 )
「空腹には勝てず」って… ご無事をお祈りします。 / tomohiko ( 2003-07-31 22:45 )
しんちゃん様:あ、そうか。羊かもしれません。くさかったんですよ、とにかく。あんなカツは初めて食べました。 / せんきち ( 2003-07-31 22:07 )
羊肉だったりして。新疆直送羊肉。 / しんちゃん ( 2003-07-31 22:03 )

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